今年の4月から特定健康診断・特定保健指導という制度が開始されました。この新しい健康診断は昭和57年に制定された「高齢者の医療の確保に関する法律」を基礎に、昨年12月に公布された「特定健康診査及び特定健康指導の実施に関する基準」という厚生労働省令が根拠となって強制的に行われる問題山積の健康診断です。
対象は40歳以上74歳以下の公的医療保険(健康保険組合および国民健康保険)に加入している被保険者とその被扶養者全員です。義務を負うのはその医療保険を管掌している保険者です。
本来、国民の健康維持は国と国から委託された地方自治体、すなわち行政の重大な責務です。それを健康保険者に押し付けて、実際の業務は民間事業者にまる投げするつもりです。保健指導は一定の基準が決められていて、それを超える指導は有料になります。健康診査そのものについても受診者から一部負担金を取るかどうかは保険者の判断任せという無責任さです。
厚労省の目的はこの健康診査とその後の健康指導によって、疾病を予防して医療費の削減をしようというものです。この目的のために目をつけたのが、いわゆる「メタボリックシンドローム」と呼ばれる病態です。ですから、この特定健康診査・特定健康指導は俗に「メタボ健診」と呼ばれます。
では「メタボリックシンドローム」とはどのような病態を指すのでしょう。言葉だけが先行して、メタボリックシンドロームを正確に理解している人は多くありません。後で述べるように、メタボ健診の行き過ぎた基準とそのプロパガンダの影響で、多くの人が単に太った人を「メタボ」と呼んでいるように見受けられます。
メタボリックシンドローム(metabolic syndrome〔代謝症候群〕〕とは内蔵脂肪型肥満に高血糖、高血圧、高脂血症のうちの2つ以上を合併した状態を言います。シンドロームX、死の四重奏、インスリン抵抗症候群、マルチプルリスクファクター症候群、内臓脂肪症候群などと呼ばれていた病態を統合整理した疾病概念です。
糖尿病、高血圧、高脂血症は単独でも動脈硬化の促進因子であり、心筋梗塞や脳梗塞などの発症危険性を高めますが、これらが重なるとこれら心血管性疾患や脳血管性疾患の発症が一層ハイリスクになります。したがって、こういう病態を改善すれば、動脈硬化の進行を遅らせることができ、ひいては心筋梗塞や脳梗塞などの発症を防げると考えられるのです。
肥満には内臓脂肪型肥満(りんご型肥満)と皮下脂肪型肥満(洋梨型肥満)の2種類に別けられます。皮下脂肪型肥満は下半身太りとも言われて腕や足や尻などの皮下に脂肪が溜まってブヨブヨした感じになります。中年以降の女性によく見られる肥満です。これに対して、内臓脂肪型肥満は中年以降の男性によく見られる肥満で、俗に「ビール腹」と呼ばれる太り方です。
1951年フランスのJouveとVagueが同じ肥満でもりんご型の肥満者は心血管性の疾患にかかりやすいことを指摘しました。これに対して同じ肥満でも、洋梨型の肥満者にはその危険性が少ないと言うのです。その後、1981年にRudermannたちが、別に肥満者でなくても心血管製疾患のリスクの高い人がいて、その原因は血中のインシュリンの値が高い人だという研究結果を発表しました。
1988年、Reavenが三大生活習慣病である高血圧、糖代謝異常、脂質代謝異常の基礎にはインシュリン抵抗性1というものがあって、それによって心血管性疾患が引き起こされると主張し、「Syndrome X」と名付けました。1989年Kaplanがこの三大生活習慣病に腹部脂肪型肥満を加えて「死の四重奏」と命名しました。その後もインシュリン抵抗性に関する研究が進んで1998年にWHOが「メタボリックシンドローム」という病名を正式に認めました。
厚労省が実施する特定健診で採用されるメタボリックシンドロームの診断基準を以下に示します。
腹囲:男性85cm以上、女性90cm以上
BMI:25以上
血糖:空腹時血糖 100mg/dl以上 HbA1c 5.2%以上
血圧:最高血圧130mmHg以上 最低血圧85mmHg以上
血中脂質:中性脂肪150mg/dl以上 HDLコレステロール40mg/dl未満
この健康診査ではこういった基準の中でも厚労省が重きをおいているのが腹囲とBMIです。BMIはBody Mass Indexの略で
BMI=体重(kg)÷身長(m)2
の計算式で算出される肥満度を表す数値で、下記の判定基準が設けられています。
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腹囲が基準値を超えるか、BMIで肥満と判定されると血糖値、血圧、血中脂質の値によって各種健康指導が義務付けられます。
BMIは現在もっとも広く使用されている肥満度判定指標です。そのBMIにしても男女間の骨格の違いなどを考えると男と女で同じ値を基準にすることはいかがなものかとの疑問がありますが、まだそれなりに信頼できる指標だと思います。
しかし、腹囲基準はいかがなものでしょうか。腹囲が85cmくらいの健康な男性はそこらじゅうにいます。一方、女性で腹囲が90cmといったら相当な肥満ではないでしょうか。
厚労省が採用したメタボリックシンドロームの判定基準は日本肥満学会が中心になって日本内科学会が2005年に策定したものですが、この基準は国際的にも認められていないし、国内でも研究者の間で考えが異なっていて、甚だ科学的な根拠に乏しい基準値なのです。
男の基準値が女の値より小さいのはこの日本の診断基準だけです。WHOの診断基準、国際糖尿病連合(IDF)の診断基準、アメリカの脂質研究者グループ(NCEP-ARPⅢ)が作成した診断基準などなどいずれを見ても、男性の腹囲基準値のほうが女性のそれよりも大きい値になっています。
