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クリニック西川

2007年12月

今年一年をふりかえって

 師走が陰暦で12月を表わす呼称であることは広く知られています。語源については諸説ありますが、一般には私たち医師など、普段はゆったりと構えていると考えられている、「師」と名の付く職業の人々も忙しさのために走り回る月だからと言われています。
 日本の医師は現在、12月だけではなく、一年中走り回るどころか不眠、不休で過労死すらする者まで現れる状況ですが、師走という言葉は今でもなんとなく気ぜわしい12月をうまく言い表わしている言葉ではないでしょうか。

 さて、2007年師走最後のこのコラムも、今年3月に書き始めて、45編目になりました。初めのうちは私の扱う病気の解説をしていましたが、他の医療機関のホームページを覗いてみると、そういうコラムはすでに溢れていました。また、インターネットを検索すれば、医療機関のホームページ以外にも病気や治療に関する情報に困ることはありません。私が知らないような最先端の医学的な専門知識でさえ誰でもが入手できます。
 さてどうしたものかと考えた結果、組織に属さないで町医者をやっている初老の私が、個人的に日ごろ感じたり、過去に経験したこと、長年考えてきたことをそのまま伝えることに方針を転換しました。というわけで独断と偏見に満ちた散文で皆様のお目を汚すことになっているわけです。
 いったいどれくらいの方に読んでいただけているのか分かりませんが、数人の友人には半強制的に読んでもらって、感想をこれまた強制しています。
 その中の一人から西川の文章は「感情が先走りすぎて、論点がぼやけている」、「怒って、批判しているばかりで、どうしたら救済されるかを述べていない」、「読んでいる人達を悲観的にするだけで希望を与えていない」と指摘されました。
 もとより私はプロの文筆家ではありませんので、文章力についての批判はいたしかたがないと思います。しかし、日常の診療で患者さんたちに「他人を恨んでいるばかりでなく、感謝の気持ちを忘れてはいけない」とか、「悲観して立ち止まっていてはだめ、ともかく歩いてみよう」などと偉そうに講釈をたれている自分自身が、怒りと不満をぶつけて、恨み、つらみ、悲観の世界にとどまっている文章を書いていることを気付かされて愕然としました。
 そういうわけで、2007年を締めくくる本編はこの1年、自分の身の回りにあった、私に幸せを与えてくれたできごとをふりかえってみたいと思います。

 まず第一は、近親者に不幸がなかったことです。高齢の母が秋に入って体調を崩しましたが、日ごろからお世話になっている病院に入院させていいただいて、回復の兆しが見えてきました。
 子供達が自分自身でそれぞれの進む道を見つけて、歩き出したように思えること。私は子供達にとって経済的にはまだまだ頼られる存在ですが、精神的には日に日に頼る存在になってきていることを実感しています。
 私がかかわっている患者さんたちにご逝去された方が少なかったこと。命あるものは必ず死ぬものです。しかし、やはりそういう場面には遭遇したくないものです。特に精神科の場合には自分の患者さんに自殺されることが一番こたえます。今年はそんな辛い目に1例もあわずにすみそうです。
 逆に患者さんの中に元気をとりもどした方が少なからずいらっしゃったこと。私の科では長期の治療を余儀なくされる方が少なくありません。長く来院されていた患者さんがパタッと姿を現さなくなると、「亡くなってしまったんじゃないだろうか」、「悪くなって入院しちゃったのだろうか」、「私の治療がいたらないので他の病院にうつったのだろうか」などと心配します。そんな方が、数ヶ月ぶりに「今はすっかり元気にやっています。今日は風邪ひいたんで診てもらいに来ました」なんて言って来院されると、幸せな気持ちになります。
 コラムが45編を迎えたこと。休日の大半を費やして毎週書いてきました。別に本業ではないのだから、今週はお休みしてしまおうかという誘惑に負けず、なんとか書き続けることができました。忙しい時間を割いて校閲してくれる、友人と息子に感謝。
 友人が増えたこと。友が友を呼ぶので、毎年友人が増えますが、今年は数十年ぶりの再会もありました。励まし、叱咤し、慰めてくれる友は私にとってかけがえのない財産です。
 この他にもささやかな幸せは結構ありました。いちいち挙げていったらきりがないし、読者にとってはどうでもよいことばかりでしょうから、この辺で打ち止めにします。それなりに辛いこともありましたが、私個人にとっては幸せな1年だったと言えそうです。

