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クリニック西川

2007年9月

エビデンスという落とし穴

EBM(Evidence-based Medicine)という医学の流れが1990年代からカナダを出発点として世界中に広まりました。日本語では「根拠に基づいた医療」と呼ばれます。
 医療の分野に、より科学的な手法を取り入れようとする運動です。具体的には、治療法を選択する場合に、理論や経験や権威者の判断ではなく、確固とした疫学的証拠に基づいて、科学的に判断をすべきであるという考えが最大の特徴です。
 それまでは、あくまで生理学的理論を大原則としてはいましたが、それに加えて実際に治療にあたる医師の経験や、その分野における権威者の意見などにしたがって判断されて治療法が選択されることが多かったのです。したがって、治療する医師や国によって治療法が違うことは少なくありませんでした。
 もちろん、それまでの医療が当てずっぽうに行われていたわけではありません。実験的なデータや、臨床試験(実際に患者さんを対象とした実験的な治療)での成績などを基に、最良と考えられる治療法を選択してきました。
 しかし、そういった選択基準だけでは、「×××は実験で、抗菌作用や抗酸化作用が示されたため健康に良い」といったふうに、実験室の試験管の中で認められただけの効果をもとに売り上げを伸ばす健康食品や、「芸能人の○○さんがこの方法で10kg痩せた」ということで流行するダイエット法とたいして変わりがない例もでてきます。
 そこで、より厳格で正確な研究手法での実験結果(エビデンス)に基づいて治療法を選択しなければいけないという考えが広まっていったのです。我が国においてもこの考え方は多くの医師の賛同を得て、いまや「エビデンス」なしには何も語れない雰囲気になってきています。大変喜ばしいことです。私の所属する医師会のある先生などは、1回の演説(演説好きな方)の中に「エビデンス」ということばが5、6回でてきます。
 ただ、私がとても心配なのは「エビデンスって本当にエビデンスなの?」という点です。というのは、現在「エビデンス」といっている根拠を生みだす主な研究方法が疫学的(統計的)手法だからです。 私は昔、数年の間、脳神経細胞に関する生理学的・薬理学的な基礎研究に携わっていました。基礎医学の研究においても、実験結果から得たデータを基にしてだした結論を客観的に、多くの人達に納得させるためには、統計学的な手法を欠かすことができません。このために、私はまる一年かけて統計学を学びなおしました。
 当時は計算そのものを電卓による手計算でしなければならなかった時代でした。今は、エクセルなどを使って、データをパソコンに入力しさえすれば、通常用いるような検定ならば、簡単に計算してグラフまで作ってくれますから、一生懸命覚えた計算方法は今や無用の長物になってしまいました。
 しかし、やたらと「エビデンス」がわがもの顔であふれかえる今になってくると、あの当時の勉強がむだではなかったと改めて実感します。なぜならば、計算そのものはパソコン任せでよいのですが、統計の意味するところを理解していなければ、ただただ数字やグラフに踊らされて、ごまかされてしまうからです。
 残念なことに、一般の人に限らず、大学などで研究に携わっている人の中にも、統計学的に示された結果を誤解している人がいるのが現実です。「危険率5%で有意な差が認められた」と聞くだけで、その結果を神のご託宣のように信じきってしまう人が多いのです。
 ここで統計学を十分に理解していない人が、間違った判断をしてしまう危険性を幾つかご紹介しましょう。
 第1に知っていただきたいことは、ある事象について統計的な手法を使って他人を説得するということは、その事象が統計的な手法を使わないと説得できないほど不確かなことであるということを意味しているということです。逆説的でとってまわした言い方ですが、よく理解してください。
 「サッカーボールはゴルフボールよりも大きい」ということを納得してもらうのに、統計学は必要でしょうか。誰が見ても一目瞭然な事実に対して統計的な処理はまったく必要ないのです。
 「A社製のゴルフボールはB社製のゴルフボールに比べて雨の日にも回転数が影響されない」といったような、ごくわずかな差で、結論に不確かさが予想される場合に、相手を説得する手段として用いられるテクニックなのです。この不確かさの程度が危険率と呼ばれるパラメータです。
 「5%の危険率でAとBに有意差が認められた。AのほうがBより重いといえる」という結果は、「AはBより重いと思う。この結論は95%の確立で信頼できる(信頼係数95%とも言う)が、5%の確立では間違っているかもしれません」と言っているのです。
 2番目、これもしばしば見かける誤りですが、信頼係数の大小と、差の大小を混同しやすいことです。「Aという薬はBという薬より信頼係数99%で有意に効果があった。一方、AとCという薬との比較では、やはりAのほうに有意な効果が認められた。ただし、AとCの検定試験の信頼係数は95%だった。この報告を聞いたときに3つの薬の中でAという薬がいちばん優れた効果を示し、2番目に有効な薬はBで、Cは一番効果が弱いと勘違いしてしまう人がいるのです。
 信頼係数(危険率)は比較している2つのグループ間の差の大きさを表しているわけではありません。出された結論に対する信頼性の高さを表しているだけです。3つのグループの差はそれぞれのグループの平均値を比較しなければいけません。
 第3は、統計的な検定は相手を説得するための手段であって、それ自体が真実を語っているものではありません。かなり穿った言い方をすれば、自分の言いたい主張をより真実らしく見せかけるための手段だとも言えます。グラフもそうです。横軸や縦軸の刻み方は作成者の思うがままです。わずかな差を強調するために、横軸を圧縮して縦軸を引き伸ばしていらない部分を切り落とす手段はしばしば使われる方法です。