素人が考えたって、男性が85cmで女性が90cmという基準が現実離れをしていることはすぐに分かるにもかかわらず、国は国内外から批判の多いこの基準にこだわり続けました。
この健康診査制度の具体的な方策を検討するための審議会は「標準的な健診・保健指導の在り方に関する検討会」と称するもので、座長は久道茂という東北大学の公衆衛生の教授を務めた医学者です。実際に患者さんたちの診療経験の乏しい基礎医学者です。
また、この検討会の委員には男85cm、女90cmという基準を作った張本人の現住友病院長の松澤祐次という医師も当然名前を連ねていました。彼が診断基準作成に当たって集めた標本数はきわめて少なく、女性にいたってはたった194名のデータでしかありません。検討会では他委員からの異論も少なくなかったようですが、久道と松澤の二人で押し切ってしまったようです。
政府はあらゆる分野の法、政令、省令などを策定する過程で、有識者による検討会とか審議会とかを招集します。第三者による学問的、客観的な検討を重ねた結論であるという大義名分を作るための手段であり、結論は最初から役人が作成した原論に落ち着くようになっています。
やらせ問題が表面化した、国民を対象として行われる「ヒアリング」と同様に、国民からの反論や不満をかわすためのガス抜き装置です。召集される委員の選定は役人に委ねられていますから、行政とのパイプが太くて、行政の言うことを素直に聴いてくれる御用達学者が集められることは火を見るより明らかです。
特定健診施行に関する幾つかの検討会もこれまでの例にもれず、厚労省の原案通りの結論になりました。
今まで述べてきたように、科学的に正当な検討を踏まえないで、医療費を削減するという金銭勘定だけを主目的として非合理的な健康診査が実施されることになりました。厚労省の目論見は国民の健康のためではなく、結局は金だということは明らかです。なぜならば、糖尿病などの発症を予防して医療費を削減するというだけならばまだ納得がいくのですが、そうではなく、この制度を利用して各保険者からペナルティ金を徴収して、国の負担を少なくする仕組みになっているからです。ペナルティ金の出所は現役世代が各保険者に支払っている健康保険料です。つまり、健康診査の看板を付け替えることによって、名目を変えて、現役世代に高齢者の医療費を負担させる姑息な手段でもあるのです。
平成24年度の時点で以下の目標値に達しない保険者は後期高齢者医療制度の支援金を加算されるのです。そのもの自体問題だらけの後期高齢者医療にかかる費用を保険者からむしりとろうと魂胆です。その目標値とは①特定健康診査実施率65%、②保健指導実施率45%、③メタボリックシンドローム減少率10%です。
この3つの項目で優秀な結果を出した保険者は支援金を減じられるのですが、健診実施率、保健指導実施率はともかく、③メタボリックシンドローム減少率という概念自体きわめて曖昧で合理的でありません。はっきりとメタボリックシンドロームと考えられる人が指導の結果、多少の改善をしても、減少とは認められません。逆に症状が悪化して、指導だけではだめで服薬治療が開始されると特定指導の対象外となって減少率にカウントされます。また、高血圧、糖尿病、高脂血症などがまったく改善されていなくても、問題の腹囲さえ基準以下に減っていれば、減少率にカウントされます。
したがって、後期高齢者医療制度への支援金減少を図る保険者は、ハイリスクの人たちへの指導は最初から諦めて、軽度のメタボリックシンドローム予備軍への指導に力を入れることになるでしょう。
もともと腹囲なんてものは測り方しだいで6~8cmの誤差が出てくると言われています。「初めの健診では大きめに測定をして、健康指導をした後の健診時には精一杯腹を引っ込まさせて、85cm未満の数字を記入すればよい」という、冗談だか本気だか分からない噂話を耳にします。
厚労省はこの特定健康診査・特定保健指導によって糖尿などの発症を予防すれば20年後の医療費を2兆円削減できるとしています。しかし、すでに幾つかの研究において、腹囲85cmを基準に判定された男性のメタボリックシンドロームは心血管性疾患発症の優位な危険性にならないという結果が出ています。また、肥満ではないのに心血管危険因子を持っている人の医療費のほうが肥満で心血管危険因子をもっている人の医療費よりもはるかに高額であって、医療経済学的観点からも厚労省の目論見は的外れであるという指摘もあります。
さらに、深刻な問題はこの腹回りばかりに注目する健康診断の導入によって、他の疾患を対象とした健診が削減されていくことです。心電図、血球検査、腎機能検査、痛風に対する検査は削除されました。また、予算の関係から、日本人の死亡原因第1位の癌検診は縮小の一途です。日本人の保健課題はメタボリックシンドローム以外にも重要な疾患が数多くあるのに、そういった病気はおざなりにされてしまいます。
最後に、不愉快な裏事情について一言。相次ぐ不祥事の発覚で10月に解体される社会保険庁は「日本年金機構」と「全国健康保険協会」という二つの法人に引き継がれますが、このうち全国健康保険協会が政府管掌保険を管理することになり、政府管掌健康保険組合のメタボ健診はここが管理することになります。
この協会は現在の社保庁職員が約1,300人雇用される予定です。要するにこの時期にごり押しして実施した特定健康診査・特定保健指導は、厚労省や旧社保庁の新しい天下り先を確保して、そこへ利権を流入させる仕組みの一環であるとも考えられるのです。
彼らの利権のために科学的根拠に乏しい基準で「メタボ」という烙印を押されて、挙句の果てに有料での健康指導を強制されたのではたまりません。
国だけでなく有識者と呼ばれる学者も、もろもろの利害を忘れて、純粋に国民の健康維持について考えていただきたいものです。