 さて、視野を広げて社会一般にとっての幸せなできごと、朗報は何があったでしょうか。一生懸命に記憶をたぐるのですが、容易には思いつきません。せいぜい、万能細胞の開発が実現化したことや月周回衛星「かぐや」の打ち上げが成功したことくらいでしょうか。
 それでも、強いて挙げろと言われれば、北朝鮮が破れかぶれの暴挙にでず、一応核開発中止の姿勢を示したこと。いやいやながらもアメリカが京都議定書の枠組みに参加する姿勢を示したこと。サブプライムローンの破綻に端を発した世界大恐慌を一応まぬがれていること。今のところ鳥インフルエンザが大流行していないこと。安倍さんが現職の首相として死亡しなかったこと。等々、「大きな不幸をまぬがれた」とか「とりあえず大丈夫」とかいった、その場しのぎ、消極的な朗報しか思いつきません。
 なんとか皆さんを安心させて、幸せな将来像をイメージさせたいと思っても、嫌なニュースしか思いだせません。本当に、暗い1年であったのではないでしょうか。
 ただ一般的には悪い出来事の代表のように扱われている社会保険庁によるずさんな年金管理の問題ですが、私は考え方を変えれば、我が国の将来にとってとても有益なこやしになるかもしれないと考えています。

 日本人はこれまで世界の中ではかなり特異な歴史背景を持っていたため、「国家」=「お上」。そして、「お上には逆らえない」、「お上に任せておいたほうが良い」、「社会のことはお上に、自分達は自分たちのことだけ考えていれば良い」という政治に対する思想的な風土が作られてきたのではないでしょうか。
 敗戦後、占領軍から突然与えられた民主主義など到底消化することができないままに、物質的な充足感にごまかされて、社会とか国家といった大事な問題に真剣に向き合うことをせず、安穏と生活してきたように思います。
 これまでも日本の社会構造上の問題点を浮き彫りにするような事件はありましたが、五月雨的なもので、いつのまにか私たちの頭の中で風化していってしまいました。
 しかし、今年は年金問題、防衛省現職次官の汚職問題、特殊法人解体の棚上げなど、国家と国民との関係を根本から、改めて考えさせる重要で根深い問題が次々と発覚しました。
 国家のために国民があるのではなく、国家は国民のためにあるのです。しかし、そのあるべき姿を維持していくためには、国民自身が相当のエネルギーを注ぎ続けていなければなりません。なぜならば、国家という権力は国民が少しでも目を放したり、手を抜くと国民を国家の下へ置こうとするものなのです。
 民主主義とは国民一人一人が常に高い政治意識を持ち、個人的な目先の利益追求だけでなく、社会全体の将来を考えた行動をとることができるようになって、初めて機能するシステムです。個人の利益だけを追求する者だけの集団では健全な社会は築けません。そして健全で安定した社会でなければ、一時は手に入れたかに見える個人の幸福も長くは続きません。
 今年の多くの嫌なできごとを風化させることなく、私たち自身が成熟した民主主義を身につける努力をして、明るい未来像を思い描くことができるような日本にしたいものです。
 それでは皆様、2008年が今年よりも良い年になりますようにお祈り申しあげます。

