私は昭和25年3月5日生まれの戦後っ子です。5つ違いの兄は昭和20年生まれなので食糧難の時代に育ちましたが、私は朝鮮戦争勃発にともなう特需景気で、荒廃した日本経済が急速に回復を迎えた時期に生まれました。このために戦争体験はおろか戦後の悲惨な食糧難も体験しておりません。
空地には焼け落ちた廃屋や防空壕と思わしき地下空間。省線(あの当時は山手線などのJR線を「しょうせん」と呼んでいました)には白装束の傷痍軍人。上野の地下道にたむろする敗戦孤児。トタン屋根のバラック作りでいかにも怪しげな商店など、身の回りには刻まれて間もない戦争の爪痕がしっかりと残っていたにもかかわらず、私にとっては生々しい現実感のある光景ではありませんでした。
物心ついた私は両親や祖父母から戦中戦後の苦労話を聞かされても、どこか別の世界のお話のようにしか聞いていなかったようです。私の中で戦争は、月刊誌「少年」に載せられていた小松崎茂画伯の戦艦大和や零戦の絵の影響もあって、「かっこいいもの」として映っていたように思います。
我が家から至近の駅である目黒駅前に行けば、まだバラックが多かったとはいえ、「コスギ」という果物店でプリンやフルーツポンチが、「とんき」というとんかつ屋さんでは肉厚のおいしいとんかつが食べられました。モンブランというお店のシュークリーム目当てに目蒲線に乗って自由が丘にも行きました。目黒駅始発の5番の都電に乗り、途中魚藍坂下で4番に乗り換えて銀座に行けば、その賑やかさはもはやつい10年数年前に空襲を受けていたことなど微塵も感じさせませんでした。
私が小学校6年生の時に開催された東京オリンピックを境に、多くの日本人の頭の中でさえ戦争というものが、自分にとっての想い出から過去の歴史という引出しに移し替えられたように思います。この戦争というものに対する感覚の鈍化は、私よりも年長で、戦争を体験した人たちの中でも起こっていったようです。
その後私は高校生の時になって、ベトナム戦争反対集会や70年安保のデモに参加しました。しかしそういった行為は戦争の実態を把握して、内なる衝動に駆られてとった行動ではありませんでした。
ジョーン・バエズ等の反戦フォークソングをギターで弾き語り、先日亡くなった筑紫哲也さんが編集長を務めていた朝日ジャーナルを読むのがお洒落で異性にもてる、という極めて不純な動機の延長線上にあったのだと思います。
私たち世代の若者に麻疹のように伝播した反戦、反体制の学生運動は、機動隊による東大安田講堂陥落を機に衰退していきます。
1973年1月27日パリ協定締結によるベトナム戦争終結をもって、多くの若者を巻き込んだ学生運動は終焉します。一部の若者が閉鎖的な集団を作って過激な反体制運動を継続するようになり、ますます一般の若者の離反を招くとともに、社会問題を真剣に考えること自体を敬遠させる結果となりました。
私の進学した私立医科大学は開業医の子弟が過半数でありましたから、ことさら社会問題に対する関心は薄く、学生委員長としての私の活動も大学内部の問題に終始して、私の中で戦争というものは、自分とは異次元の世界の出来事になっていました。
卒業間近、大学6年の初夏、私は友人から「国際医学生連盟の主催する夏季交換学生の枠に空きができたから参加しないか?」と誘われました。その頃私は学生結婚していて、生活費さえサラリーマンの親の厄介になっていましたから、海外旅行など想像もしていませんでした。当時はジャンボ機が就航したばかりで1ドルが300円の時代。海外旅行はまだまだ一般庶民には高根の花でした。
しかし、往復の旅費とプライベートな旅の費用は自分持ちですが、交換相手の大学にいる約1カ月の滞在期間中の生活費の大半を相手側が負担してくれるという願ってもない条件です。
妻に相談したところ、「行っててくるしかないでしょ」とお尻を叩かれ、親からも「払わなくて済んだ3年分の学費を貯蓄してあるから、それを使えば良い」と銀行通帳を渡されました。
急遽、夏季交換学生に参加することになりましたが、1年前から準備していた他の学生と違って、私は出発直前の滑り込みですから希望の大学を選択する余地はありませでした。否応なくギリシャのテサロニキ(Thssaloniki)大学に行くことが決まりました。
