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   <title>クリニック西川 東京都 豊島区 大塚 精神科 心療内科 神経科 内科 神経内科 往診 うつ病 パニック障害 認知症 メンタルクリニック</title>
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   <updated>2012-02-05T14:06:55Z</updated>
   <subtitle>東京都豊島区大塚駅近くにて精神科 心療内科 神経科 内科 神経内科の診療をしているクリニックです。訪問診療も行っております。お気軽にご相談下さい。</subtitle>
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   <title>ちょっと待て、消費税の引き上げ論議</title>
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   <published>2012-02-05T14:04:50Z</published>
   <updated>2012-02-05T14:06:55Z</updated>
   
   <summary>泥鰌宰相が国防や原子力政策などを差し置いて、不退転の覚悟で取り組んでいる消費税増...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[泥鰌宰相が国防や原子力政策などを差し置いて、不退転の覚悟で取り組んでいる消費税増税。国あげての情報誘導の努力の甲斐あって、今や世論も大筋「増税やむなし」との方向に傾いてきた。残る議論は、マニフェストに掲げた、公務員改革、議員定数削減などの国の節約を先行して実行するか否かの点と増加税率をどれだけにするのかという点に絞られてきた。だがちょっと待ってほしい。そういう議論の前に解決してもらわなければならないことがある。<br />
<br />
さて、我々は直接税と間接税、二つの納入方法で税金を国に納めている。直接税とは国民が国に直接納める税のことであり、所得税や住民税などがこれに当たる。一方、間接税では支払う人と納める人が異なる税のことである。たとえば酒税では、支払うのは最終的にお酒を消費する飲兵衛だが、納税は酒の製造業者が出荷時に行う。<br />
消費税は直接消費税と間接消費税に分かれる。直接消費税とは消費そのものが課税対象になる税で、ゴルフ場利用税や温泉の入湯税などがある。一方、間接消費税は酒税や煙草税のように消費の前段階で税が課せられている。<br />
さらに間接消費税は個別消費税と一般消費税とに分類される。酒税やガソリン税、煙草税などのように個々の品目に課せられるものは個別消費税に当たる。今、増税が議論されているのは一般消費税のことであって、通常、消費税と言えばこの一般消費税のことを指す。<br />
一般消費税が初めて導入されたのは1954年のフランスである。日本では1978年、第1次大平内閣の時に初めて導入が検討されたが、総選挙の結果を受けて撤退した。その後1986年第3次中曽根内閣の時にも再浮上したが、やはり世論の猛反発を受けて頓挫した。やっと陽の目を見たのは竹下内閣の時だ。1989年（平成元年）4月1日、平成の御代の船出とともに税率3％で消費税法が施行された。<br />
消費税の課税方法には製造、卸売、小売の各段階のいずれかで１回だけ課税する単一段階課税と、それぞれの商取引段階ごとに課税する多段階課税がある。多段階課税はあらゆる業種に公平であり、それぞれは小さな税率で確実な税収を確保できるが、同じ商品でも異なる流通経路を経ると税負担に格差が生じてしまう。<br />
単一段階課税では同一商品における税の格差は生じないが、一定の税収を確保するためにはそれなりに大きな税率を課さなければならない。また、課税段階を製造などの初期段階にすると、その税負担を次々と転嫁させていくピラミッド効果が発生してしまう危険性がある。こういった問題点を解消するために、売上に対して課税するのではなく、売上と仕入れの差額に対して多段階課税する方式が考え出された。日本の一般消費税はこの方式をとっている。<br />
課税対象は一般消費税というように、すべての物品、サービスに及ぶのだが幾つかの例外がある。この非課税科目に医療、介護サービス、助産、教育などがある。私に深く関係する保険医療は消費税が発生しない。<br />
消費税は所得税などの直接税が高所得者ほど税率が上がる累進課税ではなく、誰もが一定の税率の税を支払う。生活していく上に必要な消費は高所得者と低所得者にそれほど大きな差はない。結果として、所得に対する税の負担率は所得に反比例して低くなるという逆累進性をもつ。<br />
つまり低所得者ほど消費税の負担度が増す。金持ち優遇の税制として低所得者層を中心として強い反発がある理由である。この問題を避けるために、低所得者であっても文化的に生きるための必要条件である福祉と教育を非課税としたわけである。<br />
正しい政策だと思う。別な理由から利子や配当などの資本所得、そして一生使わずに貯め込んだ貯蓄には相続税はかかるものの消費税は発生しない。莫大な資産を運用して、金が金を生む生活をした者はそれほど消費税を支払わずに済む。もし福祉、医療、教育に関わる取引まで課税対象としたならば、所得の大部分を生活するための消費に回さなければならない低所得者の方が高率に税を毟り取られることになってしまうからだ。<br />
ただここで問題がある。最終的に非課税とするならば、福祉、医療、教育に係わる物事は最初の段階から非課税にならなければおかしい。ところがそうなっていないのだ。医療活動に必要な物品は、薬剤、検査機械、ガーゼや脱脂綿のような消耗品に至るまで、あまねく消費税がかかる。<br />
初めの段階で課税されれば、その分は次々と転嫁せざるを得ない。ところが、医療機関が受け取る医療費は健康保険制度によって国によって価格が決定される。その結果、医療に関わる消費税は最終消費者である患者さんではなく医療機関や薬局が負担することになる。<br />
消費者が負担しない消費税。極めておかしな話なのだが、社会的マイノリティである医療者が支払っているこの犠牲を国民の多くが知らない。本来、日本医師会がもっと声を大にしてこの矛盾点を叫ぶべきなのだが、どういうわけか沈黙したままだ。<br />
我々は泣く泣く本来患者さんが支払うべき消費税を肩代わりしてきた。3％の頃はなんとかやれていた。ところが、1997年、橋本内閣が5％に税率を引き上げてからは医療機関にとって黙視することができない負担になった。<br />
<br />
医療機関や薬局に仕入れる薬の卸売価格と国が（勝手に）決める診療における薬代（薬価）との差を薬価差と言う。30年ほど前まではこの薬価差が数十パーセントもあった。薬を出せば相当の収入になった。これが薬漬け医療の蔓延を生んでいた。この反省から薬価差は年々縮小された。<br />
今や薬価差は5％～9％程度である。5％だと卸売業者から患者さんへ、右から左へと渡すだけのことである。しかし、ただ渡すのではない。調剤し、分封し、袋に詰めたりする人件費や材料代は持ち出しなのである。多くの医療機関が院内処方方式を止めて、処方箋だけを発行するシステムに切り替えた第一の理由はこの点にある。<br />
しかし、診察を受けてすぐその場で薬をもらえる院内処方の方が時間的にも費用の点からも患者さんには負担が少ない。だから小院は院内処方を守ってきた。だが、消費税の負担は私にとっても限界に来ている。<br />
入院患者さんを抱える大病院も院内処方を止めることはできない。外来患者さんには処方箋を発行すればよいが入院患者さんの薬はどうしても自己調達せざるを得ないからだ。<br />
&nbsp;こうして、全国の病院が消費税の負担で苦しんでいる。現行制度の下での年間の損害額は1病院平均で3000万円、私立医大では3億6000万円にものぼっているという調査がある。<br />
&nbsp;&nbsp; 平成10年9月、兵庫県民間病院協会に加盟している4医療法人が代表して「消費税は不公平だ」として国に対し、各病院1000万円、計4000万円の損害賠償を求める訴訟を提起した。厚生労働省はこういった訴えに対して「その分（損税分）は診療報酬で配分した」との建前だが、診療報酬で配分したということならば、医療は非課税とう原則に矛盾している。<br />
この大きな矛盾を解消しないままに、財務省のごり押しで消費税を10％に上げられたならば日本の病院の大半が破綻してしまうのではないだろうか。無床の診療所も私のように院内処方を頑張っているところは薬を出せば出すほど赤字になる。閉院を避けるためには院外処方方式に変えざるを得ない。しかし、この方法はババを薬局に回しているだけに過ぎず、真の問題解決にはなっていない。<br />
<br />
もし10％に税率を引き上げるならば、下野を覚悟で医療も課税対象とするか、そうでなければ第一段階から徹底して非課税にするしかないのではないだろうか。野田さん、福祉と税の一体改革と謳っておられるが、この矛盾を解決しないまま増税すれば、福祉の中核である医療機関や薬局が壊滅してしまいますぞ。
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      <![CDATA[<strong><br />
【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】</strong>
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   <title>インフルエンザの予防注射</title>
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   <published>2012-02-05T14:04:49Z</published>
   <updated>2012-02-05T14:08:35Z</updated>
   
   <summary>インフルエンザの予防注射行なっております。 （高齢者の方の接種は終了いたしました...</summary>
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      <![CDATA[インフルエンザの予防注射行なっております。<br />
（高齢者の方の接種は終了いたしました。）
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   <title>金の斧、鉄の斧</title>
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   <published>2012-01-29T12:36:53Z</published>
   <updated>2012-01-29T12:38:53Z</updated>
   
