投稿日:2008年5月19日|カテゴリ:コラム

前回は複数の診断方法が併用されていることによって、専門医の間でも「うつ病」の診断に混乱があることをお話しました。ですから、お互いに長所と欠点はあるものの、どれかひとつの診断法に統一して話を進めるほうが混乱は少ないと考えます。
全員が、現在我が国で一番広く用いられているWHOの国際疾病分類ICD-10を基準に考えれば、共通の認識の下に「うつ病」のことを語ることができます。現実に最近はそういう流れになってきています。
ここで再度、ICD-10による「うつ病エピソード」の診断基準を示します。
〔特徴的な症状〕
1.抑うつ気分
2.興味・喜びの喪失
3.活動性の減退
〔他の一般的な症状〕
1.集中力、注意力の減退
2.自己評価と自信の低下
3.罪責感と無価値感
4.将来に対する希望のない悲観的な見方
5.自傷あるいは自殺の観念や行為
6.睡眠障害
7.食欲不振
〔特徴的な症状〕のうち少なくとも2つ以上、さらに〔他の一般的な症状〕の中から少なくとも2つ以上の存在が認められなければならないとされています。そしてこういった症状が2週間以上持続して初めてうつ病と診断されます。

すなわち、単に「ゆううつ」というだけでは「うつ病」とは言えないし、幾つかの症状が揃ったとしても、それが2週間以上続かなければ「うつ病」とは言えないのです。
1つ1つの項目について、熟練した専門医が評価をして「うつ病エピソード」と診断したものを「うつ病」と定義した場合に、「うつ病」は本当にそれほど増えているのでしょうか。
目先の利益ばかりを重視するアメリカ型市場経済論理が世界を席捲している現在、日々の生活は何事にも追いたてられて、慌しく、心にゆとりを持つことができません。こういう社会環境ですから、確かに「うつ病」は増えているものと思われます。うつ病を基礎に自殺を図る人が後を絶たないといわれているのも間違いではないでしょう。
しかし、「うつ」と称する人の増加は本当の「うつ病」の増加数をはるかに上回っていると思います。その原因は「うつ」と称する人の増加には本当の「うつ病」の増加に加えて、「うつ病もどき」が加わっているからだと思います。
診断基準が徐々に統一されてきているのに、なぜ「うつ病もどき」が増えているのかというと、マニュアル化されて一見客観的に見える診断方法ですが、各項目の評価を正しくできるだけの技量のない人が用いた場合には、きわめてあいまいで主観的な診断になってしまい、いたずらに「うつ」が増えてしまう結果になります。
いくら症状A群が2つ以上で症状B群が2つ以上で持続期間2週間以上と定めても、その症状群にある各症状の有無を正しく判定できなければ、いい加減な診断に辿りついてしまいます。この結果、「うつ病」の基準に達しない人までもが「うつ」と称されて世間を闊歩することになってしまっているのです。朝青龍の一連の騒動でも「うつ病」が登場したことは皆様の記憶に新しいのではないでしょうか。
それでは、世の中の精神科医や心療内科医たちはそれほどに未熟できちんとした教育を受けていない医師ばかりなのでしょうか。そうではありません。精神科あるいは心療内科の専門医たちは一定のレベルの教育と経験を踏んでいますから、それほどいい加減な診断をする人はそう多くはありません。「うつ病もどき」の増加の主な要因は3つあると思います。

