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クリニック西川

2008年4月

統合失調症あれこれ(5)―させられ体験―

「自分と他人の区別はつきますか?」と質問されたとしたら、ずいぶん馬鹿げたことを聞くと思われるに違いありません。「自分と他人の違いが分からないなんてことはありえないじゃないか。」と憤慨される方がほとんどであると思います。しかし、案外この自分と自分以外との区別というものは私たちの脳にとっては難しい課題のようです。

前回の思考体験様式の障害のコラムで、思考という機能に関する作為思考(させられ思考)という症状についてお話しました。実はこの障害は統合失調症においては思考にかぎらず、さまざまな精神機能で認められます。
つまり、統合失調症においては思考のほかに感情、衝動、意志、身体感覚などにも同様の障害が起き得るのです。

思考:
作為思考(gemachater Gedanke);考えさせられる。
思考吹入(Gedankeneingebung);考えが吹き込まれる。
思考奪取(Gedankenentzug);考えが奪い取られる。抜き取られる。
思考干渉(Gedankenbeeinflubung);自分の考えが他から干渉を受けている。自己のものから影響される。
感情:
作為感情(’made’feeling);自分の感情が操られる。
衝動:
作為衝動('made impuls);なにものかに突き動かされる。
意志:
作為意志('made’volitional acts);自分以外のものに意思決定されてしまう。
行動:
行為('made’act);させられてしまった行為。
身体的感覚:
身体的影響体験(influence playing on the body);自分の感覚が他からの力で強められたり弱められたりする。あるいは感じさせられる。

すなわち、「させられ体験」とはあらゆる心的な機能において、自分自身が主体的に行っているという意識(自我の能動意識)が消失して、自分が他者あるいは外部からの力によって操られていると感じる、病的で主観的な多岐にわたる症状なのです。
すなわち「自己が心的作用の主体である」という感じの障害とか、さまざまな心的機能の「自己所属感」の消失であると説明されることがありますが、一言でいえば自我障害(Ichstörung)ということになります。

自我(英:ego、独:Ich、仏:moi)とは自分に関する意識体験です。自分とは意識する作用の主体としての自我と、意識される客体ないしは自己意識としての自己が同一であると感じる体験が健康な自我の特徴だといえます。
この方向性は違うが同一だという明瞭な体験が崩れてくると今回のコラムで述べたような「作為体験(させられ体験)」が出現してきます。言い換えれば自分と自分以外との境界が不明瞭になって、主体と客体とのダイナミックなエネルギーの方向性がいい加減になった状態です。
歴史的にも多くの著名な精神科医たちがこの症状に注目して研究してきました。
中でもクルト・シュナイダー(K.Schneider)は、その症状が存在すればまず間違いなく統合失調症と診断してよいと考える「統合失調症の一級症状」*の中核的な症状であるとしています。
私自身も33年の臨床経験から、この「させられ体験」が認められれば、他の症状がその時点では顕在化していなくてもまず間違いなく統合失調症としてよいと考えます。

さて、統合失調症の方はほとんどが「他からさせられて」困っています。しかし、これとは逆に他人を自分の思い通りに「させよう」として、ずかずかと土足で他人の心的領域に入り込んでこようとする人がいます。
この場合にも自分と他人との境界があいまいで、他人を自分の一部であるかのように意識しているわけですから、一種の自我障害であると考えられます。しかし、こういうタイプの人は統合失調症であることは稀です。人格障害の方がほとんどと言ってよいのではないでしょうか。
この種の人々も真の病識はありませんから、やっかいです。積極的に他人にちょっかいを出してきますから、こちらの方が周囲にとっては被害甚大かもしれません。文頭で述べた、自分と自分以外とをしっかりと区別して行動するということは存外難しい課題なのです。
お互いに精神の健康を保って、自分と他人との間に適当な距離を保って生活していきたいものです。
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*シュナイダーの一級症状:1.思考化声、2.問答形式の幻聴、3.行動について論評する幻聴、4.身体的影響体験、5.させられ感情、6.させられ思考、7.させられ行為、8.被影響体験、9.思考奪取、10.思考伝播、11.妄想知覚であり、大半が自我意識の障害に基づく症状と考えられます。

