投稿日:2016年6月27日|カテゴリ:コラム

最近出会ったおやじさん。「大変だ。大変だ。」と大騒ぎ。何が大変なのかと尋ねると、長男が大学受験なので大変なのだと言う。

最近は大学の受験料、入学金、授業料がひどく高いので、学費を捻出することに苦労しているのかと思ったら、そうではない。

「仕事から帰って受験勉強に夜遅くまで付き合うので寝不足だし、昔の記憶をたどりながら数学や英語と格闘するので大変なんです。」と言うではないか。

唖然としたが、気を取り直して「大学受験をするのは息子さんでしょう。貴方じゃないんでしょう?おやじは一生懸命学費を稼いでくればいいんじゃないですか?」と言ってみた。返ってきた言葉は、「先生は今の受験競争の厳しさを知らないからそんなこと言っているんだ。」と叱られてしまったので、その後何も言えなかった。

このおやじだけが特殊なのかと思っていたら、数日後またもや「受験で大変だ」と言うお母さんに出会った。

今度のお母さんは高校受験の娘の受験勉強に付き合っているうちに、不眠、動悸、食欲不振など多彩な症状が出てしまったという。どうやら、夜遅くまで娘さんと一緒に練習問題に取り組んでいるらしい。

「受験するのは娘さんでしょう。あなたが問題を解いたってしょうがないじゃないですか。それよりも、大事な受験の前にお母さんが健康をくずしてしまうことの方が娘さんにとってよっぽどマイナスですよ。」と言ったが、やはりこのお母さんも納得した顔付きではなかった。

お二人とも、当の子供さん以上に受験勉強に熱心な様子。口を酸っぱくして「勉強しろ。勉強しろ。」と言っていたが、それだけではなかなか子供が思うように勉強に励まない。そこで、自らが率先して勉強することになってしまっているらしい。

口先だけで「勉強しろ」と言っているよりはましだが、子供と一緒になって過去問題に取り組んだところで、子供たちの学力が上がるとは到底思えない。

漢字を教えたり、九九を覚えさせたりといった小学校低学年の段階では親が教えることに意味があるかもしれない。しかし、若い頃かなり優秀な成績をとっていたとしても中学校の高学年以降は、昔取った杵柄といった具合にはいかないのではないだろうか。親の出る幕ではないと思う。

しかも、これは私の偏見かもしれないが、若い頃たいして熱心に勉強しなかった人ほど子供に勉強を強いる傾向があるように思える。なぜならば、若い頃、真剣に勉強した人ならば、親から言われたからといって勉強をするようになるなんてありえないことを分かっているからだ。

思春期以降の勉学は、何らかのきっかけで「よし勉強しよう」という本人自身の強い動機付けがあって、初めてなされる。周囲の人間は、本人が「勉強したい」と思わせるようなきっかけを作ってあげることと、せっかく湧き起った本人のやる気を削がないようにすることしかできない。そして、人間どんなことでも、「やれ!やれ!」と強制されてやる気になるはずがない。モチベ―ションを下げる効果しかない。

どうしてもそういう動機を持てなかった者は敢えて進学する必要はないのではないだろうか。大学に行くことだけが思春期における最良の選択肢ではない。早く社会に出て手に職を付けることも有力な選択肢の一つだ。

だいたい勉強する気のない者まで全員が大学に行って、いったい何をしたいのだろう。誰でも彼でも大学に行こうとする背景には親の方の勘違いが大きく影響しているのではないだろうか。どうも多くの親が、子供を大学に行かせさえすれば親の義務を果たせたと思っている節がある。

 

子供が自ら進学を希望したとしても、家を学校もどき、あるいは塾もどきにしてしまうのはいかがなものか。

親が予備校教師でもなければ、点を取るための勉強に関してはどんなに頑張ってもプロの教師以上の能力があるはずがない。親が家庭で子供に対して行う教育とは点を取るための技術を教えることではないはずだ。

親が子供にしなければならない大切な教育とは、保身のための嘘を吐かないこと、人から親切にされたら「ありがとう」、人に迷惑を掛けたら「ごめんなさい」と言えること、みっともなくない潔い生き方をすることを教え込むことだ。

人としての基本的な生き方は学校や予備校では教えられない。家庭は学校や予備校では取って代わることができない最重要課題を教育する場なのだ。

そして、これが一番難しい教育だ。いくら口で「ありがとうと言え」、「ごめんなさいと言え」、「嘘を吐くな」と言っても、親自身が感謝知らずで、嘘つきならば、子供はぜったいに付いてこない。

昔から、子供は親の背中を見て成長するという。子供に人としての生き方の基本を教えるということは、すなわち自らが恥ずかしくない生き方を実践し続けていくということだ。私自身も、子供たちにきちんとした家庭教育をしたなどとは口が裂けても言えない。だが、親たる者、それを目指さなければいけないのだ。

その上でさらに余裕があれば、読み書き、算盤(簡単 な計算)を教えればよい。

人としての基本的な生き方と読み書き算盤さえ身に付けさせれば、それから先、それをどう生かすかは本人次第。お手並み拝見と、子供たちから少し距離をおいて付き合う方が良いように思う

 

最後にもう一つ。「鳶が鷹を生む」と言う言葉があるが、そういうケースは稀の稀。十中八九は「蛙の子は蛙」である。

自分のこれまでの人生を客観的に見ることができれば、息子や娘に過大な期待は抱かないはずだ。 @font-face { font-family: “Century”; }@font-face { font-family: “Cambria Math”; }@font-face { font-family: “MS P明朝”; }@font-face { font-family: “@MS P明朝”; }p.MsoNormal, li.MsoNormal, div.MsoNormal { margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 12pt; font-family: “MS P明朝”; color: black; }.MsoChpDefault { font-family: “MS P明朝”; color: black; }div.WordSection1 { }