   <summary>イソップの寓話に「金の斧」という話がある。皆さんよくご存じだと思うが、改めてあら...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[イソップの寓話に「金の斧」という話がある。皆さんよくご存じだと思うが、改めてあらすじを述べる。<br />
<br />
あるきこりが川辺で木を切っていましたが、手を滑らせて斧を川に落としてしまいました。きこりが困り果てていると、そこにヘルメス神が現われて川から金の斧を拾ってきて、「お前が落としたのはこの金の斧か？」と尋ねました。きこりが「違います」と答えると、ヘルメスは次に銀の斧を拾ってきて、「それではこの銀の斧か？」と尋ねます。きこりはそれも違うと答えます。ヘルメス神が最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりは「これが私の斧です」と答えました。ヘルメスはきこりの正直さに感心して、金、銀、鉄、すべての斧をきこりに与えました。<br />
これを知った欲張りのきこりは、わざと斧を川に落として途方にくれたふりをしました。ヘルメスが前の時と同じように金の斧を持って現れると、欲張りきこりは「それが私の斧です」と答えました。ヘルメスは呆れて何も渡さずに去ってしまいました。おかげで欲張りきこりは金の斧どころかもともと自分が持っていた鉄の斧も失ってしまいました。<br />
<br />
この話は無欲と正直を美徳とする寓話として解釈されていて、同じような話は日本の民話にも存在する。「瘤取り爺さん」、「舌切雀」などなど、多くの民話が欲張りを諫めている。見方を変えれば、それだけ昔から欲張りで嘘つきが多かったということだろう。<br />
さて、この「金の斧」をよくよく考えてみると、このきこりが単なる無欲な正直者だとは思えない。むろん大嘘吐きの業突く張りだというわけではない。ただこのきこりが正直者であるというよりも、きこりという仕事に誇りを持った職人気質の男であり、物の本当の価値を知っていた人間であると評価する方が奥深い。<br />
彼が金の斧や銀の斧を断ったのは、金や銀は値が張って、飾るにはよいかもしれないが、そんな柔らかい材料でできた斧は木を切り倒すという本来の目的には適さない、ということが大きな理由であったのではないだろうか。<br />
値段の高低と有用性の高低とが無関係であることは、斧に限らずあらゆるものに言える自明の理である。ところが、すべてを金（通貨）の尺度でしか判断しなくなった現代では、そんな当たり前のことが分からない人（欲張りきこり）が増えている。<br />
<br />
タレントが単に料理を食べて、「う～～～ん　美味しい」と言って見せるだけの何の意味もないグルメ番組を目にすることがある。そこで供される料理のほとんどは確かに不味くはないのだろうが、中には「この人たちは舌で食べているのか？」疑いたくなる料理もある。<br />
たとえば、世界三大珍味のフォアグラとキャビアとトリュフをてんこ盛りにした丼物。確かに材料費からいって目玉が飛び出るような高価な一品かもしれないが、ごちゃまぜにされてしまったらそれぞれの風合いが失われてしまって美味しいはずがない。それなのに、画面の中のタレントはこう言う。「美味しい　最高です　究極の丼です」と。さらには、これを見て「わあ　美味しそう　私も食べてみたい」という視聴者が少なくないのだから困ったものだ。<br />
こういった食べ物は食欲を満たすのではなく、金銭欲を満たす料理。本当の味覚が退化して金銭感覚だけが肥大した現代人にぴったりの一品なのかもしれない。<br />
衣料装飾品もそうだ。もともと大型のトランク作りで定評のあるフランスブランドのスカーフを気取って身に纏ったり、馬具製造から始まって革製品に定評のあるブランドのセーターを得意げに着たり。本当の物の価値を知っている人が見たら吹き出すようなおしゃれ姿で得意顔。<br />
<br />
スポーツの世界に「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉がある。むろん、ある程度以上の技量が備わっていなければ人を指導することはできないが、人を指導、育成するにはプレイする能力とはまた質のちがう能力を要求される。ところが先の名言があるにもかかわらず、スポーツの技量が優れていると何でもできると錯覚する人が少なくない。<br />
元スポーツ選手の国会議員が大量に排出される理由だ。ちょっとサッカーが上手かっただけで、「旅人」とか称してあちこちに顔出す勘違いまで出てくる始末。<br />
こういった錯覚は一般の社会においても言える。売り上げナンバーワンの名営業マン＝名課長ではないし、名部長＝名社長でもない。逆に、課長時代にはさしてうだつのあがらなかった人が重役に就任したとたんに大活躍することも稀ではない。適材適所。営業に向いた人と、人や組織をマネージメントすることに向いた人がそれぞれいるのだ。<br />
そもそも、多くの人のトータルの能力はそれほど差がないから、何かに優れていれば、何か欠点があると考える方がよい。それなのに、営業売上で好成績をあげると、自分はすべてにおいて他人より優れていると錯覚してしまう。周囲も同じように錯覚するから始末に悪い。質や特性を考慮しないで、何か一つの軸における優劣でしかものを判断できない日本人が多くなってしまったのではなかろうか。<br />
人々から物を多面的に深く考える能力が衰えていった原因はなんだろう。それは事実をあるがままに捉えて、多面的、総合的に考える訓練をされなくなったことにある。<br />
<br />
小学校に入る前から学力という、人間の能力のごく一部だけを取り上げて何年にもわたって競争させられる。学校でよい成績をとる能力は、それはそれで重要な能力かもしれない。しかし、その能力は人間の能力のごく一部であって、それがその人の能力のすべてではない。ところが今の教育ではそのほかの能力は見向きもされず、人の価値が偏差値という無味乾燥な数値に置き換えられてしまう。<br />
テレビの普及も思考の単純化を大いに促進した。すべての出来事が良いか悪いか、偉いか偉くないかと単純化されて表現される。「水戸黄門」という化け物のようなロングヒット番組がその象徴であろう。登場人物は初めからも悪い人と良い人に色分けられて、見かけ通りの筋立てで話が進む。視聴者は安心して観ていられる。なぜ安心かといえば思考を放棄できるからだ。<br />
ワイドショーは当然としても、嘆かわしいことに報道番組まで視聴者の思考放棄に一役買っている。一つの事件である人物が容疑者となると、その人物の表情や仕草が選別されて悪人らしいカットだけが映像化される。お茶の間では容疑者＝悪い人、被害者＝よい人という単純な図式に乗って話が出来上がってしまう。こうやって現実の世界が水戸黄門化されていくのだ。テレビが急速に普及した昭和50年代に大家荘一が発した、「一億総白痴化」という言葉はまさに現在の日本社会を正確に予言していたと言える。<br />
この白痴化推進の大元を辿ると、日本社会のアメリカナイゼーション（グローバリゼーション）に行きあたる。新興国家アメリカは多民族、多宗教の入植者集団である。こういった集団を一つに纏めて社会を機能させるために、多くの要素を切り捨てて一つの軸だけに単純化し、定量的に評価せざるを得ないのだと思う。<br />
単一民族で深い文化と高い教養を持っていた日本社会が、敗戦によって豊かな物資と引き換えに、この愚かなアメリカ型思考をとりいれてしまった。複雑な事象を評価する時、その他多くの要素に目をつむって、なんでも単純に一つの軸で定量的に判断する方がはるかに労力が要らないからだ。<br />
<br />
今や物事を一面的、定量的にしか判断できなくなった日本人。学校では点数取りにあくせくし、会社に入っては営業収益という数字に追いまくられる。その結果、傍から見れば出世したと見えるのに、実際には自分に向かない仕事や職責を背負いこんで要らぬ苦労をする。そしてその苦労の割に成果が上がらず、自らも幸せ薄く、空しさだけが残る人生を送る人が後を絶たないのではないか。<br />
多くの日本人が、金の斧欲しさに鉄の斧までも失ってしまった欲張りきこりになってしまった。<br />
<br />
今一度自分の生き方を再考してみよう。見かけ倒しの金の斧ではなく、切れあじ鋭い鉄の斧の人生もいいもだと思うのだが。
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      <![CDATA[<strong><br />
【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】</strong>
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   <title>1969年1月19日、日本人が方向転換した日</title>
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   <published>2012-01-23T00:08:02Z</published>
   <updated>2012-01-23T00:09:53Z</updated>
   
   <summary>人生には大きな節目が何ヵ所かある。母親の胎内から外へ出て自身で呼吸を始める出生の...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[人生には大きな節目が何ヵ所かある。母親の胎内から外へ出て自身で呼吸を始める出生の時。２歩の足で歩き始める時。陰毛が生え、異性の存在にドキッとする思春期。種保存の役目を終える閉経。そして次世代にバトンを渡す死の時。<br />
これらは生物学的な転換点だ。しかし、ヒトにはこの他に価値観、生き方を変える心理学的な転換点もある。刎頸の友や恩師との出会い、身近な人の死、信じていた者からの裏切りなど。<br />
こういった個人的な出来事の他に民族としての精神性を大きく変える転換点もある。1867年11月9日の大政奉還、1945年8月15日の玉音放送などである。昨年の3月11日もまた我々日本人の生き方に大きな影響を与える転換記念日として将来語り続けられるであろう。3月11日のような広域災害ではなく、東京のほんの一画で起きた出来事ではあるが、私たち日本人の生き方を大きく転換した出来事がある。<br />
<br />
43年前（1969年）の1月19日、全共闘によって封鎖されていた東大安田講堂が機動隊の猛攻によって陥落した。団塊の世代の成長とともに高まった学生運動は、この日を境に急速に退潮の一途を辿ることになる。<br />
その後の日本の復興、発展の牽引車となり、今日本の社会保障費を食いつぶす厄介な存在として疎まれている団塊の世代はその日を迎えるまでの数年間、己の内に漲る力を実感して行動していた。<br />
当時の彼らを突き動かした熱病のようなあのエネルギーは何だったのだろう。その根底は、ベトナム戦争が作りだす多くの犠牲者への同情。その犠牲の上に平和を謳歌し利を貪る体制に対する義憤であった。他人の痛みを己の痛みと感じ、その痛みを取り除くために行動することが正義で、寄らば大樹の陰と日和見することが軽蔑される風潮が築かれていった。加えて、自分たちの行動で世の中を変革できるという楽観的な希望もあった。<br />
言い換えれば、多くの若者が「義を見てせざるは勇無きなり」と、侠客・義侠気取りで生きていたとも言える。彼らは大学の象徴である東大安田講堂を梁山泊に擬し、「命は鴻毛より軽し、命より名を惜しむ」との心意気で国家権力の象徴である機動隊に立ち向かった<br />
がしかし、その結果は散々なものに終わった。期待が大きかっただけに落胆も大きかった。心底無力感を味わった彼らの多くは青春の一ページを見事に破り捨て、その後は反動的な生き方を選んだ。その人生哲学とは「君子危うきに近寄らず」。<br />
<br />
他人の痛みから目をそらし、弱い者いじめを憚らない現在の嫌な風潮を生んだのは若かりし頃、弱者に涙し、社会正義の実現を声高に叫んだはずの彼らなのではないだろうか。<br />
私を含めて、団塊の世代の諸君はあの日を記念日として忘れてはいけない。そして今一度若き日の志を思い出して欲しい。そうでなければ、本当に私たちはこれからの日本にとって単なる厄介者になってしまう。<br />
生きるということは呼吸することではなく、行為することなのだから。
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>旋毛（つむじ）</title>
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   <published>2012-01-15T23:58:49Z</published>
   <updated>2012-01-16T00:00:51Z</updated>
   
