投稿日:2015年11月30日|カテゴリ:コラム

私は高校時代、物理学が得意だった。その後校長となられ、当時の物理学を教えて頂いた物理学の大賀先生の授業は大学レベルの難かしさて有名だった。そのために大賀先生の試験の採点は、√x×10と言う独特の計算式でつけられた。

この計算方式だとx=0、つまり実際には0点の人は0点。また、x=100で100点の人もやはり100点になるが、36点の人は60点いただけて合格ラインを超える。逆に81点取れば90点になるが、それ以上頑張ってもその努力の結果は大きな差としては出てこないことになる。

要するに、得点下位者にほど高い下駄を履かせる仕組みになっていて、実際には36点を取れば落第しないようになっていた。

この大賀先生の物理学で私はいつも90点以上を取っていた(実際の点では81点以上ということ)。このためだろうか、大賀先生から物理の方に進学しないかと勧められ、自分でも高校3年生の夏ごろまで進路について医学と物理学の間を迷っていた。

結局は医学の道を選択した私だが、今になって考えてみて、つくづく医学の方を選択してよかったと思う。

なぜならば私は、物理学は大好きだったが、それは所詮大学受験レベルの物理学の世界であった。その程度の物理現象は身の回りで目にする現象が殆どである。もう少しスケールの異なる現象だとしても、身近な現象に置き換えて考えることが可能な範囲のものだ。

たとえば川の流れから航空機の翼の上下の空気の流れを想像することができるし、ニュートンのように物体が地面に落下する様を見て天体間に働く重力の作用を理解できる。

しかし、それ以上詳しく物理学を学ぼうとすると身近な現象に置き換えて考えることができない世界へと入ってしまう。そういう世界の物理現象を理解、説明するためには高等数学が必要不可欠だ。数学は物理現象を説明するために欠かせない言葉だからだ。音楽における楽譜と同じだ。

音楽においても楽譜を読み書きできないとフィーリングでしか表現できない。音楽の場合はそのフィーリングが重要だから、まだそれでもよい場合が多いが、同じ音楽を繰り返すことはできないし、自分以外の演奏者にそのフィーリングを正しく伝えられない。

物理学の場合には音楽と違って、伝えたいことが論理的な考え方だからイメージやフィーリングではほとんど用をなさない。

ところが私はこの肝心な数学が苦手だったのだ。高校から大学受験くらいまでの物理学で要求される数学は数2からごく一部の数3程度である。だが、それ以上先の物理の世界、特に私の興味対象の宇宙論や素粒子論を理解するためにはとんでもない数学力が要求される。

受験数学までは、公式を覚えてなんとかゴリゴリと力技で問題を解くこともできたが、SIN、COSの微分、積分となると何が何だか分からなくなってしまう。そもそも私は数学の扱っている「数」というものを本当には理解できていない。

 

「数」と言ってすぐ思いつくのはみかんが10個あるとか、小鳥が3羽いるとかいう、指を折って数える物の個数。これは「自然数」といって、物の個数のほかに順番を表わす際にも頻繁に使われるので、生活の中でごく自然に理解できる。

自然数を足したり、引いたり、掛けたりしても必ず自然数になる。しかし、自然数同士を割った場合には、その答えは必ずしも自然数の中に見つからない。たとえば1÷3。古代の人たちはこの答えに「3分の1」という名前を付けて数として扱うことにした。これが「分数」。おそらく獲物の分配などの際に必要なので考えられたものと思われる。したがって、私でも理解できる。

そして自然数と、自然数から構成される分数を合わせて「有理数」と呼ぶ。因みに分数を小数点表示すると、有理数はどこかの位で割り切れるか、そうでない場合は同じ繰り返しの数字の列を無限に繰り返す少数になる。

前者は1÷4=0.25で、後者は1÷7=0.142857142857142857・・・・・・。前者を「有限小数」、後者を「循環小数」と呼ぶ。循環小数については極めて興味深い事実があるのだが、今回は省略する。

さて、ややこしくなるのが√2のような「無理数」。√2=0.141421356・・・・・・・と同じ数字を循環せず無限に続く少数だ。つまり自然数同士の分数で表すことができない数。おそらくは土地の分割の際に必要に迫られて古代メソポタミアで考え出されたものだと考えられる。因みに、古代ギリシャにおける数学の神様的存在で、自身「万物は数である」と豪語していたピタゴラスは無理数を受け入れることができず、数のすべては有理数だと信じていたようだ。

無理数になるとその扱いがかなり厄介にはなるのだが、それでも幾何学的に図形を書いてみると理解できる。1辺1mの正方形の対角線の長さがピタゴラスの定理によって√2になるといった具合にだ。有理数と無理数を合わせた数を「実数」と呼ぶ。

これで数はすべてだと思いきや、16世紀の数学者ジローラモ・カルダノがとんでもないことを言いだした。「足して10、掛けると40になる二つの数はそれぞれいくつか」という問題を提起した。詳しい説明は避けるが、これまでの実数だけの数学では「解なし」となるこの問題に、カルダノは解答を5+√-15と5-√-15だとしたのだ。

二乗してマイナスになる数字などあり得ないとされてきた常識を根底から覆した。この数は「虚数」と呼ばれ、√―1を「i」と表記される。しかし、この考えはしばらくの間受け入れられなかった。その原因はひとえに幾何学的に図示することができないからだ。

その後、天才数学者レオンハルト・オイラーが世界で最も美しい数式と呼ばれる「オイラーの等式:eiπ+1=0」の発見で、虚数(i)は数学の世界で確固とした市民権を得た。

だが、私は未だに虚数なるものを頭の中で思い浮かべられない。なぜならば、私は時間・空間の中に目に見える形をとって表れる現象しか理解できないからだ。言い換えれば形而上的思考ができない私は数学的センスがないと言わざるを得ない。数の世界は私にとっていつまでも摩訶不思議な世界だ。

 

136億年以上前の宇宙の始まりを考える時にも10-36m以下の極微の世界を考える際にも虚数を含む形而上的思考に基づく数学力が要求される。ホーキングによれば宇宙の始まりには虚数の時間があったとされる。だが、二乗してマイナスになる時間などというものは到底理解できるものではない。

私は今でも物理学の世界に対する興味は尽きないが、せいぜいそのおぼろげなイメージを描いてSF小説のレベルで喜んでいることしかできない。

暖かい肌を持ち、喜怒哀楽に揺れる生身の人間に向き合って生きる町医者になってよかったと思う由縁だ。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】