後期高齢者医療制度あらため長寿医療制度 ―ネーミングの問題か?―

私が1月の21日にアップロードしたコラムで、「ユダヤ人をアウシュビッツに輸送する貨車」や「沈没船」を喩にだして解説した、後期高齢者医療制度がこの4月開始されました。
予想していた通りに波乱の幕開けです。2005年、小泉の圧倒的与党多数の時代にあたふたと決まったこの「医療の姥捨て山政策」はこの3年の間、社会福祉政策のきわめて重大な方向転換であるにもかかわらず、国民に対してきちんとした説明をなされてきませんでした。
案の定、4月1日のスタートと同時に全国各地から悲鳴が湧きおこりました。自治体から保険証が届かなかったり、届いた保険証を間違えて破棄してしまって、3月まで普通に受けてきた医療を受けることができない高齢者が少なからず出現しました。また、有無を言わせず年金から徴収する保険料に関しては、多くの自治体で計算を間違えて本来の保険料よりも高い金額を天引きすることになってしまったりもしています。
さらには、4月から天引きが行われた自治体と、騒ぎを大きくしないために天引きを先送りする自治体とが現れわれています。保険料自体が自治体によってばらばらでありますから、日本全国平等という皆保険の大原則が介護保険に次いで、またもや破られました。これでは社会福祉全体が完全に破壊されていて、各州ごとに福祉サービスの異なる合衆国、アメリカと同じです。

我々医療現場に立つ者にも甚大な影響が及んでいます。これまでの保険とはまったく違った枠組みの医療保険ですから全て登録しなおしです。しかも事前の説明が十分に行われてこなかったために、新しい保険証を持参せずに来院される方が続出。健康不良のために来られている方に対して診療拒否をするわけにもいかずに、仮登録でなんとか凌いでいます。
また、4月の診療費のレセプト算定作業はあと10日ほどで行わなければならないのですが、このやり方がいまだにわれわれ医療現場に周知されていないというありさまです。厚労省はこの3年間いったい何に時間を費やしていたのでしょう。
私は、この3年の間、国はむしろこの医療制度の詳細が国民になるべく知られないように腐心していたのだと推測しています。国がもう一つ懸命に努力してきたことはお金の計算ではないでしょうか。どうしたら、「赤字にならないようにするにはどれだけたくさん保険料を徴収して、どのように支払いを絞るか。」という観点からの試算に明け暮れていたのだと思います。実際の運用なんかにはほとんど関心がなかったのではないでしょうか。
この老人向けの社会福祉制度も先行出発した介護保険制度と同様、保険料は遺漏することなく厳しく徴収し、支払いはできる限り少なくする。先日のコラムでも書いた、詐欺商法の鉄則をより完璧に遂行すべく用意周到に計算された最悪の医療保険制度です。
内容はもっと劣悪です。「お年寄りがこの先も安心して医療を受けられるようにこの制度を整備した。」と言っていますが、本当はまったく逆です。この先負担が増えることが予想される高齢者の医療にかかわる国の負担を極力押さえ込むためことが真の目的です。
先行出発した介護保険では、現在の保険料がすでに発足当時の支払額の2倍近くになった自治体もあります。今度の後期高齢者医療保険の保険料はこの介護保険料を上回るスピードで増額されることも予想されます。さらに一定期間保険料を滞納すると容赦なく保険証を没収されます。一方、受けられる給付(医療サービス)は介護保険と同様に年々基準を厳しくしていくと予想され、現在の水準の医療を受けることは困難になるのもそう遠い将来ではないでしょう。
すでに高齢者の方の多くが医療を受けている慢性疾患に対しては専門医への受診や、必要な検査を受けられないようなシステムである後期高齢者診療料という「まるめ」方式*1が採用されました。
また国は、在宅では介護が困難な高齢者が多数入院している療養型病院を取り潰しにかかっています。受け皿となるべき施設や在宅システムも完備しないままに削減目標数まで潰していく予定です。
さらに、国は65歳から74歳の方の中で障害者の医療費補助を受けている方は強制的にこの「沈没船医療制度」に乗せてしまおうとしています。
従来はさりげなくオブラート包んだやり方で表わしてきた、「社会の足手まといになる年寄りや障害者は死ね」という国の本音がついに露骨に具現化されたのがこの新医療制度です。
この保険新設の根拠となっている試算は「団塊の世代が後期高齢者になる時点ではこの年寄りたちにかかる医療費が12兆円に達する。」というものです。12兆円と言えば大変な金額に聴こえますが、今政府与党が2/3条項を使って復活を企てている道路特定財源からの無駄遣いの額がちょうど年12兆円になると聞いております。なんとも皮肉な数字の一致です。
それでも国民は、これまで長きに渡って我が国の復興に尽くしてきた高齢者および将来高齢者になる団塊の世代をこの世から抹殺するための冷酷無比なこの医療制度を、羊のようにおとなしく受け入れようとしています。もし我が日本国民が家畜のようにおとなしい国民性でなく、ラテン系の血が流れていたならば暴動が起きてもおかしくない制度です。
いや、このことは後期高齢者医療制度にかぎったことではありません。日本人に自由や人権は自分たちの力で勝ち取るものだという意識が少しでもあったならば、今まで度々このコラムで取り上げてきた介護保険、郵政民営化、自立支援法などの段階でとうに暴動が起きていても不思議ではなかったと思います。
わが国においては長い江戸時代に培われた「お上意識」が国民に染み付いており、戦後の民主主義も占領軍から与えられた制度であって、本当に自分たちの力で勝ち取った国民主権という意識が育っていません。「お上には逆らってはいけない。」、「お上に任せておけば大丈夫。」という意識が骨の髄まで染み付いているようです。
確かに、自分で考え、自分で行動するよりも、全て他人任せのほうが楽です。いらぬ労力を使うことがありません。しかし、そういう態度が、我が国に耳ざわりのよいワンキャッチコピーに拍手喝采するポピュリズムを蔓延させて本当の民主主義が育ってこなかった元凶なのではないかと私は考えます。

