投稿日:2016年3月28日|カテゴリ:コラム

以前、江東区マンションばらばら殺人事件の被告が一審の罪状認否で検察官の冒頭陳述に対して「すべて間違いありません。」と犯行を認めた。凶悪犯罪の裁判では久しぶりの光景だとびっくりした記憶がある。

最近は取り調べ段階では罪を認めているにもかかわらず、公判になるとそれまでの供述を翻して無罪を主張する例が多い。

あからさまに嘘としか思えない弁明も少なくない。「嘘は泥棒の始まり」と言うが、既に罪を犯しているのだから今更嘘くらいでは呵責の念に駆られることなどないのだろう。

自分の本音を正直にすべて語らないことも嘘と定義すると、政治家や官僚は押し並べて大嘘つきである。しかも彼らの嘘は昨日や今日に始まったことではないのですでに十分大泥棒の域に達していると言える。

徒然草に「家に鼠、国に盗人」とあるが、権力者が民衆から搾取するのは世の習いのようである。

安保関連法案、原発再稼働、辺野古基地移設等々、今後の日本を左右する重大局面の度に、彼らの嘘を聞かされて腸が煮えくり返る。為政者の国民に対する嘘は絶対に許してはいけない。2011年のコラム、「正直村と嘘つき村」で私は嘘つきを糾弾した。

それでは、人は何時いかなる時にも正直に語るのが正しい道かと言うとそうとも言えない。「なんて不細工な顔をしているの。化粧で何とかするしかないね」。「こんなことも分からないなんて相当勉強不足だ。基礎から勉強しなおすべきだよ」などと、誰かれかまわずに思うがまま、自分の本音を口にしていては相手の心を傷つけること間違いなし。しかも、努力しようとする意欲までも奪ってしまうことになる。

「かなり魅力的だけど、もうちょっと違う化粧でこれまでとは全く違う魅力を引き出せるような気がするな」。「かなり良く理解しているようだけど、この本を読むともっと応用が効くようになると思うよ」。嘘も方便。そして方便は人を勇気づけ救う可能性がある。

 

「正直の頭に神宿る」と言うが、「正直は阿呆の異名」とも言う。嘘と方便、神と阿呆の上手な兼ね合いこそが肝心であり、また至難の業でもある。

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