投稿日:2014年8月4日|カテゴリ:コラム

洋の東西を問わず、古より円形および球体は真理や神性を象徴する形として貴ばれてきた。円や球が完全形であるという観念はおそらく本能的直感から生み出されるのだろう。そして、その固定観念は多くの思想に強い影響を与えてきた。円、球崇拝教と言えるかもしれない。

ガリレオはそれまで13世紀もの間常識とされていた天動説を覆して地動説を主張した。宗教によって抑圧されてきた自然科学の復活を象徴する歴史的発見とされている。
だが、ガリレオの地動説は太陽を周回する惑星の運動を円運動としたことで画竜点睛を欠いてしまった。その後、ドイツのケプラーのより正確な観測と数学的手法によって惑星の動きは円運動にあらず、楕円であることが証明されたからである。
さすがのガリレオも、神をも超える宇宙の動きは完全形である円運動に違いないという先入観を払拭できなかったのだろう。

円、球崇拝教は目に見える物体の世界だけでなく、本来形にならないはずの抽象的な思考の世界をも支配している。中国で理想の人とされる君子像も円を具現化した人格と言える。あらゆる面に瑕疵がなくつるんとした人格が理想と考えられる。
ところが現実に球のような人格などあり得ない。また、カリスマ性の高い教祖、歴史に名を残す為政者、天才詐欺師、さらには映画のヒーローはなぜか皆この丸い君子像とは程遠い。
一見、梲(うだつ)の上がらない平凡そうに見える男であったり、思い通りにならないとしょげたり当り散らしたり、欠点丸見えの男である場合が多い。だが共通していえるのは接した人に可愛げを感じさせるということだ。つまり、欠点が目立つが、どこか憎めない可愛げが多くの人を魅了するようである。

ある高僧が「人の幸せとは次の四つである。愛されること、褒められること、役に立つこと、必要とされること。」と言っている。このうち、愛されたり褒められると幸せに感じることは言うまでもない。しかし、いくら一方的に愛され、褒められても、それは受動的な幸せしか与えてくれない。翻って、自分がその人の役に立ち、必要とされなければ能動的な幸せを掴むことができず、本当の幸せには至らないのだ。だからもし自分の好きな人が完璧な人格の持ち主だとすれば、その人の役に立つことも必要とされることもないから、本当の幸せを手に入れることができない。
完全な状態を逸した、残念無念な状態を「玉に瑕(きず)」とか「白壁微瑕(はくへきのびか)」とか表現するが、実は瑕があるからこそ人に幸せを与えられる。なぜならば、何とかその瑕を私の力で埋めてあげたいという思いを抱かせるからである。
ということは、瑕が多ければ多いほど、より多くの人が役に立ち、必要とされる場面が増える。たくさんの人々に、この人は私が何とか頑張って助けてあげなければならないと感じさせる。結果として大きな集団を動かすことになり、その人たちを幸せにする。
ただし、「可愛げ」が欠けていれば単なる鼻摘み者、嫌われ者になる。つまり、「可愛げ」が必須の条件なのだ。だが、ある人の言によるとこの「可愛げ」とは天性のものであって訓練して身につくものではないらしい。ここが難しい。
私のように「可愛げ」に恵まれなかった凡人はどうすればよいか。努力して伸ばすことのできるのは「誠実」しかないとその人は言っている。「誠実」を磨けば「可愛げ」には及ばないまでも、他人との円滑な関係を築くことができ、相手をそして自分を幸せに導いてくれる。
ところが、「可愛げ」など欠片もない上に、「不誠実」の極みのような政治家の多いこと、多いこと。これでは民衆が政治に無関心になるのも当然だ。

政治家になるつもりはさらさらないが、自分と家族、そして友人たちの幸せのために、私も遅ればせながらもっと誠実を心掛けようと思う。

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