投稿日:2014年12月29日|カテゴリ:コラム

今年もあと僅か。この時期になると色々なメディアで「今年の10大ニュース」が報じられる。すっかり物忘れのよくなった私は、「10大ニュース」と言われて初めて、「そういえばこんなこともあったな」と改めて感慨を新たにする今日この頃である。
さて、悲喜こもごも、多くの出来事の中で、賞賛、混乱、失望、悲しみ、怒りのすべてを網羅し、もっとも毀誉褒貶の激しかったニュースは一連の「STAP細胞騒動」だろう。

STAP細胞とは刺激惹起性多機能性獲得細胞(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency Cell)の略称。
新たな生命が誕生する過程は雌雄それぞれの生殖細胞が融合して一つの細胞になることから始まる。この細胞が分裂を繰り返して様々な器官、臓器が形成されて、やがて一つの固体へと発達する。
ということは、私たちの体の脳細胞も幹細胞も爪を作る細胞も、元を正せばすべて母の卵子と父の精子が融合した受精卵に辿り着く。
受精卵は2つの細胞に分裂し、それがまた2分割して4つの細胞になる。さらに4つが8個、8個が16個に分裂。この段階ではまだ16個の細胞はすべて、将来どの細胞にでもなることができる*1。しかし、その後の分裂からは細胞によって将来何になるかという運命が振り分けられていく。
さらに数回の細胞分裂を経た受精後4日くらいになると、もう受精卵細胞群の全能性は失われて、神経系細胞になるもの、消化器系細胞になるもの、筋肉細胞になるものへと機能分化していく。
そして、動物の細胞においてはこの機能分化の過程は一方通行で不可逆であると考えられてきた。つまり、いったん神経細胞となるコースに乗った細胞は決して消化器細胞へと変身することは不可能なのだということが生物学の常識であった。
だから、何らかの病気で肝臓や、心臓の細胞が壊滅的な損傷を受けた場合に、その人の命を救うためには、他人の肝臓や心臓を貰ってきて移植するしかなかった。
だが、この移植医療には自分以外の物を排除しようとする自分の免疫機構からの攻撃をどうかわすかという難問と、他人の命を買ってまで*2 延命させることへの倫理、哲学的な問題を抱えている。
自分の健康な体の一部を使って壊れてしまった臓器を創りなおす方法があれば、どちらの問題も一挙に解決できる。そこで、すでに機能分化してしまった細胞に手を加えることによって、再び受精直後の全能性を復活させる方法が世界中の研究者によって模索されてきた。
従来不可能とされてきた機能分化を逆戻りさせて、いったん機能分化してしまった細胞に万能性を復活させてさらに自己複製能をもった細胞を作り出したのが 2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授だ。彼らの作り出したiPS細胞によって、夢の自己臓器移植に道が開けた。ただ iPS細胞の作製には難しい遺伝子操作が必要で今後期待される万能細胞の需要増加に対応するには多くの課題が残されていた。
山中教授のノーベル賞受賞の興奮が冷めやらぬ今年の1月、理化学研究所の小保方研究グループによって問題のSTAP細胞作製成功の発表が多くのマスメディアを招待して大々的に行われた。
これまでの女性研究者のイメージとかけ離れた濃い化粧をして、ブランド品を身に纏い、意表を突く割烹着姿で仕事をする小保方晴子研究チームリーダーは、こ れで一気に時の人となった。この小保方さんの強烈な個性も加勢して、STAP細胞への期待がビッグバンのように日本のみならず世界中に膨れ上がった。
実際に、小保方さんが示したSTAP細胞はiPS細胞のような難しい遺伝子操作を必要とせず、自分の細胞を薄い酸に浸けた後、細いチューブを通してやるだけで作製できるという。
もしこれが事実ならば、移植医療は飛躍的に進歩する。iPS細胞が霞んでしまうほどのインパクトを持っていた*3。1月の発表の際にも小保方さんの指導役であり、問題の論文の共著者であった故笹井芳樹氏は山中教授を強く意識して、iPS細胞に対するSTAP細胞の優位性を強調していた。
私もこの1報を聴いたときは、これからの医療が大きく変わるであろうと感激した。だがその感激は、Natureに掲載された論文は真摯な態度で何度も検証されており、意図的な不正操作などあり得ないという前提に立っているからだ。
ところが、発表から1ヶ月も絶たない2月の中旬には、論文に対する複数の疑問点が指摘され、STAP細胞作製の報以上の大騒動の勃発となった。その後の経 緯については多くの報道があるので省略するが、先日ついに理研はSTAP細胞作製の検証実験中止を決定し、調査委員会はSTAP細胞とされてきた代物は既 存のES細胞であると結論付けた。
この1年のSTAP細胞にまつわるこの騒ぎはいったい何だったのだろう。
日本人研究者の信用を失墜させたこの不祥事について、今やほとんどの人々の関心は小保方氏が故意に行った犯罪なのか、はたまた過失によるものなのかという点に絞られている。彼女を犯人と断定したうえで犯行の動機探しに躍起なのである。
だが、故意であろうと、故意でなかろうと彼女は研究社会においては死刑を宣告されたも同然である。これ以上追及したとしてもそれはゴシップ記事以上の価値は持たない。
私はこの事件を生み出した元凶は笹井氏の山中教授に対する嫉妬心からくる焦りと、科学研究が経済的に換算される様になった現在の風潮にあると考える。
若いころから秀才の誉れの高かった笹井氏が、遅咲きの山中教授にノーベル賞受賞を切歯扼腕の思いで眺めていたであろうことは想像に難くない。そのため、笹井氏はなんとしても急いでiPS細胞を超える業績を発表しなければならなかったのだ。
その焦りが、充分な実験的検証や論文の校閲をおろそかにしてまでNatureへの投稿と派手な記者会見を開かせたのだと思う。そんな邪心がなければ、笹井氏ほどの研究者がデータの使い回しや写真の切り貼りのような稚拙な不備に気付かないはずがない。
さらに、理化学研究所も話題性の高い研究発表に焦っていた。それは安倍内閣が肝いりで来年度に発足させる予定であった特定国立研究開発法人への指定を確定したかったからだ。
この法人に指定されれば巨大な研究予算が安定して確保される。そうなればこれまで実現が困難であった大規模研究、大規模プロジェクトを行うことが可能になるからだ。
理研と笹井氏の焦った功名心の達成のためにぴったりと嵌ったのが特異なキャラクターの小保方さんだったのではないだろうか。
しかし、理研の功名心も致し方ないともいえる。世の中が研究というものに大向こうを唸らすパフォーマンスを要求するようになったからだ。

