投稿日:2008年3月17日|カテゴリ:コラム

私たち臨床医は専門家として学んできた学術知識、多くの患者さんの治療に携わってきたことによって得た医療技術、一人の人間として生きてきた人生経験を駆使して毎日患者さんと向き合っています。したがって、同じ患者さんに対する対処の方法が医師によって異なってきます。医療機器に頼るところの少ない精神科医療の場合には特に診療に医師の個性が強く現れます。
そのことが精神科医療に客観性を損なわせて、どこか胡散臭さい印象を与える元凶になっています。しかし、ベルトコンベアに乗せて大量生産をする製造業とは違って、生身の人間が生身の人間と向き合う医療では、精神科に限らず、完全な規格統一は不可能です。その患者さん、その医師によって違いがでてくることは避けられません。
クリニック西川の医療は私の医療です。日常、診察室で患者さんに対して行うカウンセリングは森田療法ということになっています。ですから森田の考え方に沿って一定の原則に則ってはいますが、ほかの人の森田療法とは違います。私、西川嘉伸の森田療法なのです。
また、誰にでも同じ治療をするわけではありません。相手に応じてしゃべる言葉も治療の進め方も変わってきます。同じ病気の人に対してまったく異なったアプローチをすることも珍しいことではありません。
なぜそうなるのかというと、私が学んだ母校の建学精神に基いた教育指針に強く影響されているからだと思います。そこで私の母校、東京慈恵会医科大学の創立にさかのぼって話をしたいと思います。

東京慈恵会医科大学は高木兼寛(嘉永2年(1849)―大正9年(1920))によって明治14年(1881)5月1日に創立された成医会講習所に始まります。

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高木は薩摩藩士として現在の宮崎市に生まれました。
18歳の時から薩摩藩の蘭方医、石神良策に師事して医学を学びました。
戊辰戦争には薩摩藩の軍医として従軍。
明治2年(1869)開成所洋学局で英語と西洋医学を学びますが、明治3年(1870)に鹿児島医学校が創設されると学生として入学します。
しかし、当時の校長、英国人のウィリアム・ウィリスに認められて、いきなり教授に任命されます。

明治5年(1872)に一等軍医副(中尉相当)として海軍に入り、すぐに大軍医(大尉相当)に昇進します。明治8年(1875)には軍医小監(少佐相当)になり、その時海軍病院学舎(後の海軍軍医学校)教官のアンダーソンに認められて英国ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学させられます。
最優秀学生の受けるとともに、イギリスの外科医、内科医、産科医の資格と英国医学校の外科学教授の資格を取得して明治13年(1880)に帰国しました。
帰国後は東京海軍病院長の職に就き、明治15年(1882)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883)海軍医務局長、明治18年(1885)には海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任しました。
明治25年(1892)には軍医としては現役を引退しますが、その後も貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などを務めました。
高木が医学者として一躍名をはせたのはドイツ医学の代表格であった森林太郎(森鴎外)*1を中心とした陸軍軍医学校グループとの間にくりひろげられた「脚気論争」によってです。
森たちは脚気は細菌による感染症であると考えていました。しかし、高木は食事以外はまったく同じ内容の遠洋練習航海を比較対照実験することによって、大麦を混ぜた麦飯食によって脚気を予防できることを証明しました。すなわち、脚気は感染症ではなく、栄養学的な疾患であることを証明した上に、その予防法をも明らかにしたのです。
こういった功績によって高木は明治21年(1883)に医学博士として日本最初の博士号授与者に列せられました。また、この高木の脚気予防法は後の日露戦争(1904年〜1905)における大日本帝国の勝利の大きく寄与しました。
明治38年には高木は男爵を授けられて家族に列せられます。民衆は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼を「麦飯男爵」と呼んだそうです。高木の脚気予防法は明治43年(1910)鈴木梅太郎によるオリザニン(ビタミンB1)の発見によってその証明がなされることになります。
高木はイギリス留学中に日本での医学校創設の夢を抱いていたようですが、帰国後急遽この計画を前倒しして明治14年(1881)1月に成医会という研究団体を創設し、5月には成医会養成所を設立しています。
この計画の前倒しの理由は、当時明治政府がドイツ医学採用の方針を採って、我が国の医学界の風潮を急速にドイツ的医風に変容させつつあったからです。特に当時唯一の医育機関であった東京帝国大学は、この医風で固められていました。
権威主義、研究至上主義が横行して病気をもつ人間を医学研究の対象ないしは研究材料とみる傾向が強かったのです。高木は、より健全で実学としての英国医学を日本の土壌に育成する必要があると考えたのです。
すなわち、「患者を研究材料とみる医風から、患者を病に悩む人間とみる医風へ」転換しようと考えて、成医会養成所の創立を急いだのです。
また、高木はイギリスでの医学研修時の経験から看護職専門家の養成に力を入れました。明治15年(1882)に高木は戸塚文海とともに有志共立東京病院なる慈善病院を発足します。
この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施されることなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしています。「美服をまとい資力のあると認められた者はむしろ断られる」風さえあったと言われます。この慈善病院の設立趣旨はイギリスに留学中に受けた人道主義や博愛主義の影響を強く受けていると考えられます。
同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためでした。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また海軍軍医団の強い支援がありました。海軍軍医団は英国に学んだ者が多く、その点軍医の多くをドイツに留学させ、東京大学と密接な関係をもっていた陸軍とはすべての面で対抗意識が強く、常に一線を画していたようです。
有志共立東京病院は慈善病院のほかに成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担っていました。つまり医学教育の場としての役割ももっていたのです。
明治20年(1887)、同病院は皇后陛下を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(芝区愛宕町二丁目、現港区西新橋三丁目)に移転しました。
また、英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を見てきた高木は、日本の看護専門職の教育にも力を注ぎました。
彼は明治17年(1884)10月、米国宣教師のリード女史を招き看護婦教育を開始します。これが日本での近代看護教育のはじまりです。第一回生はわずか5名ではありましたが、総裁皇后の臨席をえて卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校、慈恵医大看護学部の原点であります。
明治40年(1907)、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになりました。東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称され、またすでに医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は東京慈恵会医院医学専門学校と改められました。
大正10年(1921)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格し、その時に高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、当医科大学は附属病院をもつことになりました。

