1951年に国連で採択された「難民の地位に関する条約(難民条約)」で定義されている難民とは「人種・宗教・国籍・政治信条などが原因で、自国の政府から迫害を受けるおそれがあるために国外に逃れた者」です。
しかし、一般にはこの他に天災、飢餓、伝染病、国内外の紛争から逃れるために住む場所を追われた人も含めて難民と呼んでいます。
さて、日本は難民受け入れの基準が厳しく、欧米など他国に比べて難民の受け入れが少ないとの批判を受けていますが、実は日本国籍を持つ国内難民を多数抱えているのです。しかもその数は時々刻々と増加しています。医療難民、介護難民、リハビリ難民、お産難民、ネットカフェ難民です。
もちろんこういった難民は本当の意味の難民ではなく、比喩として「○○難民」と呼ばれているわけですが、保護されるべき国家から見放されて路頭を迷うという意味で、真に的を射た表現だと思います。
医療難民と介護難民は対象者が重なりますし、相互に関連して切り離して論じることができませんから、医療・介護難民と言ったほうがよいと思います。この医療・介護難民は小泉が威勢よく掲げた「骨太の政策、聖域なき財政再建」に基づく社会保障費の機械的な削減が生み出した難民です。
国は医療に関するネガティブキャンペーンを張り、全国で35万床ある療養型医療施設を2011年度末までに全廃する決定をしました。18万床は医療型施設として残し、残りは介護施設への転換を図るという方針を立てました。
国のネガティブキャンペーンは「急性期の医療が終わり、もう入院して医療を受ける必要がない状態になった人が入院してベッドに縛り付けられて、意味のない点滴をされている。それによって医療機関が不当な利益をあげている。」というものでした。国は、そういった慢性の状態や後遺症を持つ人たちは病院での医療ではなく、地域の医師や看護士が往診する在宅医療と介護サービスという受け皿で対応すればよいと主張しています。
しかし、現実の病気やケガは手術などの急性期医療だけを施せば事足りるものだけではありません。初期治療の後も、口からの栄養ができないために、長期にわたって、胃に穴を開けて直接栄養物を補給して生命を維持したり、集中的なリハビリを継続しなければならないケースは少なくないのです。
国は病院に代わって、地域の開業医や看護師にこの役割を押し付けようと考え、これに対して多くの開業医と訪問看護事業者がこの要請に応える姿勢を示しています。しかし、現実的に考えれば、開業医がいくら頑張っても、自分の診療所での診療をしながら、多数の在宅患者の方に、これまで病院が行ってきたのと同様のレベル(24時間365日)の医療を提供することは不可能です。訪問看護も限界があります。
予想以上に大きい国民の怒りを鎮めるために、国はつい最近、この削減計画を緩和することにしました。医療型施設を当初の計画数に4万床上積みして、22万床を残すことにしました。しかし、これでも焼け石に水です。
さらに、国は高齢者に対して残酷な仕打ちを加えました。後期高齢者医療制度の新設に伴って、脳卒中と認知症の患者さんの入院治療に対する診療報酬を、入院90日を超えると一律に2/3に引き下げることにしたのです。こうなると、病院はこういった患者さんを90日以上入院させると赤字になり、経営が困難になります。医学的にはそれ以上の期間、入院治療が必要だと分かっていても退院していただくしかありません。医は仁術とは言うものの、病院そのものが潰れてしまってはより多数の犠牲者を生んでしまうからです。
患者さんや家族から見れば、病院に追い出されたと考えるでしょうが、本当は国が追い出さざるを得ない仕組みにしているのです。国は、自分たちの行為によって起こるべくして起こる悲惨な結果を、医療現場の責任であるかのうように見せかけます。この巧妙なやり方は厚労省の常套手段です。
入院が続けられていれば生存していたはずの人が病院から追い出される結果、その中の何割か人の死期が早まることは確実ですが、犠牲者はこれだけにとどまるわけではありません。国が目先の改善策でごまかして、あくまで存続させようとしている後期高齢者医療制度には、さらに冷酷なシナリオが描かれているのです。
この制度では保険料を滞納すると保険証が取りあげられて、10割負担でないと診療を受けられません。一方で、その保険料は年々増額される仕組みになっていますので、保険料滞納者は増加の一途を辿ることが予想されます。保険料さえ払うことができない人が、病気になった時に10割の診療費を払えるわけがありません。事実上、病気になっても入院どころか一切の医療行為を受けることができない人が増えていきます。
