投稿日:2015年2月2日|カテゴリ:コラム

イスラム国と名乗る集団による二人の日本人の拉致殺害。また同じく、イスラム過激派を名乗るグループによるパリのテロ行為などによって、遠い出来事と思っていたイスラム過激派が思っていたよりもずっと身近な脅威であることに気づかされた。
そこで改めて世界に目をやれば、中東や西欧だけではない。イスラム過激派によるテロ行為はアフリカや東南アジアでも日常茶飯事なのだ。

大塚にはモスクがある。そのためムスリム(イスラム教徒)と思わる人の姿を見かけることも多い。その中にはブブカというのだろうか、目の部分を除いて全身真っ黒な衣装をまとった女性もいる。
テロのニュースを聞いて、御近所にムスリムの存在に恐怖を覚える人が出てきた。とくに全身黒装束はそれだけで恐ろしいと言う。悲しいことだ。
大部分のムスリムは純朴に神を信じ、穏やかに生活をしている人々だ。また、彼らの信ずるイスラム教も決して人を殺めることを推奨しているわけではにない。黒ずくめの衣装は確かに、表情を読み取ることができないので相手に不安を抱かせる。だが、最近の日本の若者だってどこでもお構いなしにマスクを着けっぱなしではないか。
その昔、初めてちょんまげを結って刀を差して仏像に手を合わせる日本人を見た西洋人はさ、ぞかし不気味に思ったろう。
自分たちと異なる風俗習慣に違和感を抱くのは致し方ないが、中身は同じ人間であることを理解し合おうとする努力をしなければならない。繰り返すが、ムスリム=テロリストではない。
ではなぜムスリムにテロ集団が生まれやすいのだろう。それはイスラム文化圏が貧しい地域だからだと思う。そんなことはない、中東は産油国であってとんでもない大金持ちがいるではないかと言われるかもしれない。だが、金持ちはほんの一握りの特権階級だけであって、多くの人民は貧しい生活を強いられている。そして一部の富裕層の豊かさが跳び抜けているために、極端な格差を生んで相対的な貧困感はさらに大きいのだ。
歴史的に見て、既存の社会を覆そうとする行動の根源は例外なく貧困と格差だ。飢えと不公平感が時には宗教と言う名前で、時には革命と言う名前で、その時の体制を破壊しリセットしてきた。つまりそれまでの支配者と被支配者の権力闘争なのである。
今の中国を見れば分かると思うが共産主義革命だって、宗教のような共産主義の名を借りた権力闘争ではなかっただろうか。
イスラム国は勝手に国と名乗っているが、今はまだ大きなカルト集団に過ぎないと思う。しかし、歴史上の革命だって、初めのうちは過激なテロや暴動から始まっている。その破壊行動が成功して新しい権力を打ち立てた暁には、その行為は歴史に革命と美化される。もしも失敗した時には極悪のテロ集団として葬り去られるだけなのだ。

さて人を集めて反乱行動を起こすとき、革命と称すると人々を扇動するために小難しい理論武装をしなければならないし、ある一定の階層の人間が対象になってしまう。それに対して宗教の旗を振りかざして扇動する方がたやすく、またより多くの階層の人々を巻き込むことができる。
何せ宗教とは理解を超えた「信じる」とう領域なのだから、つべこべ矛盾点を突かれても、「神の思し召し」の一言で片付けられる。だから、宗教は古より反乱の最も便利なアイテムとして利用されてきたのだ。
近くは我が国で前代未聞のテロ行為をなしたオウム真理教も、原始仏教を騙ったカルト集団であったではないか。麻原彰晃の野望も現在の社会体制を破壊して、自分を頂点とする王国を作ることにあったと考えられる。仏教は扇動のための手段に過ぎない。だが、オウム事件があったからと言って、仏教が危険思想だと考える人はいないはずだ。イスラム教も同じだ。

現在日本でも1%の富裕層が国全体の10%近い富を所有し、所得上位10%の人たちが48.5%を所有している。そしてこの格差は相乗的に拡大し続けている。今まで中流層とされていた人たちが貧困層へと没落していっているのだ。貧困に生まれた者は努力しても報われず、いったん失敗したら二度と這い上がれない。
このまま格差を助長するような政策を続けるならば、日本でも必ずや第2、第3のオウムを生むことになるだろう。

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