紀元前ヒポクラテスの時代ならばいざ知らず、20世紀においてギリシャは医学の最新国ではありません。アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスといった国が人気殺到で残り籤はギリシャだったと言いうわけです。医学の研修という目的からすれば期待度は低いものでしたが、地中海沿岸で有病率の高い「地中海貧血(thalassemia)を勉強してくる」という大義名分で自分を納得させました。
本心は医学の勉強などではなく、とにかく海外に行ってみたいという気持ちでしたから、ヨーロッパのはずれで、めったに訪れるチャンスのないギリシャは、むしろ私の願いに十二分に応えてくれる目的地でした。2か月弱の夏休みを目一杯使ってテサロニキ滞在1カ月の前後はヨーロッパ各地をふらふら一人旅することにしました。
益川先生ではありませんが、私は英語で読んだり書いたりすることは少しはできましたが、聴いたり喋ったりすることは全く駄目。いくら話しかけられても音としてしか認識できず、言葉としてその意味を理解しようとする作業を一切脳が受け付けません。自信をもってしゃべることができるのは「I can speak English little . 」だけです。
言語による意思伝達能力がない貧乏学生が頼るのは柔道とアメリカンフットボールで鍛えた体力、怖いもの知らずの勇気、そして言葉の裏にある感情(相手が自分に好意をもっているのか、怒っているのか)を察知する能力だけでした。この約1カ月の向こう見ずな一人旅での体験の数々について書きだしたら、何編ものコラムができあがってしまいますから省略します。
さて、一人旅の前半を終え、ローザンヌから目的地テサロニキに向けてオリエントエクスプレスの車中の人となった私は、ちょうどその時、ギリシャを訪れていた世界中の旅行者が慌てて一斉にギリシャから脱出している最中であることを全く知らなかったのです。言葉が不自由でテレビや口コミの情報が入らず、金を節約していたので新聞などを買わなかったことのつけがまわっていたのです。
キプロスは地中海の島の中ではシチリア島、サルディニア島に次いで3番目に大きな島で、地中海の東の端に位置します。地理的条件で古代から諸民族、諸文明の中継地として栄えてきました。
古くからギリシャ系の住民が住んでいましたが、独立は保たれず、有史からヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、ローマ共和国などの支配を受けてきました。1191年十字軍の途中に立ち寄ったイギリス軍によって西ヨーロッパ人カトリック教徒によるキプロス王国が建国。その後1470年にこの王国が途絶えると、ベネティア共和国の植民地とされ、1571年にはオスマン帝国によって支配されてオスマン帝国の1州として併合されました。
オスマン帝国の衰退とともにイギリスが再び触手を伸ばして、1878年に領地権を獲得し、1914年、第1次世界大戦の勃発に乗じて正式に植民地にしました。300年近いオスマントルコによる支配が続いていたために、第2次世界大戦当時には先住のギリシャ系に加えてトルコ系のイスラム教徒も多数居住するようになっていました。
第2次世界大戦の終了後、ギリシャ併合派、トルコ併合派それぞれによる反イギリス運動が高まって1960年にイギリスから独立しましたが、両派の対立は解消せず、ギリシャ、トルコ両国を巻き込んだ民族紛争が後を絶たず、1964年から国際連合キプロス平和維持軍が派遣されていました。
私がのほほんとヨーロッパを歩き回っていた1974年7月15日、ギリシャの軍事政権の支援を受けたギリシャ併合強硬派がクーデターを起こしました。トルコはこの動きに対して敏感に反応して7月20日にトルコ系住民保護の名目にキプロス島に侵攻してクーデター政権が崩壊しました。能天気な私が陸路テサロニ駅に辿り着いた時期はキプロスでの紛争をきっかけに国境を接するトルコ、ギリシャ両国がまさに一触即発という時だったのです。
こういう状況を知ったのは駅まで出迎えてくれたお世話係の学生、バシリオスの口からでした。さらに、多くの交換学生は帰国したというのです。残っているのは国境を接していて、いつでも脱出可能なユーゴスラビアの学生と、やはり比較的近くであり楽天主義の塊みたいなイタリア人学生だけでした。