 地球温暖化の危機を訴えかけるためのグラフを作る場合に、横軸を年単位に目盛って、縦軸を0度から40度までのグラフで示すと、それを見た人はたいした危機感を感じません。しかし、横軸を10年単位の目盛りにして、縦軸を1980年の時の平均気温を0度として、縦軸は上方をプラス、下方をマイナスの0.5度単位の変化値で表しますと(気象庁発表の世界の年平均気温参照)、否が応でも地球が未曾有の危機に直面しているという印象を与えます。
 第4は、統計学を使って、真実に近い結論を出すための絶対条件は、統計計算をするための基礎となるデータが恣意的ではなく、公正に得られたものであるということです。つまり、基礎となるデータが何らかの意図を持って、公正さをかく手段で得られたものであったら、どんなに厳密な統計的手法を使ったとしても、真実とはかけ離れた結論が導き出されるということです。
 第5に知っておかなければならないことは、統計計算はあくまでテクニックであるので、本来の使い方とは逆に使えば、自分が導き出したい結論に沿った研究方法をデザインすることもできるということです。統計学に精通している人の手にかかれば研究結果はかなりコントロールできるのです。
最後に「棄却検定」という奥の手もあります。棄却検定とは厳密に抽出したはずだったサンプルを対象に実験をしたはずが、結果の中に、あり得ないような数値が出てきてしまって、その数値があるために統計的な検定が成り立たなかったり、結果に信頼性が得られない事態におちいった場合に用いられます。
 棄却検定にかけて、そのデータは「除外してもよろしい」という科学的なお墨付きをいただけば、堂々とそのデータを廃棄してかまわないのです。しかし、あくまで統計学的に廃棄してよろしいということであって、本当に廃棄するかしないかは研究者の判断に任されます。
 こういう都合の悪い数値を除いてから、再度データを眺めてみると、まだ目障りな数値があることに気付いたとしましょう。そこで、再度棄却検定を行って、またその数値をとりのぞきます。これを繰り返していくと、とってもきれいにそろったデータができあがっていきます。 

 本来、EBMとは今まで行われてきた診療行為自体を、批判的な立場に立って見直すものなのです。厳密にEBMというためには次の5つの手順が必要です。(1)患者の問題の定式化、(2)定式化した問題を解決する情報の検索、(3)検索して得られた情報の批判的吟味、(4)批判的吟味をした情報の患者さんへ適用、(5)以上(1)から(4)までの手順の評価。
 このうち最も重要なのは④の手順です。つまり、質の高い臨床研究によるエビデンスがあっても、ただ盲目的にそれに従って患者さんへの診療を行うのではなく、個々の患者さんの特性や価値観、またおかれた医療環境や医療チームの技術水準などを考慮して最終的な判断をしなければなりません。
 しかしいつの間にか、まことしやかに数字やグラフを示せば、それだけで確かな「エビデンス」だと誤解する人が増えてきてしまったのです。
 また、ある情報がエビデンスとして提示されても、将来的な研究で覆される可能性が常にあるということも忘れてはなりません。100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は活字として発表された時点で既に覆されていたという調査もあります。 なぜ、こんなにしつこく「エビデンス」に対して懐疑的なことを書くのかというと、医学界が医療関連産業に取り込まれている危険を感じているからです。
 一人で開業していると、ウィークデイに開催される大きな学会にはなかなか参加できません。参加できるのは土曜日の午後や日曜日に開かれる研究会です。そういう研究会はたいてい製薬会社がスポンサーとしてついています。
 もちろんちゃんとした学術集会ですから、スポンサーの製薬会社の薬を宣伝する会ではありません。第一線の研究者がとても役に立つお話をしてくれます。しかし、このところメインの講演者(しばしば外国の有名な教授を招待する)のお話が、スポンサーの薬を推奨する内容であることが多いのです。
 同じように「うつ病」をテーマにした研究会なのに、A社後援の研究会ではアメリカの有名な教授がA社の抗うつ薬がとても優れているという内容の話をする。次の週にB社後援の研究会に出席すると、今度はドイツの教授がB社の抗うつ薬がびっくりするほど優れているという話をするのです。
 しかも、それぞれちゃんとした(?)研究結果をもとに、立派なエビデンスを示しているのです。私にはどうしてもそれぞれの製薬会社御用達の学者としか見えません。この傾向はここ数年急速にあからさまになってきています。
 とはいっても、業界と御用達学者との癒着は今に始まったことではありません。以前はもっと露骨に、その分野の権威にとりいった製薬会社の薬が売れたのです。そういう背景がEBMを叫ぶ大きな動機でした。しかし、EBMの本当の意味を理解していなければ、いくら「エビデンス」という言葉を使っても、結局は昔と同じようにその分野の権威と製薬会社とのハネームーン関係は変わらないのじゃないでしょうか。いや、むしろエビデンスで理論武装しているだけ、なおさらやっかいかもしれません。
 私がこのテーマを書くきっかけは、先ほど述べた研究会で、久しぶりに顔を合わせた現職の若手研究者が、その発表の胡散臭さを微塵も感じずに「○○先生は本当にすばらしい」と感嘆していた姿に唖然としたからです。
 
