投稿日:2007年11月26日|カテゴリ:コラム

先日書庫の整理をしていたところ、黄ばんだレポート用紙に書かれた手書きの原稿を見つけました。1975年(昭和50年)3月18日に母校、東京慈恵会医科大学中央講堂の壇上から第50回卒業生代表として読み上げた答辞の自筆原稿でした。
じっくりと読み返しているうちに、その上にたくさんのできごとが重く積み重なって、記憶の片隅におしやられていた、あの時の情景が鮮やかに蘇ってきました。そして、医師としての第一歩を踏み出したあの心の高鳴りも。
答辞の前半部と後半部は通常語られる御臨席の皆様に対する謝意ですが、中央部分はあの時の私が本心から、卒業生を代表して伝えたかったことばでした。ちょっと気恥ずかしいですが、ここに掲載します。

「科学なき医学は力不足、哲学なき医学は意味不足、芸術なき医学は心不足といわれますが、ともすると科学進歩の速さに後の2つが忘れられがちな今日であり、医を仁術から技術、算術へと落とし込む危険があるように思われます。最近のこのような問題を考えます時、今年生誕100年に当たると聞く、故シュバイツァー博士1*の理念であった『生命への畏敬』という言葉が思い起こされます。自然科学としての、また技術としての医学は諸先生方よりご教授いただいた知識を基礎に日進月歩の歩みに遅れることのないよう、自ら学問することを生涯とせねばならないでしょう。しかしながら幸いなことに、私たちは諸先生、諸先輩そしてこの東京慈恵会医科大学の輝かしい伝統から、知識としての医学より、もっと深くて限りのない『慈恵の心』に触れさせていただきました。『慈恵の心』はシュバイツァー博士の『生命への畏敬』と相通じ、私たちが医師として、人間として生きていく上で大きな灯台となり、私たちの歩む道に光を投げかけてくれるでしょう。さらに私たちがこの『慈恵の心』を受け継ぎ、若い情熱と肉体でより高めることが、医の理論と実践の調和、すなわちよりよい医師、よりよい人間への道であると信じております。」

若干舌足らずのところもありますが、なんと高邁な精神だったのでしょう。しかしこの32年間、私は自分自身が高らかに宣言した道を歩んでこれのたでしょうか。いえ、そうではありません。力不足、意味不足、心不足の連続であったような気がします。よりよい医師としての前提である、よりよい人間としての道さえも後悔の瓦礫に埋もれています。32年たった今の私が、若かった時の自分に叱咤激励される思いです。

私個人の感傷的な思いはさておいて、我が国の現在の医学、医療はこの30有余年でどうなったのでしょう。これまでにこのコラムの「Sicko」や「エビデンス」で書いてきた事柄や、最近マスコミがやっととりあげるようになった産科医療、小児科医療の崩壊に見られる通り、我が国の医学や医療は急速にいびつな形に変わってきているように思います。
それでは医療全体が崩壊しているのかと言えば、そうではありません。画像診断の飛躍的な進歩、内視鏡下の手術を始め、これまで不可能と考えられてきた病気の早期診断や治療が可能になってきました。さらには、先日京都大学で成功した「皮膚細胞からの万能細胞の作製」などは、最先端医療のさらなる飛躍に向けた画期的な業績です。
科学としての医学や医療は確実に飛躍的な発展をとげているのです。その一方で、これまでごく当たり前に受けられると思っていたお産や子供達の医療を受けられない人達がでてきているのです。
私の32年前の危惧が加速度的に現実のものとなってしまったのです。つまり、哲学と芸術が欠け、科学のみが優先された医学、医療になっているのではないでしょうか。
その責任は国の福祉・医療という重要課題に対する基本的な姿勢に負うところが大きいことは繰り返し述べてきました。しかし、国家の政策だけを糾弾することはできません。私たち医師が「こんなこともできる」、「あんなことだってできるんじゃないか」と医学の科学的な側面ばかりを追及していくあまり、「意味」と「心」を置き忘れてきたことにも大きな責任があるのだと思います。
さらに、医療を受ける国民の側にも責任があるのではないでしょうか。魔法のような最先端医療技術の発展に目を奪われて、いつしか「お金さえあれば名医の手によってどんな病気だって治るはずだ」という錯覚に陥っているように思えます。テレビでも最先端技術を駆使する名医を紹介する番組が大流行です。

先日、フランスのタイヤメーカー、ミシュラン社の発行するグルメガイドブックの東京版が刊行されて大きな話題となりました。あの本に紹介された店は当分の間予約の嵐。てんてこ舞いになってしまうでしょう。その結果、サービスが低下したり、料金が上がらなければよいのですが。
友人の美食家が「ミシュランなんて自分で美味しさを判定することができない人が利用するもの。お陰で、今まで行っていたあのお店にはもう行けなくなる」と嘆いていました。
ミシュランのグルメガイドに限らず、日本人はランク付けが大好きです。音楽や絵画、衣料品やアクセサリーも自分の好みよりは有名だからという基準で選択する人が多いようです。先ほどの友人の言を借りれば、味覚に限らずすべての感覚に関して自信がないのかもしれません。
さて、この傾向は食やファッションの世界だけではありません。名医を求める需要とランク付けの好きな日本人の特性に応えて、テレビだけではなく、週刊誌などの媒体でも名医の紹介が流行っています。単行本さえ刊行されています。さて、こういった本や雑誌に載っている医師や医療機関は本当に名医なのでしょうか。
ミシュランは覆面調査員が実際に足を運び、口にして判定しているようですが、名医ガイドブックはそうではありません。実際の手術実績などの数字には嘘はないと思いますが、「今週の名医」とか「名医特集」などというコーナーは出版社にお金を払って掲載してもらう広告です。医療費削減で経営困難に陥って、患者さんの獲得に躍起となっている医療機関を餌食に仕掛けたメディアの金儲けの一手段なのです。
私のところにもちょくちょくその手のお誘いがあります。先日もA新聞社系の週刊誌から名医特集を刊行するから掲載しませんかとの勧誘がありました。紙面の大きさによって価格が異なりますが、見開き2ページなどで名医として扱ってもらうためにはなんと200万円を超える広告料を支払わなければなりません。言い換えれば、200万円支払えば「名医」になれるということです。
私はこの手の勧誘には「私は名医ではありませんので、その本に載る資格はありません」とお答えすることにしています。
その度に、私が学生時代に内科の教授をされて、後に学長となられた安倍正和先生から教えられた「名医たらんと思うな。良医たるべし。」という言葉を思い出します。医師になりたてのころには、「名医」と「良医」の違いがよく理解できませんでした。名医が大流行の昨今になって、ようやくこの二つの違いが分かるような気がします。
「良医」は「名医」であるかもしれない。しかし、「名医」は必ずしも「良医」ではない。目指すべきは「良医」なのです。

これからの医療環境はますます劣悪化していくことが予想されます。ともすれば時代の波に乗り遅れまいと思うあまり、医の原点を見失いそうになります。しかし、古びた数ページの原稿が若かった頃の医学への情熱を呼び覚ましてくれました。後何年、臨床の場で医療に携えるか分かりませんが、科学、哲学、芸術を備えた良医を目指し続けなければならないと思いを新たにしました。
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1*Albert Schweitzer(1875〜1965)旧ドイツ帝国(現フランス、アルザス)出身の神学者、哲学者、医者、音楽家。若くしてすでに神学博士、哲学博士を取得していたが30歳の時に医学を勉強し、38歳で医学博士を取得すると、アフリカのガボンに赴き、その後生涯をその地で現地の人の医療にささげた。1952年にノーベル平和賞を受賞。

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