団塊の世代の人たちが後期高齢者になる2030年には、世界有数の水準の医療を誇る国にいながらその恩恵にあずかることができずに死んでいかなければならない、究極の医療難民が数十万人を超えるおそれがあります。極論を言えば、国民の生命を守らなければならない国家の義務違反による不作為の殺人であり、断じて容認でできるものではありません。
国が医療システムの削減に対するもう一つ受け皿と主張している介護システムの整備拡充も質、量ともにまったくなされていません。家族に代わって生活の全般を長期に担う入所型の介護施設数は需要に対してまったく追いついていません。申し込みをしても、順番で2~3年待ちという状況です。結局は家族に甚大な人的、経済的負担がかかります。
核家族が定着した現在、高齢の配偶者だけで介護に当たらなければならない老老介護を強いられるケースが少なくありません。配偶者がいない場合には子供が職を辞して、親の家での看護・介護や通院のための搬送に当たらなければならず、次世代を貧困に陥れることになります。介護に疲弊したことによる家族内の殺人事件が後を絶たないことが日本の悲惨な介護環境を象徴しているのではないでしょうか。
身寄りのない独り暮らしの場合には在宅介護サービスだけが頼りです。ところが、この在宅介護システムの機能も向上するどころか、むしろ低下してきています。国が医療費と同じように介護費増加の抑制を図って、要介護度の判定基準を厳しくするとともに介護報酬を減額してきたために、質の高いサービスの提供を心がけている良心的な事業者ほど経営を圧迫されて、廃業せざるを得ない事態になってきているのです。
経営を維持するためにはサービスで手抜きをするか、職員に低賃金(平均月給21.5万円、20万円未満が47.6%)と過酷な勤務を強いるしかありません。最近発表された実態調査で昨年度の介護職員の離職率はなんと21.6%にも達することが分かりました。全産業の離職率16.2%に比べて余りに高い数字です。国の施策が介護を受ける人を苦しめるだけでなく、介護に携わる人の生活をも圧迫しているのです。
リハビリ難民とは2006年の診療報酬改訂によって疾患ごとにリハビリを受けられる期間に制限を設けたことによって生まれました。心筋梗塞や手足の骨折では150日まで、脳卒中では180日までというように上限を決めたのでした。
もっとリハビリを続けることによってさらなる機能回復が期待できる人であっても、原因疾患名によって機械的に治療を打ち切るという暴挙です。リハビリを受けたくても受けることができない人、これがリハビリ難民です。
これに対しては全国的な抗議運動が起こり、世界的な免疫学者である多田富雄東大名誉教授を中心に48万人もの署名が集まりました。予想外の反響に2007年4月に厚労省は手直しをしましたが、救済とはほど遠く、むしろこれまで以上早期にリハビリを打ち切られる患者さんを増やす内容でした。なぜならば国は、リハビリは続けられるものの、80日から140日を超えると医療機関に支払う診療報酬を2割から4割減らすという陰険で姑息な手段をとったのです。
つまり、140日以降、リハビリをすればするほど医療機関は赤字になってしまいますから、患者さんからリハビリを受けたいという要求があっても医療機関が断わざるを得ないという図式を構築したのです。長期入院者を追い出すのと同じ手法です。
お産難民(出産難民)とは産科医や小児科医の減少のために起きている深刻な社会現象です。地域の病院で出産を希望しているにもかかわらず、産科医のいる病院がなかったり、あったとしても周辺地域からその病院に産婦が集中するために、病院や医療スタッフの能力を超えてしまうために、その病院で分娩をすることができず、遠く離れた地域まで出産場所を捜し求めなければならない妊婦のことを言います。
医療は産科に限らず24時間体制の機能を要求されますが、一般の手術では多くの場合、予めスケジュールを組むことができます。しかし、お産は時間を選ばずに発現するために、産科医はもともと長時間労働を強いられてきました。それでも、死という悲しい場面にしか立ち会うことのない他の診療科と違って、産科医は唯一新たな生命の誕生という喜ばしい体験と、両親から感謝のことばを糧に仕事を続けてきました。
しかし、国の医療に対する不断のネガティブキャンペーンの成果のおかげで昨今、医療行為に対する感謝の念が薄れて、「普通に生まれて当たり前。少しでも不都合があれば不合理に訴える。」という風潮になってしまいました。遂には適正な医療行為を行ったにもかかわらず不幸な結果に終ってしまった事例で、産科医が逮捕されて刑事訴追を受ける事態になりました。これでは産科医を志す医師が減少するのは当たり前です。産科から撤退する医師が続出し産科医が減りました。