 先週のコラムで書いたように、アメリカの医学界は製薬会社、保険会社から巨額の支援を得た医師、医学者が跳梁跋扈しています。日本の医学界はどうなんでしょう。研究にはお金がかかりますが、国からの研究助成金はとても少なくて、それだけではまともな研究はできません。スポンサーがあってはじめて成り立っているのが現状です。
 しかし、スポンサーはスポンサーとして、自然科学者は真実の究明という本来の目的に向けて邁進してほしいものですが、製薬会社の競争論理の前にはなかなか難しいのが現状ではないでしょうか。それゆえに情報を受けとる私たちも「エビデンス」と称するものに対して、しっかりと批判的な目をもって、その奥に隠されているものを見極めなければならないでしょう。

他人事ではないシッコ(SiCKO)

久しぶりに、映画館で映画を観てきました。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー作品、「SiCKO(シッコ)」です。
 「子狐ヘレン」以来、とんと映画館に足を運んだことのなかった私が、台風の影響で激しい風雨の中、何はさておきという気持ちになって映画館まで駆けつけた動機は2つあります。
第1はアメリカの現職大統領、ジョージ・W・ブッシュを徹底的に槍玉にあげて話題となった「華氏911」をしのぐ作品だという前評判。しかし、一番の動機は、この映画のテーマがアメリカの悲惨な医療の現状だからです。
現在も上演中の映画ですから、ネタをばらしてしまっては申しわけないので、詳細を書くことははばかりますが、この映画が訴えかけている骨子だけは説明しないわけには参りません。ムーア監督ごめんなさい。

アメリカではもともと、日本でやっとのことで、なんとか(?)行われている公的な国民皆保険制度がないのです。では、アメリカ国民は病気にかかったり、けがをした時にはどうするのでしょう。原則、全額自己負担です。歴代政府の主張によれば、医療に関しても自己責任であることが、自由主義、民主主義のあるべき姿だというのです。
当然ながら、裕福な人は高水準の医療を受けることができますが、お金のない人は医療を受けることができず、死んでいくのです。映画の冒頭にそういう人達の悲惨な姿が克明に描写されています。
何でもかんでも「マネー!」、「マネー!」のアメリカですから、医療行為の一つ一つのお値段は目の玉が飛び出るほどの額です。喘息治療の吸入薬1本がなんと10,000円以上するのですから。一握りの富裕層を除けば、一般の中流家庭でも、いったん家族の誰かが病気にかかってしまったら、それをきっかけに貧困家庭へと転落していかざるを得ません。
そういう事態を避けるために、中流階級の人々は民間の保険会社の医療保険と契約して、いざという時に備えるのです。民間の保険会社が保証してくれるんだから、それはそれでいいんじゃないかと思われる方が多いでしょう。そう考える方は、是非ともすぐに「シッコ」を観にいってください。
民間の医療保険が営利追及のために、政治家や医療界を取り込んでいかにあくどく、非人間的なやり方をしているかを知ることになるはずです。保険で儲ける大原則。それは掛け金だけいただいて、支払わない。この基本方針がぶれることなく、徹底的に貫かれているのです。
日本にも最近、続々とアメリカ資本の保険会社が参入してきて、テレビで頻繁に広告するようになっているでしょう。あれは医療費の補助をするといったもので、まだかわいらしさを装っていますが、今はまだ序の口です。もうすぐ、日本人から巨額の営利をむしりとるために、その牙をむき始めるのです。
彼らが、日本で本格的に商売を展開するためにはどうしても、ぼろぼろになりながらも、なんとか踏みとどまっている日本の国民皆保険制度を完全にぶち壊す必要があります。
そのためには、日本の政界、経済界、医療界の協力者がいなくてはなりません。そして、その目論見は徐々に成果を上げてきているようです。
「小さな政府でなければいけない」、「すべては自己責任だ」、「市場経済主義が世界のスタンダードだ」、「グローバリゼーションに乗り遅れるな」、「官僚は悪で民間は良し」、「競争社会こそサービスの質が向上する」といったレトリックを、なんの疑問も持たずに信じる国民が増えていることがその現れです。
アメリカの医療関連企業からの表彰状授与者を選考するとなれば、竹中平蔵、小泉純一郎あたりは当選確実です。また、一緒に手を組んで甘い汁のおこぼれにあずかる人と言えば、オリックスの宮内とセコムの飯田の名前がすぐに頭に浮かびます。まあ、彼らは医療界に限らず、アメリカの主だった企業すべてから賞賛を浴びると思いますが。
現在、政府もマスコミも声をそろえてグローバリゼーションと叫びます。そして、その際、グローバルのお手本となっているのはアメリカです。でも本当にそうなのでしょうか。
私はそうは思いません。確かにアメリカは、強大な軍事力をほこって、世界を舞台にして大立ち回りを演じ、実態のともなわないドルで金融市場を撹乱し、なにはともあれ一番目立つ存在ではあります。しかし、あらためて世界を虚心坦懐に見渡してみると、多くの国がもっとまっとうな社会を目指して努力しています。むしろアメリカ型社会は世界全体の中では異端といえます。
「シッコ」がとりあげた、医療制度だけにかぎって言っても、イギリスもフランスも皆保険制度を維持して、患者さんになった時、標準的な医療を受けるのであれば、自己負担金は0です。全額、保険と税金でまかなわれているのです。誰もが、安心して、平等に医療を受けることができるのです。

