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クリニック西川

2007年11月

名医

  先日書庫の整理をしていたところ、黄ばんだレポート用紙に書かれた手書きの原稿を見つけました。1975年(昭和50年)3月18日に母校、東京慈恵会医科大学中央講堂の壇上から第50回卒業生代表として読み上げた答辞の自筆原稿でした。
じっくりと読み返しているうちに、その上にたくさんのできごとが重く積み重なって、記憶の片隅におしやられていた、あの時の情景が鮮やかに蘇ってきました。そして、医師としての第一歩を踏み出したあの心の高鳴りも。
 答辞の前半部と後半部は通常語られる御臨席の皆様に対する謝意ですが、中央部分はあの時の私が本心から、卒業生を代表して伝えたかったことばでした。ちょっと気恥ずかしいですが、ここに掲載します。

 「科学なき医学は力不足、哲学なき医学は意味不足、芸術なき医学は心不足といわれますが、ともすると科学進歩の速さに後の2つが忘れられがちな今日であり、医を仁術から技術、算術へと落とし込む危険があるように思われます。最近のこのような問題を考えます時、今年生誕100年に当たると聞く、故シュバイツァー博士1*の理念であった『生命への畏敬』という言葉が思い起こされます。自然科学としての、また技術としての医学は諸先生方よりご教授いただいた知識を基礎に日進月歩の歩みに遅れることのないよう、自ら学問することを生涯とせねばならないでしょう。しかしながら幸いなことに、私たちは諸先生、諸先輩そしてこの東京慈恵会医科大学の輝かしい伝統から、知識としての医学より、もっと深くて限りのない『慈恵の心』に触れさせていただきました。『慈恵の心』はシュバイツァー博士の『生命への畏敬』と相通じ、私たちが医師として、人間として生きていく上で大きな灯台となり、私たちの歩む道に光を投げかけてくれるでしょう。さらに私たちがこの『慈恵の心』を受け継ぎ、若い情熱と肉体でより高めることが、医の理論と実践の調和、すなわちよりよい医師、よりよい人間への道であると信じております。」
 
 若干舌足らずのところもありますが、なんと高邁な精神だったのでしょう。しかしこの32年間、私は自分自身が高らかに宣言した道を歩んでこれのたでしょうか。いえ、そうではありません。力不足、意味不足、心不足の連続であったような気がします。よりよい医師としての前提である、よりよい人間としての道さえも後悔の瓦礫に埋もれています。32年たった今の私が、若かった時の自分に叱咤激励される思いです。

 私個人の感傷的な思いはさておいて、我が国の現在の医学、医療はこの30有余年でどうなったのでしょう。これまでにこのコラムの「Sicko」や「エビデンス」で書いてきた事柄や、最近マスコミがやっととりあげるようになった産科医療、小児科医療の崩壊に見られる通り、我が国の医学や医療は急速にいびつな形に変わってきているように思います。
 それでは医療全体が崩壊しているのかと言えば、そうではありません。画像診断の飛躍的な進歩、内視鏡下の手術を始め、これまで不可能と考えられてきた病気の早期診断や治療が可能になってきました。さらには、先日京都大学で成功した「皮膚細胞からの万能細胞の作製」などは、最先端医療のさらなる飛躍に向けた画期的な業績です。
 科学としての医学や医療は確実に飛躍的な発展をとげているのです。その一方で、これまでごく当たり前に受けられると思っていたお産や子供達の医療を受けられない人達がでてきているのです。
 私の32年前の危惧が加速度的に現実のものとなってしまったのです。つまり、哲学と芸術が欠け、科学のみが優先された医学、医療になっているのではないでしょうか。
 その責任は国の福祉・医療という重要課題に対する基本的な姿勢に負うところが大きいことは繰り返し述べてきました。しかし、国家の政策だけを糾弾することはできません。私たち医師が「こんなこともできる」、「あんなことだってできるんじゃないか」と医学の科学的な側面ばかりを追及していくあまり、「意味」と「心」を置き忘れてきたことにも大きな責任があるのだと思います。
 さらに、医療を受ける国民の側にも責任があるのではないでしょうか。魔法のような最先端医療技術の発展に目を奪われて、いつしか「お金さえあれば名医の手によってどんな病気だって治るはずだ」という錯覚に陥っているように思えます。テレビでも最先端技術を駆使する名医を紹介する番組が大流行です。
 
