投稿日:2007年10月22日|カテゴリ:コラム

今年にはいってから、不二家、ミートホープ、白い恋人たち、伊勢名物の赤福等々、名の知れた会社の食品にまつわる不祥事が次々と明らかにされました。外に目を向けると、「ダンボール肉饅」で象徴されるように中国産食材に毒性物質が混入されていたり、危険な農薬を無制限に使用していているなどの情報も後を絶ちません。「食の安全」が大きな話題になっています。
多くの報道を眺めていますと、次元や質の違ういろいろな事件を、「食の安全」という一つの言葉でくくっているように思えます。私たちが日常口にする食べ物の安全性が確保されていることは確かに大切なことです。危険な物を食べたいなんて人はいるはずがありません。
グリセリンの代わりにジエチレングリコールを使った医薬品とか、農薬や殺虫剤まみれの野菜を洗浄もせずに口にしたら、確実に死期を早めることになります。牛肉だと思って鶏肉を食べさせすのは詐欺ですし、特定のアレルギーをもつ人だと重大な健康被害につながってしまいます。
しかし、私は一連の報道で、皆が口をそろえて不祥事を起こした会社を問い詰めて、それに対して責任者がひたすら頭を下げてお詫びする姿を見ているうちに、一つのことばに違和感を抱くようになりました。それが賞味期限です。

私のクリニックでは患者さんたちからいただいたお菓子は休憩室に置いてあり、休憩の時に職員みんなで食べています。ほとんどのお菓子はあっという間に喰い尽されるのですが、時として人気に恵まれなかった品物が放置されることもあります。
そういう場合に職員の口から出ることばが、「これ賞味期限が切れちゃいましたから、先生食べてください」です。口が汚い私は、奨めに応じて食べています。ほとんどの場合、私の味覚では以前と変わらずに美味しいクッキーです。時にはお煎餅がひねひねになっていることや、脂が酸化したピーナツの混入を察知することができることもあります。しかし、今まで、それが元で体調を崩したことはありません。
職員達は、私が賞味期限の切れた御菓子を食べることを常軌を逸した行動だと思っているようで、そういう物を食べながら、「美味しい」とか「ちょっと不味くなっているな」と評する私を見てげらげらと笑います。
私の奇人ぶりはクリニックにおいてだけ発揮されるわけではありません。我が家においてもそうです。
子供達はいちいち賞味期限を確認してから食べるタイプではないのですが、それでも桃、梨、柿、りんごといった果物の一部が何かに当たって変質・変色していると、食べようとしません。
「あたった部分だけ取り除けばちゃんと食べられるよ」と教えても食べようとはしません。面倒くさがっているだけなんだろうと思って、私が皮を剥いて、傷んだ部分を取り除いて、きれいに切ってやっても食べようとしません。「僕、他の食べるから」です。結局、私の胃におさまることとなります。
息子はパンが大好きなので、我が家には常にパンを常備してあります。大量に買ってきたときには冷凍保存しますが、半斤くらいだと2,3日で食べてしまうだろうとつい油断して冷蔵庫に入れてしまいます。
それが湿気の高い時期に予定通りに消費されないと、冷蔵庫の中でも表面に黴らしき点々が現れます。息子は近眼なのですが、どういうわけかこの小さなしみのようなスポットだけは見逃しません。そうなるとまた私の出番です。
店頭実演販売のように、小さなスポット周辺を摘み取り、他の部分も念入りに点検した後に、トースターでこんがりと焼く。マーガリンを塗っておいしそうに食べてみせる。「ほら大丈夫だろう?」。
わが身を使って範を垂れているにもかかわらず、残りのパンはまたもや私専用の食材となるのです。
最近では、タッパウェアで冷蔵庫に保存してあった、数日前のおかずの残り物が発見されると、「お父さんこれ食べられるかどうか試して!」と人体実験を要求されるようになりました。その実験の結果、即座に私が吐き出したものはゴミ箱行きとなりますが、私が「大丈夫」という判定を下しても家族の目はまだ懐疑的です。
「お父さんの身体は普通じゃないから」、「他にもまだ食べるものあるんだから、わざわざそれを食べる必要はないわ」。結局、そのおかずもまた私の専用物となるのです。私は「人間ディスポーザー」なのでしょうか。