現在日本で運営されている医療保険制度とはどのようなものなのでしょうか。日本で最初の健康保険制度は第一次世界大戦後の1922年(大正11年)に初めて制定されて、1927年(昭和2年)に施行されました。鉱山労働などの危険な事業に就く労働者の組合から始まった制度です。この制度は徐々にその対象を広げ、企業に属さない個人をも対象とした、市町村などが運営する国民健康保険制度が整備されて、国民皆保険が達成されたのは1961年(昭和36年)のことです。
しかし、年々増加する総医療費抑制策として1983年(昭和58年)、ついにそれまでは0%であった健康保険本人の自己負担が10%となりました。当時は我が国の経済もバブル前夜とあって、国民所得に関してもバラ色の幻想がありました。また、10%ということもあって、国民はそれほど大騒ぎせずに、すんなりと受け入れたようです。
その後、一番お金のかかる老人健康保険の部分をあれやこれや取り繕っていましたが、ついにそんなことでは間に合わなくなって、2003年(平成15年)に本人の自己負担は30%になりました。毎月、高い保険料を支払っているのに、病院へ行く度に、さらに30%もの自己負担を強いられるようになったのです。
さすがに30%が限度。これ以上の自己負担を求める事態となったら、もはや保険とは呼べないでしょう。いまや、日本の医療保険制度は崩壊の道をまっしぐらにひた走っているのです。
確かに、日本の健康保険制度破綻の要因には過去、自己負担が0%だった時に多くの国民がただという理由で、病気にもなっていないのに検診の目的で病院を訪れて、たくさんの検査を受けていたこと。また、医療機関も自己負担がないことをいいことに、必要もない検査をしたり、むだな薬を出していたことがあげられます。いわゆる、検査漬け、薬漬け医療です。
そういう意味では、医療を受けた方に、それ相応の負担をしていただくことは、不必要な医療をなくすという意味で、効果があったように思います。しかし、現在は検査による利益による収益幅はきわめて小さくなり、検査会社も軒並み潰れてしまいました。
薬価差(薬の仕入れ値と診療報酬で定められている販売価の差のこと、つまり薬を提供した時に発生する利益)もほとんどの薬が10%未満。これから消費税5%分を支払う1*と、ほとんど利益はありません。それどころか、薬を出すと、その分医療機関が損をする「逆ザヤ」の薬もあるのです。薬漬け、検査漬けの悪しき保健医療はとっくに終っているのです。
先日、ある患者さんから「先生のところは高い」と言われてしまいました。しかし、その方の場合はお渡しした薬が高い薬物だったので、窓口での支払いも高くなってしまったのです。しかし、薬代としていただいたお金のほとんどは薬屋さんへ支払うだけで私の手元に残るわけではありません。私はたんに徴収係をさせられているだけです。このあたりの仕組みを理解していただくのは難しいようです。
ところが未だに国はマスメディアを使って、国民に、「保険が破綻しているのは医者が儲けすぎているからだ」と思わせるような情報を発信し、患者対医師の敵対的な図式を作ることによって、国民の目を別の根本的な問題からそらせてきました。
ここ数年、診療報酬はどんどん減らされ続けていますがその結果は、病院が潰れ、入院患者さんが3ヶ月で放り出され、医療従事者が過労死するだけで何の解決にもなっていません。
私は、みなさんが毎月支払っている健康保険料がきちんと医療行為に対する支払いだけに使われるならば、国民皆保険制度は今でもこんな状態ではなく、これからもまだまだ十分にやっていけると思います。ただし、同じ所轄官庁の担当する、労働保険や国民年金とおなじように、とんでもない使われ方をしていたならば話は別です。
実際、厚労省、社会保険庁傘下には医療保険に関連した特殊法人がたくさんあります。そういう機関は上級省庁の天下り先であるだけでなく、若いお役人の出世コースの一つにもなっています。また、各業界の健康保険組合の理事も厚労省や社保庁出身者の天下りの指定席になっています。そして、短期間に交替しては退職金を受け取っていきます。
国民の医療のためのお金が、そういう人達の給与や退職金として消えていったとしたならば、ざるに水を注いでいるようなものです。しかし、この問題についてマスコミは、なぜかまだアンタッチャブルのようです。このパンドラの箱をどうやったらこじ開けられるのか。私にはまだこれといった方策は考えつきません。