 先日、フランスのタイヤメーカー、ミシュラン社の発行するグルメガイドブックの東京版が刊行されて大きな話題となりました。あの本に紹介された店は当分の間予約の嵐。てんてこ舞いになってしまうでしょう。その結果、サービスが低下したり、料金が上がらなければよいのですが。
 友人の美食家が「ミシュランなんて自分で美味しさを判定することができない人が利用するもの。お陰で、今まで行っていたあのお店にはもう行けなくなる」と嘆いていました。
 ミシュランのグルメガイドに限らず、日本人はランク付けが大好きです。音楽や絵画、衣料品やアクセサリーも自分の好みよりは有名だからという基準で選択する人が多いようです。先ほどの友人の言を借りれば、味覚に限らずすべての感覚に関して自信がないのかもしれません。
 さて、この傾向は食やファッションの世界だけではありません。名医を求める需要とランク付けの好きな日本人の特性に応えて、テレビだけではなく、週刊誌などの媒体でも名医の紹介が流行っています。単行本さえ刊行されています。さて、こういった本や雑誌に載っている医師や医療機関は本当に名医なのでしょうか。
 ミシュランは覆面調査員が実際に足を運び、口にして判定しているようですが、名医ガイドブックはそうではありません。実際の手術実績などの数字には嘘はないと思いますが、「今週の名医」とか「名医特集」などというコーナーは出版社にお金を払って掲載してもらう広告です。医療費削減で経営困難に陥って、患者さんの獲得に躍起となっている医療機関を餌食に仕掛けたメディアの金儲けの一手段なのです。
 私のところにもちょくちょくその手のお誘いがあります。先日もA新聞社系の週刊誌から名医特集を刊行するから掲載しませんかとの勧誘がありました。紙面の大きさによって価格が異なりますが、見開き2ページなどで名医として扱ってもらうためにはなんと200万円を超える広告料を支払わなければなりません。言い換えれば、200万円支払えば「名医」になれるということです。
 私はこの手の勧誘には「私は名医ではありませんので、その本に載る資格はありません」とお答えすることにしています。
 その度に、私が学生時代に内科の教授をされて、後に学長となられた安倍正和先生から教えられた「名医たらんと思うな。良医たるべし。」という言葉を思い出します。医師になりたてのころには、「名医」と「良医」の違いがよく理解できませんでした。名医が大流行の昨今になって、ようやくこの二つの違いが分かるような気がします。
 「良医」は「名医」であるかもしれない。しかし、「名医」は必ずしも「良医」ではない。目指すべきは「良医」なのです。
 
これからの医療環境はますます劣悪化していくことが予想されます。ともすれば時代の波に乗り遅れまいと思うあまり、医の原点を見失いそうになります。しかし、古びた数ページの原稿が若かった頃の医学への情熱を呼び覚ましてくれました。後何年、臨床の場で医療に携えるか分かりませんが、科学、哲学、芸術を備えた良医を目指し続けなければならないと思いを新たにしました。
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1*Albert Schweitzer(1875〜1965)旧ドイツ帝国(現フランス、アルザス)出身の神学者、哲学者、医者、音楽家。若くしてすでに神学博士、哲学博士を取得していたが30歳の時に医学を勉強し、38歳で医学博士を取得すると、アフリカのガボンに赴き、その後生涯をその地で現地の人の医療にささげた。1952年にノーベル平和賞を受賞。

感染する認知症 ―狂牛病と関連して―

 従来、「痴呆」と呼ばれていた一群の病気が最近「認知症」と名前を変えました。こうした用語の変更はしばしば行われます。もう少し前には「精神分裂病」が「統合失調症」に変わりました。
 ことばは使用されているうちにだんだんと堕落していき、差別的なニュアンスを帯びてくるようです。昔は貴い人をさして使われた「貴様」が現在ではかなり格下げになってしまい、むしろ侮蔑的な人称名詞になってしまっていることなどがよい例でしょう。これが病名を変更する理由のひとつです。
 「統合失調症」という名称はこの病気の本質をよく表しているので、よい名称変更だと思います。しかし、「痴呆」の「認知症」への変更はよいとは思えません。なぜならば、この病態は認知機能だけがやられるわけではなく、知的機能全般が低下し、さらには感情や意欲の低下など脳の全般的な機能も低下するからです。「認知症」ではこの病気が認知機能だけが障害されるかのような誤解を与えるので、私は今まで通りの「痴呆」のほうがこの病気を正しく表しているように思います。

 さて私が医学生であった当時、65歳以上の老年期におこる痴呆は一括して老年期痴呆と呼ばれていました。その脳の萎縮は加齢にともなう生理的な脳の萎縮とは量的にも質的にも違いがあり、精神症状も生理的な老衰とは質的に違う病的な症状が多く認められるにもかかわらず、正常な老化との間に明確な境界線を引くことはできないとされてきました。
 これに対して、主として初老期(45歳〜65歳)に発症して特徴的な症状を示す脳の萎縮性精神病を総じて初老期痴呆と呼んでいました。当時は3つの病気が初老期痴呆と呼ばれていました。ピック病(Pick’s Disease)、アルツハイマー病(Alzheimer’s Disease)、クロイツフェルド・ヤコブ病(Creutzfeld-Jakob’s Disease)の3大初老期痴呆です。すべて原因不明の脳の変性疾患とされていたのです。
 このうち、ピック病とアルツハイマー病は今でも原因不明の、脳変性疾患ですが、クロイツフェルド・ヤコブ病に関してはその後、驚くべき展開をみせることになりました。今回はこのクロイツフェルド・ヤコブ病についてお話をしたいと思います。