何かおかしい家庭教育

最近出会ったおやじさん。「大変だ。大変だ。」と大騒ぎ。何が大変なのかと尋ねると、長男が大学受験なので大変なのだと言う。

最近は大学の受験料、入学金、授業料がひどく高いので、学費を捻出することに苦労しているのかと思ったら、そうではない。

「仕事から帰って受験勉強に夜遅くまで付き合うので寝不足だし、昔の記憶をたどりながら数学や英語と格闘するので大変なんです。」と言うではないか。

唖然としたが、気を取り直して「大学受験をするのは息子さんでしょう。貴方じゃないんでしょう?おやじは一生懸命学費を稼いでくればいいんじゃないですか?」と言ってみた。返ってきた言葉は、「先生は今の受験競争の厳しさを知らないからそんなこと言っているんだ。」と叱られてしまったので、その後何も言えなかった。

このおやじだけが特殊なのかと思っていたら、数日後またもや「受験で大変だ」と言うお母さんに出会った。

今度のお母さんは高校受験の娘の受験勉強に付き合っているうちに、不眠、動悸、食欲不振など多彩な症状が出てしまったという。どうやら、夜遅くまで娘さんと一緒に練習問題に取り組んでいるらしい。

「受験するのは娘さんでしょう。あなたが問題を解いたってしょうがないじゃないですか。それよりも、大事な受験の前にお母さんが健康をくずしてしまうことの方が娘さんにとってよっぽどマイナスですよ。」と言ったが、やはりこのお母さんも納得した顔付きではなかった。

お二人とも、当の子供さん以上に受験勉強に熱心な様子。口を酸っぱくして「勉強しろ。勉強しろ。」と言っていたが、それだけではなかなか子供が思うように勉強に励まない。そこで、自らが率先して勉強することになってしまっているらしい。

口先だけで「勉強しろ」と言っているよりはましだが、子供と一緒になって過去問題に取り組んだところで、子供たちの学力が上がるとは到底思えない。

漢字を教えたり、九九を覚えさせたりといった小学校低学年の段階では親が教えることに意味があるかもしれない。しかし、若い頃かなり優秀な成績をとっていたとしても中学校の高学年以降は、昔取った杵柄といった具合にはいかないのではないだろうか。親の出る幕ではないと思う。

しかも、これは私の偏見かもしれないが、若い頃たいして熱心に勉強しなかった人ほど子供に勉強を強いる傾向があるように思える。なぜならば、若い頃、真剣に勉強した人ならば、親から言われたからといって勉強をするようになるなんてありえないことを分かっているからだ。

思春期以降の勉学は、何らかのきっかけで「よし勉強しよう」という本人自身の強い動機付けがあって、初めてなされる。周囲の人間は、本人が「勉強したい」と思わせるようなきっかけを作ってあげることと、せっかく湧き起った本人のやる気を削がないようにすることしかできない。そして、人間どんなことでも、「やれ!やれ!」と強制されてやる気になるはずがない。モチベ―ションを下げる効果しかない。

どうしてもそういう動機を持てなかった者は敢えて進学する必要はないのではないだろうか。大学に行くことだけが思春期における最良の選択肢ではない。早く社会に出て手に職を付けることも有力な選択肢の一つだ。

だいたい勉強する気のない者まで全員が大学に行って、いったい何をしたいのだろう。誰でも彼でも大学に行こうとする背景には親の方の勘違いが大きく影響しているのではないだろうか。どうも多くの親が、子供を大学に行かせさえすれば親の義務を果たせたと思っている節がある。

 

子供が自ら進学を希望したとしても、家を学校もどき、あるいは塾もどきにしてしまうのはいかがなものか。

親が予備校教師でもなければ、点を取るための勉強に関してはどんなに頑張ってもプロの教師以上の能力があるはずがない。親が家庭で子供に対して行う教育とは点を取るための技術を教えることではないはずだ。

親が子供にしなければならない大切な教育とは、保身のための嘘を吐かないこと、人から親切にされたら「ありがとう」、人に迷惑を掛けたら「ごめんなさい」と言えること、みっともなくない潔い生き方をすることを教え込むことだ。

人としての基本的な生き方は学校や予備校では教えられない。家庭は学校や予備校では取って代わることができない最重要課題を教育する場なのだ。

そして、これが一番難しい教育だ。いくら口で「ありがとうと言え」、「ごめんなさいと言え」、「嘘を吐くな」と言っても、親自身が感謝知らずで、嘘つきならば、子供はぜったいに付いてこない。

昔から、子供は親の背中を見て成長するという。子供に人としての生き方の基本を教えるということは、すなわち自らが恥ずかしくない生き方を実践し続けていくということだ。私自身も、子供たちにきちんとした家庭教育をしたなどとは口が裂けても言えない。だが、親たる者、それを目指さなければいけないのだ。

その上でさらに余裕があれば、読み書き、算盤(簡単 な計算)を教えればよい。

人としての基本的な生き方と読み書き算盤さえ身に付けさせれば、それから先、それをどう生かすかは本人次第。お手並み拝見と、子供たちから少し距離をおいて付き合う方が良いように思う

 

最後にもう一つ。「鳶が鷹を生む」と言う言葉があるが、そういうケースは稀の稀。十中八九は「蛙の子は蛙」である。

自分のこれまでの人生を客観的に見ることができれば、息子や娘に過大な期待は抱かないはずだ。

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