診療報酬 ―時間売りの精神科カウンセリング―

 来年から厚労省が導入しようと企てている医療保険改訂の一つに「時間売りの精神科カウンセリング」があります。
 精神科の診療はまず患者さんからお話を聴く。そしてお話を聴いている間や、医師との会話のやりとり。そしてその間の、その方の表情や声音、しぐさや態度を観察して診断。診断に沿ったお薬を処方して、カウンセリング(主として会話による)を行うことが基本です。大掛かりな検査をしたり、手術を施すわけではありません。
 したがって、私たち精神科医がその診療の対価としていただける報酬(診療報酬)は診察料とカウンセリング料とお薬の処方料だけです。私のクリニックは院内でお薬をお渡ししていますので、薬代と調剤料が加わります。その分、その処方料は院外の薬屋さんに渡す処方箋を発行するよりも安い価格に決められています。
 薬代はそれぞれの薬について厚生労働省が製薬会社との協議で決めた価格(薬価)でお渡しします。この値段はどのような基準で決めるのか実に不明瞭なのですが、1錠5円70銭(どういうわけか実際には流通されていない銭の単位で決められている)のものから1錠1000円を超えるものまで、その値段は千差万別です。この価格は私のクリニックのような医療機関で買っても、調剤薬局で買っても全国一律に同一価格です。
 薬を処方通りに計量して薬袋に詰める。粉薬の場合などには1回の服用分ごとに計量して袋に詰める分包という作業をする(粉薬でなくても薬の種類の多い方や服用方法を十分に理解できない可能性のある方にも行う)。さらに服用方法をきちんと指示してお渡しする。こういった一連の作業とそれにかかる経費に対して請求する調剤料は薬局より医療機関のほうが安く設定されています。医療機関では90円しかいただけません。院外薬局での調剤料は、これもまた複雑怪奇な計算方法で薬局ごとに値段が違ってくるのですが、概ね300円くらいから800円くらいかかります。
 結局、患者さんが支払う総額は医療機関で処方箋を発行してもらって、調剤薬局で薬を受けとるよりも、病院の中で直接薬を受けとるほうが安くなります。病院で待たされて、診察が終ったと思ったら、また薬局で待たされる。そのあげくに支払う総額は高いものになってしまうのです。
 それでは患者さんにとってあまり得にならない院外処方箋方式が我が国の医療の主流になっているのはどうしてでしょうか。
 昔はほとんどの医療機関が自分のところで薬を渡していました。つまり院内処方が当たり前でした。その当時は患者さんに売る薬代、すなわち薬価と医療機関が卸問屋から購入する価格(実勢価格)との間の差益(薬価差)が恐ろしいほど大きかったのです。購入価格は薬価の30〜40%くらいであったと聞いています。つまり、薬価の60〜70%が医療機関の儲けになっていたのです。
 このことが、いわゆる「薬漬け医療」を産む温床となりました。心ない医師や医療機関が、あまり必要とは思われない薬をどんどん処方して患者さんに飲ませ、利益を上げていったのです。
 当然、薬漬け医療は製薬会社と医療をビジネスとしか考えない医療機関を利するだけで、患者さんのためになるわけはなく、また国の総医療費をも蝕むものでした。この薬漬け医療を阻止するために、国は前年度の薬の実勢価格を基に翌年の薬価を下げるという政策をとるようにしました。またそれとともに、院外処方箋料を上げて、医療機関が院内処方から院外処方へと切り替えるように誘導したのです。
 その結果、私がクリニックを開業した平成3年の頃にはすでに病院内で薬を渡す院内処方方式よりも処方箋だけを発行する院外処方箋方式のほうが医療機関にとって経済的には有利な状態になっていました。
 開業するに当たって、周囲の人は皆私に、院外処方箋方式を奨めました。しかし、「病気の人に病院で待たせ、また薬局に行って待たせる。あげくの果てに患者さんに高い医療費を払わせるわけにはいかない」という思いから、院内処方を選択して今も続けています。
 しかし、院内で薬をお渡しするためには、薬を調剤する人件費、高い分包機の購入、薬を備蓄するためのスペースの確保(土地代の高い東京ではかなり負担)、使用頻度の少ない薬が期限切れになるリスク代、分包紙代、薬袋代、ビニール袋代などの経費がかかります。90円の調剤料ではとても見合いません。
 また現在、薬の実勢価格は薬価のほぼ90%以上になっています。しかも、医療費は特例として本当の最終消費者である患者さんからは消費税を徴収しないことになっています。最終的に徴収しない品目ならば大元から消費税を課すべきでないと思うのですが、どういうわけか医薬品に限らず、すべての医療関連品目にはきちんと5%の消費税が課されています。その結果、5%の消費税は最終消費者ではない医療機関が支払っているのです。
 つまり私は薬価の90%以上の購入代金を支払った上に5%の消費税も支払いますから、いくらお薬を渡しても儲かりません。儲かるどころか、薬によっては売れば売るほど損をする逆ザヤの薬さえあるのです。薬代に関してだけ言えば、私はただ窓口で患者さんからお金を徴収して、卸問屋を通じて製薬会社に引き渡すだけの役目なのです。
 ところが、患者さんはそういう現状を知りませんから、たまたま高い薬を使ったために窓口での支払いが高いと、私が儲けていると思われるようです。なんだか製薬会社のために悪代官役をやらされている気分です。そういう時には院外処方箋方式に切り替えて、紙切れ一枚発行するだけで今より高い処方箋料をいただきたいという誘惑に駆られるのですが、患者さんのことや職員をリストラしなければならないことなどを考えれば、やはりこれからもできるかぎり院内処方で頑張りたいと思っています。