なぜか日本医師会が国民に十分にアピールしていない(おそらく政権与党や官僚ににらまれるのが怖いんでしょう)日本の医療費に関する幾つかの数字をお示しします。この数字を見れば、患者さんと医師が手を組んで医療保険の問題に立ち向かっていかなければならないことが分かるのではないでしょうか。
日本の総医療費の対GDP(国民総生産)比は7.9%で、これは先進国の中では最も低いのです。(対GDP比が最も高いのは、米国の15%)。
一方、患者さんの支払う医療費ですが、これは各国医療制度がまちまちなので一概に比較はできませんが、EUの平均でみると、患者さん個人の支払額は日本の1/3くらいだそうです。以前は、世界最高の保険制度と言われていた日本の健康保険制度は徐々に自己負担分を上げていって、今では患者さんにとって、とても高額な医療になっているのです。
その分医療機関が儲けているのでしょうか。ところが医療機関の収入は逆です。世界の先進諸国平均と比べて1/10ほどだそうです。日本の医療機関は儲けすぎているどころか、むしろ他の国に比べれば収入は少ないのです。
来年の4月からは、一番重たいお荷物であるご老人を後期高齢者医療制度と称して、別の船に乗せることが決まりました。ゆくゆくは皆保険制度の解体。「健康も自己責任」というレトリックを使って、アメリカのように、国民の健康を国内外の営利事業者の手に売りとばす策を講じていると考えられます。
私は、むだな医療やむだな人件費を徹底的に排除した上で、標準的な医療・福祉にかかる費用は国民の権利として、税金で補填するのが当然だと考えます。そのためには、消費税のアップもやむをえないのではないでしょうか。
医療・福祉は憲法25条「生存権、国の社会的使命」で国民が国に課した根幹的な契約事項です。国がこの約束を破ることは許されないからです。

「シッコ」の中で私がもっとも衝撃を受けたシーン。病院に入院していた老人が、医療費を払えなくなったという理由で、点滴用のチューブをつけたまま、車で運ばれて、路上に捨てられる場面です。
私たち国民は、常に国の社会保障制度に関する動向に、細心の注意を払って監視を続けましょう。国会に上程される議案、政党のマニフェストは言うまでもありませんが、新聞の片隅にさりげなく載っている政府高官の発言やテレビのCMなどからも、国の意図する方向が読みとれます。その際、甘い、美しいあるいは威勢のいい言葉には決して惑わされないようにしましょう。そうしないと、いつのまにか大半の国民は社会福祉という船から投げ捨てられることになりますよ。
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1*1989年(平成元年)に導入された直接税。製造業者、小売業者と資産等が移転するにつれて、負担が次々に転嫁され、最終的には消費者が負担することになる。導入当時は3%であったが、1997年(平成9年)に5%に引き揚げられた。消費税法成立の過程で政策的に医療や介護サービスは特例とされた。このために、医療費には消費税は発生しないが、医療に必要とされる物品には消費税が課せられているために、この5%の消費税は最終消費者である患者が負担するのではなく、医療機関が支払うことになる。どういうわけか、この矛盾点はあまり問われることがない。

解離性障害(Dissociative disorders)

以前のコラムでも取り上げましたが、この1ヶ月あまり、横綱(今のところ)の朝青龍に関する話題がマスコミをにぎわしています。国家の浮沈をかけた安倍内閣改造に関する話題に負けず劣らず、国中が大騒ぎです。

最終決着は先延ばしになっていますが、今のところは完全に朝青龍ペース。相撲でいうならば、日本相撲協会は、立会い一発の張り手をくらった後、もろ差しをさされて土俵際までいっきに押しまくられている感じです。

この問題、ことの発端は「腰と肘を痛めて安静と治療が必要です」という主旨の診断書を提出して、夏の巡業に参加することを免除してもらった横綱が、実はすでにモンゴルに帰国していて、元気いっぱいサッカーグラウンドを走り回り、ドリブルやパス。あげくの果てには腰をひねって、見事なダイビング・ヘッディングシュートを披露。傷めているはずの左腕から着地する映像が放送されたことです。

急遽呼び戻された段階で、嘘でもいいから「静養のために帰国していたのですが、国からの要請でどうしても断ることができないので、しかたなく親善サッカーに参加しました。ごめんなさい。」と言えば、話はこんなに大きくならなかったでしょう。

ところが、当のご本人、日本に戻ってくるやいなやマンションに引きこもり。代わって、あやしげな医師が入れ替わり立ち代り、テレビに出てきて、これまたなんとも訳の分からない診断を発表したために、一気に混乱の度合いが増しました。

名実ともに精神科医師である今坂医師が「急性ストレス障害」*1という、きわめて妥当な診断(あの時点としては)を下したことで、一件落着かと思っていました。少なくとも、前回のコラムを書いた時には、そう思っていました。

ところが、事態はさらに泥沼化。やがて政治家まで登場して、ことはさらに複雑になり、日本とモンゴルとの外交問題にまで発展しそうになってしまいました。

その後、第4の医師として登場した高木医師が「解離性障害」と診断して、朝青龍はモンゴルへと帰国することになりました。今は、果てしなく続く大草原を舞台に朝青龍と報道陣の追いかけごっこがくりひろげられています。もううんざりというのが私の実感です。

