8月20日に福島地方裁判所で注目すべき無罪判決が下りました。この裁判は2004年に福島県大熊町の県立大野病院で帝王切開手術を受けた女性の死亡に対して、担当した産科医、加藤克彦医師が刑法第211条の業務上過失致死罪ならびに医師法第21条の異状死の届け出義務違反の罪に問われた刑事裁判です。
この事件に関しては新聞をはじめ、多くのメディアで詳細が述べられていますし、私のコラムでも何回か触れてきましたので、改めて事件そのものについての説明は致しませんが、無罪判決に対しての世間の反応を見て私が改めて感じたことを述べてみます。
私はこの事件に関しては起訴されたこと自体が不条理であると考えるので、無罪判決を当然と考えるのは言うまでもありません。彼の医療行為が刑事罰に処されるならば、医療行為そのものが否定されることになるからです。
判決後の各界の意見は概ね、無罪は妥当とするものでした。しかし、「被害者遺族の情を満足させるものではない」といった趣旨も数多く目にします。
最近の司法の流れは、「被害者の情」を重視する傾向にあります。被害者感情を汲むということは大切な要件かもしれませんが、ただただ被害者感情を満足させることだけを目標とするならば、厳正中立であるべき司法はたんなるリンチの代行機関になってしまいます。
今回の事件で、私たち医療人がもっとも憤慨したのは警察官が加藤医師を衆人環視の中で手錠をかけて連行したことです。加藤医師は事故発生後に逃げも隠れもせずそれまで通り病院での診療に明け暮れながら、警察や県の調査委員会の聴取にも応じていたにもかかわらず、福島県警は逮捕という暴挙に出たのです。
逮捕という処分は被疑者が逃亡あるいは罪証隠滅のおそれがある場合にとるべき手段であって、当時の加藤医師の行動を見れば、在宅起訴の手続をすれば済むのであって、衆人環視の中の逮捕の必要性はまったくありません。
しかも、予めマスコミにも逮捕情報をリークして逮捕劇を演出したようです。警察・検察の医療人に対する見せしめ、挑戦以外の何ものでもありません。
この「逮捕」に関しては大多数の法曹が不必要であったとの見解を述べていますが、捜査当局はこの逮捕劇の理由の一つとして、遺族感情の激しさを挙げています。ここでもまた被害者・遺族の感情の登場です。
何らかの事件が発生した場合、それによって被害を受けたと感じている人間は、事情はどうであっても、相手に対して復讐したいという感情を持ちます。被害感情というものは主観的なものです。余り感じない人もいれば、過剰に感じる人もいます。時には妄想であることもあります。また、その被害感情に基いて望む復讐の程度も人によってさまざまです。「目には目を」どころか2倍返し、3倍返しの復讐を誓うことも珍しくありません。皆様の中にも、上司からきつく叱られただけで殺してやりたいと考えたことがある人がいらっしゃるのではないですか。
このように主観的で際限のない被害者感情を重視しすぎた司法はきわめて危険です。来年から始まる裁判員制度がこの傾向をさらに加速させるのではないかと心配しております。
この事件を通してもう一つ感じたことは、日本人の「生命」ついての考え方や、「生きている」ということの蓋然性についての認識がおかしくなってきているのではないかということです。
日本の医療水準は世界のトップレベルです。今回問題になった産科医療においては世界一と言っても過言ではありません。周産期死亡率(年間の1000出産に対する周産期死亡の比率)をとってみれば、世界の中で群を抜いて低い値です。妊産婦の死亡率(出生10万に対する死亡数)も4.4とドイツに次いで第2位の少なさです。
かっては日常茶飯事であった死産や新生児・妊産婦死亡は現在の日本では非常に稀なことになりました。しかし、海外に目を向ければ今でも「お産」は命がけの危険なイベントなのです。しかし一般の人は、日本が格別に安全な出産環境であるということを理解していません。その安全性の高い出産環境はもともとそうであったのではなく、産科にかかわる多くの医療関係者の弛まざる努力の賜物であるのです。この事実も理解されていないようで、無事に生まれて当たり前と思っているようです。
