投稿日:2015年6月29日|カテゴリ:コラム

1932年から1945年までの間、中国北東部に満州国という国家が存在した。映画「ラスト・エンペラー」で有名になった。皇帝、溥儀を元首とする国で「大満州帝国」とも呼ばれた。
それ以前の中国は1644年から1912年まで女真族の清王朝が現在の中国からモンゴルに及ぶ広大な地域を支配していた。ところが19世紀に入ると清王朝の支配力は徐々に衰え始めイギリスをはじめ欧州列強が新たな植民地として進出をうかがっていた。
1840年、1857年のアヘン戦争で代表される欧州列強の力による浸食によって清王朝の領土は虫食い状態に侵略されていった。国内でも太平天国の乱をはじめ様々な民族の反乱がおこり、帝国は衰退の一途を辿った。
とどめは日清戦争1894~1895年)だ。小さな島国の日本に敗れて巨額の賠償金を突き付けられた。ここに目を付けた欧州列強は満州からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスがといった具合に勝手に分割統治して事実上、各国の植民地と化してしまった。
1911年10月、孫文らを中心とする漢民族のグループが武昌で武装蜂して辛亥革命が始まる。そして1912年1月1日、孫文たちは南京で中華民国の樹立を宣言した。これを受けて清王朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は同年2月12日正式に体位をして清王朝は滅びた。
こうしていったん歴史の場から身を引いた溥儀を再び担ぎ出したのが、当時満州を実効支配していた関東軍。1932年3月1日首都を長春(のちに新京と改名)として溥儀を執政とする満州国の建国を宣言した。後の1934年3月1日に溥儀は正式に皇帝として即位し大満州帝国とした。
だが、国際連盟は大満州帝国の建国を認めず、満州を中華民国の一部とみなしたために、日本は猛反発。結果、1933年3月に日本は国際連盟を脱退することになる。かくして我が国は1941年12月の太平洋戦争へとまっしぐらに突き進むことになった。
因みに西太后の思惑により、たった2歳で清王朝最後の皇帝とされ、さらには大日本帝国の思惑で大満州帝国皇帝に引っ張り出された溥儀。彼は1945年大満州帝国の崩壊に伴って皇帝を退位して日本への亡命の旅の途中ソ連軍の捕虜となり、その後中華人民共和国に身柄を移されて戦犯として服役した。
その後、模範囚として釈放されて彼の人生に同情していた周恩来の計らいで1964年に中国共産党委員に復権する。しかし1967年、北京の病院において紅衛兵の怒声におびえながら61歳の人生に幕を閉じた。まさに歴史に翻弄され続けた一生であった。

満州国を欧州列強の植民地化や孫文らの革命グループからの侵攻から守ると言うのが関東軍の中国大陸侵攻の拠り所であった。たしかに、中国侵攻にはそのような側面もあっただろう。しかし侵攻された側の人たちから見れば、やはり領土と資源を求めた侵略と映っても致し方ない。主権を奪われた相手が日本か欧州かという違いだけでしかない。
ここで私が強調したいことは、過去の歴史から見て、友好国あるいは異国に住む同胞からの防衛要請は他国への軍派遣そして他国への侵攻のための常套手段だということだ。
1938年のナチスドイツによるオーストリア併合はオーストリア・ナチスによる要請という形をとっている。しかし、実態は国境線に展開したドイツ軍の威圧に当時のオーストリア政府が屈したのだ。
ベトナム戦争においてアメリカは、アメリカやフランスの傀儡政権であった南ベトナム共和国を防衛するという大義名分で、遠く太平洋の端まで大量の戦闘要員を送り込んで泥沼の戦いを続けた。
近くは昨年起きたロシアのクリミア併合がある。これもウクライナがNATO加盟に近づいたことに危機感を抱いたロシアが、軍の要衝であり、ロシア人が多数を占めるクリミア自治政府からの要請に応じるという形で無理やり併合してしまったのだ。

今、憲法が禁止しているにもかかわらず、強引に推し進めようとしている安保関連法案が成立したならば、我が国の平和と安全に重要な影響を与える存立危機事態においてアメリカやオーストラリアなどの友好国からの要請があれば、友好国の防衛という大義名分で集団的自衛権を行使してA国に自衛隊を海外派兵できることになる。
しかも、国の根幹にかかわる安全保障についてさえ、時の政府が勝手に憲法を曲解することができるという先例を作ってしまう。
ということは近い将来、好戦的な政府が経済発展のためにA国を実効支配したいと考えた時、A国に傀儡政権を樹立させて、その政府からの要請という形式を整えさえすれば、自衛隊を派兵してその地域を占拠することも可能になるのだ。
「存立危機事態」という表現にも極めて危険な匂いを感じる。太平洋戦争開戦時の大日本帝国の主張がまさにそうであったからだ。つまり、満州や東南アジアは欧米から石油の補給を締め付けられていた日本にとって、国の平和と安全に重要な影響を与える存立危機事態打開のために是非とも確保しなければならない生命線だというものだ。

平和憲法の精神を守ろうとする動きに対して、「平和ボケ」と嘲る連中がいる。だが、そのような好戦的な発言をする者こそが、戦争の何たるかを全く知らない平和ボケなのだ。
大満州帝国の悲劇に学び、同じ轍を踏んではいけない。

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