ただ、私としては「うんざり」と言っただけではすまされないのです。大変困ったことに、この一連の騒動のために、一般の方の精神医学に対する信用度ががた落ちしてしまったからなのです。

数週間の間に、4名の医師が登場。そして、そのたびに変わる診断名。精神医学なんて、他の医学と違って、自然科学とはいえない。精神科なんて「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、しょせん占いみたいなもんだ、と思われてもしかたがない状況になってしまいました。

確かに、精神医学は今のところ、血液検査やCT,MRIといった検査をして、数字や形といった、目に見える指標だけで診断を下すことができません。診断には、面接による診察をした時の、表情、しゃべり方、しぐさ、さらには患者さんと普段よく接している人達の観察結果といった、一見あいまいだと言われてもしかたない情報に頼る部分があります。


しかし、精神科の診断はけっして占いではありません。患者さんと周囲の人達から正しい情報をいただけたならば、きちんとした診断基準にそって、適切な診断を下すことができます。ただしそのためには、その医師がきちんと専門的な教育を受けて、豊富な臨床経験(実際に患者さんの診療に携わること)を持ち、なおかつ医師としての良心を持っているということが必要条件です。

この意味で、最初にしゃしゃり出てきた2名の医師の「神経衰弱」だとか「うつ病の一歩手前」なんて発言は無視すべきだったのです。言いかえれば、あの二人の妄言が今の混乱の発端だと言えるのではないでしょうか。

さて、高木医師によって最後に下された「解離性障害」とはどんな病気なのでしょうか。「うつ病」なんかと比べて、みなさんにはあまり馴染みのない病名だと思います。

「解離性障害」を正確に説明すると、強いストレスに対しておこる反応のひとつで、過去の記憶、同一性と直接的感覚、および身体運動のコントロールの間の正常な統合が部分的あるいは完全に失われている状態となります。

これでは、なんだかこむずかしくて、ちっとも理解できませんから、分かりやすく、簡単に言いますと、昔「ヒステリー」と呼ばれていた精神障害のことなのです。

「ヒステリー」という用語は古代ギリシャ語で「子宮」を意味する「ヒュステラ」という言葉に由来して名付けられました。古代ギリシャでは「体内で子宮が暴れまわる婦人病」と考えられていました。

実際、以前は女性に多く見られた病気でした。しかし、男性にも見られることと、女性を蔑視したニュアンスを与えるという理由から使われなくなり、「解離性(転換性)障害」という名前にリニューアルしたのです。

一般的に男性から男らしさが失われつつある現在では、男性の解離性障害はそう珍しいものではなくなりました。今から考えれば、病名を変えておいてよかったと思います。天下の横綱が「ヒステリー」では、いくらなんでもかっこがつきませんよね。

高木医師の説明ではさらに、「現在混迷状態にある」となっていました。「混迷状態」とは本当の意識障害はないのに、ぴくとも動かず、一言もしゃべらず、食事もとらず、排泄も垂れ流しという状態です。つまり、一見、植物状態と間違うような状態のことです。

その後の朝青龍の姿を見たのは、マンションから車に乗り込む数秒間と、成田空港に現れて、ウランバートルに到着するまでの間だけでした。しかし、どちらの場面でも、一言も発しはしませんでしたが、しっかりした足取りで目的地を目指してのしのしと歩いていました。数週間にわたってスープとお粥しか口にしなかったような痩せは見られませんでした。

 
高木医師までもがいい加減な診断をしたのでしょうか。私はそうは思いません。高木医師は自然科学者としての立場を守った上で、なおかつ相当意味深い診断をされたのだと思います。

なぜならば、診断は予見と想像を含めて行ってはいけません。実際に、数回の面接を行った際に、朝青龍が常に示した態度(?)が混迷状態に相当し、取り巻きの人達の証言からも、同じような報告しか与えられないならば、解離性混迷状態としか言いようがなかったのではないでしょうか。

入院させて24時間観察すれば、きっと別の診断が付けられたでしょうが。与えられた数回の面接だけで、みんなで口裏を合わせた詐病(偽って病気の振りをすること)だなんて断定することはできませんから。

私が意味深い診断だといった理由は、解離性障害はストレスが加われば誰でも起こす精神障害ではないからです。解離性障害に認められる症状は下等動物によく見られる下級な生物学的反応で、人間の場合には人格の発達が未熟な人にしか起こらない病態だからです。

人格の成熟は2ヶ月やそこらで達成できるものではありません。ですから、たとえいったんは落ち着いたとしても、再び同じようなストレスが加われば、またもや混迷状態になってしまう可能性が高いのです。

したがって、26歳にもなって解離性の混迷状態になってしまうような男に今後とも、ストレスの多い横綱を勤めさせることは酷な話といえます。一方、朝青龍が高木医師に本当の状態を隠して、病気を装っていたとしたのならば、大嘘つきということになりますから、力士以前に社会人として失格でしょう。

ちなみに、熱心にモンゴルまで付き添った本田医師は、現在ウランバートルで美容外科のクリニックを建設する計画を進行中だそうです。二人のモンゴルでのジビネスが成功することをお祈りします。