 これまでの長々とした説明で私達精神科医の診療に対する報酬の多くがこれからお話しする専門医としての精神科カウンセリングに頼っていることがお分かりになったと思います。
 さて、総医療費削減に躍起な厚労省は、ついにこの精神科カウンセリングという技術料に目をつけました。この技術料をなんとか安くしようと考えているのです。
 近年、町のいたるところに私のようなメンタルクリニックを見かけるようになりました。この理由には現在のゆとりのない生活環境が精神的な悩みをもつ人を増やしている、メンタルクリニックに対する需要の増加があります。
 しかしそれだけではありません。前回のコラムで書いたように加速度的なスピードで進む医療崩壊の結果、病院から逃げ出さざるを得なくなった医師の中に精神科や心療内科を標榜して開業する医師が雨後の筍のように現れてきたということも挙げられます。
 ここ数年、私のクリニックの周辺だけでも相当数のメンタル系のクリニックがオープンしました。そしてその中には精神科医や心療内科医ではない医師が数多くいます。このところ目につくのは脳外科の医師が精神科を標榜して開業することです。
 問題をややこしくしているもう一つの理由があります。本来、他の科に比べてかなり高い専門性が要求されるはずの精神科医ですが、日本の精神科のメインの学会である日本精神神経科学会はいろいろな理由からつい最近まで専門医制度が制定されていなかったのです。2年ほど前からやっと専門医の認定を行うようになりましたが、これまでわが国には精神科の専門医というもの自体存在しなかったのです。
 さらに、隠れ精神科医もいます。我が国では看板に精神科と標榜しなくても、保健所と社会保険事務所などに精神科を届け出ておけば、精神科カウンセリング料を請求できるのです。
つまり、精神医学をまったく修得していなくても、医師免許さえもっていれば、ある日突然「私は精神科だ」と名のれるのが現状だったのです。そこで、精神的な悩みを持つ患者さんが増えてきた現象に対応して全国的に精神科を届け出る医療機関が急増して、精神科カウンセリング料が医療費の中で目立つようになってしまったのです。
この現象を国が見逃すはずがありません。精神科カウンセリング料の価格を下げようと考えるのはもっともな側面もあるのです。しかし、現在厚労省が考えている値下げ案はどうも納得がいきません。カウンセリングの料金を時間で計り売りしようというものだからです。
 つまり、厚労省が企てているプランでは15分以上のカウンセリングならば今まで通りの価格。15分以下ならばそれより安い価格。5分以内ならばカウンセリングと認めないというのです。
 一見もっとも思われるかもしれませんが、カウンセリングというものは単に時間をかければよいというものではありません。充分に信頼関係のできた間柄だと、顔を合わせて「やあ元気かい」と目線を合わして、要領よく話をまとめれば数分で相当のカウンセリング効果が上がることもあるのです。一方、ただだらだらと時間ばかりかけていたってまったくカウンセリングになっていない場合もあります。
 外科だって腕のよい医師が執刀すれば難しい手術だって短時間で見事な手術を終えます。経験の浅い未熟な外科医が執刀すれば、簡単なはずの手術でも何時間もかかって、大量の輸血を必要とします。この場合、長時間の手術をしたからと言って高い手術料を請求できるでしょうか。
 私は大学時代、一人の患者さんに時間をかけ過ぎた時に恩師から次のような注意を受けました。「西川君。君は今目の前にいる患者さんだけを患者さんだと思っているようだが、待合室でいらいらしながら待っている患者さんも、すでに君の患者さんなんだよ。」
 多くのメンタルクリニックは完全予約制で診療しているようですが、私はいつでも来たい時に来れる診療を目指して基本的に予約制はとっていません。ですから、先ほどの恩師の言葉を忘れずに、カルテの貯まり具合を見計らいながら診療を進めています。混んでいなければゆっくりと、混んでいればコンパクトな診療を。
 幸いなことに私のところに来てくれる患者さんの多くはその辺の事情をよくご理解いただけているようで、「今日は混んでいるみたいだから、これとこれだけ教えてください」なんて待合室で待っている他の患者さんに気を使ってくれます。
 先日行われた精神科医の勉強会で、ある有名な精神科医が「上質な霜降りの松阪牛もミートホープの偽装肉も十把一絡げ、グラム当たり同じ単価か」と嘆いていました。私は自分のことを霜降りの松阪牛と言えるほどに高い自尊心は持ちあわせていません。しかし、それなりの経験とノウハウをもってカウンセリングを行っていると自負しております。
 しかし、厚労省の試案が現実のものとなった場合、クリニックの経営を考えればこれまでのように患者さんの目を見ながらお話しすることはできなくなるかもしれません。そもそも、いつカウンセリング開始のゴングを鳴らすのかも不明ですが、ともかくストップウォッチとにらめっこ。元来早口な私です。とりたててそれ以上のお話は必要なくなってしまうかもしれませんが、とりあえず15分はいていただかなければなりません。そして、15分を超えたら即刻退場していただくことになろうかと存じますが、何卒ご容赦を。