 この病気は1920年にクロイツフェルド、1921年にヤコブと相次いで2人のドイツ人医学者によって報告されました。初めのうちは興味の消失、注意障害、記憶障害とともに歩行障害や言語障害が表れます。やがて、精神運動興奮、幻覚、妄想、意識障害、錯乱が加わって、手足の振るえや、奇妙な不随意運動、四肢の麻痺などの運動機能障害を示します。末期になると高度の痴呆に加えて筋固縮、運動麻痺、痙攣発作が見られるようになって、他の初老期痴呆よりも急速な進行を辿って一年前後で死に至りました。
 亡くなった方の脳を調べると大脳皮質と皮質下の核が変性萎縮するとともに神経細胞の硬化も見られました。また、マクログリアという細胞の増殖と脳がスカスカに海綿(スポンジ)のような状態が見られました。一方、アルツハイマー病や老年期痴呆の脳に見られるような老人性の変化はまったく認められませんでした。
 非常に特徴的な病気で致死率100%という重大な病気ですが、100万人に1人と稀にしか見られない病気だったので、その後あまり注目されることがありませんでした。
 
 1950年代ニューギニアのある部族の間に、主として女性を中心にクールー病という不可思議な病気が流行していることが分かりました。クールーとは現地用語で「震える」という意味であり、運動失調や震えなどの神経症状を示して急速に痴呆化して死に至りました。致死率100%です。
 研究者達はウィルス性の脳炎を疑って研究しましたが、血清の中にはウィルスの存在を示す抗体が見つからないで、原因は不明のままでした。ただ、亡くなった方の脳はスカスカにスポンジのようになっていて、症状もクロイツフェルド・ヤコブ病と酷似していました。また、古くから動物の世界で見られていたスクレイピー病の脳の病理所見ともそっくりでした。

 羊がかかる奇妙な病気、スクレイピー病は18世紀の初め頃から知られていた病気です。羊がこの病気にかかると行動が落ち着かなくなり、興奮したり、疾走したりするようになる。次いで体毛が抜け落ちるほど激しく身体を木の幹や柵にこすりつける。やがて動きが鈍くなって群れを離れて、よろよろと歩き、やがて歩行困難となり、餌も食べられなくなって衰弱死します。
 この羊の病気は一度かかると治ることはない。すなわち致死率100%の病気で、何の前駆症状もなく突然発症する。一頭がこの病気にかかると、しばしば同じ群れに広がり、ばたばたと死んでいく。やがて流行が収まっても、人々が忘れた頃にまたどこかに出現する謎の病気でした。死んだ羊の脳を顕微鏡で見るとスポンジ状の空胞とグリア細胞の増殖が見られました。
 1930年代の後半にフランスの獣医学者がスクレイピー病にかかった羊の脳をすりつぶした物を健康な羊の眼球内に注射して忍耐強く観察をしました。あきらめかけていた頃、つまり注射後1年4ヶ月〜2年で注射された羊がスクレイピー病を発症したのです。つまり、スクレイピー病は感染症であることが証明されたのでした。
 ただ、通常の感染症に比べて潜伏期が異常に長く、電子顕微鏡や免疫学的な研究を進めても原因となっているであろう菌もウィルスも見つからなかったのです。さらに驚くべきことには通常どんな細菌やウィルスも殺してしまうはずのホルマリンで処理してもスクレイピー病の病原体は死滅しないことが分かりました。また、その後の研究でこの病原体は通常の加熱処理や放射線照射でも死滅しないことも分かりました。しかも、免疫学的に抗体が作られないのです。
 煮ても焼いても、消毒剤を使っても殺すことができない正体不明の病原体の存在は一部研究者の間に驚異と恐怖をもたらしました。後に映画化された小説「アンドロメダ病原体」のモデルにもなりました。

