投稿日:2008年9月15日|カテゴリ:コラム

昨年の今頃、前総理大臣の安倍晋三さんが突然辞意を表明して世間を驚かせました。それから1年も経たないうちに、後任の福田康夫総理大臣がまたもや唐突な辞意表明をしました。満身創痍で顔色も悪く、見るからに今にも倒れそうだった安倍さんと比べて、福田さんの辞意表明はあまりにも唐突でした。
この辞意表明のニュースに対する各界のコメントの中で、ある女流漫画家が「国民は、夫婦でいつも通りに食事をしている最中に、夫から突然『別れる』と言われた妻みたいなものだ」というような表現をしていました。まことに的を射た比喩だと思いました。
ご当人は緊急記者会見でも相変わらず無感情に解説者のような応答していました。ところが、ある記者から「総理の会見は国民にはちょっと他人事のように聞こえるんですが・・・・・」という前置きで、今回の辞任が自公政権に及ぼす影響について尋ねられた途端、その記者を睨みつけて「他人事のようにとあなたおっしゃたけれどもね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです。」と言い放って、一目散に会見場を後にしてしまいました。
いつも他人事で人間味を感じない福田さんが、最後の最後に人間性をあらわにしてキレた瞬間として、どこの放送局でも繰り返してこの場面を放映しました。しかし私は前々から彼の顔付きを見ていて、その人間性や人としての器はこんなものだろうと想像していました。
日頃テレビで見る顔付きから、自尊心が高く、他者と共感する能力が低く、自分を必要以上に知性的に見せようとする人だと考えていました。何か困ったことが起きた時に、その問題をあるがままに受け止めて、正面から悪戦苦闘するのではなく、他人のせいにしたり、合理化してしまう傾向も見てとれました。
そういう人が、これまでひた隠しにしてきた政治、行政の矛盾が一気に噴出した状況に総理大臣の任に就くということは、ご本人自身も心から望むところではなかったのではないかいと推察します。それでも総理大臣に任命された以上は全力で責務を果たすだろうと思っていましたが、その期待が裏切られてしまいした。国民から見れば、「僕、いち抜けた!」と言って遊びを止める幼稚園児を連想してしまうほど唐突な辞任劇でした。このために、全国民が「無責任」と非難の声をあげました。
しかし、彼の発言をよく吟味すると、彼は「無責任」である以前に一国の宰相としての資質に重大な欠陥があったのだと思います。つまり、「無責任」以前に「能力不足」であったのではないでしょうか。
自分を客観的に見るということは人間にとって最も難しい行為です。自分の周りで起きる事柄を客観的に見ることだって難しい作業なのですが、そういうことができる人でさえ、自分のこととなるとあるがままに客観視できないのが通例です。福田さんがもし本当に自分のことを客観視できるのだとすれば、彼はもう神に近い能力の持ち主と言わざるを得ません。もし、そうだとしたら1年前に今の状況になることが予想できて、初めから総理大臣を引き受けていないはずでしょう。「自分のことを客観視できる」と自己評価していること自体、自分のことはおろか世の中の出来事をも客観的に判断する能力が高くないことを物語っているのです。
万能を持ち合わせている人はいるはずがありません。どんな人も長所と隣り合わせに欠点があるものです。しかし、全力で責務を果たすという使命感を忘れずに頑張ってくれれば国民は暖かく見守ったでしょう。福田さんの言動からその必死さが感じられなかったことが、福田さんの不幸であり、国民の不幸であったのではないかと思います。
ちょうどこの辞任表明の2日後にNHKで放映された「その時歴史が動いた―日本降伏前篇、焦土に玉音が響いた」を観て、私の頭の中で改めて福田辞任の無責任さが際立って印象付けられました。
ポツダム宣言が出されてからその受諾決定までの約3週間、時の為政者たちは考え方はともかくとして、国家の危機に対して己の命を賭して真剣に取り組みました。彼らは国土が焦土と化して、多くは自分自身が戦犯として処罰されることを知りながら、国の生きる道を模索したのです。
この放送を見た後にも、繰り返し流される福田さんの気取って無表情を装う表情を観ていているうちにまたまた精神科医の悪い習性が湧いてきました。一つの診断名が頭に浮かんできたのです。
それは「非社会性パーソナリティ障害(Dissocial personality disorder)」です。ICD-10による非社会性パーソナリティ障害の診断項目を挙げてみます。
①    他人の感情への冷淡な無関心。
②    社会的規範、規則、責務への著しい持続的な無責任と無視の態度。
③    人間関係をきずくことに困難はないにもかかわらず、持続的な人間関係を維持できないこと。
④    フラストレーションに対する耐性が非常に低いこと、および暴力を含む攻撃性の発散に対する閾値が低いこと。
⑤    罪悪感を感じることができないこと、あるいは経験、とくに刑罰から学ぶことができないこと。
⑥    他人を非難する傾向、あるいは社会と衝突を引き起こす行動をもっともらしく合理化したりする傾向が著しいこと。

