投稿日:2016年1月25日|カテゴリ:コラム

現行憲法無視、国民の年金資金で株価操作をした景気の偽装、福島原発収拾の目途がつかないままの原発再開、言論機関への権力介入等々、傍若無人の限りを尽くす安倍内閣が冷や水を浴びせられた。週刊文春による安倍坊ちゃんの盟友である甘利明TPP担当大臣の口利き金銭授受報道だ。

告発した建設業者は詳細なメモや長時間にわたる録音データ、さらには受け渡した札のコピーまでとってあるという。あまりにも出来過ぎた話で、政治的謀略の匂いがする。がしかし、たとえ罠であったとしても越後屋の饅頭ならぬ、50万円入りの羊羹を受け取ってしまえば問答無用のアウトだろう。

甘利大臣、ひいては安倍内閣のこれからの対応が注目されるところだが、このドタバタ劇にまたあの言葉を聞くかと思うとげんなりする。その言葉とは「説明責任」だ。

 

最近世間でよく耳にする言葉の中に耳障りな言葉が多いことは2014年のコラム「うちの奥さん」で書いた。その中では触れなかったが「うちの奥さん」に匹敵するくらい耳障りな言葉が「説明責任」だ。

「説明責任」とは英語の「accountability」の日本語訳と思われる。「accountability」とは本来財産管理の受託者がその委託者に対して負う会計上の責任、つまり会計責任を言う経済界の用語。それに派生して企業や行政などが自らの諸活動について利害関係者に説明する責務のことを言うようになった。

つまり、株式会社の株主総会において取り締まり会が株主に対して企業の諸活動を報告したり、県や市が住民に対して新しい道路整備計画についての説明をしなければならないことを指す。

ところが、現在「説明責任」は「言い逃れ、言い訳、こじつけの嘘」あるいは「そういった事を主張する場を設ける」といった意味で使われている。

そもそも、人としてのあり方、道義的責任が問われるべき場で商売上の用語が使われること自体胡散臭いのだが、これまでの説明責任とやらの光景を思い返しても、事実をありのままに報告して潔く謝罪するなんてことはほとんどなかった。たくさんの証拠を押さえられて外堀、内堀を埋められた後でも言い訳、言い逃れを繰り返して、醜い保身の姿を晒してきたように思う。

言い換えれば、どんなに悪いことをしても、しらを切って言い逃れるチャンスを与えることが「説明責任を果たす場」なのかとさえ思えるほどだ。事実をあるがままに認めて責任を果たすという本来の意味は欠片さえ残っていない。

最近は刑事裁判でも潔く罪を認めるというケースが減ってきているように思われる。弁護士の入れ知恵によると推察するが、まずは黙秘、そして精神状態からの免責などあらゆる手段を使って罪を逃れようとする。こういった傾向に眉を顰めていたが、国を預かる政治家の説明責任とやらを見ていればやんぬるかなではある。

 

「潔しをもって尊しとする」我が国の価値観はいつどこへ消えてしまったのだろう。

我が国が敗戦で失ったものの中で、もっとも大きなものはこういった価値観だったのはないだろうか。チョコレートと一緒にすべてを損得勘定で測る、見苦しい利己主義が進駐して、素早く変節した者が成功していった。こうして今や拝金主義が我が国を覆い尽くしている。

 

甘利氏には説明責任など果たしてもらってもしょうがない。さっさと洗いざらい白状してお縄につけと言いたい。

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