   <summary>愛猫と戯れていて突然疑問が湧いた。人間の子供の頭を撫でる時は後ろから前に「いいこ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[愛猫と戯れていて突然疑問が湧いた。人間の子供の頭を撫でる時は後ろから前に「いいこ、いいこ」するのに、愛猫を愛でる時は前から後ろに撫でる。なぜだろう？<br />
答えは簡単、毛の流れが人間は後から前なのに対して、猫では前から後だからだ。猫だけではない、犬も、兎も、鼠も、みな頭部の毛は後方への流れている。動物学者ではないので確実なことは言えないが、前に向かって毛が流れているのはおそらくヒト特有の現象ではないだろうか。<br />
それではどうしてヒトの髪の毛が前に流れているのかというと、頭頂部と後頭部の境付近、解剖学的に小泉門と呼ばれる辺りに旋毛があるからである。この旋毛を中心にそれより前は前方に、それより後ろは後方に毛が流れる。<br />
ところで、旋毛はヒト以外ではどこにあって、何のためにあるのか。少なくとも猫でははっきりと旋毛といえるような物は見当たらない。だが眉間の辺りで毛の流れの方向が変わる。旋毛に類する場所と言える。<br />
旋毛の存在理由を推理する時、この場所がヒントになるだろう。雨の中を前方に向かって走っている時、視界を十分に確保するためには、毛の流れが目を中心として後方へ流れていた方がよい。雨滴が毛の流れに沿って目の周囲から後方へと移動しやすいからである。逆に毛の流れが目の方向に向かっていたならば、雨滴が眼窩へと溜まってきて見にくくなってしまう。雨だけではない。埃の類に対しても同じことが言える。<br />
ヒトは他の動物と違って直立しているから毛の流れにも違いがあって当然と考える人がいるかもしれない。がしかし、直立歩行の際にも、雨や埃から視界を確保するという観点からは眼窩を中心にして毛が後方に流れているほうが有利だ。毛が前に向かって生えているがために、目の前を雨がだらだらと垂れ落ちてとても見にくい。雨の中でサッカーやラグビーなどのスポーツをやったことのある方ならば必ずこういった経験をお持ちのはずだ。<br />
だいたい、毛が伸びると顔の前面に垂れてきて、毛自体が視界を奪ってしまう。私たちは美容上の理由以前に、生存にとってもっとも重要な視覚をより有効にするために散髪をかかすことができない。こう考えると、私たちの毛の生え方は生物学的にはかなり異例の進化と言える。<br />
こういった不利にもかかわらず、なぜヒトの旋毛はこれほど後ろにあるのだろうか。あくまで私の想像だが、旋毛の移動は合目的的な変化ではないのだと思う。ヒトは前頭葉を中心として大脳皮質が異様に大きくなった。これに伴って頭蓋骨の前半分が大きく引き伸ばされたために、旋毛も否応なく後ろに退かされたのではなかろうか。<br />
大自然の中で獲物を追って狩りをしたり、外敵からの攻撃を逃れるために視力は必要不可欠な機能である。我々はその重要な視界の確保を犠牲にしても大脳皮質の肥大を選択したということになる。その結果、外観も動物としてはかなり風変りな異端児となった。<br />
そもそも、毛が頭部、陰部、腋窩部など数か所を残して大部分が抜け落ちてしまっている。私たちは見慣れているから自分たちの姿に違和感を覚えない。さらに種保存の本能に支配されて、この特異な姿をむしろ美しいと感じる。しかし、改めてヒトの裸体を眺めてみるとはげちょろけで、相当不格好な生き物のように思う。もし宇宙人が地球上の生物を観察したとしたら、頭のてっぺんと生殖器付近にだけもじゃもじゃをつけたヒトの異容ぶりに、不気味がるのではないだろうか。<br />
この禿げっぷりも摩訶不思議である。ヒト以外の類人猿は顔面、手掌、足底以外は毛で覆われている。進化の過程のいつごろに他の部分が脱毛したのだろう。また、なぜ頭部と陰部だけは毛が残っているのだろう。疑問は尽きない。<br />
猫を撫でながら、つらつらと愚にも付かないことに頭を巡らしていた。それにしても、やはり毛は後の方に撫でる方が自然である。
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   <title>タキオン発見―タイムマシンは実現するか？</title>
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   <published>2012-01-09T01:45:56Z</published>
   <updated>2012-01-10T00:03:19Z</updated>
   
   <summary> 昨年9月に国際研究グループ「OPERA」が発表した「光より速いニュートリノ*1...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[<p>
昨年9月に国際研究グループ「OPERA」が発表した「光より速いニュートリノ<span style="color: #0000ff">*1</span>を発見した」という実験結果は世界中に大きな反響を呼んだ。なぜならば、もしこの実験結果が正しければ、現代物理学の根底であるアインシュタインの相対性理論を覆すことになるからだ。<br />
この百年近く、宇宙の真理の一つとされて、アポロ11号月面着陸やハヤブサ帰還を成功へと導いた相対性理論を否定するとなると、森羅万象のありようをもう一度根底から見直さなければならない。それほどの衝撃的ニュースであった。<br />
この実験の概要は次のようなものだ。スイス、ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機関（CERN）から約730ｋｍ離れたイタリア中央部のグランサッソー地下研究所へミュー型ニュートリノを地中を通して飛ばした。光はこの距離を0.0024秒で到達するが、OPERAグループの観察ではニュートリノが光より一億分の6秒はやく到達したという。<br />
もしこの実験結果が正しければ、ニュートリノの速度は、特殊相対性理論の柱の一つである光速不変原理によって、質量をもつ物が絶対に超えられないとする真空中の光速度29万9792.5ｋｍ/秒を凌ぐ29万9799.9ｋｍ/秒であることになる。<br />
光速不変原理では質量をもつものはその速度が光速に近付くにつれて時間の進み方が遅くなって、光速度に達すると時間の流れは止まってしまう。さらに光速度を超えた速さで進むということは時間の流れが逆になってしまい、過去に遡ってしまうことになる。<br />
と言うことは、今回の実験がもし正しいとして、この現象をニュートリノの視点で見ると、ジュネーブを出発するより前にイタリアに到着していたことになる。つまりニュートリノは過去への旅をしたことになる。長年SFファンが待ち続けたタイムマシンの実現と言える。<br />
世界中のSFファンが色めき立っているが、多くの物理学者はこの実験結果に対して一斉に疑問の声を発している。ニュートリノの発生方法、地球の自転の影響、距離測定に利用したGPSの時計の正確度などなど、未だ超光速ニュートリノの存在を確定するには問題が多すぎると言うのだ。<br />
物理学者たちがこの結果に懐疑的になるのも無理はない。もし、相対性理論を否定されたならば、自分たちが営々と積み上げてきた既存の物理体系を根底から書き直さなければならないからだ。100年前アインシュタインが相対性理論を発表した時にも既成の物理学者は、時間や空間が縮んだり伸びたりする世界を到底理解できず、一斉に否定したのだ。新しい発見とは容易には受け入れられないのが常である。<br />
かく言う私も今回の報告には懐疑的である。私は物理の専門家ではないので学術的な根拠があって否定するのではない。光の速度との差があまりにも小さいので、直感的に測定誤差なのではないかと考える。もしニュートリノが本当に物理の世界を描き直す幻のタキオン<span style="color: #0000ff">*2</span>であるのならば、もっと大差で光を追い越してほしいと考えるからだ。<br />
厳しい検証に耐えて、今回の測定結果が正しいとしても、直ちに相対性原理を捨て去らなくてもよいと言う学者もいる。その理由は、もし私たちの世界が縦、横、高さ、時間の４次元で構成されているのではなく、５次元以上の次元で構成されているとすれば、余剰次元を近道して見かけ上、光よりも速く到達したにすぎないかもしれないと言うのだ。他の逃げ道もあるそうだ。それは、ニュートリノの質量が虚数であれば今回の測定結果は相対性原理と矛盾しないと言うものだ。しかし、二乗するとマイナスになる数、虚の質量なんてもう、凡人の想像の範囲を超えてしまう。<br />
いずれにせよ、ニュートリノが光速を超えるのか否かについての結論は、今後まだしばらく時間を要すると思われる。<br />
ところで、ニュートリノがいくら光よりも速く飛んだとしても、私たちを乗せて未来と過去を好きなように行き来できるタイムマシンの完成にはほど遠い。なぜならば、私たちの身体はニュートリノよりもずっと大きな質量を持つ素粒子で構成されている。したがって、ニュートリノを推力とするロケットを作っただけでは私たちの身体は光速を超えて飛ぶことができないからだ。<br />
矛盾する話だが、今もしタイムマシンがあったならば今回のニュートリノ騒動について是非ともアインシュタインにコメントしてもらいたいものだ。<br />
----------------------------------------------------------------<br />
<span style="color: #0000ff">*1</span>：ニュートリノ：物質を構成する最小の粒子である素粒子の一つ。電荷を持たないために殆どの物質をすり抜けてしまうので検出が大変難しい。しかし、実際にはこの宇宙はニュートリノで満たされていると考えられるようになった。従来は質量を持たないと考えられていたが故戸塚洋二東京大学特別栄誉教授らの観測で微小ではあるが質量を持っていることが判明した。電子型、ミュー型、タウ型がある。<br />
<span style="color: #0000ff">*2</span>：ギリシャ語の&tau;&alpha;&chi;&sigma;&zeta;「速い」から名付けられた超光速で動くと仮定された仮想粒子。その存在は物理学では否定的だがSFの世界では良く使われる。
</p>
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>一年の計</title>
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   <published>2012-01-01T14:39:19Z</published>
   <updated>2012-01-01T14:57:39Z</updated>
   