 さて人のクールー病の話に戻りましょう。クールー病について研究していたカールトン・ガイジュセック(後にノーベル賞受賞)はスクレイピーについて研究していた獣医学者ウィリアム・ハドローからスクレイピー病とクールー病が酷似していることを指摘されて、クールー病患者の脳をすりつぶした物をチンパンジーへ接種して18ヶ月〜22ヶ月でチンパンジーにクールー病とそっくりの病気をひきおこさせました。さらに、このチンパンジーの脳を使って、さらに他のチンパンジーにクールー病と似た病気を伝達させました。
 さらに、ガイジュセックはクロイツフェルド・ヤコブ病の患者さんの脳から採取したサンプルをチンパンジーに接種してクールー病と似た症状の病気をひきおこすことを証明しました。
 こうして、それまで別々に報告されていたクロイツフェルド・ヤコブ病、クールー病、羊のスクレイピー病が一つの疾病としてつながったのです。現在はこれらの病気は「伝達性スポンジ状脳症」と一括されています。
 つまり、それまで原因不明の変性疾患として三大初老期痴呆の一つとされていたクロイツフェルド・ヤコブ病は本体こそ未だ詳細不明ですが、何らかの病原体による、非常に長い潜伏期間をもった感染症であったのです。感染する認知症です。
 感染症であることが判明してから振り返ってみると、クロイツフェルド・ヤコブ病の患者さんを一生懸命治療、看病した医療従事者が、20年以上後にクロイツフェルド・ヤコブ病になっていました。あまりにも潜伏期間が長いので、まさか若いときに感染したということに気付かなかったのです。さらにこの病気を持っていた方から採取した脳硬膜や角膜を移植された人が後にクロイツフェルド・ヤコブ病になるといった医原性のクロイツフェルド・ヤコブ病の存在も知られるようになりました。
 それではクロイツフェルド・ヤコブ病はそれほど頻繁に発症しないのに、クールー病はなぜ集団発生するのかというと、クールー病にかかるフォレ族にはカニバリズム(食人儀式)という習俗があったのです。部族の中に死者が出ると、その人を悼んで皆で死体を食べる風習があったのです。そして脳は主に女性が食べていたために女性を中心に集団発症したというわけです。
 
 さて今年の3月に吉野家が牛丼販売の時間帯を11時から24時までに拡大したことで、多くの人の関心から遠ざかった感がある狂牛病(BSE)問題ですが、医学的にはまだまだ決着がついているわけではありません。
 狂牛病は正確には牛海綿状脳症(Bovine Spongiform Encephalopathy)と言います。この病気の歴史はそう古いものではありません。1985年、イギリスの牧場で奇妙な症状・経過を辿って乳牛が同時多発的に死亡したことに始まります。
 本来おとなしいはずの乳牛が急に攻撃的になったり、歩行が困難になって死亡するという例がイギリスのあちこちで8頭もでてきたのです。1986年、この症状で死んだ牛の脳を電子顕微鏡検査で脳のあちこちがスポンジ状に空胞化して特殊なグリア細胞が増殖していることが分かりました。クロイツフェルド・ヤコブ病、クールー病、スクレイピー病とまったく同じ「伝達性スポンジ状脳症」の一型だったのです。
 起源はスクレイピー病の羊にあると考えられています。本来草食動物である牛ですが、牛乳を効率よく産生して搾取するために、ヨーロッパでは仔牛は生まれるとすぐに母牛から引き離されて人工飼料で育てられます。その飼料が「肉骨粉」です。
 肉骨粉とは羊、牛、豚の食用肉を取り除いた部分や死んだ家畜を加工して粉末にしたものです。もともとは草食であるはずの牛が無理矢理同種の動物の死体を共食いさせられているのです。この肉骨粉の材料の中にスクレイピー病で死んだ羊の死体も入れられていたのです。
 この病原体は前にもお話したように通常の過熱や化学物質では死滅しません。このために仔牛の頃から肉骨粉を食べさせられていた牛が大きくなってスポンジ状脳症になったと考えられています。
 
 一連の伝達性スポンジ状脳症をひきおこす病原体はその後の研究で、核酸をもたない異常型の蛋白質「異常プリオン」だとの説が有力ですが、未だ確定されたものではありません。遺伝情報を持たない蛋白質が感染して増殖するとなると、生物学の根幹をくつがえすことになります。蛋白質は生物とは考えられないからです。
 プリオンが本当に犯人なのかどうかについて話をするとちょっとやそっとでは終りそうもありませんので、このテーマは後日に回させていただきますが、いまだに電子顕微鏡で本体の姿をとらえることはできませんし、抗体も確認されません。不気味な病原体です。
 
 アメリカは国内の牧畜業界の要請を受けて日本の要求する全頭検査を拒否して、早期にアメリカ産牛の全面輸入再開するように圧力をかけてきています。潜伏期の長さを考えると、危険な輸入牛を食べたとしても病気が発症するのは10年以上先です。将来日本でスポンジ脳症が多発したとしても、その時「ごめんなさい」と言えば許されると思っているのでしょうか。
 インド洋沖の給油をはじめ、政治、経済のあらゆる場面で、わが国はアメリカの属国であるという苦々しい現実を見せつけられていますが、食は国民の生命に直結した大問題です。この狂牛病に関連したアメリカ産牛の輸入問題だけは、けっして譲ることなく主権国家として毅然とした対応をつらぬいてもらいたいものです。

