投稿日:2016年7月17日|カテゴリ:コラム

今回の参議院選挙。改憲派が、憲法改正のための手続き上必要な国会議員の2/3以上を占めるか否かの瀬戸際の選挙だった。
結果は皆さんがご存じのとおり、改選121議席のうち自民党が57議席(当選後追加公認2名を含む)、公明党14議席、おおさか維新の会7議席を獲得した。その結果、非改選の議席と合わせると、今の3党に、日本のこころを大切にする党を加えた、いわゆる「改憲4党」だけで参議院定数242の2/3にあたる162議席を獲得した。さらに自民党単独で122議席を獲得。つまり単独過半数を制したことになる。
すでに衆議院では連立与党だけで議員定数475の2/3である317をはるかに超える325議席を確保しているので、安倍は明日からでも憲法改正に向けての手続きに入ることができるようになった。大変由々しき事態になってしまった。

ここまで読んだ方は私が「何が何でも現行憲法を護持するべし」という頑なな護憲派と思われるかもしれないが、そうではない。私は憲法というものはその時代、その時代に合った憲法へと変えていくべきだと考えている。
では、なぜ今大いなる危機感を抱くのかというと、今回憲法改正を目論んでいる勢力が、A級戦犯であった祖父、岸信介を盲目的に崇拝する、馬鹿坊ちゃん安倍晋三を担ぎ上げている連中だからだ。
その中核にいる日本最大の右翼組織、「日本会議」と彼らの野望についてはいずれ別の機会に述べるが、彼らが目論んでいる国の改造とは憲法9条の改正に止まらないのだ。国民が主権者で、その主権者が憲法によって国家を統制するという、立憲民主制度そのものを否定して、国家主権でその憲法は国民を縛る道具にしようと考えている。
つまり戦前の全体主義的な大日本帝国への回帰なのだ。そういう社会で人々がどのような生活を強いられるかは御祖父さんや御祖母さんに聞けばわかるはずだが、そういった過去の悲惨さを語ることができる人たちがすでに亡くなりつつある。野坂昭如、大島渚、永六輔さん。戦前、戦後の日本を知り、今の世情の流れを強く危惧していた人々は続々と鬼籍に入られていってしまった。

今や、主権者たる国民の多くが、今の政治の動きに対する危機感を実感として捉えられず、まあどうにかなるでしょうみたいな他人事のように感じているようだ。
その証拠が、1974年第1回参議院選挙以来4番目に低い54.7%という投票率だ。立憲民主主義という、国家の大きな枠組みが変わってしまう分岐点になるかもしれないという重要な選挙であるという認識の低さに愕然とする。
特に今回初めて参政権を与えられた18,19歳の投票率が45.45%と全平均よりはるかに低かったことには落胆させられた。自分たちの将来がかかっていることを理解していないのだろう。私が同じ年代だったころ、若者はもっと政治に強い関心を持っていたように思う。
国家観は人それぞれであり、立憲民主制を良しとしない考えであってもそれはそれとして認める。そうであったとしても投票には行くべきだろう。参政権は私たちの先達たちの血の滲む努力によって獲得した貴重な権利なのだから。
投票日の街の様子をリポートしたニュース映像を観た。原宿の人気パンケーキ店に3時間並んで食べている人。もちろん投票には行かないという。「選挙よりこのパンケーキよ。これだけは譲れないわ」。
国営昭和記念公園で遊ぶ家族連れ。もちろん投票には行っていない。なんとこの日は入場無料だという。国民に投票を促すべき国が運営する公園が投票日に合わせて入場無料とするなんて言語道断である。無党派層の投票を避けて、政権与党に有利な選挙結果を導こうとする陰謀さえ感じてしまう。
それにしても、パンケーキには3時間並んでも投票には行かない。自分たちの子供の将来を左右する1票よりも入場料無料を選択する親。なんと愚かなのだろう。

政治など他人事と目の前の快楽に現を抜かしているうちに、世は抜き差しならない体制に入り込んでいくのだ。「アッ大変だ。どうにかしなくちゃ。」と思った時にはもう遅いのである。引き返すことのできない泥沼に入り込んでしまうのだ。戦前の日本がそうだった。ひたひたと迫りくる地獄に気付く国民はほとんどいなかったのだ。
自民党の憲法改正草案では3権分立を崩す条項が考えられている。そうなれば国家(行政)は立法(国会)の縛りなしに勝手に政策を決定し実行できるようになる。事実上の戦前と似た国家主義体制ができあがる。

これまでにも私はこのコラムでサミュエル・スマイルズの「政治は国民を映す鏡」という言葉を紹介してきたが、「政治には期待しないから棄権する」とか「今の政治家はみんな腐っているから誰に入れても同じ」などと、投票に行かない自分の行動を正当化する人がいるがそうではない。自分たちが愚かだから政治が腐ってしまったのだ。猛省すべきは私たち国民なのではないだろうか。
安倍一派の企みも国民が愚かだというところから出発している。愚かな民草にいちいちお伺いを立てていては何も決定できない。だから、一部の覚醒した人間たちによって愚かな民草を導かなければならない、と考えているのだ。こんな人を見下した選民思想の連中のいいようにさせてよいのだろか。

人々よ目覚めよう。そして政治を自分たちの手に取り戻そう。

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