   <summary>あけましておめでとうございます。しかし、今年の「おめでとう」は大きな声で言うこと...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[あけましておめでとうございます。しかし、今年の「おめでとう」は大きな声で言うことが憚られる。<br />
昨年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島南東沖130ｋｍの海底を震源とした東北地方太平洋沖地震はその一撃と派生して起こった大津波によって東北関東広範囲に壊滅的な被害を与えた。<br />
地震もさることながら、数十分後に北海道から千葉にかけての海岸線一帯を襲った大津波の威力は想像を絶するものであった。場所によっては高さが40ｍを超え、海岸線から数キロの地点にまで侵入。地震と津波による死者・行方不明者は２万人に達した。さらに、その津波によって東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こし、周辺地域からの避難者は十数万人に達している。この放射能汚染の解決までに後何十年かかるのかさえ不明の状態が続いている。<br />
今年はこの大震災、それに引き続く原子炉事故によって数10万に上る人々が我が家で正月を迎えることができていない。その人たちも去年の今頃は各家庭で新年を寿ぎ、一年の計を立て、佳き年であらんことを祈ったに違いない。その僅か2ヶ月後にその祈りがこれほどむなしいものとなると誰が想像しただろうか。<br />
<br />
地球はこれまでも破壊と創造を繰り返して今の姿にある。ある地球物理学者によれば、地球はここ数百年が異様に静かすぎたのであって、スマトラ沖から東日本大地震へと続く、今の状態がむしろ当たり前の姿なのだそうだ。<br />
エベレスト山の頂上も昔は海底であったことを考えれば納得できる。だが、普段我々はたかだか7,80年の一生の尺度でしか物を考えられない。エベレスト山にある貝殻のことを考えながら家を建てたりはしない。だから、地球のごく日常的な営みがしばしば人間にとって想定外の大惨事を引き起こすことになる。<br />
破壊と創造の繰り返しと言うが、破壊は自然の一撃にしろ、人の愚かな戦争にしろ、一瞬で成立する。しかし、創造は長い年月を必要とする。台風で倒された木一本でも、その高さまで成長するのには少なくとも数十年を要するのだ。<br />
さらに私たちの平穏な生活という視点に立つと再生や創造には自然の力だけでなく自分たちの不休の努力を必要とする。その努力とは人の一生の尺度の努力だけではなく、地球的な尺度も考慮しておかなければならない。<br />
とは言っても何万年も先のことを考えて行動することは無理だろう。しかし、少なくとも孫子の代の生活を念頭に置いた計画を立てなければならないことを今回の震災で学んだはずだ。<br />
ところが今の人間社会の営みはどうだろう。地球的尺度の再生、創造どころか、目先の利己心を満たすために子供世代の生活さえ脅かしている。いや、十年先の己の首さえ絞めている。何も生産せずに、ただ一日先の為替差益で富を得ようとする経済システム。破滅しか待ち受けていないのに止むことのない狭量な宗教対立。廃棄物質の最終解決法も持たないうちに行っている核分裂反応利用。次の選挙のことしか考えない政治。生涯獲得所得のことしか頭にない官僚。<br />
今の私たちの行動は再生、創造の一助どころか、自然の再生力を阻んでいる。今回の震災で一番の災いが、人間が作り出した原子炉であったことが何よりの証拠である。<br />
<br />
自然の脅威はどんなに科学が発達しても畏れ、祈るしかない。しかし、己の生き方、社会の仕組みを変えるのは我々自身でしかあり、我々がなさなければならない責務である。<br />
まずは強欲な搾取根性を捨て去り、人生目標を継続可能な慎ましい幸せに変えよう。目先の不自由を偲んで思い切った変革をしよう。既存の硬直した社会システムを変革するためには多大な自己犠牲を強いられるだろう。またこの１年で達成できるとは思わない。しかし、今私たちがchangeしなければ、未来はない。<br />
数年先の正月に、声高らかに「あけましておめでとうございます」と言えるように今年を変革の一年目として頑張ろうではないか。
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>死語を復活させよう</title>
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   <id>tag:www.clinic-nishikawa.com,2011://1.296</id>
   
   <published>2011-12-25T14:53:07Z</published>
   <updated>2011-12-25T14:55:15Z</updated>
   
   <summary>ケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイ女史は、本家の日本で死語となりつつ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[ケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイ女史は、本家の日本で死語となりつつあった「もったいない」という言葉を世界に広めてノーベル平和賞を受賞した。<br />
「もったいない」に限らず、戦後数十年で死語と化しつつある日本の言葉や喩え、ことわざが多数ある。その多くは「みっともない」で代表される「恥」に関連した言葉ではないだろうか。「後ろ指さされる」、「親の顔が見てみたい」、「人様に顔向けができない」などなどである。<br />
他人、世間から見られて恥ずかしくないような行動をするという訓えは、徳川時代から太平洋戦争終結までの日本を支えてきた行動理だ。「恥」は儒教を基盤にした武士道の重要な要素であった。<br />
戦後もしばらくの間は「恥ずかしくない」ということを行動規範にする人が多かった。この人生観は精神障害の症状にも反映されていた。つまり、私が学生や研修医であった頃は、我が国の精神障害は「恥」の意識を基盤とする対人恐怖症状が圧倒的に多いとされてきた。一方、キリスト教を信仰する西欧では神との契約を破ることへの「罪」に基づいて、自分を責める抑うつ状態が多いと教えられた。<br />
ところが近年、我が国でも精神の不調の大半が抑うつになってしまった。この理由の一つには診断法の変更がある。アメリカ精神医学の操作的診断法を採用することによって、神経症という疾患概念自体がなくなってしまった。対人緊張を主体とする神経症患者の行き場がなくなってしまったのである。<br />
しかし、この診断方法の変更を割り引いて考えても、我が国の精神科医を訪れる患者さんの主症状は対人恐怖から抑うつに移り変わったように思う。それは日本人の心の中から恥の文化が急速に衰退していったことに起因しているのではないだろうか。<br />
政治の世界に目をやってみよう。現在、坂本竜馬のような志を持った政治家がただの一人でもいるだろうか。口からでる「国益」、「国民のため」という言葉の裏に「私益」、「己のため」という本音が透けて見える。官僚もそうだ。ヨーロッパ列強の侵略を食い止め、我が国を近代化させた明治政府の官吏の気概はどこへ行ったのだろう。今は優秀な頭脳をひとえに自己利益と保身に活用している役人が多すぎる。民間に目をやっても大差はない。己の生業が社会の役に立つという誇りをもって会社経営している者がどれだけいるか。マネーゲームによって自社株の時価総額に一喜一憂している金の亡者が少なくない。いくら裕福で立派な肩書を持っていても、恥知らずでみっともない奴が多すぎるのだ。<br />
<br />
日本人が「恥の文化」に変わって「罪の文化」を獲得したかといえば、そうではない。クリスマスやハロウィンで大騒ぎをしてもそれはただお祭り騒ぎが好きなだけ。信仰心とは程遠い。本質的に神と対峙する信仰を持たない日本人は、それまで拠り所としてきた「恥」をも失って、畢竟、精神の基盤を持たない流浪の民となってしまった。<br />
ところが人間は何らかの道標がなければ安心して行動できないものである。そこで現代の日本人が行動規範として選択したものは「金」ではなかろうか。みっともなくても罪深くても金を稼げば成功。誤った勝者の論理だ。喰うものも手に入らない戦後闇市の時代に進駐軍が持ち込んだ甘いチョコレートによって、いつしか我が国は拝金教の国となってしまった。<br />
高度成長、バブルと私たちは自分の足元を見ることを忘れていた。しかし、祭りは終わった。バブル崩壊によって我々が唯一拠り所としてきた拝金教にもはっきりと影が見えてきた。今の私たちは己の行動の範とすべきものを何一つ見いだせないでいる。<br />
現代型うつ病の急増にもこうした背景があるのではないだろうか。恥いることもなく、ましてや罪の意識などないから他罰的になって、ただただ憂うつで不機嫌になる。<br />
混迷する現在の日本を救うには、私たちの行動の拠り所を取り戻すことが不可欠だと考える。そこで、私は日本人の行動規範として、「もったいない」に加えて「みっともない」の復活を切望する。さらに、この二つの精神は日本人のみならず、ますます過密状態となる地球で、世界中の人々が上手に生きていくためのキーワードになるはずだ。
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>盗人に鍵―監視強化が求められる成年後見制度―</title>
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   <id>tag:www.clinic-nishikawa.com,2011://1.295</id>
   
   <published>2011-12-19T00:43:29Z</published>
   <updated>2011-12-19T00:45:59Z</updated>
   