しのびよる鳥インフルエンザの恐怖

 東京では例年12月のクリスマスを過ぎた頃から流行するインフルエンザですが、今年はすでに10月の末に学級閉鎖の報告がありました。例年よりも早い発生の詳細な原因は不明ですが、私は異常気象によって夏の暑さが続き、10月下旬に急激に寒くなった、急激な気温変化が関係しているのではないかと考えています。
 これまでに報告があった症例は昨年までと同じようにAソ連型ということですが、世界各地の流行状況から推測すると、昨年までのウィルスから変異した株と思われます。この情報を基にして、今シーズン発売されて現在各医療機関で接種しているワクチンは昨年までの株と違うウィルスの抗原に対応しています。
 インフルエンザは通常1,2日の潜伏期間の後、急激に発症します。突然、悪寒、高熱、頭痛、全身倦怠感、筋・関節痛がおこるのが特徴です。その後に咽頭痛、咳や痰がでて、肺炎や脳症に発展する場合もあります。
 インフルエンザウィルスは人間などのようにDNAに遺伝情報を蓄積している生き物ではなく、RNAをゲノムした生物です。インフルエンザウィルスにはA型、B型、C型がありますが、C型は特殊で一般成人にはたいした脅威にはなりませんから、問題なのはA,Bの二つのウィルスです。A型のほうがB型より強力な感染力を持っていて、症状も重篤です。
 また、B型はヒトだけを宿主としますが、遺伝子が安定していてあまり変異をしないので、いったん感染したことのある人は比較的長期間にわたって免疫力を得ることができます。
 これに対して、A型ウィルスはヒトだけではなく鳥類にも感染して、しかも頻繁に遺伝情報が変異するのでやっかいです。
 治療薬としては現在のところ、オセルタミビル(商品名:タミフル)、ザナミビル(リレンザ)、アマンタジン(シンメトレル)があります。いずれも、ウィルスの侵入後の増殖を抑制する薬ですから、発症して48時間以内に使用しなければ効果がありません。
 タミフルとリレンザはA型にもB型にも有効ですが、タミフルは若年者に異常行動をひきおこす副作用があるのではないかとの疑いが指摘されて、安直な使用が控えられています。シンメトレルはパーキンソン病や脳梗塞後遺症の治療薬としても古くから用いられている薬で、重篤な副作用も少ないのですが、A型インフルエンザにしか有効ではありません。また、ウィルスがシンメトレルに対する抵抗性を獲得してきているようです。すなわち、シンメトレルが効かないA型インフルエンザウィルスが多くなってきているのです。

 さて、ここ数年世界中の医療関係者が固唾を飲んで注目しているのがA型インフルエンザウィルスに属する高病原性鳥インフルエンザ、いわゆる「鳥インフルエンザ」です。
 このウィルスは強い感染力と強毒性をもっていますので、いったん流行しますと50%を超える致死率と言われています。しかし、従来は鳥類の間だけの感染しかなかったので、養鶏業者など、一部の人達だけの問題でした。
 このウィルスが他人事ではなく、私たち人類全体の存亡にかかわる強敵として世界中を震撼させるようになったのは2003年からです。ベトナムを中心に養鶏業者など鳥との接触が多い人達の中にこのインフルエンザに感染、死亡例が報告されたからです。変異を繰り返しているうちに、ついにこのウィルスは鳥からヒトへの感性能力を獲得したのです。「H1N5型ウィルス」です。
 WHOは2005年11月に新型のインフルエンザに対する対策としてガイドラインを作製しました。そのガイドラインではウィルスの感染性の状況を6段階に分類してそれぞれの段階での各国保健医療関係者の対策を細かく指示しています。
Phase1
ヒト感染のリスクは低い
Phase2
ヒト感染のリスクはより高い
Phase3
ヒト―ヒト感染は無いか、またはきわめて限定されている
Phase4
ヒト―ヒト感染が増加していることの証拠がある
Phase5
かなりの数のヒト―ヒト感染があることの証拠がある
Phase6
効率よく持続したヒト―ヒト感染が確立

