投稿日:2008年10月6日|カテゴリ:コラム

ヒトが他の動物と比べてもっとも発達している部位は大脳皮質です。この発達した大脳皮質の働きによって、言語を操り、道具を使うことができるようになり、現在の文明を築き上げたと考えられています。他の身体機能をとってみれば、決して特別に優れているとは思えない人類が地球上で繁栄を誇っていられるのはすべて傑出した大脳皮質の発達の賜物と言えます。
脳は血管などを除いて、神経細胞(neuron)と神経膠細胞(グリア細胞〔glia cell〕)とから構成されています。数の上からはグリア細胞のほうが圧倒的に多く、神経細胞の50倍ほど存在すると考えられています。しかし、グリア細胞に関する研究は非常に遅れていて、今回の神経伝達の話は比較的研究の進んでいる神経細胞に関する知見です。

私たちの大脳皮質は厚さ2~5mmで、そこに140~150億個の神経細胞(neuron)
が存在し、これらのネットワークによって高度な情報処理や情報伝達がなされていると考えられています。神経細胞は次の3つの部分に分けられます。核をもった細胞の本体である細胞体(cell body, soma)、細胞体とともに他の神経細胞から情報を受けとる樹状突起(dendrite)、他の神経細胞に情報を出力する軸索(axon)です。

細胞体の大きさは動物の種によってさまざまですが、ヒトの脳の神経細胞は直径3~18μm(マイクロメーター:ミリメーターの1/1000)くらいです。この中で蛋白質の合成などの代謝を行っています。また、内部には神経細胞内の物質輸送に重要な役割を担っていると思われる神経細管(neurotubules)や神経細糸(neurofilaments)があります。
軸索は細胞体から伸びた突起で、通常1つの細胞に1本しかありませんが、途中で枝分かれすることもあります。長さは数ミリメートルのものから数十センチメートルのものまでさまざまです。軸索の先端は他の神経細胞の細胞体や樹状突起と接していて、今回のコラムの主題の場となるシナプス(神経接合部〔synapse〕)を形成しています。
樹状突起は名前の通り、細胞体から木の枝のように無数に枝分かれした突起で、ここに多数の棘突起(spine)と呼ばれる小さなこぶ上の隆起した部分があり、ここが他の神経細胞の軸索から情報を受けとるシナプスの受け手側になっていると考えられます。
大脳はこの神経細胞同士の複雑なネットワークによって膨大な情報をやりとりして情報処理をしています。私が今この原稿をパソコンに向かって打ち込んでいる作業も、私の大脳の中での神経細胞間の膨大な情報のやりとりによって行われています。
この情報処理は2通りの方法を使って行われます。神経細胞の内部では電気信号として処理され、神経伝導と呼ばれます。一定以上の興奮性の入力があると神経細胞が発火(firing)してμV単位の電気信号(unit activity, spike)を発生します。この電気信号は、電圧は一定で情報は単位時間当たりの発射個数で表現されます。つまり、神経伝導はFMモードなのです。コンピュータによる情報処理とよく似ています。
一方、神経細胞から他の神経細胞へ情報を伝える際には電気信号を直接伝えることもありますが、主体は化学物質を送ることで行われています。この場所が先程述べたシナプスで、情報伝達に用いられる化学物質を神経伝達物質(neurotransmitter)と呼びます。
軸索先端のシナプス前終末(presynaptic terminal)と受け手側の神経細胞(後シナプス細胞)の細胞体あるいは樹状突起とが接合するシナプスは、よく見ると20nm(ナノメートル)ほどのシナプス間隙と呼ばれる隙間があります。軸索の中のシナプス小胞という袋の中に神経伝達物質が貯蔵されていて、細胞が電気的に興奮すると、このシナプス小胞の膜が軸索先端部分の膜と融合して、貯蔵されていた化学物質をシナプス間隙に放出します。後シナプス細胞に存在するそれぞれの化学物質に固有のレセプター(受容体、receptor)にその物質が結合すると、後シナプス細胞の膜に変化が起きて、その細胞が電気的にプラスあるいはマイナスに変化します。
レセプターに結合した神経伝達物質はいつまでも、くっついているわけではなく、レセプターから離れて再びシナプス間隙に戻ります。ここで、一部は分解されますが、多くはシナプス前細胞に再び取り込まれて、小胞体に貯蔵され、次の出番を待ちます。この過程が化学的神経伝達です。
レセプターに神経伝達物質が結合することによって後シナプス細胞が電気的に興奮する場合はそのシナプスを興奮性シナプス、電気的に抑制される時には抑制性シナプスと分類されます。
実際にはシナプス前終末には後シナプス細胞からのフィードバックやシナプス前抑制を受けるレセプターが存在して、相互に複雑なやりとりをしていますが、あまりにも難解になるので詳細は省略します。神経伝達物質としてはアセチルコリン(Ach)やドーパミン(DA)、ノルエピネフリン(NE)、セロトニン(5-HT)などのモノアミン類が有名です。なぜならば、アセチルコリンは認知症、統合失調症やパーキンソン病ではドーパミン、うつ病ではセロトニン、ノルエピネフリン、ドーパミンが、それぞれ病態と関連していると考えられて、これらの神経伝達に影響をおよぼす薬物が治療薬として採用されているからです。
しかしこの分野における研究が進んで、今では上記以外の多くの化学物質が神経伝達に関与していることが分かってきました。現在、神経伝達物質あるいは神経伝達物質候補者(neurotransmitter candidate)であると考えられている物質を列挙してみます。
アセチルコリン
アセチルコリン(Ach)
アミノ酸
アスパラギン酸、グルタミン酸(Glu)、γ-アミノ酪酸(GABA)、グリシン(Gly)、タウリン
モノアミン類
ドーパミン(DA)、ノルエピネフリン(NE)、エピネフリン(Epi)、オクトパミン、チラミン、フェニールエタールアミン、セロトニン(5-HT)、ヒスタミン(H)
モノアミン関連物質
メラトニン(Mel)
ポリペプチド類
ボンベジン、ガストリン放出ペプチド(GRP)、ニューロテンシン、ガラニン、カルシトニン遺伝子関連ペプチド(CGRP)、ガストリン、コレシストキニン(CCK)、ヴァソプレシン、オキシトシン、ニューロフィジンⅠ、ニューロフィジンⅡ、神経ペプチドY(NY)、膵ペプチド(PP)、ペプチドYY(PYY)、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)、ベータリポトロピン、ダイノルフィン、エンドルフィン、エンケファリン、ロイモルフィン、セクレチン、モチリン、グルカゴン、血管作動性腸管ペプチド(VIP)、成長ホルモン放出因子(GRF)、ソマトスタチン、ニューロキニンA、ニューロキニンB、ニューロペプチドA、ガンマニューロペプチド、P物質
その他
一酸化窒素(NO)、一酸化炭素(CO)、アグマチン、アナンダミド、ジメチルトリプタミン、アデノシン、アデノシン三リン酸(ATP)、アデノシン二リン酸(ADP)、マグネシウム(Mg)
中には、厳格な定義では神経伝達物質と言えないものも含まれていますが、非常に多くの物質が神経間の情報伝達に関わっていることがお分かりになると思います。今後研究が進むと、もっと多くの神経伝達物質が発見されると思われます。現在はまだ、数個の化学物質だけで病気の本体を説明しようとしていますが、実際にはそれほど単純ではなさそうです。