こうなると残った産科医にのしかかる負担が倍増します。頑張って産科に踏みとどまった医師はさらに過酷な勤務を強いられます。睡眠時間の確保さえままならない状態で診療に当たれば自分自身の健康も損ないますし、医療ミスを犯して訴訟を受ける可能性が増えます。結果、産科業務からの撤退を余儀なくされます。お産難民はこの負の連鎖によって生み出されました。
ネットカフェ難民とは24時間営業のインターネットカフェや漫画喫茶で夜を過ごして生活している人を言います。その中には家庭の事情で家から逃避している人や正社員がビジネスホテルの代わりに利用している場合もありますが、中心は家賃が払えずに低賃金の日雇い派遣労働(ワンコールワーカー)でその日暮らしをしている住所不定の若者です。
バブル経済破綻以降、各企業は経費削減の中核に人件費の削減を求めました。政府もそれを容認して、雇用者に有利な種々の規制緩和を推し進めました。その結果、1992年秋以降多くの企業が社員の新規採用を控えたために「就職氷河期」と呼ばれる時代になりました。これ以降新卒者が正規社員に採用されることが極めて困難になったのです。
こういった若者がありつける仕事の多くはアルバイト、パートタイマー、派遣労働であって、賃金は不当にやすく、身分の保証もありません。働いても働いても自立した生活をすることができず、明日の希望も持てない若者が急増しました。
一方、正社員の待遇も劣悪化しました。運よく正社員になれたとしても、正社員とは名ばかり。サービス残業を長時間強いられた上にパートタイマーとそれほど違わない給与しか得られないことも珍しくありません。健全な雇用システムが崩壊して極端な買い手市場になってしまったのです。
民間企業で働く労働者の平均年収は1998年以降減少の一途を辿り、2006年の平均年収は435万円でした。年収が200万円以下のいわゆるワーキングプアーは1000万人を突破しました。
一時は新たに生まれた介護事業がこういった若者の有望な雇用先になると期待されましたが、先程述べたようにそれも幻想に過ぎませんでした。貧困の檻に閉じ込められた若者に明るい出口は見えてきません。
貧困の波は若者だけを襲っているのではありません。相対的貧困率、生活保護世帯数、貯蓄ゼロ世帯数、自己破産件数、ホームレスの数などの指標すべてが、我が国の貧困者の増加を示しています。貧困者は世代を超えて増え続けているのです。
小泉は膨れ上がった財政赤字を解消するという錦の御旗のもとに多くの分野での歳出削減を図りました。財政再建は我が国が直面しているきわめて重要な課題で一刻も早く実行しなければなりません。歴代首相が既得権益者たちの圧力に屈して、先延ばしにしてきた難問に対して正面から取り組んだという点で高く評価しなければならないでしょう。
しかし、「聖域は作らずにあらゆる人に痛みを分かちあっていただくことによって破産寸前の財政の健全化を計る」という基本方針であったはずなのに、実際には障害者、高齢者、貧困者、若者などの弱者だけに痛みを押し付ける結果になっています。
肝心要であるはずの、官僚天下り権益のための無駄な公共事業費削減は遅々として進んでいません。企業は規制緩和に乗じて派遣社員で代表される非人間的な雇用システムを作って、労働者から不条理に搾取することが常態化してしまいました。
小泉の「骨太の政策」が、本命の財政再建に関しては思うほどの成果を得なかったにもかかわらず、格差社会を助長して貧困者を増加させただけであったことは明白です。小泉は「格差はどこの社会にもあり、格差が出ることは悪いことではない。」「成功者を妬んだり、能力のある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない。」と開き直っています。
確かに、私も格差は絶対になくならないし、努力したり能力のある者が報われないといけないと思いますが、その理屈は成功し得なかった者や社会への貢献を果たし終えた者も最低限の生活ができる、セーフティネットがきちんと機能していることが絶対的必要条件ではないでしょうか。
経済的貧困者、社会的弱者を、生きていくことさえままならないほどの困窮に追い込むような格差の加速状況を、健全な社会の姿だと考える人はいないはずです。
国の主権者は国民です。国民こそが国家の骨と言えます。ところが、「骨太の政策」というネーミングに反して、大多数の国民は疲弊しやせ細っていくばかりです。そんな状況でも痩せることなく増殖を続けているのは官僚組織、一部大企業、一握りの資本家だけです。主権者である国民を犠牲にして増殖するこれらの組織と一部の富める者は、身体にたとえれば癌のような存在です。
国民という骨を喰い潰して、癌だらけの空虚な国家だけが残るという事態にならないように、国は大至急国民のための施政に方針を転換しなければなりません。それが国家の本来あるべき姿だからです。