投稿日:2008年4月28日|カテゴリ:コラム

「自分と他人の区別はつきますか?」と質問されたとしたら、ずいぶん馬鹿げたことを聞くと思われるに違いありません。「自分と他人の違いが分からないなんてことはありえないじゃないか。」と憤慨される方がほとんどであると思います。しかし、案外この自分と自分以外との区別というものは私たちの脳にとっては難しい課題のようです。

前回の思考体験様式の障害のコラムで、思考という機能に関する作為思考(させられ思考)という症状についてお話しました。実はこの障害は統合失調症においては思考にかぎらず、さまざまな精神機能で認められます。
つまり、統合失調症においては思考のほかに感情、衝動、意志、身体感覚などにも同様の障害が起き得るのです。

思考:
作為思考(gemachater
Gedanke);考えさせられる。
思考吹入(Gedankeneingebung);考えが吹き込まれる。
思考奪取(Gedankenentzug);考えが奪い取られる。抜き取られる。
思考干渉(Gedankenbeeinflubung);自分の考えが他から干渉を受けている。自己のものから影響される。
感情:
作為感情(’made’feeling);自分の感情が操られる。
衝動:
作為衝動(’made impuls);なにものかに突き動かされる。
意志:
作為意志(’made’volitional
acts);自分以外のものに意思決定されてしまう。
行動:
行為(’made’act);させられてしまった行為。
身体的感覚:
身体的影響体験(influence playing on the
body);自分の感覚が他からの力で強められたり弱められたりする。あるいは感じさせられる。

すなわち、「させられ体験」とはあらゆる心的な機能において、自分自身が主体的に行っているという意識(自我の能動意識)が消失して、自分が他者あるいは外部からの力によって操られていると感じる、病的で主観的な多岐にわたる症状なのです。
すなわち「自己が心的作用の主体である」という感じの障害とか、さまざまな心的機能の「自己所属感」の消失であると説明されることがありますが、一言でいえば自我障害(Ichstörung)ということになります。

自我(英:ego、独:Ich、仏:moi)とは自分に関する意識体験です。自分とは意識する作用の主体としての自我と、意識される客体ないしは自己意識としての自己が同一であると感じる体験が健康な自我の特徴だといえます。
この方向性は違うが同一だという明瞭な体験が崩れてくると今回のコラムで述べたような「作為体験(させられ体験)」が出現してきます。言い換えれば自分と自分以外との境界が不明瞭になって、主体と客体とのダイナミックなエネルギーの方向性がいい加減になった状態です。
歴史的にも多くの著名な精神科医たちがこの症状に注目して研究してきました。
中でもクルト・シュナイダー(K.Schneider)は、その症状が存在すればまず間違いなく統合失調症と診断してよいと考える「統合失調症の一級症状」*の中核的な症状であるとしています。
私自身も33年の臨床経験から、この「させられ体験」が認められれば、他の症状がその時点では顕在化していなくてもまず間違いなく統合失調症としてよいと考えます。

さて、統合失調症の方はほとんどが「他からさせられて」困っています。しかし、これとは逆に他人を自分の思い通りに「させよう」として、ずかずかと土足で他人の心的領域に入り込んでこようとする人がいます。
この場合にも自分と他人との境界があいまいで、他人を自分の一部であるかのように意識しているわけですから、一種の自我障害であると考えられます。しかし、こういうタイプの人は統合失調症であることは稀です。人格障害の方がほとんどと言ってよいのではないでしょうか。
この種の人々も真の病識はありませんから、やっかいです。積極的に他人にちょっかいを出してきますから、こちらの方が周囲にとっては被害甚大かもしれません。文頭で述べた、自分と自分以外とをしっかりと区別して行動するということは存外難しい課題なのです。
お互いに精神の健康を保って、自分と他人との間に適当な距離を保って生活していきたいものです。
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*シュナイダーの一級症状:1.思考化声、2.問答形式の幻聴、3.行動について論評する幻聴、4.身体的影響体験、5.させられ感情、6.させられ思考、7.させられ行為、8.被影響体験、9.思考奪取、10.思考伝播、11.妄想知覚であり、大半が自我意識の障害に基づく症状と考えられます。

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