投稿日:2008年6月16日|カテゴリ:コラム

6月8日、日曜日の昼、多くの人が行き交う秋葉原の歩行者天国で25歳の男によって無辜の市民17名が殺傷されました。
犯行前々日にわざわざ遠路福井まで赴いて殺傷能力の高い刃物を複数本購入、前日にも上京して犯行現場を下見するなど、犯行は用意周到です。また、犯行直前まで携帯電話から掲示板に犯行予告と実況中継と思われる膨大な書き込みをしていました。あまりにも異常な事件であり、また容疑者が「自分は精神病だ」と発言したこともあって、検察は鑑定留置をすることにしました。
この事件に限らず、このところ世間の関心を集める事件の裁判において精神鑑定が行われて、犯行時の精神状態が問われるケースが多くなってきています。つい先日も、渋谷の「夫ばらばら殺人事件」の第1審判決がなされ、心神耗弱状態であることが認められて検察側の求刑よりも刑期が5年短縮されました。
精神鑑定を必要とする事件が増えているということは、それだけ誰もが異常と思われるような重大犯罪が増えていることを物語っているのだと思います。

さて、精神鑑定において出される心神喪失状態とか心神耗弱状態とかいうものはどのような状態をさすのでしょうか。
心身喪失状態とは、精神の障害によりことの是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)またはそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態を言います。
心神喪失状態においては刑法39条によって、その責任を追及することができないために、刑事裁判で心身喪失が認定されると無罪の判決が下ることになります。もっとも、心身が喪失しているとまで判定されることはきわめて稀です。平成17年の犯罪白書によりますと、裁判で心神喪失とされた者の数は全事件の50万分の1であり、平成16年以前の10年間の平均で2.1名です。
無罪判決がでるほどの重度の精神状態であれば回復の見込みも低いために、罪は問われなくても一生精神科病院で過ごす可能性が高いのです。
心神耗弱とは、精神の障害によりことの是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)またはそれに従って行動する能力(行動制御能力)が著しく減退している状態を言います。
心神耗弱状態においては刑法39条によって、その責任が減少されるために、刑事裁判で心神耗弱が認定されると、刑が減軽されることになります(必要的減軽)。心神耗弱とされた者の数は心神喪失とされる者よりもはるかに多く、上記と同じ犯罪白書によると平成16年以前の10年間の平均で80.4名です。

心神喪失や心神耗弱の対象となる精神障害はさまざまですが、社会的に問題となるものは統合失調症と薬物中毒です。
統合失調症の特徴的な症状についてはこれまでのコラムで説明してきました。その中で被害的な内容の幻聴と妄想については詳しくお話したと思います。統合失調症の初期はすごく怖い内容の幻聴や被害妄想があることが少なくありません。
「殺される」という確信を与えるような生々しいこういった病的な体験があれば、「殺される前に防御しなければ」という、患者の立場からすると正当防衛の思いで犯罪を犯してしまうことがあります。こういった場合に心神喪失あるいは心神耗弱が認められることがあります。
こういうことを書くと統合失調症の患者さんはなにをするか分からない恐い人という印象を与えてしまいます。元来人間は自分と異質な者を排除しようという傾向があります。そういった本能に統合失調症に対する過剰な恐怖心が加わりますと、保安処分のように患者さんを社会から排斥して隔離しようという世論が高まりを見せてしまいます。
実際には統合失調症の患者さんの犯罪率は、統合失調症でない方の犯罪よりも低いのです。統合失調症を病んでいない人間の方がより犯罪を引き起こしているのです。しかし、統合失調症の人が凶悪犯罪を犯すこともあります。
統合失調症は脳の疾患です。したがって、どんな人でもかかる可能性があります。本来の人格が温和な人も、粗暴な人も統合失調症にかかることがあります。もともと温和な人格の方が統合失調症にかかれば温和な統合失調症患者になります。粗暴な人が統合失調症になれば粗暴で反社会的な統合失調症患者になります。
中には「俺は精神病と診断されているから、お前を殺したって無罪になるんだよ」とうそぶいて、自分の意思で計画的に凶行におよぶ人もいます。こういう人の反社会的行為を、単に精神障害のレッテルだけで許してよいはずはありません。
しかし、今述べたような症例はかなり例外的です。統合失調症になりやすい性格(病前性格)の人はシャイで本音と建前をうまく使い分けられない、嘘をつくのが苦手な、生きていくことに不器用な人たちが多いのです。愛すべき人が多いというのが実感です。
結局、病名だけで人の行動を一括りにすることはできません。言い換えれば、統合失調症という病名がつけばすべての行動が法的に問われなかったり、減軽されるということもいき過ぎだと思います。責任を問われている行為が病気の症状に基づいて行われたか否かという観点から、個別に慎重に判断すべきだと考えます。

薬物中毒の場合には犯行時にいくら心神耗弱状態に陥っていたとしても、心神耗弱状態に陥る行為自体は本人の意思によるものですから、犯行の責任を薬物作用に求めてよいものかどうかが問題になります。
酩酊状態下の犯行に対する判決が、すべてのケースにおいて薬物によって神耗弱状態であると判断して刑を減軽していては、意図的にこの減軽を狙ってくる輩が出現してくることも想定できます。
例えば、ある人を刺し殺したいと考えた時に、その人と合う前に自ら大量に飲酒して酩酊状態になってからその人と出会い、犯行に及ぶように予め計画しておいた場合に、この犯行をアルコールによる酩酊下の犯行として心神耗弱状態を認めるべきでしょうか。
当然、認めるべきではないでしょう。犯意を持った時に事理弁識能力は十分に保てており、アルコールを飲まないでいようと思えば飲まないでいられた行動制御能力も持ち合わせていたわけですから、この場合には自らの意志において犯行におよんだと考えるべきではないでしょうか。
この点については「原因において自由な行為」として専門家の間で熱く議論されていると聞いています。

責任能力の有無に関する最終決定権は裁判官に委ねられていますから、精神科医は診察結果を検討して虚心坦懐に鑑定書を作成すればよいのです。しかし、形式だけの鑑定では困ります。判決に関して重要な判定材料足りうる鑑定書を作ることが、精神科医にとっての極めて重要な責務であることは言うまでもありません。
ところが、精神科はレントゲン写真やMRIのような画像診断で確定できる分野ではないので、虚心坦懐ということ自体がとても難しい診療科なのです。どうしても、自分の主観が色濃く反映されてしまいます。結果、精神科医としての力量や鑑定実務の経験の有無によって鑑定書の軽重に差がでてきてしまうことは否めません。
我が国のこれまでの精神医学教育では、欧米のように精神鑑定を行うための司法精神医学にはほとんど力を注いできませんでした。したがって、正確な精神鑑定をできる精神科医は多くありません。
決して好ましいことではありませんが、今後は、これまでは想像もしなかったような異常な犯罪がさらに増えて、精神鑑定を要求される事例が増加することは充分に予想されます。私たち精神科専門医に客観的で質の高い精神鑑定書が要求される機会が増えるものと思われます。精神科医の卒後教育の中にもっと司法精神
医学を取り入れていかねばならないでしょう。

さて、秋葉原の無差別殺傷事件の異常性には身震いするものがあります。しかし異常、すなわちいくら犯行が常人の感覚からかけ離れているからといって、直ちにその行為が精神障害によるものであるということにはなりません。ましてや刑法上の責任能力の欠落が導き出されるものではありません。
被害者、遺族のためにも至急詳細な精神鑑定を行って、犯行時の事理弁識能力と行動制御能力の有無の判断がなされることを望むものです。

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