不評の嵐が巻き上がると福田総理大臣が「これは後期高齢者医療制度という名前が悪いイメージでよくない。『長寿医療制度』に変更しなさい。」との指令を出しました。これを受けて急遽名称を変更するようですが、中身をまったく改めることなく、非難の矛先をかわすために聞こえのよい名称に変えようという発想はまさに詐欺師の本領発揮と言ったところでしょう。
名前さえ変えれば国民はごまかせると考えているのでしょう。これほど国民を愚弄した態度を許すことはできません。日本国民は国家という本来国民のための僕から完全に馬鹿にされているのです。
これほどなめられているにもかかわらず、「はいそうですか。ありがとうございます。」とごまかされてはいけません。問題は私たちの生存権にかかわることです。
外交などの難しい議論はともかく、私たち日本人も、少なくとも自分たちの生活の根幹にかかわる問題については「Yes!」、「No!」の意思表示をできるくらいの民度になりたいものです。
日本人も与えられた民主主義ではなく、そろそろ自分たちで考え、自分たちで行動することによって国家を動かす真の民主主義に目覚めてもよい時期ではないでしょうか。
親を踏み台にして繁栄する国家に子孫の繁栄があるはずがありません。

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*1丸め方式:診察料、検査料、指導料などのそれぞれの診療行為に対する出来高払い制ではなく、特定の病気に対してはどんな診療を行っても一月いくらと決まった額しか支払わない方法。後期高齢者医療制度では高血圧、高脂血症や認知症などの慢性疾患に対して後期高齢者診療料として取り入れられました。検査漬けなどの過剰診療を抑制する効果はありますが、今度は必要な検査も行わないという事態が予想されます。なるべく何もしないほうが儲かるからです。真面目に診療すればするほど医療機関は赤字になります。

ねたみそねみは身を滅ぼす

人間の行動の基にはさまざまな心理規制が働いています。合理化、反動、昇華などといったものです。その大元をたどると性的な欲動、安全を求める本能、社会的な欲望、倫理的な正義感、美的な熱情などが存在すると考えられています。
そういった行動の動機のひとつに「妬み嫉み」があり、シーザーの暗殺や西太后による残酷な粛清など、歴史に残るような大きな出来事もこの嫉妬心が原点になっていることも少なくありません。
私たちの日常の行動の中にも他人に対する嫉妬心からとっている行動があります。本人がそうと気付いている場合もありますが、自覚していないことが多いようです。多くの場合は合理化して「社会正義」や「倫理道徳」に基く行動だと信じているのでやっかいです。