 各国の保健行政の完備度が違うために正確なヒトの感染者数は把握できていませんが、昨年までに少なくとも200名以上の人が鳥インフルエンザに感染したと考えられています。そして、致死率は70%に達するとも言われています。
 何よりも恐ろしいことには2006年5月にインドネシアでヒトからヒトへこの新型インフルエンザが感染したと考えられる症例が報告されたことです。つまり、鳥インフルエンザはすでにヒトからヒトへの感染能力を持つまでに進化したということです。
 しかし、この事例は拡大しなかったために、WHOは鳥インフルエンザの危険度をphase3としたままです。多くのマスメディアもこの脅威の事実を大きく取り上げませんでした。その理由は、未だ防疫や治療体制が整っていない現状で、この問題をあまり大きくとりあげると、世界中をパニックにおとしいれる危険性を考慮したものではないでしょうか。
 交通手段が発達した現在、大流行の危険度がphase4になれば、あっという間にphase5、phase6になってしまいます。大流行すれば世界中で1億5千万人もの死者がでることも予想されています。タミフルなどの抗ウィルス薬を備蓄できるだけの経済力がない国の中では、phase4が宣告された際には即刻、鎖国体制を敷くことにしている国もあるようです。

 10月19日付で「新型インフルエンザ(H5N1)ワクチンの製造販売が承認されたことが広報にさりげなく、ごくさりげなく掲載されました。特別扱いするわけではなく、同時に承認されたその他の医薬品と同格で並べられていました。効能効果には「新型インフルエンザの予防」とありました。このH5N1型インフルエンザとはベトナムで確認された例の「高病原性鳥インフルエンザ」のことです。
 意味深なのは参考として「新型インフルエンザ対策行動計画に基いて備蓄」と書いてあります。つまり、一般の販売ルートには乗せずに、すべて国家備蓄するということです。さらに恐ろしいことに、マスコミはこの重大事実をまったくとりあげていません。
 国が大金をかけてメーカーに製造させて、国家予算で買い上げるということは鳥インフルエンザの流行がかなり現実的になっている情報をつかんでいるということではないでしょうか。さらに、大きなニュースにさせないのは、国民を不安に煽り立てない配慮があるのではないかと思います。また、今回のワクチンの製造・備蓄量が、もしかすると国家の要人と天皇、皇族の分しかないのかもしれません。
 そういう心配はあるものの、国がひそかに鳥インフルエンザに対する対策を進めていることは確かなわけです。タミフルも相当量備蓄しているようですので我々日本国民は世界レベルで考えれば、鳥インフルエンザの脅威からはかなり守られていると考えたほうがよいでしょう。
 一方、不安な報告もあります。昨年8月、ベトナムで鳥インフルエンザと思われる症状で死亡した2名はH5N1型ウィルス陰性だったのです。すなわち、鳥インフルエンザウィルスはさらに変異をして新型のウィルスが生まれた可能性があるのです。
 もしそうだとすると、一生懸命H5N1型ウィルスに対するワクチンを接種しても感染・発症をくい止められないことになります。さらに、新型ウィルスはタミフルに対する抵抗性をも獲得したという報告もあります。現在国家が推し進めている対策が徒労に終る可能性もでてきているのです。

 それでは私たちはこの百ナノメーターほどの微小生物になす術もなく、壊滅状態に陥ってしまうのでしょうか。そういったことはありませんので、極端に怯えないでください。
 本当に最新型のウィルス感染が流行すれば、感染・発症をくい止められないかもしれません。このインフルエンザウィルスそのものを退治するのは自分自身の免疫力が未知のウィルスを感知して交代を産生するまでの時間を待たなければなりませんが、その間におこる致死的な症状に対して有効な対症療法を提供することはできます。我が国の医療水準は世界でもトップクラスです。
 鳥インフルエンザによってひきおこされる症状に対して手厚い対症療法を施せば、死に至る方はそれほど多くならないはずです。
 ただし、他の病気と同様に早期発見、早期治療をしなければなりませんし、感染の拡大をくい止めることが重要ですから、鳥インフルエンザ患者を早期に鑑別診断して隔離治療しなければなりません。
 そのためには、症状が似ていて鑑別しにくい通常のインフルエンザの流行をできるだけ抑えることが重要です。そのためには鳥インフルエンザには効き目はありませんが、通常のインフルエンザのワクチンを接種しておくことが賢明でしょう。
 最初に書きましたように、通常のインフルエンザの型も昨年とは異なっているようですし、すでに流行の兆しがありますので、昨年インフルエンザにかかった方や昨年ワクチンを受けた方も、是非とも早急にワクチンを受けることをお奨めします。
 また地味で言いつくされた防衛策ですが、帰宅時の手洗いとうがいを励行することはとても大切です。鳥インフルエンザに限らず、通常のインフルエンザ、一般の感冒などすべての病原体の侵入機会を少なくするからです。
 なお、鳥インフルエンザは、狂牛病のように加熱処理した食品を食べても感染するといった病原体や感染ルートではありません。このことは肝に銘じて覚えておいて下さい。過去、O157問題の時にカイワレ大根業者を破産に至らせたような風評被害で養鶏業者や焼き鳥屋さんを窮地に追い込まないように御願いします。