日本の医療崩壊 ―信頼の失われた医療―

 救急車で搬送される患者や産婦が病院での受け入れを次々と断られて、長時間町の中をさまよう。このところ、こういった救急難民に関する報道が後を絶ちません。今日の日本の医療の悲惨な現実をものがたる事件です。
 ちょっと前まではこういった事件がおこると、マスコミはこぞって受け入れを断った医療機関に対する非難の論調に終始していました。医療関係者は本当は言いたいことがあるのに、少しでも反駁しようものならば、さらに数倍の非難になって返ってくることを恐れて、緘黙の態度をとってきました。飽きっぽく、無責任で、権力に迎合するマスコミの関心が早く他のテーマに移ってくれることを祈りながら。
 ところが最近になってマスコミの論調が少しだけ変化を見せはじめました。こういう事件の大きな要因が受け入れを断る個々の医療機関や医師のエゴや怠慢にあるのではなく、急速に崩壊してしまった我が国の医療システムにあることにも触れるようになりました。もはや、病院にだけ責任を押し付けているだけでは覆い隠せないほどの社会矛盾が露呈してきたからです。
 長年にわたって政府が、そして政府に誘導されたマスコミが推し進めてきた医療関係者いじめ、そしてそれは患者いじめにつながる政策(大半の人々は気付いていこなかったのですが)に、日本の医療機関は疲弊しきっていました。
 そこへとどめを刺したのが小泉政権によるあからさまな経済優先、弱者切捨て政策です。その象徴が「自立支援法の制定」でしょう。このまったく詐欺としか言いようのない名前の悪法については後日、詳しく述べたいと思います。
 ともかく、小泉、竹中は利益追求を至上目的とした市場経済論理を、利潤とはまったくそぐわない社会福祉にまで適用したのです。この最後の一撃によって我が国の医療は壊滅的な被害を被って、加速度的に崩壊したのです。
 その目的は、役人の天下り先企業を儲けさせるために垂れ流し続けてきた公共事業費をはじめ、歴代の政府が取り続けた放漫経営による、天文学的な国家財政破綻の立て替えであり、今後急速に進む高齢化社会到来によるさらなる財政負担増に対する穴埋めだという。
 これだけだって相当に腹立たしい。さんざん飲み食いしたあげくに、「金がないから払えない。だけどもっと食わせないとお前らも道連れにしてやるからな」と居直っている無銭飲食者みたいなものです。しかし、「本当に金がないなら、自分達が痛いおもいをするのもやむをえない」と我慢強くて寛容な日本人の国民性を利用して、感謝するどころか、この機に乗じ、さらに沈みかかった船から残り少ない金品を売り払って(主としてアメリカに)己の利を上げようとする思惑が見えてしまうのは私だけでしょうか。
 私はこのコラムで何度となく竹中平蔵と小泉純一郎を悪者呼ばわりしてきました。彼らは稀代のペテン師であり現在社会の混乱を招いた張本人だと思っているからです。しかし、彼らを大喝采で称えたのは私たち国民です。意味ありげでまったく意味のないワンキャッチコピーに狂喜乱舞して、「純ちゃん」などと追いかけまわしていたのは私たち国民なのです。
 国民一人一人が己の利や、まやかしの言葉に左右されずに、自分達の国家、そして自分達の孫子の代の国家のことを真剣に考える力を持たなければ、民主主義は機能しません。先の郵政民営化総選挙のように衆愚政治に堕してしまうのです。
 我が国の医療崩壊も小泉をはじめ歴代政権と、国民という実態を置き去りにした、空の弁当箱のような「国家」というものの威信、繁栄だけを追及してきた、鵺のように不気味な官僚組織だけで達成した業績ではありません。それをよしとしてきた国民一人一人に帰するところも大きいのではないでしょうか。