いかがでしょう。刑罰は別として、この1年間の彼の言動をよく説明できるのではないでしょうか。しかし、間接的とは言え、このような人物を総理に選出したのは私たち国民です。私たち自身が深く反省しなければいけないのかもしれません。
個人的な利益、その場しのぎの甘い公約やかっこいいパフォーマンスに惑わされて、日本を抜き差しならないほど歪んで、先行き不安な国にしてしまったのは、主権者である私たち国民なのです。一人一人が現在の日本国内外の状況をよく勉強して、民主主義国家の成熟した国民としてふるまうことができるようにならなければ、我が国の明るい将来は見えてこないのです。

ところで、次ぐ総理大臣の辞任劇を見てもう一つ病名が浮かびました。「五月病」です。この病名は最近ではあまり使われなくなりましたが、大学の新入生に見られる「燃え尽き症候群」のことです。晴れて希望の大学に入った若者の中で、1カ月ほど経った5月頃になると抑うつ、無気力、不安、焦燥感、不眠、疲労感といったうつ状態に陥るケースを指して名付けられたものです。
日本一偏差値の高い大学、東京大学の駒場キャンパスで数多く見られ、ちょうどその時、駒場キャンパスが「五月祭」の時期に当たるために「五月病」と呼ばれるようになりました。
そういうケースを分析しますと、彼らの目標が東大で何かを学ぼうということではなく、東大に入学することそのものが目標であることが、本疾患の発症病理の大きく関与していることが分かりました。本来、大学入学という出来事はその後、そこで学業研鑽するための手段であり通過点です。ところが、あまりに受験競争が厳しいために、いつの間にか大学入学そのものが最終ゴールであるかのように錯覚してしまい、入学してしまうと目標を失ってやる気をなくし、燃え尽きた状態になってしまうのです。
就任して数か月でやる気をなくし、外連味のないすがすがしい顔で総理大臣を辞めていく人は、自分の信念に基づいて国を舵取りしたいという目標のために総理になったのではなく、総理大臣になることが最終目標であったのではないかと思えるのです。
とにかく総理大臣になることが最終目標ですから、なってしまえばあとはどうでもよいのです。官邸玄関での集合写真に収まれば、総理大臣を経験したというアリバイが完成。運よくサミットの議長にあたって、各国首脳の中央で写真に収まればこれはもう大当たりのグリコのおまけ。
たとえ1カ月であろうが、経歴には総理大臣と記されますし、叙勲の際にも任期はあまり問われないようです。大変な苦労をする前に一刻も早く辞めたいという気持ちは十分に理解できます。
肩書き作りを目標(もちろんそれに絡んで利権も手にするが)に政治家をやっているのではないかと疑いたくなるのは安倍さん、福田さんだけではないでしょう。ごく一部の例外を除いて、近頃の議員の大半の目標が役職に就くことにあるように思えてなりません。
国民や国家のために働くという政治家本来の目的を遂行しようとするならば、それはきわめて過酷な滅私の行為であり、進んでやりたい仕事であるはずがありません。それなのに、2世、3世の議員があふれる今の日本の政治の世界を見ると、今の政界は目標設定がずれている人たちの集団であるように思えます。
ポスト福田で雨後の筍のように候補者が名乗りを上げていますが、その顔ぶれを見ても、高邁な目標達成の手段として総理を目指していると信じきれないのは私だけでしょうか。
現在我が国は膨大な赤字国債を抱え、社会保障制度は崩壊、食糧やエネルギーも危機に瀕し、さらに世界全体が1929年の世界大恐慌前夜の様相を呈してきています。国家安全保障という視点からも、世界各地で民族紛争が勃発し、それに乗じて利益を求めて大国間での緊張が高まっています。また、イラク、アフガニスタン、パレスティナなどで繰り返されるテロの応酬は止む気配を見せません。直近では金正日が脳卒中で倒れたというかなり確度の高い情報が入りました。今でさえ危うい我が国周辺の安全がさらに不安定さを増すことが想定されます。太平洋戦争時のように明確な戦争の形をとっていないために多くの人があまり深刻に考えていませんが、現在の日本は国家存亡にかかわる重要案件をいくつも抱えているのです。
この国家の浮沈をかけた大事な時期ですから、ポスト福田には是非とも宰相としての資質を多く備えた方に総理大臣に就任していただきたいものです。ところが、今回名乗りを上げた方々の言動を観察していると、残念ながら信じて将来を託すに足る人を選ぶのはかなり困難です。多くの人に何か欠けています。中でも教養と品格に欠けて欲の皮が突っ張った「政治屋の顔」が多いと感じるのは私だけでしょうか。
私が総理大臣に求める資質は、溢れんばかりの教養と、それに裏づけられた歴史的展望をもった国家感。人としての品格。究極の場面で決断する勇気。自分の決定に対して最後まで責任を持つ潔さです。
私たち国民は政治家の口から出てきた言葉だけを信用するのではなく、過去の行動実績、日頃の言動を注意深く観察して品定めをしましょう。一国のトップのレベルは、その国民のレベルに比例します。私たち一人一人が主権者としてのレベルを向上させることこそがこの国の明るい将来を約束するのです。

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