カウンセラーとは? ―玉石混淆の資格―

 精神科医をやっていると時々「カウンセラーになるにはどうしたらいいんですか」という問い合わせを受けます。非常に答えに困ります。困る理由は二つあります。
 一つは精神医学と心理学とを混同して理解している方が少なくないことです。精神医学は医学の中の一分野です。脳という臓器の高次機能である精神神経現象の病的な状態を医学的に研究、治療する学問です。英語ではPsychiatryです。
 一方、心理学(Psychology)は一般に「こころ」と呼ばれているさまざまな働きである心的な過程と、それに基く行動を研究する幅の広い学問です。当然ながら、精神医学が扱う対象は心理学の領域と大幅に重なりあっていますし、精神障害の診断や治療にとって心理学は大変重要な役割を果たしていますが、同じものではありません。
 以前、ある大手化粧品会社から依頼を受けて会議にでたことがあります。私はてっきり社員のメンタルヘルスに関する相談だとばかり思って参上しました。ところが私が参加した会議のテーマは、他社に奪われているマーケティングシェアを回復するための宣伝戦略だったのです。この分野は完全に心理学のテリトリーで、精神科医ごときが云々できる課題ではありません。一般の人が精神医学と心理学とを混同している典型的な一例です。
 心理学は精神医学だけではなく、哲学、理学、工学、経済学、美学、数学等々多岐にわたる分野と関連した学問で精神医学とは比べ物にならないくらい裾野の広い学問です。
 一方、心理学者は人体の解剖をしたことがありません。医師と違って生身の人体に実際に触れる研修を受けていないので、人体の構造や生理学的な部分には通じていません。したがって、血圧低下とか麻痺とか、痙攣とかいった生命に直結するような事態に対処したり、薬物治療をすることができません。

 私が答えに窮する二つ目の理由は、日本ではカウンセラーは公的な資格として存在しないからです。ところが、実際には世の中に「カウンセラー」と名のっている人がたくさんいるのです。一時はやった「セラピスト」ほどいい加減な呼称ではありませんが、「カウンセラー」の場合もやはり呼称だけが一人歩きしているように思います。ちなみに、患者さんに真顔で「先生はセラピストの資格をお持ちですか」と尋ねられて唖然としたことがあります。
 「カウンセラー」を名のる方の多くは、一定期間以上臨床心理学を学んで、臨床の場で修練を積んだ方です。しかし、中には、趣味と実益を兼ねて「カウンセラー」を自称して商売しているたんなる世話好きの人もいるのです。今の我が国では、誰でも「私はカウンセラーです」と宣言すれば、その日から「カウンセラー」になれるというのが現状です。
 カウンセラーの需要が増加しているのに、その資格が明確になっていない現状が、怪しげな人物に口先一つで金儲けする機会を作っていますし、金儲けの手段として勝手に「カウンセラー」という資格を与える士商法(サムライ商法)の手助けをもしています。
 新聞広告を見ると、相変わらず低迷している雇用状況から、何か資格を欲しいという人の心理に付け込んで「カウンセラー養成」と「カウンセラー資格認定」をうたった怪しげな学校や通信講座の募集をたくさん目にします。電話による通信教育とそれに関する教材販売の分野でも「カウンセラー」が商品の一つになっています。
 
 就職先がなくフリーター生活をしている若者にとって「資格」は喉から手が出るほど魅力的なことばだと思います。確かに資格を持っていれば、生活に困らない仕事を見つけやすいのですが、それはその資格が厳密な基準を満たす教育を受けて、一定の試験を合格して、広く社会から認知された実績をともなっている場合に、初めて意味のある資格だと言えるのです。
 資格はそれを与える権限者によって、国家資格、公的資格、民間資格の3つに大きく分けられます。国家資格とは、法律に基いて国が実施する試験などによってその人の専門的な知識や技能が一定の基準以上に達していることを行政が確認して、その結果行政の権限によって一定の行為を行うことを許可する資格です。つまり、一般の人には禁止している行為をその有資格者にだけ特別に行うことを許可するものです。したがって「業務独占資格」とも呼ばれています。
 代表的な国家資格は私のもっている資格の医師のほか、歯科医師、看護師などの医療系の資格や弁護士、公認会計士、税理士、建築士がよく知られています。このほかにもたくさんの国家資格があります。医療に関係するものとしては理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、薬剤師、臨床検査技師、臨床工学技師、歯科衛生士、歯科技工士、救急救命士、栄養士など。福祉に関係する資格では社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士などです。
 公的資格とは、主に省庁が認定した審査基準を基に、民間団体や公益法人の実施する試験で与えられるも資格です。一応「資格」とは言われますが、実際には国家資格のように、ある物事を行うことができる権限が与えられるものではなく、受験者の実力を認定する正確のものがあります。
 例としては簿記検定、秘書技能検定、救命技能認定、診療報酬請求事務能力認定試験、販売士検定、CGエンジニア検定などが挙げられます。私のプロフィールに記載してある「認定産業医」という肩書きもこの類で、日本医師会が認定した公的資格です。この資格がないと企業の産業医ができないわけではありません。
 民間資格は民間団体や企業が、独自の審査基準で任意に与える資格です。法的な規制がありませんから、社会的に信用度が高く、誰が聞いても一定の能力があると認知されている資格から、先ほど述べた「資格商法」としか言いようがないような、社会的信用度がまったくない資格まで玉石混合の状態です。民間資格の代表例はTOEIC、P検、MCPなどです。
 
