投稿日:2007年6月11日|カテゴリ:コラム

今までお話したように、種の保存が生物に背負わされた最大の責務で、その目的のためにメスとオスという二つの性に分化した。そして、それぞれが機能を分担して、多様性をもった種を脈々と継続しようとしていることに間違いはないと思います。

ただし、生き物はその種ごとに体の構造も生息環境も違います。ですから、同じ目的ではあっても、それぞれに異なった生き方や繁殖方法を選んでいます。自分たちの種にとって有利になるような工夫をして生き、新たな生命を生み出しているのです。

簡単な体の構造の生物は「下手な鉄砲も数うちゃあたる」方式が多いようです。膨大な数の次世代をつくりだして、大半は死滅しても、そのうちの何パーセントかが生き残ってくれればよしです。

体の構造が複雑な高等動物とよばれている生き物になりますと、「一発必中」方式を採用するようです。すなわち、繁殖によって生み出す個体数は少ないけれど、その貴重な次世代を高い確率で一人前になるまで守り、育てる努力、工夫をします。その工夫のひとつが社会をつくることです。

数年前、南極大陸で生きる皇帝ペンギンのドキュメンタリー映画がヒットしました。零下40℃にもなる極寒、しかも強風の吹きすさぶ、生命にとって極限と思われる冬の南極で、4ヶ月もの間、まったく食事をとらずに卵を守り、温めつづけるオスの皇帝ペンギンたちの群れを観て、感動した方は多いと思います。

がんばるのはオスだけではありません。メスは全幅の信頼をよせた自分のパートナーに卵を託すと、片道100kmにもおよぶ遠い海をめざして、自分と、やがて生まれてくるであろう雛のための食料を確保するために、遠い旅に出るのです。

映画の解説を延々としてもしょうがありませんから、ここらへんで皇帝ペンギンの話はおしまいにしますが、ともかく皇帝ペンギンは南極という苛酷な環境の中で遺伝子を継承し、種を保存するために、社会をつくり、受精、産卵後のメスとオスの役割分担をきちんと決めて行動する道を選んでいるのです。もちろん、ペンギンの社会は本能にもとづいた原始的な社会です。

ペンギンにかぎらず、社会をつくって生きていく動物の場合には、オスは、ただただ精子をふりまくだけで、役立たずの無責任な存在ではなく、メスも優秀なオスをひっかけて自分の卵子に優秀な遺伝子を獲得して、生み育てるだけの存在ではないのです。

それではいよいよ私たちヒトという生物について考えてみたいと思います。ヒトは哺乳類の中でも、とくに優れた身体能力をそなえている種ではないにもかかわらず、今のところ地球上のいたるところに生息し、他の種を圧倒する地位を獲得しています。なぜなのでしょう。そのキーワードはやはり「社会」にあると思います。

一般的にヒトの繁栄は、2足歩行をするようになった結果、前肢であった手を歩行以外の機能に使うことができるようになるとともに、大脳が発達。そしてその発達した大脳と器用な手の動きによって、道具を使うことを覚えたことにあると言われています。

もちろんそういったことが人類の発展にとって、とても大切な基本的な要因であることは言うまでもありません。しかし、2足歩行だけならレッサーパンダだってできますし、類人猿が巧妙に道具を使うことも知られています。私は、人類がここまで繁栄した秘訣は、発達した大脳を利用して社会的生物として生きる道を選んだことが重要ではないかと考えています。

ヒトは複雑で巧妙な社会をつくり、その社会の中でオスもメスも繁殖以外のさまざまな役割を担い、お互いに協力しあいながら生きることによって、外敵からの脅威に対抗し、環境の変化に適応してきたからこそ、今のような繁栄があるのだと考えます。

言い方をかえれば、ヒトは社会的な生物として生きていかざるを得なかった。社会の中で寄り添って生きてこなければ、現在のような隆盛をみることができなかったのではないでしょうか。

そうせざるを得なかった理由は、ヒトの生まれたての赤ちゃんが動物の一般常識からみると、きわめて未熟な段階で生まれてくること。さらに、成熟までのスピードが遅いために、独り立ちして生きていけるようになるまでに長期間を必要とすることにあると思います。

馬は生まれて数時間たつとひとりで歩けるだけの段階で生まれてきますし、ヒトよりも長寿の象だって、ヒトみたいに20数年たっても、まだ親の脛かじって自分で餌探せないやつなんていません。

ヒトは一回の繁殖で多くの個体を産むことができずに、しかも生まれてきた子供の成育に長期間を要します。遺伝情報をつぎつぎと新しい世代に交替していくという点ではとても不利な生き物なのです。

繁殖という観点からみて致命的とも思える、こういう欠点を補って、ヒトという種を継続していくために、私たちは家族、血族、部族、村、都市、地域社会、職域、友人、国家、信仰を通しての共同体などさまざまなコミュニティをつくり、それらを有機的に関連させて巧妙に生きていかざるをえなかったのではないでしょうか。

こう考えると、社会はヒトの場合、「種にとってのゆりかご」だと言えるのではないでしょうか。種として遺伝子を継続するためには、個人個人の繁殖もさることながら、それぞれの社会の中での役割をはたすことによって、社会と言うゆりかごをじょうずに機能させていくことが重要になります。

ですから、ヒトという種を保存、継続していく上では、女も男もたんに「産む装置」と「産ませる装置」というだけの存在ではないのだと思います。

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