 我が国の医療システムの崩壊をもっとも敏感に反映しているのが小児科医、産科医の急激な減少です。たらい回しされる救急難民の多くが妊産婦や小児であることからもすぐに分かるはずです。実際、日本中の病院から産科医や小児科医が逃げ出して、産科や小児科を閉鎖せざるを得ない病院が後を絶ちません。
 この背景には「労多くして益少なし」の経済論理も働いています。これまでの保健医療制度では、小児科医や産科医は寿命を削るような過酷な勤務を強いられるにもかかわらず、それに見合った報酬を与えられてきませんでした。
 政府もさすがに慌てて、急遽来年度から周産期医療や小児科医療の保険点数を上げるもようです。つまり、美味しそうな餌をちらつかせて小児科医や産科医を呼び戻そうという、これまで連綿と厚労省がとり続けてきた「撒き餌」作戦です。
 しかし、本当に役人の思惑通りに、餌に釣られて小児科医や産科医が戻ってくるでしょうか。私はそうは思いません。私たち医師にとっても他の方々と同様にお金は大事です。しかし多くの医師は経済論理だけで動いているのではありません(どの分野にも必ず例外はいますが)。
 三重県のある市では産科医が一人もいなくなってしまう事態に年棒5520万円という通常の医師の年収の4〜5倍という破格の高給で一人の産科医を確保しました。しかし、この医師はわずか1年で辞めてしまいました。
 辞職の理由は病院の分娩室の隣の部屋に住み込んで24時間体制での診療。休日は年末の2日間だけという奴隷並みの過酷な労働それ自体と、それにともなう過労から起こる可能性の高い医療事故への不安、さらには高収入に対する周囲からのねたみやそねみの声に耐えかねたと聞きます。餌を撒いただけで解決する問題ではないのです。

 戦後の急速な経済復興による食糧事情の安定、昭和36年に達成することができた国民皆保険制度、医学および医学関連の科学技術の進歩によって、日本は世界トップクラスの高度医療を国民にあまねく提供できる国になりました。
 それに対してアメリカは一部のお金持ちは世界最先端の医療を享受することができますが、多くの低所得者層は日本ではごく当たり前に受けることのできる医療、例えば喘息や怪我をした傷を縫合することさえも受けることができないのです。そういう悲惨な医療の現状を訴えたのがマイケル・ムーア監督作のドキュメンタリー映画「Sicko」です。すでにご紹介しました。
 一方、食糧に困らず、優秀な医療を日常的に受けることに慣れてしまった日本では、一般の人々が医療に対する、いや健康に生きていられることに対する感謝の念を失ってしまったようです。
 「病気は治って当たり前」、「思うように治らなかったら医療ミスがあったのではないか」と考えるようになってきているように思えてなりません。産科医が姿を消した背景には日本人が生きていることに対する感謝を忘れてしまったことがあるように思います。
 お産は本来大変危険な命がけの営みなのです。古い映画を観ると、出産が無事に終了した場面では、待合室でやきもきしていた父親が「母子ともに無事ですよ」と告げられると、小躍りして喜んで、担当の医師や看護師に「ありがとうございます」を繰り返すシーンを目にしませんか。しかし、最近は「お金を払ったんだから、無事に生まれて当たり前」「何かあったらただじゃおかないぞ」という方が増えてきたようです。
 どんなに臓器移植ができるような時代になっても、お産が母体と赤ちゃん、二人にとって命がけの作業であることには変わりがないのです。しかし、一般の人はどうもそうは考えていらっしゃらないようです。無事に生まれて当たり前。そんな風潮になってきているようです。
 昨年、福島県で癒着性の前置胎盤というきわめて難しいお産の結果、妊婦が死亡した件で、担当した産科医が刑事告発され、さらし者のように報道陣の前で手錠をかけられて逮捕されました。私たち医師が考えれば、癒着性の前置胎盤の場合は、十分に危険性を考慮して対策を準備していても不幸な結果が起こりうるのです。これで逮捕されたのでは、産科医が逃げ出すのも当たり前です。いくら保険点数の撒き餌をしたって産科医を志望する若手医師はいなくなります。
 逆に、私たち医師、看護師は「ありがとう」の一言があれば、かなりの疲れも吹っ飛ぶものです。それほどの高収入で報われなくたってがんばれるものなのです。
 先日、ある会合で若い女性に「先生、覚えていらっしゃいますか」と声をかけられました。その女性は大学生の頃に私のクリニックを受診された方で、もう4年ほどお会いしていいなかったのですが、すぐに診察室でのやりとりを想い出しました。
 「あの時は八方塞がりで苦しくて、大学をやめようと考えていました。でも、あの時に先生に言われた一言ではっと自分をとりもどして、頑張れました。無事に卒業して、今は社会人として充実した日を送っています。ありがとうございました。」
 涙腺の弱い私は泣きそうになりました。何日かたった今でもなんだか温かい心でいられます。
 直接、生死に結びつく結果が出る機会が少ない私の科でもこんなものです。日夜、生死を決するような修羅場の医療を担っている多くの医師や看護師たちは収入だけではなく、「ありがとう」という一言のねぎらいを求めているのです。
 ところで、国民が医療に対して感謝の言葉を忘れて、訴訟の機会をうかがうようになった原因は豊かさによるぼけだけが原因ではありません。一部医師によるとんでもない医療ミスやこころない医療にもその責を負うところは多いと思います。
 しかし、もっとも糾弾されなければならないのは、自分達が招いた根本的な医療制度の不備を、「算術の医者vs被害者である患者」という単純な構図にすりかえて、国民の目をごまかし続けてきた国家であり、その片棒を担ぎ続けたマスコミだと思います。つまり、国民の医療に対する信頼関係を壊して、医師や看護師を臨床の現場から逃げ出させたことについても政府の政策にその大元があるのです。教育の崩壊と同様です。