さて、ここ数年医療業界の話題の1つに「コンタクト眼科」の問題があります。いわゆる「コンタクト眼科」とはコンタクトレンズ販売店の隣で開業している眼科診療所のことです。
コンタクトレンズは眼球に直接装着する高度医療用具に指定されています。ですから、レンズを購入する際には法的には不要ですが、事実上は医師による処方箋が必要です。また、定期的に診察をして角膜の状態をチェックしていく必要があります。
眼球は脳の一部が頭蓋骨の外側に直接突出してできている器官です。手や足のように脊髄から出た末梢神経に支配されている部位とは違います。極端にいえば脳そのものともいえるのです。表面を被っているのは透明でデリケートな角膜です。ですから、角膜は常に、コンタクトレンズをつけていることが可能な健康状態にあるわけではありません。また、角膜のカーブの具合は人によって異なりますし、その角膜を潤している涙液(涙)の分泌量もさまざまです。
ですから、コンタクトレンズを作る時には屈折率(度数)を測定する以外に、レンズを装用してよいかどうかの判断が必要ですし、そういったもろもろの眼球の状態に合わせた処方箋が必要になります。レンズを着けてはいけないような角膜の状態の人が無理に装用したり、その人に合わないレンズを装用すると角膜を傷つけてしまうことになります。医学的な知識や技術が要求される意味でマスクや絆創膏とは訳が違うのです。
さらに、正しい使い方をすることも大切です。装着したまま眠ってしまうように、あまりにも連続して長時間装用を続けたり、傷の付いたレンズや清浄保存しないレンズを装用したりすると角膜に大きな損傷をきたします。ほうっておいて使い続けると失明してしまうことだってあります。
重ねて言いますが、コンタクトレンズは眼科専門医の指導の下に使用されるべき高度医療用具なのです。

