投稿日:2014年1月27日|カテゴリ:コラム

先日のコラムで小泉元首相の原発廃止運動を「君子豹変」と賞した。この豹変と紛らわしいのが「変節」。豹変は己の行動の過ちを認めてすぐに態度を改めるこ とであるのに対して、「変節」はその時の情勢に合わせて上手に主義主張や態度を変えて、しかもそこに反省がないことを言い、そのような人物を軽蔑して「変 節漢」と呼ぶ。
歴史上、変節漢とされているもっとも有名な人物と言えば、キリストを売り渡したユダであろう。我が国では、維新後の明治の世で、平民主義から強烈な国家主義者となった思想家、徳富蘇峰が変節漢と言われる。
現 存者としては、東京大学時代に共産主義者同盟(ブント)のメンバーとして60年安保闘争に参加し、現在右翼的思想家として活動している西部邁が有名だ。ま た、1968~1970年に日本の若者が罹った麻疹、全共闘から変節した者は多数いる。元新宿高校全共闘活動家であって、のちに右寄りの思想の持ち主であ る安倍晋三の第一次内閣で内閣官房長官を務めた、塩崎恭久。元日大全共闘活動家で、現在テレビコメンテーターであり右寄りで知られている石原慎太郎衆議院 議員のブレーンとされているテリー伊藤などなど。こういった連中の一人に、つい先日まで話題であった人、猪瀬直樹前東京都知事がいる。
猪瀬は信州大学人文学科経済学科に在学中、「革命的共産主義者同盟全国員会」(中核派)に属し、1969年に信州大学全共闘議長を務めた新左翼学生運動幹部であった。
大学卒業後上京し、出版社勤務を経て1972年明治大学大学院政治経済学の博士課程に進学する。この時期から急速に右傾化し、ナショナリズムに訴えた著述で名を成していく。
「ミ カドの肖像」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞してからは、2001年小泉内閣の行革断行評議会委員となったのをきっかけに、政治の世界に活躍の場を移 す。改革の幟を掲げながら、その実は時の権力に擦り寄って目立ち、金と権力を手に入れることのみが目的に頑張ってきた。その結果、右寄りタカ派とされる石 原慎太郎に寵愛されて東京都副知事となり、ついには知事の座を禅譲されるに至った。
その後、オリンピック招致に成功したころが彼の絶頂であった。 間もなく、徳洲会病院からの献金疑惑によってあっという間に転落していった。左から右、天国から地獄と目まぐるしい変遷ぶりはまさに猪瀬の真骨頂と言える かもしれない。この事件そのものについては今後の司直の捜査の手に委ねるが、何らかの刑事罰を受けることは間違いないだろう。
彼のごますり男ぶりは、自分が目下と思う人々への傲岸不遜な態度からよく推し量れる。上に媚びへつらう奴ほど下には威張り散らすものだからだ。
ま た、彼がさしたる政治理念なくただ単に上昇志向の塊であったことは、本事件発覚後の対応を見れば明らかだ。これまで猪瀬は、正義の味方気どりで、政治家や 大企業を攻撃して名をあげてきたにもかかわらず、立場が一転して、攻撃される側に回ると、「情報開示? 説明責任? なにそれ?」という、今まで自分が攻 撃してきた対象と同様の態度を取った。立場が人を作るとは言うものの、ジャーナリストの頃の言動があまりにも攻撃的であったために、その変容ぶりが一層際 立って見える結果となった。卑劣な変節漢であることを自ら暴露してしまった。

私は大学時代、学生会の委員長を務めた。時は全共闘活動直後 でベトナム戦争真っ盛りの時代であった。ナパーム弾の空襲に逃げ惑う全裸のベトナム人少女の写真を見て、憤り、反戦活動の真似事をしたこともあった。慈恵 医大がしばしば反戦集会が開かれる日比谷公園に近かったので、催涙ガスを浴びて逃げてきた参加者をかくまって、目の手当てをしたこともあった。
し かし所詮、母校は開業医のボンボンを集めた私立医大。「国家権力」、「大学解体」、「革命」と叫んでみても、足に地のつかない言葉だけのおままごとでしか ない。私が委員長時代力を入れたのは、在学中に親を亡くした学生への奨学金制度の創設だった。そのほかトイレをはじめ学生会館の設備の改修といった身近な 問題を大学と交渉した。
そんな、私の学生会運営を「君は山谷で生活したことがあるのか」と詰め寄り、「日和見だ」、「権力へすり寄り」と批判する 者がいた。その男が卒業して医師になり、アルバイトの病院で初月給をもらった直後にこう言った。「こんな安い給料じゃ医者らしい生活はできない」。因み に、彼の給料は私のそれより高かった。
人は変わるもの。ほとんどの人が時の経過や立場の違いに伴って多かれ少なかれ生き方を変えていく。それは成 長であるともいえるが、変節である場合も少なくない。でも、きれいごとだけでは生きていけない。たとえば、終戦の前後で日本人全員が変節を強いられた。変 節しなければ現実に生きていけなかった。
多くの人がひもじさをしのぐために悔しさを飲み込んだ。だがその胸中は忸怩たるものがあったに違いない。時々自分の胸に手を当てて、変節を恥じ、申し訳なさそうに生きていくしか仕方ない。この私もそうだ。
ところが、「鬼畜米英」と叫び、反戦的言動を憲兵隊に告げ口していた輩の一部には、終戦を機に、進駐軍に取り入って、莫大な財を成した者がいる。全共闘でゲバ棒をふるった者の中には、猪瀬の類が少なくない。彼らは世渡り上手で成功者となった。
しかし私は、どんなに高い地位を獲得した人でも、自分の出発点を忘れ去り、変節したことに胸を傷めず、世の中の波を上手に泳いでいく厚顔無恥な人間をどうしても好きになれない。

【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】