   <summary>私は今年５月のコラム「ガス灯症候群」で、本来、認知症や知的障害などで自己の安全や...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[私は今年５月のコラム「<a href="http://www.clinic-nishikawa.com/post_214.html" target="_blank">ガス灯症候群</a>」で、本来、認知症や知的障害などで自己の安全や財産を保全することが困難な人を守るための成年後見制度が悪用される危険性に警鐘を鳴らした。すなわち、認知症の方が、彼らを守るべきこの制度によって、かえって安全や財産を脅かされてしまった例を示した。そして、この手の犯罪が増えるのではないかとの懸念を述べた。<br />
豈図らんや、先日の新聞記事で後見人の不正による被害額が昨年の6月から今年の3月までの10ヶ月だけですでに18億円を超えていることを知った。また、昨年1年間に不正によって後見人を解任された人は286件で後見制度開始時の8倍に増えた。奸智に長けた人は私の予想よりもはるかに急増しているということだ。<br />
さらに、本人の意にそぐわない待遇にされてしまうなど、金額で表すことのできない被害を考慮すると、この制度による被害は想像を超えたものであるに違いない。<br />
後見人には弁護士、司法書士、社会福祉士といった専門職が就くこともあるが、6割以上が親族である。そして身内は善意の後見者であるとするのがこの制度の前提である。<br />
しかし、現実はそう甘くはない。目の前に大金の山。そしてその横にいる持ち主の老人は状況判断ができず、すぐに物事を忘れてしまう。こういう状況で不埒な考えが湧かない方が不思議かもしれない。殊に自分自身が経済的に困窮していたらついつい喉から手が出てしまうだろう。<br />
しかも後見の仕事は予想以上に時間と労力を要求される。わが子でも負担に感じることが少なくない。甥、姪といった立場の人の場合、少々の対価を望んだとしてもやむを得ないとも言える。<br />
ともかく悲しいことではあるが、人間性善説を拠り所とする成年後見制度は世知辛い現代社会においては期待通りには機能しないことが明らかとなったと言える。<br />
<br />
後見人の不正が相次ぐことを看過できず、法務省は支援信託を来年2月から開始することとなった。この方法は被後見者の財産の大半を信託銀行に預け、残りの少額の財産と年金などの収入だけを後見人が管理するというものである。纏まった金が必要な時にはその都度、後見人が裁判所に申請する。家庭裁判所が審査のうえ妥当と認めれば指示書を発行。後見人は信託銀行に指示書を提示して払い戻しを受けることになる。<br />
この支援信託は後見者の不正防止には役立つが、信託銀行への委託料分だけ被後見者の財産が目減りしてしまう。また、後見業務が一層煩雑なものになってしまう。将来引き継ぐはずの財産があまり多くない場合、後見の引き受け手がなくなる危険性がある。<br />
専門職が後見人であれば不正は起きにくいが、後見業務の割に報酬が少ないためになり手が少ないのが現実である。その上に、弁護士や司法書士が必ず公正無私に後見に携わるかといえば、必ずしもそうとは限らない。もし法を知り尽くした彼らが悪魔の誘惑に負けた時は親族よりももっとたちが悪い。<br />
もともと成年後見制度には、後見人の活動状況をチェクする後見監督人を置くことができるのだが、残念なことに実際にはうまく機能していない。この世はお釈迦様のような心を持った人ばかりではないのだから、誰が後見人になっても、また信託銀行を利用したとしても、後見監督人を十分に機能させることが必要不可欠だと考える。<br />
お年寄りの金庫番の役割をするはずの後見制度が盗人に鍵を預けることにならないように、皆で知恵を絞らなければならない。
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>ぴんころの奨め</title>
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   <id>tag:www.clinic-nishikawa.com,2011://1.294</id>
   
   <published>2011-12-12T02:39:28Z</published>
   <updated>2011-12-12T02:41:26Z</updated>
   
   <summary>井上陽水の初期の作品に「人生が二度あれば」という歌がある。苦労を重ねてきた両親の...</summary>
   <author>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[井上陽水の初期の作品に「人生が二度あれば」という歌がある。苦労を重ねてきた両親の姿を見て二人がもう一度青春をやり直せたらと望む息子の気持ちを歌った唄だ。<br />
秦の始皇帝は中国を統一しこの世で臨むものすべてを手に入れると不老不死の仙薬を求めて部下に命じて伝説の蓬莱の国へと赴くよう命じた。ヒトラーも不死の研究をさせていたようだ。不老不死あるいは再生は人間の永遠の願望であるらしい。<br />
自分のこれまでの人生を振り返ってみれば、後悔すべき出来事は多々あるし、60年の年の功を持って青春をやり直せば今少し業績を残せるかもしれない。しかし、実際に人生をやり直しさせてやると提案されたとしたら、私はおそらく逡巡してしまうだろう。<br />
野次馬根性旺盛な私だから、人生のターニングポイントで別の決定をしていたらその後の人生がどう展開したか、興味津津ではある。しかし、それは傍観者として眺めてみたいという話である。実際にやり直すとしたら、またくそ面白くない勉強をして、嫌いな試験を受けなければならない。まっぴらごめんだ。<br />
それに、違った決定がより良い結果に結び付くという保証もない。畢竟、人生とは「待った」の効かない一度きりの大博打だからこそ、かけがえのない宝物と言えるのではないだろうか。<br />
とは言っても、私がそう言えるのは自分のこれまでの半生にそれなりの充足感と感謝を覚えるからなのだろう。辛酸を嘗めるような悲惨な出来事しか記憶にない人は、やはりやり直したいと切願するだろう。生まれて以来ずっと、親から虐待を受けている子供等は誕生そのものをやり直したいと思うに違いない。<br />
人生やり直し願望の強さはそれまでの体験によって人それぞれかもしれないが、不死願望はどうだろう。こちらも各人各様である。私はことさら早死にしたいとは思わないが、社会や家族に貢献できなくなったならば死にたいと考えている。みんなのお荷物になって老醜をさらしたくない。人は生きていると必ず人には言えない恥ずかしい秘密を増やしてしまう。不死を望まない理由はそこにある。自分の中に溜まっている恥をこれ以上増やさないでリセットしてしまいたいというのが本音である。<br />
私に限らず、殆どの人が「そういつまでも長生きはしたくない」と口では言う。しかし、よく見ると本音では「一分一秒長生きしたい」を願っている人が少なくない。中には「この人は不老不死を真面目に信じているのではないか」と疑いたくなる人もいる。きっとこういう人は一点の曇りもない澄み切った人生を歩んできたのだろうが、私には想像できない。<br />
<br />
人生のやり直しや不老不死に関する考え方は人それぞれだが、万人に共通した願いは「苦しまない死」である。誰もがトンコロリと死ぬことを願っているのだ。<br />
長野県佐久市には「ぴんころ地蔵」が祭ってある。ぴんぴん生きて、ころっと死ぬという、誰しもが希求する生き方を求めて全国からお参り客が後を絶たないという。実際に長野県は長寿県であり、その中でも佐久市は男性、女性ともに飛び抜けて長寿である。65歳以上の高齢化率は全国平均が21.3％に対して、佐久市は25.2％。また、100歳以上の超高齢者の人口比率は全国平均が25.28/10万人なのに対して佐久市のそれは71.92/10万人である。一方、寝たきり老人の比率は全国平均の半分程度、認知症で生活に支障を期待している高齢者の比率も全国より下回っている。その結果、高齢者の一人当たりの年間医療費は全国平均の83万円を大きく下回り65万8000円にとどまっている。つまり、健康なお年寄りが多い地域と言える。<br />
佐久市が長寿市である理由は自然豊かな自然環境に因るだけではない。まずは持家比率が高く、2世代、3世代同居世帯が多い。さらに従来から地域密着医療の先駆け的存在である佐久総合病院を中心として、市をあげて高齢者の健康保全に力を注いでいる。保健指導活動、食や運動など保険福祉に関する教育・実践活動に力を注いでいる。<br />
保健、福祉にお金をかけるとそれ以上の医療費削減につながるとして全国の自治体が佐久方式を勉強している。こういう活動は福祉関連支出の削減よりも何よりも、お年寄り自身が望むぴんころ死を実現する可能性を高めるということがもっとも素晴らしい点である。<br />
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、ころっと死ぬためにはそれまでぴんぴん生きていなければならない。どこかに重大な持病を抱えていると、ころっと死ぬ前に、その病気で長い期間苦しまなければならないからだ。<br />
たとえば、高血圧、動脈硬化の果てに脳卒中を患えば、相当長い期間半身不随あるいは寝たきりの生活を余儀なくされる。糖尿病で腎不全になれば死ぬまで週3日は透析を受けなければならない。<br />
日頃から健康でぴんぴん生きていれば、すべての臓器や器官が自然に老化していき、各人の持ち時間がくると一斉に「それではみなさんさようなら」と活動を停止する。それほど苦しまずに三途の川を渡ることができる。この死にざまを「天寿を全うする」と言うのだろう。<br />
ここで一つ皆さまが大いに勘違いしやすい点がある。ぴんぴん生きるということは、長生きすることを目的に健康状態に汲々として生き長らえる状態を言うのではない。心身ともに充実した日々を送った結果、長生きをするということなのだ。長く生きることは結果であって目的ではない。明日お迎えが来るかもしれないから、今日この時を実りある1日にしようという姿勢こそがぴんぴんなのだ。だがしばしば生きる目的と結果が取り違えられて、ただの健康オタクを増やす結果となる。<br />
だが実際は、ぴんころを実践した超高齢者には健康オタクは少ない。亡くなる間際まで畑仕事をし、酒と煙草をたしなむ生涯現役の人が多いのだ。<br />
こう考えてみると、ぴんころをより多くの高齢者に実践してもらうためには健康教育も必要だが、お年寄りに家族や社会の中で活躍できる一定の役割を与えてあげることこそがもっとも重要なのかもしれない。<br />
ますます進行する超高齢者社会に対して介護施設を増設するだけではなく、もっとお年寄りに活躍していただく場を増やす必要があるのではないだろうか。
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      <![CDATA[<strong><br />
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   <title>精神科診断の混乱が生んだ現代型うつ病</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.clinic-nishikawa.com/post_244.html" />
   <id>tag:www.clinic-nishikawa.com,2011://1.293</id>
   
   <published>2011-12-04T15:00:04Z</published>
   <updated>2011-12-04T23:58:24Z</updated>
   