日本人はもともと遺伝的に近視が多く、また若い人は眼鏡よりコンタクトレンズを好みます。したがってコンタクトレンズの売れ行きは増加の一途です。このために商業地区で開業しているコンタクト眼科は隣にコンタクトレンズを買いにきた人がたくさん受診します。住宅地で地域住民を相手に開業している眼科医に比べて圧倒的に強い集客力を持ちますから収入にも開きができます。 一般の眼科医たちはこのような事態が面白くないことは言うまでもありません。
そこへもってきて、とんでもなくずる賢い連中が現れました。彼らは医師を雇って院長に仕立てて、自分のコンタクト販売店の隣に眼科診療所を開設させます。そして本来はレンズを売ることによって利益を売るはずの販売店が商品販売による利益を度外視した価格でコンタクトを売り、実質的に経営している隣の眼科診療所の収入で儲けを出そうと考える人が出てきたのです。
コンタクトレンズは商品というよりは患者集めのためのたんなる促販品にすぎませんから、仕入れ値よりも安い値段で売る店まで現れました。まさに小泉が待ち望んでいた株式会社による医療機関の経営です。
「コンタクトが安く買えていいじゃないか」、「これこそ小泉さんが言っていた自由競争によるサービスの向上だ」とおっしゃる方が多いと思います。しかし、実態はひどいものなのです。そういった店は商品で損をして診療でそれを上回る儲けを出さなければなりませんから、診療にむりがあります。必要もない検査をしたり、定期的に来ている再診の方を初診として扱って高い診察料をしたりです。
そもそも眼科診療にはかなりの専門性が要求されるのに、そういう診療所の書類上の「雇われ院長」や実際に診察する医師は、眼科専門医ではなく内科であったり、脳外科であったりする場合が少なくありません。眼科専門医を雇うよりも安く雇えるからです。つまりデリケートな目の状態を診察する能力がない医師が診療に当たっているのです。
したがって目のトラブルが絶えませんが、こういう発想をする経営者にとっては儲かりさえすればよいのですから、そんなことはどうでもよいことです。
これこそが小泉の目指している医療の株式会社化の実態なのです。
当然ながら患者さんとのトラブルも絶えません。また、その尻拭いが一般の眼科にも流れてきます。
こうして一般眼科医たちの「コンタクト眼科」に対する「妬み嫉み」も頂点に達しました。眼科医の間から「コンタクト眼科」叩きの運動が起こってきました。こういう医師の間の内紛を厚労省が放っておくわけがありません。もともと医療点数の削減に躍起になっていた彼らは眼科医たちと一緒になってコンタクトを処方する際に必要な検査の点数を下げる方法をとりました。
具体的には、平成18年4月の医療点数改定の際にコンタクト眼科を狙い撃ちにした点数の削減を行いました。少し分かりにくいかもしれませんが、簡単に説明しますと、全患者のうちでコンタクトの処方や定期検査をした人が70%を越える眼科診療所は同じ検査をしても、コンタクトの検査の率がそれ以下の眼科が同じ検査を行ったときよりも約半分の料金しか請求できないようにしたのです。
さらに、一度でもコンタクト装用の経験のある患者さんは、その後何年か経って、まったく別の眼疾患、例えば白内障、花粉症やいわゆる「ものもらい」で受診しても「再診」扱いにしかしないというのです。
そもそも保健医療とは、日本全国どこで医療を受けても誰もが同じ料金で受けられるというのが根本原則ですから、同じことを行っても料金体系に差をつけるということは、法律としてはかなり問題があると言えます。
この2年間、コンタクトレンズの処方を中心に眼科を営んでいた診療所は次々と廃業に追い込まれました。ところが、先ほど述べたような手段を選ばないPコンタクト等の「叩き売りコンタクト屋」はあの手この手を使って今でも生きのびています。
業を煮やした厚労省と眼科学会は「コンタクト眼科」の烙印を押す基準を30%(熟練した眼科専門医がいないクリニック)~40%(熟練した眼科専門医がいるクリニック)とハードルを上げてきました。しかも、「コンタクト眼科」との烙印を押されると、そうでない眼科と比べて同じ検査をしても1/4くらいの診療点数しか請求できないようにしたのです。つまり、コンタクト眼科では種々の検査の保険点数が18年3月以前に比べると1/10近くに引き下げられてしまったのです。
今回の改定では明瞭に「悪質なコンタクト眼科を駆除する」という目的が示されています。「一掃された後には点数の復活を考える」と言っているのです。こんな姑息な手段で特定の医療機関を潰しにかかるということは適法なのでしょうか。
それにPコンタクトはそんなに一筋縄ではいきません。もともと金儲けのためならば恥じも外聞もない人達ですから、専門医の資格をもっている眼科医を見つけ出してくるでしょう。既に名義貸しみたいな方法だってとられています。
またこういったところは安い「再診料」より高い「初診料」を得るために、雇い院長を数ヶ月で次々とチェンジして閉院、開院をくり返すという離れ業をやってのけています。医療法では見かけ上の経営者である院長が交代すると、同じ場所で同じ設備同じカルテを使って診療をしていたとしても、まったく別の医療機関ということになります。
ですから極端な話、毎月院長が交代すれば同じ患者さんが1ヶ月ごとに受診したとしても毎月初診料をとることができるのです。このからくりは、院長をしていた父親が死亡したので、その子供が院長を継承する場合にも適用できます。しかし、一般的に良識のある医師であれば、ちょっと前まで父親が主治医であったなじみの患者さんが引き続いて同じ病気でかかった時に、「別の診療所だから」という理由で初診料を算定する人はいないはずです。
そういう馬鹿なことをやる常識やモラルのかけらもない、金しか頭にない人達を叩き潰すためには、単に70%を30%に引き下げても意味がないのです。一番あおりをくらって辛酸を舐めさせられたのが真面目にコンタクトの処方をやっている良識的な眼科医です。
月に800~1000件のレセプトベース*1で診察しているコンタクトに隣接する眼科医はどんどん廃業しています。1600件のレセプトの診療をしても、手元に残る自分の収入は20万円だという眼科専門医もいます。まさにワーキングプワーです。
コンタクト眼科のすべてが悪徳医者というわけではありません。コンタクトの処方が多いことは確かですが、それ以外の眼科疾患に対して高度の専門医療を施している眼科医もいるのです。
そういう眼科は高齢者の白内障や眼底疾患を診療したいと思っても立地条件からいってお年寄り自体が少なく、どんなに努力をしてもコンタクト処方の比率が上がってしまうのが現実です。
少なくとも、「コンタクトの処方をする医師は悪徳である。だから潰そう。」というあまりにも妬み嫉みに片寄った先入観に基づいた差別をし、その被差別者に対して露骨ないじめをするという行為は、権力を握っているものがやってはいけないことです。