現在世間は「大脳ブーム」で、脳を取り扱った書籍やゲームが溢れています。しかし、そういったものはすべて、かなり明確になった古い知見だけを材料に書かれたり、設計されたりしています。あたかも脳のすべてが単純に解明されているかのように錯覚させられてしまいますが、脳の生理機能はいまだ未解明な部分のほうが圧倒的に多いということをご理解ください。
神経細胞の間の情報伝達は今回お話した化学的な伝達ではなく、直接電気信号を伝達する電気シナプスは長らく無脊椎動物だけにしか見られないと言われていましたが、最近になって高等動物にも存在することが分かりました。
もっとも高速に情報を伝えている神経細胞内の伝導に関しては、いまだ研究が進んでいません。
さらに、膨大な数存在するにもかかわらず、今までは神経細胞のための単なる梱包材料であるかのように扱われていたグリア細胞にも、いろいろな種類のレセプターが存在することが分かってきました。グリア細胞が情報伝達に積極的な役割を果たしているとなると、大脳生理学は根本的に考え直さなければならなくなります。

医療というものは現在解明されている事実だけを基に、その時代最善であると考えられる治療をするしかありません。中枢神経系の病気、中でも精神科領域の病気の治療が今でも容易でない最大の理由は、精神をつかさどっている大脳の生理(正常な状態でのメカニズム)がまだまだ解明されていないことにあります。正常な仕組みが分かって初めて、その病理(病的な状態のメカニズム)が解明されて、それに対する根本的な治療法が確立するのです。そういう意味で、残念ながら現時点での精神障害に対する治療は試行錯誤の域を脱していないと言えます。
しかし今回示したように、近年になって脳に関する重要な新知見が次々と報告されるようになりました。近日このコラムで取り上げますが、新しい神経伝達物質を標的にした向精神薬(精神機能に作用する薬)が次々と開発され、従来の治療薬では見られなかった治療効果が得られるようになってきました。
私は、精神障害の方がもっと短期間にしかも後遺症を残さず、元通りに回復することができる日もそう遠い日ではないと予感しています。

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