今の世は、経済効果といった表現で、すべての物事の価値を金に換算したがる。錦織選手が全米オープンに準優勝した際にも、単純にその偉業をたたえるだけで は気が済まず、200億円の経済効果があると報じる。また、プロ野球で巨人が優勝すれば650億円の経済効果だが、楽天が優勝すれば270億円の経済効果 にとどまる、などという試算がシーズン中になされる。なんでもかんでも金、金。金がすべての世の中になってしまった。
研究の世界もこの拝金主義の魔の手からは逃れられなかった。本来、科学研究において、経済効果をもたらす成果を上げた者が努力したことは間違いないが、そ の努力に加えて時の運が加わって初めて成功者となる。だが、その成功の陰には数多くのお金にならない研究者の努力の積み重ねがあるのだ。研究の成果を単純 にお金に換算してはいけない。
それなのに、アメリカ式資本主義の浸透で研究費は投資と考えられるようになった。そうして純粋であるべき研究の世界は崩壊した。決まった期限内に投資額に見合った成果を出さなければ研究費は打ち切られる。
だが、見返りを求める研究では、当座に役立つそこそこの成果は期待できるだろうが、コペルニクス的な世紀の発見は期待できない。なぜならば、そういった研究は誰もが常識外れでばかばかしいと一笑に付しているものの中から生まれるからだ。
しかし、世間はそれを許さない。数年以内にノーベル賞級の結果を出せと要求する。科学の本質を知らない愚かな金の亡者からの圧力が今回の不祥事の元凶だと私は考える。
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*1この辺りの分裂段階の細胞は将来あらゆる細胞になる可能性、つまり全能性を持っている全能性幹細胞である。この細胞を取り出して培養したものを胚性幹細胞(embryonic stem cell)と呼ぶ。
*2臓器は体の一部であって命そのものではないから倫理上問題ないと考えられるかもしれないが、臓器を手に入れるために他人の死亡を期待するという非道徳的な感情をもたらす。さらに発展途上国では現実に、臓器を手に入れるための誘拐殺人や人身売買が後を絶たない事実がある。
*3「もし事実ならば」と書かなければならないことはとても異常な事態である。どんな論文も事実以外のことを書いてはいけない。まして、もっとも権威ある科学雑誌、Natureに投稿する論文は真摯に書かれていることが大前提だ。

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