今述べたように、一連の「コンタクト眼科潰し」騒動の背景には一部の心ない拝金主義者によるコンタクトレンズ販売を通しての眼科乱診があります。そしてそれに対する一般眼科医の過剰な嫉妬心。さらにはそういう眼科医同士の内輪もめに乗じて診療点数を下げたい厚労省の思惑が重なって起きていることなのです。
日本の医療をアメリカの要望に応えて、現在のアメリカの荒廃した「SICKO」の世界にしたい国にとって、眼科医同士の内紛はもっけの幸いでした。国は医療保険点数を少しでも下げて総医療費を下げたいだけではなく、コンタクトレンズを医療用品ではなく、コンビニで売れる日用雑貨にしたいのです。
「コンタクト眼科」に対する妬み嫉みが膨らんだ一般眼科医たちはこういう国の思惑に乗せられて、自分たちの首も絞めることになります。結局は「コンタクト眼科」ほどではないにしろ、自分たちも検査点数を下げられることになりました。また彼らが目の敵にしている「コンタクト眼科」が潰れた後は、コンタクトレンズの処方を求める人が自分たちのところにやってきます。それは望んだことでしょうが、結果コンタクト処方患者の比率が増えてしまって、自分たちも「コンタクト眼科」になってしまう危険性すらあります。そうならなかったとしても、自分たちも検査の点数が1/10までではないにしろ、以前の1/2以下に下げられてしまっています。一般眼科医も苦しいのです。
それが証拠に今回の改定の概要説明では先ほども述べましたように、「不適切例がいっそうされた後には再度検討し見直す。」という一文があります。つまり、一般眼科医たちが敵と見なしている医療機関が潰れた後には、種々の検査点数を復活させようと考えているのです。
しかし、一般眼科医たちのそういったもくろみはたやすく達成されるでしょうか。私はそうは思いません。本当に悪質な医療で金をもうけている輩は先ほど書いたような姑息な手段を使って生き延びをはかります。また、国はいったん下げて医療保険点数をそんなに簡単には復活させるはずがありません。一般眼科医たちは嫉妬のあまりに自分たちの首をも絞めてしまっていることに気付かないのでしょうか。
さらに、一般の眼科診療所にコンタクト処方の人達が殺到したって、トライアルレンズと称する、試しに装用してみる各種レンズはほとんどおいてありませんし、処方するための検査をする人的な資本もスキルもありませんから、お手上げの状態になるのは火を見るより明らかです。一般のコンタクトレンズ装用者にとってもこれまで普通に受けてきたサービスが大幅に低下することになります。ユーザーにとってもよい事態とはいえません。
喜んでいるのは総医療費削減に血眼になっている国と、自分たちの販売利益が増加しさえすれば日本人の目なんてどうなったって構わない、アメリカ資本のコンタクトレンズ製造会社だけです。

シーザー亡き後の古代ローマ帝国も西太后後の清王朝のいずれも衰退の一途を辿りました。妬み嫉みを原点とした行動にはろくなものはなく、自分自身を急速に滅ぼす結果に終ることが通例のようです。
日本の眼科診療がこういった先例と同じ道を辿ることなく、真に健全化されることを切に望むところであります。
また、皆様も安ければよいという目先の利益だけに目を奪われて、大切な自分の健康を犠牲にしないように気を付けていただきたいものです。今、中国産の食材で話題になっている食の安全と同様に、安いものには安いなりの落とし穴や危険性があることをお忘れなく。
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*1レセプト(診療報酬明細書):「患者」が受けた診療について、「医療機関」が健保組合などの「公的医療保険の運営者」に請求する医療費の明細書のことで、一人の患者について1月毎に1枚にまとめられている。したがって、一人の患者が平均月2回受診した場合にはレセプトベースで1000名の診療所では延2000名の診療をしていることになる。平均受診回数が月3回ならばレセプトベース1000名ならば延3000名の診察をしていることになる。

統合失調症あれこれ(4)―思考障害2(思考体験様式の障害)―

統合失調症に見られる思考障害のうち、思考過程の障害については先日お話しました。今回は「思考体験様式の障害」ついて説明します。
思考体験様式といわれてもほとんどの方がぴんとこないと思います。体験様式なんて言葉は通常使うことはありませんから当然のことだと思います。では思考体験様式とは一体どんなことを指しているのでしょうか。