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*1強いストレスが加わった時、そのストレスに反応して、その直後から数日間の間に起こるパニックを中心とした種々の心身の異常状態。通常は数日でおさまるが、この後に解離性混迷いおちいることもある。

猛暑を耐える一人暮らしの認知症のおばあちゃま

今年の夏は日本中で猛暑が続いています。8月16日には岐阜県の多治見市と埼玉県の熊谷市で、気象庁の発表する公式気温がついに40.9度に達して、74年ぶりに国内最高気温の記録を更新しました。
気象庁による公式気温は、全国各地に配置されている測候所で計測される気温のことです。このために用いられる温度計は舗装されていない土壌面の上1.5mの高さに設置されています。
日射の直接的な影響を防ぐために、ステンレス製の通風筒と呼ばれる円筒に入れられています。昔は白く塗られた百葉箱という容器に収納されていました。また、地表面で反射した日射が感部に直接あたるのを防ぐため、通風筒の下部には遮蔽板をつけています。さらに通風筒内部への水滴付着防止のため、通風ファンを使用して5m/s程度の風を常に送っています。
なぜこんなにしつこく、気温の測定の条件について書いているかというと、気象庁発表の気温は、私たちが日々を過ごす実際の生活環境に比べて、とても快適な状況の下で測定されていることを分かってもらいたいからです。
日本にもまだまだ、木陰の涼を楽しめるような、すばらしい里山がそこかしこに残ってはいます。しかし、多くの人が集中して居住する現在の都市の夏の環境は、とてもとても百葉箱の中のようにはいきません。
アスファルトとコンクリートで塗り固められた都市で生活している多くの人が実際に体感する気温は、気象庁発表の気温よりも確実に数度、高くなります。この暑さから逃れるために、すべての建物でエアコンがフル稼働します。
エアコンは建物の内部を冷やす代わりに、その熱をすべて外部に放出します。ですから、都会の戸外の温度はさらに上昇するわけです。
さらに鉄骨やガラスなど、太陽光を反射する資材がたくさんおいてある工事現場や換気の悪い空間などの悪条件が重なった場所では、公式発表気温より10度も高くなるそうです。ということは、8月16日は熊谷市の工事現場では50度を超えていたことになります。

さて、この日は木曜日だったので、私は往診の日でした。バイクにまたがって豊島区と文京区を走り回りました。東京もさすがに暑くなりました。後になって、夜のニュースで36度以上に達していたことを知りました。
朝、家を出発する頃からすでに汗がしたたり落ちる暑さでした。午後2時を過ぎると頭がくらくらとしながら、往診先のご家庭にたどり着く状態でした。しかし、バイクに乗っている間は暑くても、訪問先のおうちに入れば、冷房なり、扇風機なりで涼がとられているので、そこで人心地つけていました。
ところが、区営の高齢者住宅1*に一人暮らしをされているおばあちゃまのドアを開けた時のことです。どっと押し寄せるサウナのような熱気。名前を呼んでも返事がありません。勇気をふるって中に入ってみました。
窓は閉めっきり、備え付けられているエアコンの電源はオフ。正確に測定をしたわけではありませんが、私の体感では45度近くに達していたのではないかと思います。舗装道路の照り返しと車からの排気ガスを浴びて身体にたまっていた熱を発散するどころではありません。意識までもうろうとしてきました。
居間に足を踏み入れると、そこに、おばあちゃまがぐったりと横たわっているではありませんか。2度、3度と声をかけたら、やっと返事がありました。意識障害は起こしていないとわかって一安心。
しかし、身体に触れるとうつ熱していて、周囲のようすからは水を飲んだ形跡もありません。汗でびしょびしょになりながら家捜しを開始。冷蔵庫に入っていた冷たい水を飲ませて、エアコンのリモコンを探しだして部屋を冷房。診察して、救急車を呼ぶ必要がないことを確認して帰りました。
この一件があったせいでしょうか、往診から帰宅してシャワーを浴びた後も具合が悪くて、その後は何もできずにごろごろするだけでした。私も熱中症の一歩手前だったようです。
この84歳になるおばあちゃまとはもう3年以上のお付き合いになるのですが、残念ながら徐々に認知症(痴呆)が進行してきています。昔は自分で買い物にも出かけて、身の回りのことは自分でできていたのですが、最近はほとんどお出かけすることもなくなっていました。
認知症(痴呆)は物忘れを中心とした記憶力の低下が一番注目されていますが、実際には脳の機能全般が衰えていきます。当然、温度を感じる機能も鈍くなってしまいます。
40度以上の室温も本人には暑いと感じられないのです。しかし、本人が暑いと感じようが感じまいが、身体に熱がたまり、汗として水分と塩分が失われていきます。熱中症は確実に忍び寄ってくるのです。
ふつうならば、ここで喉が渇いたと感じて、水分を飲みたくなるのですが、ここでもまた、認知症(痴呆)が立ちはだかります。口渇感(喉の渇いた感じ)も鈍くなっているために水を飲もうとしないのです。脱水に陥ります。身体を冷却せずに水分も補給しなければ数時間で死にいたることがあります。
暑さは当分続きそうでしたから、翌日、そのおばあちゃまに関係するいくつもの機関に相談をしました。