さていつまでもクリニックや家における私の存在価値についての愚痴話をしていてもしょうがありません。今回私が言いたいのは、私の周囲の人々を含めて多くの国民が今現在、当たり前のように目にして、信じ、憤慨している「賞味期限」と「消費期限」とは何なのかということです。
私の記憶では、以前はそんな表示はなかった。印刷されていたのは製造年月日だけだったように思います。調べてみました。詳しくは分かりませんでしたが、厚生労働省所管の食品衛生法と農林水産省所管のJAS法とで異なる表現をしていたのを改めて2003年7月にこの二つの用語が正式に使われるようになり、表示が義務付けられたようです。
だいたい5日以内で品質が劣化して長期保存できない食品の食用可能期限が「消費期限」で、長期間衛生的に保存はできるけれど、製造者が安全性や味、風味などの品質が維持できると保証する期限が「賞味期限」だということです。
ちなみに、製造年月日は1997年から表示義務がなくなっているそうです。その理由は食品の製造工程が複雑化して、製造年月日をいつと特定しにくくなったことと、貿易の障碍になるということだったらしい。確かに、食品を作るための材料がすでに長期間冷凍保存された材料を使うようになってきたために、いつをもって製造したかということなかなか簡単に言えなくなってきているのでしょう。赤福餅の社長の「製品を解凍した時点を製造年月日と考えていた」という発言も、あながち詭弁とは言えません。
「消費期限」、「賞味期限」どちらも、「正しく保存された状態で」という但し書きつきです。つまり、「正しい保存状態でなかった場合に事故が起きても製造者に責任はありませんよ」と言っているのです。
何でもかんでもアメリカの後追い。何かあるとすぐに訴訟というせちがらい世の中になってきました。このために増えてきた常識はずれで他罰的な消費者からの訴訟を逃れるためには必要な表示と言えるでしょう。
私の行くお寿司屋さんの大旦那が「食べ残しを持って帰られるのが一番嫌なんだよ。すぐに食べてくれればいいけど、とんでもないところにおきっぱなしにしてから食べられて、食中毒にでもなられたら、結局こっちが営業停止だから」と心配していました。
今の世の中には「寿司は生もの」「生ものは腐る」ということすら知らない常識はずれがいますから、「消費期限」は表示しておいたほうがよいのかもしれません。しかし、こういう表示だけに頼る生活をするから、ますます本来人間が持っているはずの生きるための基本的な能力や常識を失っていくという皮肉な悪循環を生み出すように思います。
本来、地球上でここまで繁栄した人間は、目の前にある物の色、艶を見て、匂いを嗅ぎ、手にとって、親や祖父母から教えられた知識や、過去の自分の体験に照らし合わせて、食べられるものか食べられないものか判断することができるはずなのですが。肉だって腐る寸前の物が一番美味しいと言われています。

「賞味期限」の義務化にいたっては私にはもう愚かとしか思えません。物によっては期限を遠く過ぎても味や風味を失わないものもありますし、味に敏感な方だと表示期限以内でも「美味しくない」と感じることもあります。その期日を迎えると、突然その物が変質してしまうわけではないのです。
現に何十年の間、一定期間冷凍保存した製品を解凍して販売していた事実を告白した赤福餅ですが、今までその味の違いに気付いた人はいなかったようです。食べた人はその味に満足していたのです。
すべてをマニュアル化して賞味期限などというわけの分からない基準を設けて、表示を義務化したために犯さざるを得なかった犯罪(?)と言えるのではないでしょうか。
このさい、「賞味期限」などというあいまいな基準を表示させるよりも製造年月日を、その過程まで含めて正確に記載させるだけにしたほうがよいのではないでしょうか。食すか、食さないかは消費者自身の判断にゆだねる。ただし、この場合にも製造年月日の書き直しは絶対にご法度です。製造者は賞味期限に汲汲とせずにすみます。また、消費者はそれぞれが食に対する造詣を深めて、本来、生きるために備わっていたはずの5感の鋭さをとりもどすのではないでしょうか。

さて、日本人が上品な甘さの銘菓の賞味期限が1ヶ月改ざんされたということに対して、こぞって馬鹿騒ぎしている今現在、世界には消費期限がきれた食料さえ食べることのままならない人々が8億5000万人もいるのです。年間1500万〜1800万の人が餓死しているのです。
多くの日本人は主としてアフリカや南アジアでの悲惨な飢餓の実態を対岸の火事だとしか感じていないようです。コンビニやハンバーガー屋では規定時間を1分でも過ぎると弁当やハンバーガーがごみとして捨てられています。巨大ホテルでは毎日のように宴会が催されて、これまた山のような残飯を作り上げています。
食の安全が声高に叫ばれれば、こういった傾向にはさらに拍車がかかり、多くのまだ食べられる食品がもっと大量に廃棄されてごみになっていくのです。
世界で生産される食材のほぼ10%を日本が買い占めていることをご存知ですか。ホテルのバイキングで一皿ごとに捨てられていく割り箸のためにアジアの森林のどれだけが失われているかご存知ですか。
自分達が多くの飢えに苦しむ人の犠牲の上で毎日の食事にありつけていることを知ったら、果たして賞味期限なんかにこだわっていらるれのでしょうか。
それでも他人は他人。私は美味しいものを食べたいという方もいらっしゃって結構です。人の考え方はそれぞれですから。しかし、そういう信念の方も近い将来真剣に「食べられればそれでいい」と考え直す日が来ると思います。
原油高のあおりをくらって、何をとち狂ったか「バイオエネルギー」。小麦やとうもろこしが食糧としてではなく、燃料へまわされるようになったために、食糧としての穀物が品薄となって値上がり。すでに、いろいろな食品がその影響を受けて10%近くも値上がりしました。
この傾向はまだまだ続くでしょうし、中国やインドなどの急速に経済発展を遂げている国民が美味しい食べ物を要求するようになっています。魚も肉も奪い合いです。食糧自給率が極端に低いわが国はやがて途方もない大金を払わなければ美味しいものは手に入らなくなります。
さらに、地球温暖化が一層深刻な状況になれば、世界全体の食糧生産高は激減します。そうなったら、私たち日本人は美味しいものどころか、食べられるものを手に入れることさえ困難になるのです。飢餓に苦しむアフリカは未来の日本の姿かもしれません。
食糧、エネルギー、環境。あまりにも大きくて複雑に絡み合った問題で、すぐに適切な解決策を出すことなんかできっこありませんが、毎日何気なく食べている食事に対して、もっと深い関心を持つとともに、感謝と喜びを再認識して、悪しき大量消費文明の幻想から一刻も早く目を覚ます必要があるのではないでしょうか。

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