 国家が国民に対して経済的な豊かさを提供することはとても大事なことです。しかし、はるかそれ以前の課題として「国民に対する安全で健康な生活の保障」がなければならないことは自明のことではないでしょうか。
 来年度も国は医療機関の収入を減らして、一方では国民の医療費負担を増加させる医療制度改悪を行います。このままでは、小児科医、産科医だけではなく、勤勉な医師、看護師は逃げ出して、多くの保険医療機関はつぶれていき、国民は高い医療費負担を要求されます。医療に対する国民の信頼が回復されるはずがありません。さらにぎすぎすとした関係になるでしょう。
 そこに残るのはアメリカ資本の民間医療保険会社が暗躍し、一部お金持ちだけしかまともな医療を受けることができない「Sicko」の世界です。これは遠い将来の話ではなくもう目の前に迫っているのです。すでに、国民健康保険に加入できない人が急増し、餓死者も年々報告され続けています。救急難民だけでなく医療難民、介護難民が現実のものとなっているのです。
 
 我が国が憲法を改正したという正式な発表はありませんが、現実的にはすでになし崩しに第25条は削除されたようです。25条は日本国家が国民に対して「生存権」を確約した条項です。

追いたてられてストレスをためる現代人

 ついこのあいだカレンダーを付け替えたと思っていたのに、もう最後の一枚になってしまいました。時間の流れのあまりの速さに愕然とします。
 ある心理学者が「その人にとっての心理学的な時間の長さは年齢に反比例する」と言っています。つまり、小学校1年生、6歳の子供の一日の長さは30歳の人の5日に相当するということです。57歳の私の1週間は6歳の子の1日あまりにしか感じられないというわけです。小さい頃の1週間が盛りだくさんに充実していたことを思い出すと、なんとなく納得してしまいます。
 