 ところで最近私の所属する地区医師会は隣接するI医師会と共同で「認知症かかりつけ医」なる資格を創りました。医師会主催で認知症に関する研修会を開催して会員の医師に認知症に対する理解を深めようという狙いです。
 たしかに、地域の高齢者の方と付き合いが深い開業医の先生が認知症に関する造詣を深めることは大変喜ばしいことです。しかし、この活動を推し進めるために勝手にしかも安易に「資格」を創ることは大問題です。
 この資格創りに躍起となった内科医は日ごろから思い込みが激しく、独断でものごとを決めるので有名です。この人がどういう根拠からか、年に4回研修会に出席した者を「認知症を診断できる医師」として認定して、区民に公表すると言い出したのです。
 認知症は私の専門分野だと思っていたので、はじめは参加するつもりもありませんでした。しかし、日ごろ私が診療している多数の認知症の患者さんやその御家族にとっては、主治医である私がそのリストに載っていないと「自分の主治医は認知症を診断できない医師だったんだ」と思われて、混乱を招いてもいけないので研修を受けました。
 ありがたく、なんだか訳の分からない3年間の認定期間が書いてある修了症なる賞状をいただきました。さすがに「認知症を診断できる医師」という資格にはなっておらず、単に研修会を受講したことを証明する内容になっていましたが、この先どういう基準で更新していくのかも不明確な資格です。
 こういうあいまいな資格を乱発することは、「資格」というものの権威を落とすだけでなく、一般の人を混乱させるだけではないでしょうか。民間資格の悪い一例と言えます。

 さて、カウンセラーの話に戻ります。実際、私たち精神科医が臨床で患者さんの診断や治療に当たる際、熟練した真のカウンセラーによる心理テストや心理学的な治療アプローチ(カウンセリング)は必要不可欠です。
 現在のところ民間資格ながら高度の専門的な能力が担保されていると思われる臨床心理学の資格は「臨床心理士」だと考えます。この資格は財団法人日本臨床心理士資格認定協会が認定する資格です。協会が指定した大学の臨床心理学の大学院修士課程を修了して一定の期間実習もしくは実務経験を有するものだけが受験できる資格です。
 各学校に配置が進められているスクールカウンセラーも一応、臨床心理士の資格を有する者という建前になっている(実際にはそうなっていない)ので、臨床心理士の資格はそれなりに社会的な評価を得てきています。少なくとも我が区の「認知症・・・・・」なんていう資格よりははるかに実績のある敷居の高い資格です。
 2005年にはいったん国家資格として立法化されかけましたが、具体的な資格基準、権限(業務範囲)*1、罰則などをめぐって、関係者内部の意見調整ができず、また医療関係諸団体の反対にもあって頓挫したままです。作業療法士などが国家資格となっている現在、臨床心理の分野に公的に定められた資格が制定されていないのは困った状態です。
 無責任な詐欺師まがいの自称カウンセラーを撲滅し、士商法をはびこらせないためにも、早急に上記の具体的な諸課題を整備して、「カウンセラー」を誰もが納得し、責任ある資格にするべきだと思います。
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*1資格は国家資格、公的資格、民間資格という権限者による分類のほかに、権限(業務範囲)によっても幾つかに分けられる。医師や弁護士のような業務独占資格はその資格がなければその業務を行うことができないし、名称も使用できない。名称独占資格は業務そのものは資格がなくても行うことができるが資格取得者以外にその名称の利用が禁止されている資格。調理師や社会福祉士、介護福祉士などがこれに当たる。必置資格はある事業を行う際に、その企業や事業所に資格保持者を必ずおかなければならない資格。宅地建物取引業者における宅地建物取引主任者や警備会社における警備員指導教育責任者などがこれに当たる。
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