投稿日:2015年7月20日|カテゴリ:コラム

世界に冠たる我が国の健康保険制度。すべての国民が日本全国どこでも一定水準以上の医療を同一料金で受けることができる。昭和36年にこの国民皆保険制度が施行されて早54年。皆さんはごく当たり前の医療制度と思われているかもしれないが、実はこの医療の仕組みは世界レベルで見るととても進んだ福祉制度で、未だに実現できていない国が少なくない。
アメリカの医療はアヒルがキャラクターの癌保険のような民間の保険しかない。だから映画「SiCKO」で観た通り、高額な保険料を支払うことができる金持ちは最先端の医療を受けることができるが、毎日の生活に追われている人たちは大けがをしても病院に行くことができず、縫い針を使って自分で傷口を縫うしかない現状なのだ。
以上のように私たち日本人は非常に優れた医療環境のもとに生活しているのだが、この健康保険を使うことができない場合がある。それは、1.業務上の災害、2.法令違反による負傷、3.第三者の行為による負傷
1は建築現場での転落事故のような場合だが、その際には一般の健康保険は使えないが労災保険が適用されるので被害者は一銭も支払う必要がない。
2は酔っぱらい運転で事故を起こした時など。自由診療で全額自己負担となる。これはあらかじめ危険と分かっている行為に対する報いなので自業自得というわけだ。当然、保険金詐欺目的の詐病や故意の事故もこれに該当する。
3は事件や事故に巻き込まれた結果の負傷。もっとも多いのが交通事故による負傷だ。この場合は加害者が全額支払うことになるが、加害ドライバーが任意の自動車保険に加入していれば、損害保険会社が支払ってくれる。だが、相手が任意保険に加入しておらず、現実的に支払い能力がない場合には被害者が支払わなければならなくなってしまう。
傷害事件の被害者の怪我の治療費も原則加害者負担ということになるが、犯罪者のための民間保険というものがあるわけがなく、刑事罰を与えることはできても、治療費を含めてきちんと損害賠償されないケースが少なくない。

先日、数年ぶりに来院された女性の患者さん。松葉杖をついて入室した彼女の頭髪はところどころ禿げ上がりそこには縫合の跡。両腕は包帯で包まれて左腕にはまだギプスが装着されている。
この方は、夫のDVによって精神的に不安定になり、私のクリニックに通院していたのだが、離婚調停の途中で来院されなくなった。だから、きっと離婚が成立して精神的にも安定されたのだろうと思っていたのだが、その後の顛末を聞いてびっくり。
夫は別居の話には応じるものの離婚となると調停の場でも興奮して収拾がつかなかったため、弁護士や警察のアドバイスで離婚請求を取り下げて、夫が出ていく別居という形で決着した。
それから数年平穏な生活が続き、夫も自分と娘のことはあきらめたと思っていたのだがそうではなかった。
ある日の午後、自宅近くで待ち伏せしていた夫が金属バットで彼女を滅多打ち。完全に息の根を止めたと思ったのだろうか、夫はその足でビルから飛び降り自殺をしてしまった。
実際に彼女は死の一歩手前だったが、早期に発見されて某大学病院の救急救命センターに運ばれ脳外科や整形外科の集中治療を受けることができた。何とか一命をとりとめて意識を取り戻した彼女に追い打ちをかけるように突き付けられたのが数百万円の治療費の請求書。
つまり今回の大怪我は、上述の健康保険による医療給付の例外規定、「3.第三者の行為による負傷」にあたる。したがって、健康保険は適用されず自由診療扱いとなり、その支払いは加害者である夫ということになる。ところが夫はすでに死亡してしまったから、その支払い責任は遺族に課せられることになる。そして遺族とは他ならぬ被害者の女性ということになってしまうのだ。
弁護士が健康保険組合と話し合ったり、その他の救済方法を検討したが、結局これといった方法は見つからなかった。そのためこれ以上入院費がかさむのを恐れた彼女は、今少し入院が必要という病院の勧めを断って、慌てて退院してきたという。
昔に夫婦そろって加入した生命保険があったので、夫の死亡保険で支払いの足しになるかと考えたが、この状況を想像していたのだろうか、夫は犯行の直前にこの生命保険を解約していた。
病院への支払い義務は亡夫の負の遺産と考えられるので、夫の遺産を相続放棄すれば遺族としての支払い義務も消失する。だが、現在住んでいる家は夫との共同所有になっているので、相続放棄をすると家を売却して出ていかなければならないため、これも現実的ではない。どうしても今回の治療費は全額、被害者が支払わなければならないようだ。
あの時に離婚が成立していればこのようなおかしな話にならなかったのだが、もし離婚が成立していたとしたならば、大学生の娘さんに支払義務が回ってきたのだから、どちらにしても悲劇だった。
DVが増加してきている現在、これからこういうケースが増える可能性がある。事件に巻き込まれた被害者の医療費の支払いに新たな救済制度を考える必要があるのではないだろうか。

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