高木は5年間のセント・トーマス病院医学校での留学によって実証的、実学的英国医学の真髄を把握してきました。高木にとって「医学は実学であり、何よりも病気の予防・治療のためのもの」であり、決して「自己満足な研究のためのもの」ではありませんでした。
彼の信念は「脚気」における森をはじめとする東大医学派との論争に遺憾なく発揮されています。眼前の患者を救い得ないならば、どんな支配的学説も無用の長物にすぎないことをはっきりと証明したのです。
さらに高木が実践医学の教育と同じくらいに力を注いだことは人間形成のための教育でした。医師の前にあるのは、単なる細胞や臓器のかたまりではなく、病に悩む人間そのものだからです。
これに相対する医師は、病者の痛みを共感できる「医の心」をもたねばならない。高木はこの「心」を熟成するために宗教講座をもうけ名僧の講話を聞かせたりもしたそうです。
いずれにしろ高木が意図し、またその後長く建学の精神となったものは「厳密な医学に裏打ちされた医術と、あたたかい心をもった医師を育てること」でした。「医学的力量のみならず、人間的力量をも兼備した医師を養成すること」でありました。
病者の側にたつ全人的医療こそが時代をこえて医師がなすべき使命と考えたからです。これが高木の残した至言、「病気を診ずして病人を診よ」という標語として、長く我が母校の医療理念として受け継がれてきました。

私が学生だった頃は年間行事として、秋の解剖慰霊祭の後に大学役員、各教室教授に加えて学生を代表して各学年の学生委員と特待生が青山墓地の高木の墓参をしました。墓参の後は当時の樋口一成学長が墓参参加者全員を帝国ホテルのディナーに招待してくれました。私にとっては年に1度、学祖を身近にかじることのできる、またとない機会でした。
このディナーの席で樋口学長は学生代表に対して毎年以下のような訓示を述べられました。「君たちは将来、皇族や国を代表するような人たちの診療にあたるかもしれない。また、その日の暮らしにも窮するような人達の診療にもあたることになるだろう。高僧も診なければならないし、ヤクザも診なければならない。すべての病者に対して別け隔てなく接することができなければいけない。そのためには、きちんとしたテーブルマナーも知っておかなければいけない。こういうささいなことから始まって、あらゆる点で人間を磨いておかなければいけない。医学を勉強するだけでは一人前の医師にはなれないよ。」
高木の精神の一端を垣間見た思いでした。

しかし、我が母校もマニュアル化重視の医学、数字で表わされる成果偏重主義など、アメリカ流医学偏重の流れに飲み込まれて、高木の建学の精神は次第に薄れてしまったといわざるを得ません。
「病気を診ずして病人を診よ」が実践されていたならば、青戸病院の泌尿器科で行われた冒険的な内視鏡手術による医療事故などは起こるはずがなかったと思われます。
建学当時に高木が東京帝国大学の医学界を相手に丁々発止と渡り合った気概はもはや見られません。数多くある医大の中のひとつとしてしか認知されない状態になってしまいました。
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手術実績150例だとか、××癌患者の在院病床日数△△日だとかいう数字が一人歩きして、本当に大事な一人一人の患者さんの姿がその後ろに隠されがちな今日です。高木がもっとも恐れていた病者を全人格的にとらえて対峙しようという姿勢が失われて、特殊な病気に対してアクロバティックな治療を施すことがもてはやされる風潮が色濃くなっています。
同窓の諸君よ、もう一度高木の精神を思い返して、私たちが中心になって病者と真剣に向かい合う医療に舵を切りなおしませんか。
幸いなことに、私の選択した精神科は他の一般科に比べて病者の個性・人間性そのものがより強く問われる診療科です。また、市井の開業医という立場はなんの権威もないだけに虚飾の看板に縛られることもありません。
少なくとも私は、「病人と向き合った医療」を忘れることなく日々精進して今の診療スタイルを守っていきたいと思っています。
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*1
鴎外:文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年7月9日(1922年7月9日)。明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、陸軍軍
医、官僚。現在の島根県津和野出身で東京帝国大学医学部卒。脚気の病因を最後まで感染症と主張して、日露戦争時に陸軍の食糧を麦飯とすることに反対し続けて、結果陸軍に25万人の脚気患者をだし、3万名近い兵士を病死させることとなる。これに対して高木の指導した海軍での脚気患者はわずか87名であった。
その後、脚気の原因が栄養障害である証拠が次々と提出されるにもかかわらず、最後まで感染症説に固執した。高木との間に感情的な軋轢があったと考えられる。

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