本来とても危険な出産行為に対して、数少ない産科医が現在なし得る医療技術をもって、不幸な事例を極力少なくするべく努力しています。それでも人間の行為にはなしうる限界があり、今でも1年間に111万人生まれる中で1,184人は生後7日未満で死亡します。この数字は驚異的な少なさなのですが、その数少ない不幸にめぐり合った人は納得してくれません。担当した産科医の責任を追及して処罰や莫大な賠償請求をするようになったのです。今回の大野病院事件はこの「出産」という危険な行為と、日本の医療環境に対する誤った認識を象徴する出来事だと言えるのではないでしょうか。
この一般人の認識不足は産科医療の分野に限ったことではありません。どんな病気でも「病院に行って金を払えば、元通りの元気な状態に戻れて当たり前で、少しでも不具合が残れば、不適切な医療をされたに違いない」と考える人が多くなっているようです。
このようなことを書くと、医師の自己弁護でしかないと思われるでしょう。しかし、「何事もなく平穏に生活できて当たり前、自分の身に何か不幸なことが起きれば、それは誰かのせいではないか?」という他罰的な考え方は医療に対してだけに向けられているのではありません。賞味期限に対する過剰な反応にも垣間見ることができます。
戦後60年以上を経過して、栄養失調や疫病流行を久しく見なくなりました。物価は上がってきているとは言うものの、今のところ食べるものには困りません。日本人は安全と平和の中にどっぷりと浸って、健康で平穏に生きていられることを当たり前のことと考えるようになってしまったようです。
しかし、地球という規模(それほど大きくない)で眺めてみれば、今でも世界中のいたるところで、餓死者が後を絶たず、清潔な飲み水が確保できないために伝染病で命を落とす人がたくさんいます。
わが国は防災対策が整っているために、地震や台風などの自然災害時の死傷者も圧倒的に少なくて済んでいます。これも当たり前のことではなく、国、地方自治体をはじめ関係者の長年にわたる努力のお陰です。ハリケーン、カトリーナによるアメリカ南部の被害、インドネシア沖地震による東南アジア各国での被害、ミャンマーのサイクロン被害、四川大地震による被害の甚大さを考えてみれば、今の日本人がいかに恵まれた環境に生きているかを理解できるはずです。
もっと突き詰めて考えれば以前私が「星の王子様」というコラムで書いたように、広大で悠久の宇宙の時空の中で奇跡的な確率でしかあり得ない恵まれた環境の地球という惑星に生きていられること自体が幸運なのです。
無事に生きていることは当たり前なのではなく、幸運が重なった結果なのです。こう考えれば、あらゆるものに対して感謝の念を抱いて毎日を生きていかなければならないはずです。そういう当たり前の感情を現在の日本人は失いつつあります。
さらに、核家族化が進んで小さい頃から老人との接触が減り、先祖の霊を祭る風習も風化しています。このために、身近に「健康」、「生きる」という現象の対極にある「老い」とか「死」というものを体験する機会が減ってきました。こういったことが重なって、一層「生きる」という重大な課題と真剣にむきあわなくなってしまったのではないでしょうか。
「むしゃくしゃして誰でもよかった」などという理不尽な動機で他人を殺害したり、安易に自殺を図ったりする人が増えていますが、こういった社会現象の底流にも日本人の「生・死」についての哲学欠如が横たわっているように思います。「生命の尊さを実感できる能力」と「避けられない死を受け入れることができる能力」とは表裏一体のものだからです。
これから述べることは以前からの私の持論ですが、医師である私の口から出るかぎり、それは「医者の弁解」としかとられません。しかし私は最近、病気を患って手術を受けました。患者の立場から「健康」や「生きること」について再考する機会を得たので、これからは堂々と言うことができます。
この世に生を受けたものはどんなにあがいても、「老、病、死」はまぬがれません。その現実から目をそらさずにしっかりと受け止めて、限られた時間をよりよく生きることが私たちに与えられた使命だと思います。人間の寿命はほんのわずかな時間です。そのわずかな時間を恨みで塗り固めるのではなく、それまで生きてこられた幸運とその間に縁を結べた人々への感謝の気持ちを抱いて最期を迎えたいものです。