第1はうつ病に対する中途半端な啓蒙と自己チェックリストの氾濫によって、「自称うつ」が増えてしまったことです。
これまで精神科医は「うつ病は心の風邪のようなもの」などと言って、うつ病の敷居を下げることに躍起でした。そのかいがあって、うつ病は人に言えない恥ずかしい病気ではなくなりました。しかし、「うつ病」が市民権を得たのはよいのですが、少し行き過ぎた感があります。
中には自分がうつ病であることを誇るような人まででてきてしまいました。誇るというのは大げさかもしれませんが、「うつ」と言えば認知されているので、本当は医師からうつ病と言われていない人がうつ病と自称するケースがでてきました。
「うつ病は自殺の危険がある」とか「うつ病に叱咤激励はよくない」といった知識が普及して、「うつ」と言えば、腫れ物に触るような扱いをしてくれることとも関係がありそうです。
また、今流行の自己チェックリストも「自称うつ」を増加させているのではないでしょうか。「ゆううつですか?」、「疲れやすいですか?」なんていう簡単なチェックリストに「はい、いいえ」で答えて、「何ポイント以上あったらうつ病です。」というやり方をすれば、ちょっといやなことがあった人や、仕事が忙しい人は皆うつ病になってしまいます。
チェックリストでなくても、家庭の医学といった本を読んでいると、皆重病に該当しているかのように感じられて不安になってしまうものです。

第2には診断書には必ずしも正確な病名が書かれていないということです。以前にもふれましたが、医師は医師法によって患者の不利益になることに対しては守秘義務があります。従って、裁判所などに提出する診断書は別ですが、学校や会社に提出する診断書に記載する病名は、患者さんがその後不利益になる可能性のある病名は書きません。しかし、虚偽を書くこともできません。そこで精神科領域での診断書用の病名として頻用されるのが「うつ状態」という状態診断名です。
精神的に不調な時には病気の種類に限らず、たいていはゆううつな状態になっていますから、嘘ではありません。しかもうつ病は前述の通りに社会的に認知された病気になっていますから、それを匂わせる状態診断名を書いておけば、当たり障りがありません。
こういう理由から、「うつ状態」あるいは「抑うつ状態」という診断名が世間に溢れるようになりました。このことも「うつ」が猛烈な勢いで増えた理由のひとつです。

第3に挙げなければならないのは一般身体科の医師と製薬会社の活躍でしょう。近年、比較的副作用の少ないといわれる抗うつ薬(SSRIやSNRI)が登場しました。これを機に製薬会社は売り上げ増加の目的で販路を拡大する作戦に出ました。つまり、これまで精神科や心療内科に限ってプロモートしてきた抗うつ薬を一般医、特に内科の医師を対象に売り込んだのです。
売込みを受け入れた一般医たちにもそれなりの事情がありました。ここ10年ほど毎年のように診療報酬点数を下げられて経済的に苦しくなっていたのです。それまでは自分の領域とは思わなかったうつ病の患者を自分たちが診療することができれば、自分の扱うレパートリーが増えて収入増につながります。
マニュアル化された診断法や自己チェックリストを用いれば、うつ病の診断は簡単であり、治療薬に副作用がほとんどないとなれば、治療も怖くはないと考えたのでしょう。一般医によるうつ病の診断と治療が一気に増えました。現在、抗うつ薬を服用している患者さんの過半数が一般科で処方されています。製薬会社の思惑が見事に当たったのです。
一般科の医師がうつ病の診療をすることが悪いわけではありません。患者さんが気楽に受診できる機会が増えるわけですから、早期発見、早期治療につながります。しかしそれはあくまでも正しい診断と適切な投薬をするということが前提条件です。
結果としては、マニュアルを正しく評価できないために、やたらにうつ病という診断だけが増えてしまいました。また、本当のうつ病ではない人に抗うつ薬を投与しても効果が上がりませんし、うつ病のタイプによってはSSRIやSNRIの投与は不適切な場合が少なくありません。新薬はオールマイティではないのです。
不適切な投薬は精神症状が遷延化する遠因となりました。私たちのところへ回ってくる方は、一般医で治療していてなかなか治らなかったり、余計にひどくなったり、誤診の結果とんでもない症状が現れてからやって来るというケースが増えてきています。

以上のように、本当の「うつ病」の増加に加えて「うつ病もどき」が紛れ込み、さらには安直な薬物療法が広まったことによって、「うつ」の診療に混乱がもたらされているのが現状です。
本当の「うつ病」ではない「うつ病もどき」の正体については近いうちにお話したいと思います。

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