投稿日:2016年6月20日|カテゴリ:コラム

犯罪者の性格特徴をさまざまなパラメーターから採点して数学的な手法で解析すると、かなりの確率でその人の再犯危険性が予見できるらしい。

そして、どんなにがんばっても矯正が困難で、社会に戻れば再び犯罪を繰り返すことが予想される1群の人がいるのだそうだ。

人間的な情操が欠如して暴力的なエネルギーの高い人が矯正困難ということは容易に理解できるが、実は知能が高いほど重大犯罪を犯しやすいし、犯を重ねるたびに巧妙かつ悪質な犯罪に手を染めるようになる。

さらに、最も危険な人は、今言った要素に加えて一見爽やかで気さくな、いい人らしさを備えているのだそうだ。この凶悪犯の要素を全て備えている例としてアドルフ・ヒトラー、麻原彰晃などと共にIT界の風雲児と言われたホリエモンの名前もあがっていた。

但し、このように極悪犯の要素をすべて持って生まれた人の全員が、必ず犯罪を起こすとは限らない。そういう人でも運よく、人間性が欠落していた方が円滑に業務遂行できる仕事(暴力団、政治家?)に就いた場合には、その世界で有能な社会人として、破綻せずに一生を過ごすかもしれない。むしろ、英雄として、人の記憶に残るような活躍をする場合も珍しくない。

中国の古典に出てくる理想の君子像は、容姿端麗で才能に恵まれるとともに人格も円満な人物として描かれているが、現実の世界で人気の高い英雄や、カリスマ性の高い教祖、伝説的な詐欺師、極悪人は皆この君子像とは程遠い人物だ。

どちらかというと一見、梲の上がらない、平平凡凡とした男女であることが多い。しかも、結構、我が儘だったり、癇癪持ちだったり、好色だったりと欠点も数多く目立つのだが、どこか憎めない可愛げがあるために人が付いて行くように思える。

アドルフ・ヒトラーもドイツ人にしては格好のよい偉丈夫ではない。麻原彰晃も逮捕されるまでは、とんでもない馬鹿だが、どこか憎めないキャラクターのように感じていた。たホリエモンもざっくばらんでなんとなく親近感を抱かされてしまう。この「良い子仮面」の可愛げこそが、多くの人が操作されてしまう最も危険な要素なのだろう。

 

ある高僧が「人の幸せとは次の四つである。愛されること、褒められること、役に立つこと、必要とされること。」と言っている。

このうち、愛されたり、褒められれば、幸せに感じることは言うまでもない。しかし、いくら一方的に愛され、褒められても、それは受動的な幸せしか与えてくれない。翻って、自分がその人の役に立ち、必要とされなければ能動的な幸せを掴むことができないのだ。

つまり、完璧な相手ではその人の役に立つことも必要とされることもない。白壁微瑕どころか瑕が多ければ多い人ほど周囲の人が役に立ち、必要とされる場面が増えて、その結果周囲の人に幸福感を与えるのだ。

根っからの大悪党も悪事が発覚するまでは人々に幸福感を与える存在である場合が殆どだ。

稀代の悪党の話をしているうちに1人の政治家の顔が浮かんできた。今のところ犯罪者には転じていない、小泉元総理だ。小泉は政界でも有名な変人で情性に欠ける。「どこが戦闘地域だなんて私にはわかるはずないでしょう」なんて言い放つような乱暴なところがあり、知能が高く、だがどこか抜けた面を曝け出して、可愛げがある。

彼もまさに矯正不能な悪人タイプの人間であったのではないだろうか。彼が行ってきた政策によって苦しめられた人も少なくないにもかかわらず、今をもって人気を保っている。その人気の基はひとえに可愛げにあったように思う。矯正不能の極悪人のすべての要素を兼ね備えていながら、目につく罪を犯さないでいる人物の好例かもしれない。

いや、小泉元総理にとどまらず、織田信長、徳川家康など歴史に名を遺した英雄は皆、知的には高いが、情操を欠いて、暴力的なのだがどこか憎めない可愛げがある人物像だ。

実は英雄と極悪人は紙一重で、その時の環境や時の運などによって英雄になったり、極悪人として名が残っているだけなのかもしれない。

先ほど名前を挙げた、歴史に名を残す犯罪者の面々に、もし可愛げという一点が欠けていれば、単なる鼻摘み者として最初から相手にされず、したがってあれほど大きな犯罪にならなかったのではないだろうか。

そのよい例が舛添要一だろう。彼に最も欠けていたものは「可愛げ」だ。だから、彼は英雄にも極悪人にもなれずにただのせこい男として消えてゆくしかなかったのだろう。

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