まずは、高齢者住宅を管理運営する区の住宅課に報告。住宅課は高齢者の方に住宅を提供することが役目だから、そこで居住する方の健康管理まではできないとのこと。それでもさすがに、高齢者住宅と名のっているだけあって、各戸の水場やトイレなどにセンサーを装備して、12時間以上人の動きがない時には、協力員と称する人が見回りに行くのだそうです。しかし、今回のようなケースの場合、12時間後では遅いのです。
次に考えたのは、食事を届ける配食サービスです。この担当者ならば、少なくとも1日に2回は届け先の高齢者の状態を把握できるのではないかと、考えました。このおばあちゃまも以前は配食サービスを受けていました。しかし、調べみると金額が高いので今は断っているとのことでした。
さらに調べると、現在は配食サービス自体が週に3回までが限度となっていることを知って、びっくりしました。配食サービスを再開したとしたって、週3回では何の役にも立ちません。しかし、以前は毎日昼食と夕食の配食を行っていたはずです。財政不足から、こんなところにも小泉政権以来ちゃくちゃくと進められてきた、弱者切り捨て政策の実績が実を結んでいたのです。
こうなれば、民間の介護事業者から派遣されているヘルパーの力に頼るしかありません。さいわい、このおばあちゃまを担当していた介護事業者は採算を度外視して融通をはかってくれる会社だったので、猛暑の間は決められた時以外にも、できるかぎり訪問して、状態を確認して、熱中症に気を付けてくれるということになりました。
一件落着。このおばあちゃまは、これでなんとかこの夏をのりきれそうです。しかし、高齢者の生活を支える福祉制度の問題点を改めて考えさせられるできことでした。

平成12年からスタートした介護保険制度は発足時から問題山積のごまかしの制度です。まず、「保険」という名前自体が大嘘です。実態はもっとも取り立てのきびしい税金です。高齢者は年金から有無を言わせずに天引きされています。無収入の生活保護者からも天引きしているのです。
「税」と呼んで、国民の反感を買うことを恐れた政府・与党が、まことしやかに「保険」という名前でごまかしたのです。しかもこの保険料、発足するやいなや、あっという間に値上げ。最初の6ヶ月は免除でしたが、10月には50%。翌年、平成13年10月には100%になりました。
しかも、地方分権という、これもまたきれいごとのごまかしで、各地方自治体にまる投げしたために、保険料は豊かな自治体と貧しい自治体とでは2.7倍もの差があります。そして、これからも毎年のように値上げが予想されます。
お金を払った一方、受けられるサービスはどうかといえば、これまた小泉の郵政民営化で象徴される、「民営にすればすべてがうまくいく」という幻想を利用して、民間にまる投げ。
国民の健康な生活を保障した憲法の根幹にかかわる福祉というものを、営利を追求することを至上目的とする株式会社に担当させたのです。結果は、まもなく、コムスン問題で明らかになりました。
コムスンの不正はグッドウィルを率いる拝金亡者の折口という男の個人的な人格の問題に帰されようとしていますが、元をただせば、現行の介護保険制度の仕組みそのものにあるのではないでしょうか。
介護保険発足当時はバブル崩壊後の低迷した経済状況が続いていました。新たな利潤獲得の分野を模索していた人々の前に、「この指とーまれ」と、いかにも美味しそうな「介護保険」という果実を見せられたら、折口でなくとも飛びついてしまうのはしかたなかったでしょう。
その後は、保険料は値上げするにもかかわらず、介護認定の基準をきびしくして、さらにはサービスに対する報酬も減らしていきました。つまり、金はどんどんふんだくっておいて、サービスはなるべく受けられないようにしているのです。
真面目に介護サービスをやっている業者の運営はどこも火の車です。今回、便宜をはかってくれる業者だって、おばあちゃまのために何度足を運んだって、規定の時間の報酬しか得られません。赤字を覚悟の奉仕でやるしかないのです。
高齢者住宅に入居した時には身の回りのことが自立していたとしても、時とともに老化が進み、認知症(痴呆)となる方は今後も確実に増加します。本来ならば、認知症(痴呆)で一人暮らしが困難になった時には、速やかに特別養護老人ホームで手厚い介護をするべきなのですが、受け皿となる施設あまりにも少ないために、入居を望しても何年待ちというのが現実です。

日本政府が現在の福祉に対する基本方針を変える気がないのならば、団塊の世代を中心とした、私たち高齢者予備軍は、認知症(痴呆)になる前に、子供達の世代や、「お国に」迷惑をかけないで、なおかつ自分も苦しまずに死んでいく方法を真剣に考えなければならないでしょう。
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1*1980年代後半になってはじめて登場した高齢者専用の住まい。住宅は高齢者が安全に快適に生活できるようバリアフリー設計になっていて、日常的な生活支援のための各種のサービスが付帯しているものをいいます。多くの場合、集合住宅で、単身や夫婦の高齢者のみの世帯が集まって生活する住宅です。
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