投稿日:2014年9月22日|カテゴリ:コラム

先日、友人たちと戦争の是非について議論になった。「戦う姿勢を見せなければ近隣国家から際限なく侵略される」とする彼らは、戦争不可避論を唱えた。何が何でも戦争を避けるべきだとする私と意見を異にした。
彼らも私と同世代。初老から老年期に差し掛かった「戦争を知らない子供たち」の成れの果てだ。戦後の平和を一番享受してきた世代からのこういう威勢のいい発言を耳にするにつけ、現在の世相の危うさを深刻に憂う。

戦争やむなしと論ずる人たちはしばしば戦争を喧嘩に喩える。「やる時はきちんと抵抗しないとやられ続けるだけだ。」、「一度ガツンと抵抗する姿勢を見せることによって攻撃されなくなるのだ」と。
この喩えは一見的を射ているように思えるかもしれない。しかし、喧嘩と戦争とは根本的に異なる。喧嘩は自己完結。自分で買った喧嘩は所詮は自分か相手が死ぬだけのことである。
しかし、戦争とは戦う意志のない若者にも戦闘を強いて、その生存権を剥奪する。いや、犠牲となるのは若者だけではない。ちょっと前の戦争ならば直接的に命のやりとりをしたのは血気盛んな若者たちだけだった。
だが、現代の戦争は戦場と非戦闘地域の境界がない。いったん戦争がはじまったら、国のどこにでもミサイルが飛んでくる。女、子供も銃後の守りなんて言ってる間もなく、粉々に吹き飛ばされてしまう。国内に潜んでいたテロリストたちが突然都庁の上から炭疽菌をまき散らすことだってある。
つまり、生まれたばかりの乳飲み子から寝たきり老人まで老若男女、すべての国民が殺戮から逃れることができない。広島・長崎の惨劇が全土で繰り広げられるのだ。

私は憲法改正絶対反対論者ではない。中途半端な自衛隊という名前のまま、憲法解釈の変更だけで海外派兵するよりは、正々堂々と憲法を改正して、自衛隊を軍隊として認める方が良いと思っている。
自分たちの立ち位置が不明確なままに置かれている現在の自衛隊員はかわいそうだと思っている。正式に軍とした方が彼らも軍人としての誇りを持って生きていけるだろう。
だが、ここで問題となるのは国防軍が守るものとは何かということだ。この基本的な事項を誤解している方が少なくない。大半の方が「国防軍なのだから名前の通り「国」を守る軍隊に決まっているではないか」と答える。ここまでは正解。その「国」とは何なのかという点が大事なのだ。多くの人が「国」の中には当然、主権者である国民が含まれていると考えている。これが大きな勘違いなのである。軍にとっての「国」とは「国土」と「国体」とでしかない。「国民」は軍が守るべき対象ではないのだ。つまり国土と国体を守るためには国民は犠牲になっても致し方ないというのが軍の基本的考え。
「国体」とは国の根本的なあり方をいう。先の太平洋戦争の際、広島、長崎に原爆を落とされた後も、ポツダム宣言を受け入れるかどうか、最後まで激論された理由は「国体の護持」にあった。すなわち、天皇を中心とした我が国の国家体制の維持が最重要課題であったのだ。
敗戦後の我が国では主権者は天皇ではなくなったが、新しい国体、すなわち天皇を象徴とした議会性民主主義体制の現政治体制を守るのが軍の主要目的であることに変わりはない。国民が死滅した後に国土と国体だけが残って何の意味があるというのだろう。

威勢のいいおやじたちはこうも言う。「海に囲まれてぬくぬくと長い間、直接戦争を体験しなかったために、今の日本人は平和ボケしている」と。だが、軍が国民を守ってくれると勘違いし、さらには戦争が限定的で済むと楽観的に考えている彼らこそ、平和ボケではないだろうか。
地球がこれだけ狭くなった現在、私は国土だ、国体などに固執せず、私たち日本人のDNAを、いや地球人のDNAをいかに代々受け継いでいくかもっと真剣に考えなければいけない時期にきていると思う。
そうはいっても、まだまだ未熟な人類は地球上から戦争をなくすことはできないかもしれない。しかし少なくとも、老い先短い連中がいきがって、次代、次々代の命を勝手に左右することだけは断じて許してはならないと私は考える

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