バシリオスは「今の大統領は妥協をしないから戦争になる危険性が高い。ここはトルコとの国境にも比較的近いギリシャ第2の都市だから、戦争になれば確実に戦場になる。せっかく着いたばかりで残念だろうけど、すぐに引き返した方がいいよ。だけどもし、ここに居たいというのであれば学生寮に案内するよ。」と言うのです。
咄嗟に、日本にいる妻、両親の顔が頭に浮かびました。私よりも情報を持っているだろうから、きっと「早く帰って来い」と願っているのだろうとも想像しましたが、私は即座に「学生寮に案内してくれ」と答えました。
なぜならば、ロンドンから帰国のチケットは日付はおろか飛行便も決まっていたからです。1カ月の生活費はテサロニキ大学の学生寮を当てにしていましたから、帰国の日までギリシャ以外の国を放浪するだけの金銭的な余裕もありませんでした。一方、駅から望む、白い石造りのテサロニキの町はエーゲ海特有の明るい陽の光を燦々と浴びてのどかそのもの。戦争の「せ」の字も感じさせません。何よりも自分自身が戦争というものに対して恐怖を覚えるだけの下地を持っていなかったのです。
それでも漠然とした不安は持ちながらテサロニキでの生活が始まりましたが、ねあかなラテン系の若者と接していると戦争の恐怖は数日で薄れてしまいました。
医学研修の目的である地中海貧血は到着翌日に病理学教室で顕微鏡を覗かされ、担当教官からの「これがサラセミアだ」の一言だけで終わってしまいました。後は、学生寮を拠点に町中を散策したり、若者と海に行ったり、酒を飲んだり、片言の英語で恋愛の話で盛り上がったりで面白可笑しい毎日でした。
ギリシャを脱出せずに居残った私は「さすが日本人はサムライ、空手、勇気がある」と誤解されて大もて。大きな都市なのにその時テサロニキにいた日本人は私だけという状況でしたので、毎日町を歩いていると住民から顔を知られるところとなり、やがて行く先々で「ハーイ、ヤポネゾス!」と声をかけられるようになりました。
しかし、徐々に戦争の危険性が高まってきていることも感じていました。テレビのニュースに血なまぐさい場面が多くなり、学生たちとの会話も政治的な内容が増えていきました。その内容は、「ギリシャ人がいかに文化と伝統を受け継ぐ優秀な民族か」、「トルコ人は野蛮な民族だ」、「オスマン時代にトルコ人がいかにギリシャ人に対して破壊と暴力を行ったか」、「歴史的に見てキプロスはギリシャに所属するのが当然だ」、「真っ先に戦いたいが志願するにはどうしたらいいんだ?」と言ったものでした。
私にも戦争が現実的に感じられたのは8月13日のことです。トルコ軍が第2次派兵を行い、キプロスの首都ニコシア以北を占領したのです。ギリシャ学生たちの話題は一気に「宣戦布告はいつか?」、「自分たちは徴兵されるのだろうか?」、「軍事力に勝るトルコ軍がテサロニキに進行してくる可能性は?」という具体的な内容になりました。
ユーゴスラビア人学生は国境までの車の確保と国境への出迎えの手配をする。イタリア人学生は海路の脱出とユーゴスラビア経由での陸路の脱出法を検討して本国と国際電話をかけまくる。町の目抜き通りを戦車をを含む多数の軍事車両の列がトルコ国境のある北東方向に向けて走り抜けて行く。
私は、「本当に退去したほうがいいよ」とバシリオスに言われて、「そろそろ年貢の納め時かな」と思い、難しいことは日本語でないと通じないので、とりあえず大使館の日本人に相談するためにアテネの日本大使館に電話を入れました。受話器から聞こえたのは比較的流暢だが日本人ではないことが明らかな日本語。現地雇いのギリシャ人大使館員だったのです。
彼の言葉は「日本人のスタッフは全員帰国されました。」「貴方も即刻ギリシャを出てください。」「しかし、国際空港は封鎖されて外国への便は発着がありません。」というものでした。
ギリシャ人たちは一生懸命私の国外脱出の方法を考えてくれました。「とりあえずユーゴスラビアに入ること。」、「共産国でビザがないと入国できないが、非常事態だし、日本人は受けがいいから日本人であることを強調しろ。」、「お前はトルコ人に間違われるかもしれないから、これを身体にぶら下げて行け。」と言って、日の丸とヤポネゾスと書いた画用紙を渡されました。