   <summary>最近我が国に登場し、急速に社会問題化されてきた病名がある。それが現代型うつ病であ...</summary>
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         <category term="9422011年12月" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[最近我が国に登場し、急速に社会問題化されてきた病名がある。それが現代型うつ病である。<br />
現代型うつ病は新型うつ病あるいは逃避型うつ病とも呼ばれ、社会的に認知されつつあるが、医学的に定義された正式の病名ではない。特徴としては比較的若い世代（20～30代）の勤労者に多く見られ、①仕事などの嫌なことはできないが、趣味のことや友人との飲み会などには活発に参加する、②人の評価を極端に気にする、③プライドが高くそれを守ることにエネルギーを消費する、④抑うつ気分はあまり目立たず倦怠感、易疲労感、億劫さが主症状、⑤自責感がなく、他罰的で人を責める⑥このために円滑な対人関係を維持することが難しい、などである。この他、従来のうつ病が不眠を呈することが多いのに対して過眠を呈することが多く、食欲に関しても従来のうつ病のように食欲不振になるのではなく、むしろ過食して太ってしまうことが多い。<br />
こういう若者の絶対数が増えているのか否かは分からないが、昔に比べて敷居が低くなり、駅前ビルに乱立するメンタルクリニックに受診する人の中にこういうタイプの患者さんが増えたのは間違いない。<br />
現代型うつ病が社会問題となっている理由は医療と産業活動との両分野における困惑にある。医療面では狭義のうつ病に奏功する抗うつ薬への感受性が低い。また、休息をとらせて義務から解放するという従来のうつ病に対する精神療法では解決しない。このために、いたずらに抗うつ薬を始めとする向精神薬の処方が長期間にわたり、しかも事態はいっこうに改善しないという状況が増えている。<br />
企業はその対応にもっと混乱している。仕事を覚えてもらおうと少し厳しく指導すると不調を訴えて出社しなくなる。金曜日には元気にしていたのに月曜日になると遅刻や欠勤を繰り返す。やがて「うつ状態」という診断書を提出して長期休暇に入ってしまう。療養中のはずなのに仲間からの誘いには応じて飲み歩いている。中には海外旅行で真っ黒に日焼けしてくる者までいる。厳しく叱責あるいは解雇したいところだが、診断書が出ている以上そういうわけにはいかない。いったいどう対応してよいのか皆目見当が付かないのである。<br />
家族も同様に戸惑っている。「うつ病の人は励ましてはいけない」という教えが広く啓蒙された。この原則に従って接していても、いっこうによくならない。お昼近くに起きてブランチをとると、夕方までパチンコ屋にいる。夕食後は明け方までパソコンに向かって何やらやっている。業を煮やして「早く仕事に戻るためにも早く寝たら」と注意すると、「そんなふうに強制されると余計やる気が出なくなってしまうじゃないか」と逆に本人から叱られてしまう。患者を取り巻く多くの人がどう対応してよいか分からずに困惑しているのだ。<br />
<br />
だがちょっと待ってほしい、そもそもこの病態をうつ病と呼んでよいのだろうか。従来型の診断法を教えられてきた私には、現代型うつ病と称される患者の多くがうつ病とは考えられないのである。<br />
ドイツ精神医学を基礎とする従来の精神医学では症状のある無しだけではなく、深く病因論にまで踏み込んで診断した。すなわち、遺伝歴、生活歴、病前性格、内因および環境因の関与の度合い、経過診断、似た症状を示す身体疾患や薬剤性疾患からの鑑別などを総合判断して診断した。<br />
また、それぞれの因子はただ単に羅列するのではなく、より重要なものとあまり重視しないものに重み付けされた。たとえば、うつ病の精神症状としては、憂うつ、悲哀、億劫、不愉快、絶望、厭世、悲観、不満、寂莫、優柔不断、屈託、羞恥、罪悪・自責感、後悔、当惑などが挙げられるが、憂うつ感や罪悪・自責感を羞恥や当惑などと等価には扱えない。罪悪・自責感は本当のうつ病（内因性うつ病）と診断するためにはかなり重要な症状となる。この点から言って、自分ではなく他人を責める傾向の患者にうつ病の診断はつけがたい。<br />
また、億劫でやる気が湧かないという症状についてだが、本当のうつ病の患者は楽しいはずのこともできなくなる。仕事はできないが旅行は楽しめるという病態にうつ病と診断するのは難しい。<br />
<br />
1980年にアメリカ精神医学会が発表したDSM-Ⅲの登場以来、病因論に深く踏み込んだ従来型の診断は精神症状のみを統計的に扱った操作的診断法にとってかわられた。従来型の診断は医師の主観的な判断によるところが多く、技量の差によって診断が異なることが珍しくなかった。すなわち、以前の診断では極めて多数の因子の解析と総合判断力が要求されるために、卒業間もない研修医とベテランの精神科医とでは異なった診断になってしまうことが多かったのだ。また、権威者の独断が客観的な判断を妨げることもあった。DSMやICDの普及はこういった点を補正して誰もが同じ診断になることを目指し、世界中に広まった。<br />
事実、症状リストをチェックして簡単に診断名に辿り着く操作的診断では未熟な研修医でも、看護師、ケースワーカーといった医療周辺スタッフでも同じ診断名に辿り着く可能性が高くなった。<br />
こうして、共通の診断名で多くのスタッフが語れるようにはなった。それどころか、患者自身がチェックリストを使って簡単に自己診断できるようにさえなった。その共通の診断レベルが高かったならば文句なしである。ところがそうはいかなかった。全員が低いレベルの診断で喧喧諤諤議論する事態になってしまったのだ。<br />
考えてみれば至極当然のことで、どんな物事でも習熟の度合いによって成果に差が出るのが当たり前のことではないだろうか。研修医が見逃していた胸のレントゲン写真の陰影をベテランの放射線科医師が見つけることができるのは当然である。ベテランの工員が作った工作部品と新人のそれとに差があって当たり前だ。それと同じことである。デリケートで包括的な精神症状を前にして、習熟度に関係なく同じ診断ができるはずが無い。もしそれができるのならば医学教育は無用の長物と化す。<br />
さらに、売りの一つである客観性さえ怪しいものである。なぜならば、いくら診断基準を列挙して「幾つ以上の項目が満たされれば○○○と診断する」と、一見客観的で科学的なように見えても、それぞれの症状を検知する能力に差があれば診断は大きく異なってくる。入口を間違えれば正しい出口に辿り着く筈がないからだ。<br />
結局、操作的な診断法の台頭が精神科医の診断技能の低下をもたらした、と私は思う。チェックリストを見て診断し、無定見にSSRIを処方するメンタルクリニシャンが多くなってきたことは嘆かわしい限りである。現代型うつ病とはこういった精神医学の混乱が生み出した鬼っ子ではなかろうか。<br />
<br />
私は、現代型うつ病と称される一群の患者さんの中には、すでに死語となってしまった神経症やヒステリーの患者さんが少なくないように思えるのだが、それは私が古臭い精神科医だということなのだろうか。
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   <title>愚か者</title>
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   <published>2011-11-28T00:00:46Z</published>
   <updated>2011-11-28T00:02:36Z</updated>
   
   <summary>「愚か者」、「うつけ者」は馬鹿者を意味する。しかし、知能指数が低い精神発達遅滞者...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[「愚か者」、「うつけ者」は馬鹿者を意味する。しかし、知能指数が低い精神発達遅滞者とはニュアンスを異にする。<br />
<br />
大王製紙前会長、井川意高（もとたか）（47歳）が特別背任容疑で逮捕された。容疑内容は大王製紙の連結子会社から総額106億円も借り入れてカジノに使ってしまったというものだ。使いこんだ額も前代未聞だが、その使い道もまた破天荒。一部上場会社のオーナー会長としての資質どころか一人前の大人なのかさえも疑われる行為である。呆れて口が塞がらないとはこのことだ。<br />
井川家や大王製紙と縁もゆかりもない私だから口を開けておくだけですむが、関係者はいったいどういう思いでこのニュースを聞いているのだろうか。虎の子の資金で大王製紙株を買った株主の怒りもさることながら、時給何百円かで一生懸命働いている大王製紙関連企業の従業員の無念さは想像に余りある。<br />
ワンマン経営者が会社の金を私物化する例はこれまでにもよくあった。しかし、今回ほど児戯的な行為はなかったのではないだろうか。<br />
リヤカーによる古紙回収から身を起こした祖父、一度潰れかけた同社をティッシュペーパーのまとめ売りで立て直した中興の祖である父。当然、井川家は大王グループ内で天皇家のような存在になった。3代目に当たる意高が将来グループ企業の総帥になることを運命づけられて教育されてきたことは想像に難くない。はたして井川家の帝王学とは。<br />
意高は小学生の頃から飛行機で東京の進学塾に通っていたという。その甲斐あって、有数の進学校に進み、さらには東大法学部に合格する。さぞや親も鼻高々であったろう。ところが彼は学生時代からギャンブルにはまり、銀座の高級クラブの常連だったとも聞く。学生の分際でそういった金の使い方を覚えるのも井川家にとっては帝王学であったのだろうか。<br />
外見はテレビで見るとおり、すっきり爽やかな二枚目。とても47歳には見えない。この外見を若々しくて素敵とみることもできようが、未熟で責任感のない青二才にも見える。今回の行動に鑑みれば後者が正しいと言える。<br />
東大の入試を突破する能力は育ったものの、大人として身につけておかなければならないそれ以外の力、道徳力、責任感、人を思いやる力など、そして何より、やって良いことと悪いことの区別ができる能力は一切育たなかったようだ。結果として、英語の単語を覚えたり数学の問題を解く能力以外の重要な多くの能力が欠落した未熟な大人もどきが出来上がってしまった。こういう人間を愚か者、うつけ者と呼ぶ。<br />
現代では試験問題を解く能力だけを見て頭の良し悪しを問うようになってしまったが、性格を含めてそれ以外の人間力も実は脳の機能である。したがって意高のような男を「頭がいいのに無責任な男」と表現するのは実は間違いなのである。「試験問題を解く能力だけしかない頭の悪い男」なのだ。<br />
井川家の帝王学はこういう頭の悪い男を育て上げた。子供を育てるのも脳の能力の一つなのだから意高の親もまた愚か者と言える。改めて親の顔を見てみたい。<br />
<br />
若さを売り物にする傾向は意高に始まったことではない。実際に政治家を見ても昔の政治家に比べて皆若々しい。街を歩くサラリーマンも実年齢より若く見える人が多い。外見は中身をよく表す。日本人全員が昔に比べて未熟なように思う。実際、結構な地位にいるのに大人としての責任あるけじめをつけられない人が増えている。言い換えれば、愚か者が増えたのだ。<br />
こうなった原因は何か。私は、戦後の親たちが教育とは試験の点数を取る能力を高めることだと思い違いしてきたことにあるように思う。そういう親は、教育は学校や塾の責任だと思っている。だから、学校で何かあるとヒステリックに教師たちを責め立てるばかりで、親としての自責のかけらも持ち合わせない。ところが本当に大事な教育は学校では教えられないことなのだと私は思う。それは家庭や地域で親や身近な人が身をもって教え込むことなのである。<br />
戦後における家族と地域の崩壊は我が国に深刻な社会病理をもたらした。
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   <title>グローバリゼーションという呪文から目を覚ませ</title>
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   <published>2011-11-20T14:27:47Z</published>
   <updated>2011-11-20T14:29:54Z</updated>
   
