投稿日:2008年9月1日|カテゴリ:コラム

福島県の産科医不当逮捕事件に対する無罪判決の報道を読んでいて、もう一つ思い出した出来事があります。

今から30年ほど前の出来事です。当時私は薬理学教室で中枢神経系の生理・薬理学的な研究をしていました。学会に参加するために薬理学教室の仲間4名と新幹線で神戸に向かいました。

たしか静岡を過ぎて間もなくのことだったと思います。車内放送で「どなたかお医者様はいらっしゃいませんか?」という車掌からの呼びかけ、いわゆるドクターコールがかかりました。

当時私は大学を卒業して5年目で当時は薬理学の研究に専心していましたから、臨床経験が乏しい上に専門は精神科でとても救急医療の役に立てる自信はありませんでした。ほかの3名のうち一人は薬学部出身で医師ではありませんし、残る2名は私よりも後輩なので私よりもさらに臨床経験がありません。

「学会があるのだし、これだけたくさんの人が乗っているのだから医師はいっぱいいるよ。」という話になり、黙っていることにしました。ところが、暫くすると再度ドクターコール。最初の呼びかけでは誰も名乗りを上げなかったのです。

今から考えれば怖いもの知らずだったのでしょう。結局、私と卒業したばかりの内科医の二人で車掌のところに行きました。症例は高校生の男の子。私たちが到着した時には座席に横たえられていて、目を閉じたままです。呼びかけには「うーん」とか応じるものの、きちんとした応答はできません。同伴の友人の話によれば、突然意識を失って倒れたというのです。「熱っぽい」とは行っていたが、咳はしていなかったという情報しか得られませんでした。

学会発表のためのスライドはもっているものの、聴診器などの診療用具は所持していません。しょうがないので手のひらで体温を感じとり、指で脈を測り、胸に直接耳をあてて心音と呼吸音を聴き取り、空き瓶を使って腱反射を診ました。

心臓は一応動いている。呼吸は速いが、雑音がないので重篤な肺炎はない。現在痙攣はしていない。Kernig徴候1はよく分かりませんでしたが、後部硬直2がありそう。てんかんにしては意識障害が長すぎる。などから髄膜炎などの頭蓋内の炎症がもっとも疑われました。しかし、まったく自信などありませんでした。

ただ、車掌から求められたのは患者さんと本人たちが予定していた大阪までこのまま乗せてよいものか、それとも救急車を待機させて名古屋で途中下車させるべきかという判断でした。最悪の事態を考慮して行動するのが医療の原則です。躊躇せずに後者を選択しました。

可能ならば、病院まで付き添ってくれないかとの依頼がありました。当日に発表があるわけではなかったので、名古屋駅で途中下車。私と後輩の内科医が救急車に同乗して、病院まで搬送して救急担当医に無事に引き渡しました。

これは余談ですが、途中下車しなかった二人の仲間は、名古屋駅で私たちが途中下車した後、グリーン車に席を移されて、飲み物までサービスされたそうです。実際に診療に当たった私たちは数時間遅れて神戸に着きました。普通車で。車掌や駅員からの「ありがとうございました」という言葉だけで満足していた私たちでしたが、この話を聞いてしまって、なんとなく釈然としない気持ちになってしまいました。

後日、名古屋の病院からその後順調に回復して大阪の病院へ転院したという報告がありました。

30年前の日本であり、結果も幸いしたので良い想い出になっていますが、現在の医療環境や結果次第でなんでも訴訟する風潮であったならば、かなり危険な行為をしたことになります。グリーン車どころではありません。

実際に治療契約が結ばれた上での医療行為に対して厳しい結果責任が求められることは致しかたがないとしても、治療契約なしに善意で行った救命行為についても、結果次第では民事責任や刑事責任を問われかねない危険なご時勢になったからです。

すでに、飛行機内で起きた心筋梗塞に対して、同機に乗り合わせていた医師が善意で処置を施しましたが、その甲斐もなく亡くなった事件で、その医師に対して遺族が訴訟騒ぎをした事例があります。