しかし私は、国境でオリエントエクスプレスの内にマシンガンを持って乗り込み、長時間に渡る検問をしたユーゴスラビア兵の姿を思い出して、陸路の脱出はあきらめていました。また、正しい歴史認識を持たないままにギリシャ人に刷り込まれたおかげで、その時私の頭の中には「トルコ=悪」という図式がすっかりできあがっていました。「ここで死ぬのも何かの縁。トルコ兵がテサロニキに侵攻してきたら、一宿一飯の恩義でトルコ兵を一人は殺そう。」と真剣に考えるようになっていたのです。今から考えれば恐ろしいことです。
ユーゴスラビアの学生はうまく帰国しましたが、思慮が足りず、能天気なイタリア人学生は結局のところ見込み違いで帰国の手だてが見つかりませんでした。そんな状況でも陽気に振る舞えるのがイタリア人の素晴らしさだと感心させられたのが、大統領からの重大発表があると予告された前日の出来事。しこたまワインとチーズを仕入れてきた彼らから「飲みに行こう」と誘われました。大学近くの小高い丘に登って、暮れなずむテサロニキの町を眺めながら「最後の晩餐だ」と言って盛り上がった時には、誰もが明日の大統領発表はトルコに対する宣戦布告だと思っていました。さすがのイタリア野郎も明日のわが身はどうなるか分からないと不安だったのでしょう。
翌日、人だかりの出来たテレビから大統領の重々しい演説が流されました。ほどなく、皆から歓喜のどよめき。ギリシャ語が分からない私には、戦争突入に対する愛国的な叫びなのか、戦争回避による平和への喜びなのか分かりませんでした。すぐに満面の笑みを湛えたバシリオスが「戦争はなくなった。」、「お前はゆっくりアテネ見物してから日本に帰れるぞ。」とがなりたてました。NATOの調停によってギリシャとトルコの全面戦争は回避されたのです。
生まれて初めて戦争に巻き込まれる覚悟をしたこのテサロニキでの体験は、私に戦争と平和にまつわる様々なことを実感させてくれました。
1.戦争はそれまで考えていた異次元の世界の話ではないこと:ちょっとした偶然さえ重なれば、誰でも簡単にしかも否応なしに巻き込まれてしまう、平和とすぐ隣り合わせにあるのです。
2.戦争と日常とは別次元のものではない:ゲームのように「さあこれから戦争モードですよ」という風に、平和な日常と切り離されてはおらず、ごく日常的な生活と並行して存在するものであるということ。戦争の最中にも人は生きていくために物を食べ、時には酒も食らうのです。そうしていながら、目の前に敵が現れたならば躊躇なく殺戮を行います。
3.人は与えられる情報によって、いとも容易に洗脳されてしまうこと:ギリシャ人とだけ話していた私は、たった2週間ほどで完全にトルコの行為を理不尽と思うようになり、トルコ兵を殺そうとまで思っていました。
4.一般民衆の多くは本心では平和を求めているということ:あれほどトルコを非難して、戦場での活躍を誓っていた若者が、戦争回避の報を聞いて見せた笑顔がそのことを物語っていました。
5.最後に頼れるのは自分の力だけ:いざという時に大使館は当てにならない:日本人大使館員は残りの業務を現地職員にまる投げしてさっさと帰国してしまいました。異国の地でパスポートの比護を過信してはいけません。最後に頼れるのは自分自身の人間力だけだということを痛感しました。
6.自分が時・場所ともに好運に恵まれて生きてきたこと:歴史的に見ても、地理的に考えても、戦争だらけです。1950年に日本で生まれたということは相当に幸運なことなのだということを理解しました。
7.善と悪の戦争など存在しない:後年、トルコを旅行する機会がありました。
そこで出会ったトルコ人たちは知的で穏やかな親日家でした。あの時ギリシャ人たちから教えられた無教養な野蛮人のイメージとはかけ離れた人たちばかりでした。改めてキプロス紛争について勉強すると、トルコにも正当な言い分があることが分かりました。
平和というものはきわめて脆くて壊れやすい状態です。皆が全力で努力し続けなければ平和は維持できません。その努力を少しでも怠れば、あっという間に戦争という魔物が忍び込んできます。
最後の晩餐と称して、テサロニキの丘で味わったワインとチーズの味は、夕焼けの景色とともに34年経った今でも、私の中で鮮明な記憶として残っています。
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キプロスは現在も南部トルコ系の北キプロス・トルコ共和国と南部ギリシャ系のキプロス共和国に分断された状態が続いている。