   <summary>家族水入らずで、すき焼きを食べていると町の顔役がやってきて、「その肉はやめてうち...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[家族水入らずで、すき焼きを食べていると町の顔役がやってきて、「その肉はやめてうちの肉を食べろ」と押し売りする。老後のことを考えて貯蓄していると、またもや件の顔役がやってきて、「貯蓄なんかしないで俺に金をよこせばいざという時に面倒見てやる」と脅してくる。親からの言い伝えにそって子供を躾ていると例の顔役がこう言う。「そういう考えは間違っている俺様の言う教育方針で子供を育てろ」。<br />
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という諺がある。人はそれぞれ分相応の考え方や行動をし、自分の力量に応じた生活をするのがよいと言っている。<br />
実際に私たちはそれぞれの家族構成、収入、家の立地条件、環境条件、人生観に合わせて自分たちに見合った生活様式を選択している。億万長者と年収300万円の家が同じ生活を強いられたならば、貧しい家庭の生活はあっという間に破綻してしまうに違いない。<br />
しかし、自分にあった生活をすることをよしとせず、どの家庭も同じ行動、同じ生活様式をしろと強要する顔役が幅を利かせる街に住みたいか？私はご免こうむりたい。<br />
TPP推進派の主張のキーワード、グローバリゼーション推進とはまさにこの強要に他ならない。各国それぞれお家事情が違うにもかかわらず、これが世界標準だといって社会、文化、経済活動を単一化することが正しい道なのだろうか。また、その標準とは誰がどうやって決めるのか。<br />
<br />
グローバリゼーションは大航海時代に端を発する。そしてヨーロッパ諸国による植民地主義とともに本格化した。第二次世界大戦後はアメリカを中心に多国籍企業が台頭して現代のグローバリゼーションが始まった。この流れが急加速したのは1991年ソビエト連邦崩壊後である。冷戦の終結による自由貿易圏の拡大と運輸、通信自術の飛躍的な発展に伴ってグローバリゼーションが声高に叫ばれるようになった。<br />
グローバリゼーションとは必然的な社会現象である。しかもインターネットの普及によって動かしがたい大きな流れであることは間違いない。そしてグローバリゼーションはさまざまな恩恵を我々にもたらす。情報の共有化によって科学技術や文化の発展を助け、多くの人がそれを享受することができるようになる。各個人が幅広い自由を得る可能性がある。各国がより密接に結びつくことによって戦争を回避できるかもしれない。環境問題など地球規模の課題に地球人として取り組むことが可能になる。などなどである。<br />
しかし何事も功罪併せ持つものである。殊にこの社会現象に乗じて私利増大を図る者によって強引に方向付けされることによって、グローバリゼーションの負の側面が増大し、深刻な状況をもたらしている。投機資金の短期間での移動による株式市場の混乱、国内資産の海外流出、国際競争に勝ち残るための労働基準の環境基準緩和や社会福祉の切り捨て、多国籍企業や大資本家による搾取の強化とそれに伴う国内産業の衰退とプレカリアート（非正規雇用者および失業者）の増大などである。さらには各国の風土の中で醸成されてきたシステムや文化の崩壊を招いている。<br />
世界標準として、本当に地球全体の平均値あるいは中央値を選択するならばこれほど大きな弊害は起こらなかったであろう。しかし、現在グローバリゼーションを推し進めようと躍起なのは、強欲な多国籍企業や資本家、そして彼らを後ろ盾とするマスコミ、御用学者といった連中であり、彼らが示す世界標準とは世界の標準とは程遠いアメリカの社会、経済、文化（成熟した文化があるか甚だ疑問だが）なのだ。今、強引に進められようとしているグローバリゼーションとは実はアメリカナイゼーションに他ならない。つまりグローバリゼーションとは形を変えたアメリカによる植民地拡大と言える。<br />
<br />
グローバリゼーションを盲目的によいことと信じ切ってはいけない。いったんグローバリゼーションの呪縛から解き放たれる必要がある。そして、もう一度これからの世界のあり方を考え直す時に来ているように思う。ウオール街デモの拡大はそれを象徴する出来事だろう。私は従来の資本主義経済の終焉が近いのでないかと考える。
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   <title>TPP―対岸の火事ではなくなったSiCKO（シッコ）</title>
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   <id>tag:www.clinic-nishikawa.com,2011://1.289</id>
   
   <published>2011-11-14T00:17:09Z</published>
   <updated>2011-11-14T00:19:18Z</updated>
   
   <summary>このところ新聞の一面を賑わすTPPという言葉を正確に理解している者がどれだけいる...</summary>
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         <category term="9432011年11月" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[このところ新聞の一面を賑わすTPPという言葉を正確に理解している者がどれだけいるだろうか。私は社会の出来事にそれほど無関心ではない。しかし、経済学を学んだことが無く、医療という井戸の中で生活してきたので、未だTPPの全容を把握できていない。<br />
ワイドショーに登場する町の声を聞いても「食材が安く買えるようになるからいいんじゃない。」、「日本の農業が完全に壊滅してしまう。」、「乗り遅れたら大田区の町工場は潰れてしまう。」といった断片的な発言ばかりで、国民がTPP参加のもつ真の意味を理解しているとは思えない。<br />
<br />
TPPとは（Trans-Pacific Strategic Economic Partnership AgreementまたはTrans-Pacific Partnership）の略で、日本語では環太平洋戦略的経済連携協定と言う。経済連携協定（EPA）の一つであり、加盟国間での工業製品、農水産物を含む全品目の関税を撤廃する他、政府調達（国や自治体による公共事業や物品、サービスの購入など）、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃して自由にする協定である。<br />
現在シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの４カ国が加盟し、アメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの５カ国が加盟を表明している。<br />
ハワイで開催されているAPEC（アジア太平洋経済協力会議）において、議長を務めるオバマ大統領へのお土産として日本のTPPへの参加表明という野田総理の暴挙がなされる。<br />
このTPP参加表明がなぜ暴挙なのかと言えば、TPP加盟によって我が国にどのような具体的変化が想定され、それに対して政府がどのように対応しようとするのか全く説明が無いままに飛び乗ったからだ。<br />
野田はこの問題について「国民の議論が煮詰まれば決断する」と言ってきた。にもかかわらず、煮詰まるどころか多くの国民がTPPのTさえも十分に理解しないうちにアメリカへの貢物として捧げだした。これは民主主義をないがしろにする売国の行為と言えよう。<br />
野田と彼を操る一派の国民を愚弄する行為は今回のTPPに始まったことではない。彼は11月3日にカンヌで開催されたG20サミットにおいても、未だ国内で議論真っただ中の消費税引き上げを、勝手に国際公約してしまった。国民に周知する前に対外的に発表し既成事実化するという手法は卑劣極まりない。どじょうを自称しているが正体はどうやら派手好きで悪食の鯉であるらしい。<br />
<br />
冒頭にも述べたとおり、私はTPPが日本にどのような変化をもたらすのか、全体を理解しているわけではない。しかし、私の生業である医療にとっては致死的な毒になると考える。なぜならばTPPには医療に関する障壁を取り除くと明確に記されているからだ。これは、数年前にヒットしたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画、「SiCKO（シッコ）」に描かれていた、狂気の医療ビジネスが我が国に持ち込まれることに他ならない。<br />
アメリカでは、日本で当たり前となっている国民皆保険制度がない。自由主義を掲げる国アメリカではすべてが自己責任に帰するからだ。したがって病気やけがの治療は原則、全額自己負担である。<br />
当然ながら、お金のある人は高水準の医療を受けることができるが、貧しい人は医療を受けることができずに死んでいく。しかも何でもかんでも「マネー！」、「マネー！」のアメリカのことだから、医療行為の一つ一つのお値段は目の玉が飛び出るほどの額である。喘息治療の吸入薬１本がなんと10,000円以上もする。当然、一部の富裕層を除けば、一般の中流家庭でも、いったん家族の誰かが病気にかかってしまったら、それをきっかけに貧困家庭へと転落していかざるを得ない。<br />
そういう事態を避けるために、中流階級の人々は民間の保険会社の医療保険と契約して、いざという時に備える。こうして、本来営利的性格とは似つかわしくない医療の世界に、金の亡者の代表、巨大資本の保険会社が闖入して医療を取り仕切っている。<br />
営利追求が本来の目的である民間の保険会社がその職務を全うするためにはどうすればよいか。その答えは実に簡単。掛け金だけいいただいて支払わない。映画SiCKOではこの基本方針がぶれることなく徹底的に遂行される現実が克明に描かれている。<br />
TPPが実現すればまた、長年アメリカが日本に要求してきた医療機関の株式会社参入が公然と行われることにもなる。病院が株式会社となるということは、病院の使命が患者の救済から営利追求に切り替わることを意味する。病院は利益を上げることに全身全霊を上げて努力しなければならなくなる。<br />
保険会社と結託した株式会社の医療機関は支払い能力のある人間だけに手厚い医療を提供し、金のない人間は玄関先で命を絶っても無視する。SiCKOの中に、入院していた老人が、医療費を払えなくなったという理由で、点滴用のチューブをつけたまま車で運ばれて路上に捨てられる衝撃的な場面がある。極悪非道なアメリカの医療の実態を象徴するワンカットである。<br />
小泉のブッシュへの貢物であった保険会社の門戸開放が徐々に実を結びつつある。毎日のように観ているとアメリカ系の保険会社の「医療保険」のコマーシャルに違和感を覚えなくなってしまった。でもよく考えてみよう。国民皆保険制度の日本でなぜ民間保険会社が医療保険を販売しているのだろう。<br />
現在の日本ではすべての国民が健康保険に加入して、平等な医療を受けることができる。しかし、いったん病気になると医療行為そのもの以外にも多くの支出を余儀なくされる。入院時の差額ベッド代、通院時のタクシー代などなどである。これまでは、こういった医療周辺の支出には生命保険の疾病特約などが対応していた。この部分だけに特化した保険がいわゆる医療保険である。この分野は日米の取り決めで2001年まで外資系保険会社が独占してきた。<br />
TPPが実現するとどうなるか。ここから先は私の想像だが、医療保険の守備範囲が徐々に拡大してやがては公的な健康保険にとって代わると考える。<br />
まずは混合診療が公認される。はじめのうちは先進的医療行為を健康保険でまかなうと保険財政がパンクするというキャンペーンがはられて先進的医療行為は健康保険では受けることができなくなる。そしてその医療費を保証するべく医療保険の市場が拡大する。やがて間違いなく、発生頻度の低い疾患を健康保険対象から除外される。なぜならば、市場拡大を狙う保険会社と、国の医療にかかわる支出を削減したい国の利害とが一致するからである。最後には感冒や単純な高血圧といった疾患だけが健康保険の対象疾患として残されるだけになって、少し手のかかる病気はすべて自費になる。当然自費では払えないから民間の医療保険に入っておかないと医療を受けられないという図式が完成する。<br />
私はこれだけでは終わらないように思う。今でも国は医療費の支払いを「出来高払い制」から「まるめ方式」に変えたくてしょうがない。「まるめ方式」とは個々の病状とは関係なく、診断名で治療費を決めてしまうやり方だ。このやり方は感冒ならば○○円、高血圧ならば一ヶ月に△△円と一律に価格が決定される。すぐに治ってしまう感冒でも、重症で長引いた場合にでも、そんなことはお構いなしに○○円が医療機関に支払われる。高血圧も同じである、薬の質、量、検査の有無とは無関係に1月の診療費が決定されて支払われる。<br />
過剰な処方や検査を防ぐためにはよいかもしれないが、一層、経済的観点だけから医療が行われるようになる。医療機関は赤字になるわけにはいかないので、効果がどうであろうと安い薬しか使わなくなるし、必要な検査も控えられることとなる。なにせ、何もしない方が儲かって、医療行為をすればするほど赤字になってしまう仕組みだからだ。こうして、これまで世界でトップレベルの医療を受けられていた日本国民も健康保険だけでは、アメリカ人と同じように本当に最低限の医療しか受けられなくなる。<br />
ここにまた民間保険の金儲けの場ができる。日常的な病気に対しても、少しでもましな医療を受けたい裕福な人はさらに民間医療保険を上乗せすることになる。こうして日本の国民皆保険制度は完全に崩壊する。<br />
それでは公的保険にとってかわった民間保険が私たちの健康を守ってくれるのだろうか。甚だ疑わしい。保険会社は支払いの段になるとなんやかんやといちゃもんをつけて踏み倒そうとするにきまっている。私の推測を裏付けるように、もうすでに我が国の医療保険において保険金の不当不払いが問題化している。<br />
<br />
TPP推進論者たちは、ともかく参加して個別の問題に対しては毅然と日本の国益を守ればよいと、口先のきれい事を言う。しかし、圧倒的な軍事的プレゼンスを持ったアメリカに、これまで我が国が毅然とした態度をとってこれただろうか。ましてや、TPPとなれば、二国間交渉ではない。日本とは利益が共通でないアジア、オセアニアの票を集めたアメリカの一方的な寄りきりになることは火を見るよりも明らかである。<br />
何よりも今回の決定を許せない理由は、国家の存亡にかかわる重大事項を、国民の理解どころか、なんら説明もなされぬままにアメリカへの追従行為として決定したことである。<br />
野田は歴史に残す総理となるかもしれない。わが国をアメリカの植民地として捧げた男として。
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   <title>杞憂</title>
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   <published>2011-11-06T23:56:02Z</published>
   <updated>2011-11-06T23:58:47Z</updated>
   
