投稿日:2014年7月21日|カテゴリ:コラム

「ほかにやりたい仕事がないから先生でもしてみようか」、「特別な技能がないから先生しかできない」こういう理由で教職に就いた者を揶揄して「でもしか先生」という。
第二次世界大戦終結から高度経済成長期(1950年代から1970年代まで)の間、ベビーブームによって、我が国は教員不足となった。このために教師の採用枠が急増して、教員試験は志願者のほとんどが合格できた。その結果「でもしか先生」を排出することになってしまった。
教員の職場は父兄参観日を除けば、相手は子供だけ。まともに批判することができない、つまり対等な関係ではない者だけを相手にするので、かなりいい加減な行動がまかり通る。そこで、能力に欠けたり、人格に偏りがあって一般社会ではとても通用できないような輩がハードルの低い教員試験を通って、子供たちに君臨していた。
私の小学生の時にもこの手の教師がいた。その時には「怖い先生だ」としか思えなかったが、今から考えれば人格障害だったのではなかろうか。情動が不安定で、不機嫌になると生徒を怒鳴り散らす。怒鳴るだけでは済まず手も飛んできた。
この体罰が教育的指導でなかったことは子供心にも明白だった。なぜならば、善悪の基準が一定ではない。機嫌の良い時には生徒のやんちゃに対して、にこにこと一緒になってはしゃいでいたかと思うと、次の日には全く同じ行為に対して怒りを爆発させるのだ。
何があったのか知らないが、自分の欲求不満のはけ口として生徒にあたっていたとしか思えない。私たち生徒は毎日びくびくと先生の顔色をうかがうことに全力を注がなければならなかった。まあお蔭で、相手の機嫌の状態を観察する能力が養われたとも言える。
でも、子供の教育に対して熱い志を持った先生たちも少なくはなかったのだと思う。私が大きく飛躍できたのは、小学校3年生の担任だったN先生との出会いだった。しかし、たまたま「でもしか先生」に出会ってしまった子供はとんでもない犠牲者だ。人格形成における重要な時期にこのような人物とのかかわりが良い影響をもたらすはずがない。たった一人で数多くの人生を狂わす危険な存在だ。

このように従来、教師を指していた「でもしか先生」だったが、少子化に伴い教員枠が減り、「でもしか」では教員になれない時代になった。むしろ激務に耐え、しかもモンスターペアレントの影におびえながら生徒に卑屈になり過ぎている先生の方が多いかもしれない。教員受難の時代である。
それでは「でもしか先生」がいなくなったのかと言えばそうではない。現在、「でもしか先生」は政治の場に多く見られるようになった。
そのことは兵庫県議の号泣男の騒動で次々と報道される地方議員の実態を聞いていて知った。現在は低レベル大学の乱立と景気低迷の長期化によって、高学歴者の就職難の時代だ。大学を卒業しても安定した正社員になれる人は少ない。せっかく法学士となったのにありつける仕事は派遣のテレアポくらいしかないというのが実情だ。
それならいっそ、「議員にでもなってみようか」、「大学でただけで特別の技能がないから議員くらいしかできない」という動機で立候補する人が少なくないというのだ。びっくりした。
とは言っても、過去に「赤坂の料亭で酒が飲んでみたかったから」という動機で国会議員になった男もいたのだから、県議、市町村議ならさもありなんだ。確かに、派遣でブラック企業にこき使われることを考えれば、議員は天国だ。まずは月給。東京都議会議員の1,030,000円を筆頭にもっとも安月給の山形県議会議員でも746,000円。
さらに政務活動費が東京都では60万円/月もある。今回の号泣男騒ぎで分かった通り、収支報告は極めて杜撰。多くの議員が彼ほどの馬鹿ではないので上手に領収書を集めてごまかしている。原則として使用目的を明かさなくてよいので使いたい放題。そこから政務活動費は第二給与と言われている。
東京都議会議員の場合この二つを合わせると、なんと年収、2000万円近くになる。市議で1000万円弱、町村でも400万円近い年収を得られる。
これまでこの高額な報酬は、住民のために身を粉にして働くのだから当然の給与だと説明されてきた。しかし、外国に目をやると、イギリスでは70万円少し、アメリカ、ドイツで50万円。言っておくが、この金額は月額ではない年収だ。さらにスイスやフランスでは報酬なしのボランティアの名誉職である。我が国の地方議員の報酬が先進国の中で突出して高額であることが分かる。
皮肉なことに高い報酬がとんでもない「でもしか先生」を生み出している。もし、欧米並みの報酬であったら、仕事にありつけないからという動機で議員を志すことはないだろう。議員になるよりも生活保護を受給する方がよっぽど割がいいからだ。
ということは生業を持っている人間しか志せない。しかし、真面目に議員活動をするならば、その負担は並大抵ではない。多かれ少なかれ本来の仕事を犠牲にしなければならない。
したがって、本来の自分の仕事を犠牲にしてでも地域のために働こうという、高い志を持った者しか議員に立候補できなくなる。ただしそうすると、裁判員と同様に議員になろうという者が大幅に減ってしまう。定員割れも想定できる。だから私たち住民が積極的に、ぜひとも自分たちの代表になってほしいという人に三顧の礼を尽くさなければ議会が維持できなくなる。しかしこれが健全な間接民主政治の姿なのではないだろうか。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】