さらには、たまたま自宅前で倒れている人に対して善意で救急処置を行った医師が、不幸な結果に終ったところ、遺族から損害賠償の訴訟を起こされるだけではなく、警察から業務上過失致死罪の容疑での取調べを受けた事例まで出てきているのです。

一昔前にはアメリカの訴訟社会を風刺して「街で何か事故があった時に、一目散にその場から逃げていくのは医者で、集まってくるのは弁護士」というジョークを言っていましたが、今や日本も海の外の冗談話ではすまなくなってしまったのです。

こういう風潮は困っている人を見かけても救済せずに、傍観者でいることを勧めていることになります。その結果、弱い者や困窮している者に対して憐憫の情をもって、損得を度外視して救いの手を差し伸べるという、本来人間がもっている健全な本能行動を圧殺し、非人間的で不健全な社会を作ります。

秋葉原で起きた無差別殺傷事件の際にも、倒れている人を救護するのではなく、むごい惨状現場を取り囲んで写メールを撮る人のほうが圧倒的に多かったと聞きます。実に不愉快な世の中です。

このような社会ではなく、お互いが積極的に助け合う環境を取り戻そうとして作られたのが「善きサマリア人の法(good Samaritian law)」です。「急病人などの窮地に陥った人を救うために無償で善意の行為をとった場合、良識的に誠実にその人のできることをしたのであれば、たとえ失敗の結果になったとしてもその責任を問われない」という趣旨の法律です。

由来は新約聖書、ルカによる福音書第10章の29~37節で述べられているたとえ話です。大怪我で倒れている旅人を見て、通りかかった祭司もレビ人も見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうのに、あるサマリア人は傷の手当をして宿屋に運んで介抱し、宿屋の代金まで払ったという話です。

英米法ではコモン・ロー上のGood Samaritian doctrineに基づいて具体的な法律が作られますが、訴訟大国のアメリカではほとんどの州でこのGood Samaritian doctrineに基づく法律が制定されています。

日本にはこれに相当する法律がなく、医療関係者を含めた多くの人から立法化の要求があります。しかし、法律家の間では既存の法の中にGood Samaritian doctrineの主旨をくんだ条文があるので改めて立法化する必要はないという意見があります。

民事法では民法698条に緊急事務管理に関する規定があるので、あらためて善きサマリア人の法を制定しなくてもよいという考えです。しかしこの法律によって責任免除を証明するためには要件である「重大な過失がないこと」を善意の救護者が証明しなければなりません。さらに、この救護者が医師である場合には医師法第19条に「診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」という応召義務の規定があるために、民法698条で言うところの「義務のない管理者」に当たるか否かで明確な結論がだされていません。

刑事法においては刑法第37条1項の緊急避難に関する規定で違法性が阻却されるのでGood Samaritian doctrineを満たしていると言われます。しかし、ここでも救護者が医師であった場合には、この条文の第2項に「前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない」とあるために、やはり医師法第19条の応召義務との関係が問題となります。プライベートな生活場面で遭遇した事故での救護だとしても、業務上特別の義務がある者と考えられて、業務上過失致死傷害罪、過失致死障害罪、重過失致死傷害罪などを問われる可能性があるのです。

航空機内での急病人発生時にドクターコールに応じるかどうかについてのアンケートでは2/3以上の医師が「応じない」との回答をしたそうです。理由としては法律の不備と、医療関係者に対する司法や報道のあり方を挙げています。

いくら医療の専門科とは言っても、不測の状況下で医療機器や医薬品なしではできることに限界があります。それでも、医学的な知識がない、まったくの素人に比べればより有効な手立てを打つことができます。

医療のプロが萎縮せず、積極的に緊急場面で活躍することができるように、医師、看護師、救急救命士などをも明確に対象とした「善きサマリア人の法」の制定が望まれます。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】