 というわけで、汗で滲んだ夏物の衣類をきちんと手入れして衣替えする間もなく、お歳暮、年賀状の準備に追われる羽目になってしまいました。
 お歳暮・お中元、年賀状などはむだな儀礼だから必要ないという方も増えてきているようです。しかし私は、一年に数回、自分がその年や過去にお世話になった人々に思いをはせて、自分がけっして一人だけで生きているのではない。多くの人の支えがあってはじめて今の自分があるということを再認識する、とてもよい機会だと思っています。また、慌しく流れていく日常生活に適度な節目を感じさせてくれる行事だとも思います。
 年賀状とは名前の通り年賀の期間中に送る書状ですから通常、元旦から1月7日の松の内に送るものです。お中元は関東では7月1日から15日くらいまで、関西では8月1日から15日くらいまでにお贈りします。お歳暮は文字通り歳暮、12月(末の月)の行事で、本来は「歳暮周り」といって、その年にお世話になった方のところへ贈り物を携えて直接ごあいさつに伺うもののようです。近年は世情が慌しくなって、お互いにあいさつに赴く時間がないために、贈り物だけを配送するようになっています。
 さてここ数年、このお歳暮やお中元について気になっていることがあります。私のもとへ届くお中元が6月末から、お歳暮は11月の末から送られてくるようになっているのです。年賀状は日本郵政株式会社(私はいまだに民営化には反対で郵政省と言いたいのですが)がコントロールしてくれるので12月中には届きませんが、季節季節のいろいろな行事が前倒しになってきているのではないでしょうか。
 そういう目で身の回りを眺めなおしてみると、多くの分野でこういったフライイング現象が見られます。ものすごいフライイングが当たり前なのはファッションの世界でしょう。最近私がひいきにしている洋服屋さんなどは、今の時期にもう来年の春夏物を店頭に並べています。
 確かに、寒くなる前に冬物をそろえ、暑くなる前に夏物を用意しておいたほうがいいでしょう。地球環境の変化のためか、春や秋がなくなって、夏、夏、夏、冬となってしまった昨今、早め早めの準備は一層重要なのかもしれませんが、11月の末にもう春夏物はいかがなものでしょうか。
 もっと納得がいかないのが雑誌です。11月に発行される女性向けの月刊誌は1月号です。週刊誌もたいてい表紙に印刷されている日付の2週間くらい前に書店の店頭に並びます。
 女性月刊誌の内容の中心はファッションですから、掲載内容が季節の先取りになるのは納得がいくのですが、何も号名を早くすることはないように思います。11月号に1月にふさわしい記事を載せるというだけで事足りると思います。
 週刊誌にいたってはまったく意図が分かりません。今手元にある表紙に12月1日号と印刷された週刊現代は11月19日に店頭におかれて、内容は11月11日から1週間のできごとです。
 早速、出版関係の知り合いに電話して尋ねてみました。その方の答えは「長く店頭においてもらえるための販売戦略」ということでした。
 11月に売るものを11月号とすると、12月になったとたんに返品されます。1月号にしておけば、1月まで置いておいても違和感がないということだそうです。なんだか今世間で話題になっている、食品の賞味期限の偽装を連想してしまいます。
 しかし現実には11月号が1月まで店頭に並んでいる姿なんて見たことがありません。次の号が店頭に並べば、前の号は返品されます。出版業界ではなんの疑問も持たずに常識となっているようですが、一般人にはよく分からない慣習です。
 おぼろげな記憶ですが、月刊誌は私が子供の頃も先取り刊行であったように思います。私は親から毎月、手塚治虫の「鉄腕アトム」、横山光輝の「鉄人28号」、堀江卓の「矢車剣之助」の載っていた雑誌「少年」を買ってもらっていました。
 この「少年」の発売も前倒しでした。でも確か、せいぜい1ヶ月の幅であったのではないでしょうか。たいしたものでないのは薄々気付いているのに、なぜか毎回心を躍らされてしまう、付録のたくさん付いた新年特大号。あの新年特大号を心待ちにしていたのは12月だったように思います。
 この数十年で前倒し競争が進んできたのではないでしょうか。そのうちに新聞までもが前倒しになるかもしれませんね。12月1日に配達される朝刊は12月2日号なんて。

 いくらなんでも新聞の先取りはあり得ないことだと思いますが、食の世界も早さ競争です。普通に栽培していたらとても収穫できないような野菜をハウス栽培で、他業者よりも1日でも早く市場に出荷しようと躍起です。
 お陰で、私が小さい頃に運動会や秋の遠足で食べた、青くて酸っぱいみかんはまったく見かけなくなりました。春の訪れを彩っていたイチゴは今では一年中食べることができます。
 大変ありがたいことではあるのですが、反面、身近なものの中に鮮烈な季節感を感じとることができなくなりました。そして、少しでも先に先にという社会全体のせっかちな流れに、いつのまにか乗せられてしまっているようです。
 いろいろな分野で私たちは生産者としても、また消費者としても、常に先へ急ぐように追い立てられているのではないでしょうか。そして何より危険なことは、追い立てられているのは自分だけではなく、周りの人達全部がその流れに乗っているために、自分が追い立てられていることに気付かないことです。
 追い立てられて、焦らされた生活を続けているとストレスを溜め込むことになります。うつ病、睡眠障害(不眠、過眠、概日リズム睡眠障害)をはじめ、種々のストレス関連障害を産みだす温床です。
みんながそうしているから大丈夫ではありません。現代人が当たり前と思っているライフスタイルは実は相当不健康であることを自覚するべきです。先へ先へと急ぐだけではなく、時にはじっと立ち止まって、ゆっくりと深呼吸することも大切です。
 
 こんな風に他人にはゆっくり歩めと講釈をたれることができるのですが、さて自分はというとなかなかその通りには実践できません。言うは易し、行うは難しです。
これから先、私に残された時間。そしてその時間の流れが加齢とともにますます速くなっていくという予測にたつと、どうしてもあれをやり残した、これもやらなければと、ついつい焦ってしまいます。
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