   <summary>昔昔、中国の杞（き）の国に天が落ちて地が崩れたならば、身の置き所が無くなってしま...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clinic-nishikawa.com/">
      <![CDATA[昔昔、中国の杞（き）の国に天が落ちて地が崩れたならば、身の置き所が無くなってしまうと心配して夜も眠れず、食べ物も喉を通らなくなった男がいたという。この故事から、心配する必要がないことをあれこれ心配すること、あるいは取り越し苦労のことを「杞憂（きゆう）」と言う。<br />
<br />
人間は意識水準が覚醒状態の時には、何も考えないでいるということができない。何かしら考えている。そして目の前の課題のこと以外に、過去の出来事や先々起こるであろうことに思いをはせる。<br />
過去の栄光の日々や楽しかったことを想い出すと心が温かくなり自信が湧く。しかし、つらい想い出や失敗を思い出すと気分が滅入って自信を失う。最近、ニュートリノの一部が光速よりも速く飛ぶ可能性が出てきたために、遠い将来はタイムマシンができて、過去をやり直すことができるようになるかもしれない。しかし、ここしばらくは、我々は現在でしか生きられない。過去をやり直すことはできないのだ。それでは失敗の想い出にはどう対処すればよいのだろう。<br />
失敗した原因を検討して将来同じような状況に立った際、同じ轍を踏まないように反省することがもっとも建設的な対応であろう。しかし反省という作業は出来事の直後でなければ成立しない。細かく正確な事実関係に関する記憶がそう長く維持されないからだ。時間が経つと、事実に関する記憶は薄れてしまうのに、「失敗してしまった。大変だ。どうしよう。」という感情的な記憶は減衰しない。だから、スポーツで敗戦した時の反省会は試合直後に行わなければ意味がない。時を経てからでは後悔を共有し、愚痴を言い合うだけの残念会になってしまう。そして後悔は心を苛むだけでなんら益をもたらさない。<br />
<br />
一方、これから起こるであろうことに対して考えることは必要な場合がある。約束に遅れないためには交通状況を予測して家を出ないと、大事な商談を失うことになる。明日の天候を考慮しないで身支度をすると、木枯らしで大風邪をひくことになりかねない。<br />
ところが人間はこういう有益な心配だけをするわけではない。「来年の人事異動で大嫌いな上司と一緒になったらどうしよう。」「日本の上空にオゾンホールができたらどうしよう。」天が落ちてくるとまでは言えないが、考えてもしょうがないことを心配する。そしてその多くは杞憂に終わるのだが、そうするとまた別のことが心配になる。<br />
ところで、先ほど後悔の無益さについて話をしたが、実は後悔は無益であるばかりか将来に対する不安を生み出す大元でもある。「あの時やってしまたことがばれたらどうしよう。」、「あんなふうに決めなければ今のような状況にはなっていなかった、これからいったいどうなってしまうのだろう。」、「あんなつらい思いはもうたくさんだ。だけどまたあんなふうになりやしないか。」といった具合にである。<br />
こうして私たちは杞憂を沢山抱え込むことになる。特に、うつ状態になると楽しいことは想い出さず、いやなことつらかった過去、不安なことばかりが次から次に頭に浮かんでくる。そうして目の前にある課題に集中することができず身動きが取れなくなってしまう。<br />
ところで、こういった不安は全くあり得ないことなのだろうか。残念ながらそうではない。マグニチュード９を超える大震災を誰が予想したろう。それまで地震恐怖症と扱われていた人の不安は3月11日を機に杞憂と笑うことはできなくなった。また、小惑星の地球衝突は、いずれは不可避と考えられている。天が落ち地が崩れることだってあながち馬鹿げた心配ではないのだ。こう考えると心配すべき心配と、心配する必要のない心配との間に明瞭な線を引くことはできない。<br />
実は杞憂のもとになった寓話には続きがある。<br />
天が落ち地が崩れることを心配する男を心配する男がその男に言ってきかせた。「天というものは気の積み重なったものに過ぎない。気はどこにでもあって、私たちもその気の中で生きているのだ。どうしてその天が落ちてくるなどと心配するのかね」<br />
「天がほんとうに気の積み重なったものなら、日や月や星は落ちてくるだろう」<br />
「日や月や星もやはり気の積み重なりで、その中のかがやきを持ったものにすぎないのだ。だからたとえ、落ちてきたとしても、あたって人にけがをさせるというようなものではない」<br />
「地が崩れたらどうしよう」<br />
「地というものは土の積み重なったものにすぎない。土は四方にみちふさがっていて、どこにでもあるものだ。人が歩いたり踏みつけたりするのは、みんな一日中、地の上でやっていることなのだ。どうしてその地が崩れるなどと心配するのかね」<br />
心配していた男は釈然としておおいによろこんだ。<br />
それを見るといいきかせた男もおおいによろこんだ。<br />
この話を聞いた賢人がこう言った。「天地が崩れはしないかと心配するのは、あまりにも先の心配をしすぎると言わなければならないが、崩れないと断言することもまた正しいことではない」<br />
「天地が崩れようと崩れまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地が大切なのだ」。<br />
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つまり、心配を実現性の大小で議論しても意味がない。心配することが役に立つならば大いに心配すればよい。しかしいくら心配しても自分の力ではどうしようもないことは放っておくしかないのだ。地震で言えば、防災グッズを備えて避難路を確認したら後は運を天に任せるしかないということである。<br />
ところが無心の境地と言われても凡人がたやすくそんな境地になれるわけはない。理性では天文学的な確率でしか起き得ないと分かっていても頭からその心配を払拭することはできない。それが人間なのだ。ましてやうつ状態に陥った人に無心の境地を説くこと自体が酷というものである。それではそういった不安にどう対処したら良いのか。<br />
私は以前、登山家から山登りの極意を聴いた。<br />
「高い山に登る時は、いつも視線は自分の足元から1～2メーター先に固定すること。あまり上を見るとこんな崖を登れるのだろうかと不安になる。一方下を見るとこの絶壁を落ちたらどうしようと足がすくむ。1～2メーター先を見つめて一歩一歩進んで行くと、いつの間にか頂上へ着く。」<br />
不安が強い患者さんと接するとこの言葉を思い出してこう言うことにしている。「過去を振り返ってもやり直しはききません。あまり先のことを考えても予測不可能です。今日と明日のことだけを考えて一生懸命生きましょう。気が付くと日を重ねて多くのことを成し遂げています。」
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