思考にかぎらず私たちが何らかの行動(外的であるか内的であるかを問わない)をする時には、自分自身で行っているという主体感、自己所属感あるいは能動感をともないます。また、ひとつの観念だけが長時間頭の中にとどまっていることはありません。時々刻々と流れていくものです。この感覚が体験様式です。
したがって、この体験様式が障害されると頭の中に浮かぶ観念を自分自身で操作できなくなり、「自分がやっている」という感じが失われてきます。思考という内的な行動に関する主体感、自己所属感、能動感が失われることを「思考の体験様式の障害」と言います。

以下に主な思考体験様式の障害を簡単に説明します。
1・優価観念(fixed idea):ある観念や観念群が常に意識を占領してなかなか消失しない状態です。観念の内容は奇異なものではなく、ごくありうる内容ですが、通常の観念よりも長時間持続します。後で述べる強迫観念と違って強迫性はありません。何らかの原因で気分の高揚したときに健常者にも現れます。
2・強迫観念(obsessive idea):無意味な観念、現実に関係のない観念がひとりでに絶えず頭に浮かんで、その観念を払いのけようとしても払いのけることができない状態をいいます。すなわち、ある観念が自分の意志に対抗して強迫的に持続する状態です。本人はその観念が無意味で不合理であることを理解しているのに、その観念から逃れようとしても逃れられないのでひどく不快で苦痛です。内容は疑い、せんさく、確認、計算などです。
強迫性障害の主症状ですが、うつ病においてもしばしば認められます。
3・恐怖症(phobia):これも強迫観念の一種とも言えますが、強迫観念の内容がとるに足らないつまらない内容であるのに対して、恐怖症の場合はその観念内容そのものが不安や恐怖を与える性質を持っているために、本人にとっては恐怖の強迫と観念の強迫とのダブルパンチになってしまいます。恐怖の内容は多岐に渡ります。赤面恐怖、対人恐怖、高所恐怖、閉所恐怖、広場恐怖、疾病恐怖、不潔恐怖、尖端恐怖などあげていったらきりがありません。各種不安性障害のほかにうつ病時にも見られます。
4・思考の離人体験(人格消失感)(depersonalisation):自分の思考が自分の考えであるという感じがなくなることです。思考能力はまったく衰えていませんから、正常に考えることができます。しかし、「ただ機械的に考えている」、「うわの空で考えている」、「以前と違って自分が考えているという充足感がない」と表現して、苦しみ悩みます。解離性障害、不安性障害、うつ病、統合失調症で見られます。
5・作為思考(英made thought、独Gemachtes Denken):自分の考えが自分に所属するという感じがなくなるだけでなく、自分以外の力によって作られたり、与えられていると感じる状態です。「考えさせられる」、「考えが外から入ってくる」、「考えが吹き込まれる(思考吹入)」、「考えを外からあやつられる」などと表現します。自己所属感が失われるだけではなく、外部から影響されるという被動感、被影響感がでてきます。統合失調症に特徴的です。自分に「考えさせる」力としては、他人が電波などを使って操作していると解釈する場合も神のような力と解釈する場合もあります。
6・思考奪取(英withdrawal of thought、独Gedankenentzug):考えが外から奪い取られる、盗まれる、外に漏れてしまうように体験する状態です。思考過程の障害のコラムで、急に思考が停止する「思考阻害」についてお話しましたが、この状態のことを患者さんに尋ねると「考えが引き抜かれた」とか「考えが盗まれた」とか答える場合が多いです。つまり思路障害の思考阻害と思考体験様式の障害である思考奪取はリンクしていることが多いのです。当然ながらこれも統合失調症に特徴的な症状です。
7・思考聴取(thought-hearing):「自分の考えていることが他人によって話されるのが聴こえてくる」という複雑な現象。思考奪取と幻聴が組み合わさった症状のようですが、自己の意識化的思考の一部が客観化されることによって生じると考えられており、広い意味で思考の体験様式の異常の範疇で説明されています。統合失調症に特異的な症状であることは言うまでもありません。

