投稿日:2015年3月30日|カテゴリ:コラム

冬晴れの日曜日に、家内と横浜までドライブした。特に急ぐ用事もなったので、久しぶりに第一京浜国道(国道15号線)で帰ってきた。第一京浜を横浜から日本橋まで通して走るのは約50年ぶりだと思う。
なぜならば、実家は目黒通り沿いだったので横浜方面に行く際、第3京浜国道ができてからはもっぱら第三京浜を利用するようになって、第一京浜や第二京浜はほとんど使わなくなってしまった。さらに家内の実家の大塚に転居してからは、首都高速頼みとなって、第三京浜でさえめったに通らなくなってしまっていたからだ。
横浜を出て神奈川を過ぎて生麦の辺りからなぜか幼小児期の光景が彷彿とされて猛烈に柔らかい気持ちになった。
なぜこれほど懐かしい気持ちになるのか初めのうちは分からなかったが、やがて気付いた。この辺りは高層ビルが建てられていないので空が広いのだ。2,3階の建物が並び、中にはドアを開けたらジュークボックスからの音楽が聞こえてきそうな店まであった。そしてそんなレトロな街並みの上に抜けるような青い空が広がっていたからなのだ。箱根駅伝の中継画面からではこの広さは伝わってこない。
町の空もこんなに広かったんだ。地方を旅したりゴルフ場に行ったとき以外、日常的には両側を高いビルに挟まれた狭い空しか見ていない私は、改めて遮るもののない空の広さに感激した。やはり、人の心に残る原風景は幼いころの楽しかった体験に基づくのだろう。
だが50年近く巻き戻された感傷的な気分も品川に近づくと薄れてしまった。日頃見慣れた狭い空に戻ってしまったからだ。

先の連休に伊豆下田へ行った。往きは新幹線で熱海まで行き、そこで伊東線、伊豆急に乗り換えて行ったが、復路は直通の踊り子号で帰ってきた。新幹線ができて以来、東京-熱海間を旧東海道線で通るのは久しぶりだ。
幼いころと同じように右側の窓際に陣取って窓の外を眺める。殺風景な内陸部を走る新幹線と違って懐かしい風景が見られると思って胸が高まった。確かに、小田原、湯河原、大磯あたりまでは懐かしい海辺の景色が続いたが、大磯を過ぎると、車窓に見えるのは同じような形をした小さな家、家、家。
昔は大磯を過ぎても平塚、茅ケ崎あたりまでは畑の向こうに海が見えたものだ。あー、海が遠くなってしまった。駅舎も大きく様変わり。牧歌的なたたずまいは見られず、山手線の駅と大差ない。
湘南はもはや、通勤圏内なのだから当たり前なのかもしれない。

遠くなってしまった海にがっかりして帰ってきたが、数日後、震災被災地のドキュメンタリー番組を観て私が罰当たりであることに気付かされた。
そこでは、街を根こそぎ津波に流されてしまい、眼前に近づいた海を前にして被災者たちが嘆き悲しんでいたからだ。私は先の震災でたいした被害を受けていないから、海が遠くなったのなどと嘆いていられたのだ。
空の広さも同じだ。私の親たちは大空襲で焼け野原となり、遮るものがなくなった広い空を見上げて涙にくれたと聞く。
狭い空、遠い海を嘆き、広い空、近い海を懐かしむことができるのは、私がこれまでに悲惨な体験をしてこなかったからなのだろう。私は広がり続ける、そして高くなり続ける街に囲まれてぬくぬくと生きてきたのだ。本当に幸運な人生だと感謝の念が湧いた。

だが一方でふとこんな疑問も浮かんだ。ヒトの幸福とは空を狭くし、海を遠ざけることでしか得られないのだろうか。

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