5のような体験は思考に限らず、感情や行為の領域にもおよびます。こういった現象をまとめて作為体験(Gemachtes Erlebnis)と呼ばれます。また、「考えが入ってくる」とか「考えがささやかれる」という体験はもはや幻覚に近い体験となります。つまり、作為体験は幻覚とが本質的にきわめて近縁のものであることを示唆していると言えましょう。
統合失調症に見られる思考体験様式の障害は思考機能そのもの異常というよりは自己と他者とを区別して、自分を自分と意識する自我機能の異常と言ってよいのかもしれません。
このように統合失調症の症状を詳細に考察すると知覚、思考、感情、行動、自我といった精神機能の下位機能の分類に的確に当てはめられない症状が多々見られます。なぜそうなるのでしょうか。
その理由はさまざまな脳のシステムの分類はあくまでも人間が便宜的に考え出したものであり、神様はそんな設計図で私たちを創りだしたわけではないからです。
実際の脳の機能はレゴのブロックのような組み合わせでできているわけではありません。何十億もの神経細胞の間で情報をやりとりすることによって生まれる有機的でダイナミックなシステムで行われているのです。
ペンフィールドの描いた脳の中の小人の図(ホムンクルス)があまりにも有名になったために医師たちでさえ、大脳の機能が本当にモザイクの寄せ集めだと考えている方が少なくありません。
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図1ペンフィールドとボルドレイが描いたホムンクルス。体の大きさは運動野の相当領域の広さに対応して大きさを変えてある。(Penfield and Boldrey, 1937より改変)







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図2ヒトの一次運動野における体部位の地図。右が外側、左が内側に対応する。中心溝前方にある一次運動野と中心溝の後方の一次体性感覚野はほぼ同じ体部位局在を持つ(Rasmussen and Penfield,1947より改変)






実際にペンフィールドの脳領野図は概ね間違っていないと思います。なぜならばペンフィールドの研究と同じように、粗大な障害者の症状や破壊実験からは再現性のある事実が確かめられています。
こういった研究分野を神経心理学といいます。もっともよく知られている症状は「失語症(Aphasia)」です。傷害されている部位に対応して言語や文字を了解することはできないけれど自分からはしゃべることができる感覚性失語症(Wernicke失語、sensory aphasia)、人のしゃべる言葉や文字は理解できるのに自分ではしゃべることができない運動性失語症(Broca失語、expressive aphasia)などに別けることができることも知られています。
このほかにも「高次脳機能障害」のコラムでお話した、失認(Agnosia)、失行(Aprexia)などの症状と脳の局所的な傷害との間の高い相関性が確かめられていいます。
その場所が傷害されているとある機能に異常が起こるということは、その部位がその機能にきわめて重要な役割を果たしていることは間違いありません。しかし、論理学の基本、「逆は必ずしも真ならず」です。正常な機能はその部位の機能だけで事足りるとは言えないのです。私たちが通常の生活で言語を用いて思考する際にはウェルニッケ中枢やブローカ中枢といったいわゆる言語中枢だけの機能だけで行われているはずがありません。健康で円滑な言語機能にはいわゆる言語中枢以外の領域の脳の活発な関与がなければならないはずです。

統合失調症に関する研究では前頭前野や上側頭回などが注目を浴びて多くの研究がなされて、かなり有力な実験成果が得られてきています。しかし、私は統合失調症の病理はこういった限られた領域だけで説明がつくとは考えていません。
なぜならば、統合失調症といわれる病気は実際にはさまざまなタイプに分けることができます。つまり、単一の疾患とは考えられません。正確に言えば「統合失調症候群」であると考えます。
ですから、認知機能の異常が著名な統合失調症では前頭前野が特に傷害されているでしょうし、幻聴がいつまでも消失しない統合失調症では特に上側頭回が傷害されているのはないでしょうか。
統合失調症候群というものの本体を知るためには、どこが傷害されているかということを追求するよりも、どのように傷害されているかということを中心にアプローチしなければならないと考えます。
統合失調症は名前のとおり脳のあらゆる機能系の統合が失調された状態だと思います。ですから、患者さんが表現するさまざまな異常現象を幻覚だとか妄想だとか自我障害だとか分類すること自体、本当はあまり意味のないことなのかもしれません。正常な状態では、それぞれの機能として整理できるはずのサブシステムが混乱して境界が不明瞭になることこそが統合失調症の症状だとかんがえれば納得がいきます。
私は二十年近く前に脳科学的研究の現場から離れて、毎日臨床の場で患者さんと接するだけの立場になりました。精神科の臨床医としての年輪を重ねるにつれて今述べたような印象が強まっています。
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