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クリニック西川

2008年5月

今時の「うつ」事情(3)―うつ病もどきの正体―

これまでに本当の「うつ病」のほかに「うつ病もどき」が紛れ込むことによって、世の中に「うつ」と称する人が数多く出回っている現状についてお話しました。それではうつ病と紛らわしい「うつ病もどき」とはいったいどんなものなのでしょう。

「うつ病もどき」にはいろいろな病気や状態が混ざっていると思います。その一つは、何か不愉快で苦痛な出来事があって一過性に抑うつ状態になっているストレス性の反応や適応障害です。
いやな出来事に出会って、気分が滅入り、やる気を失うことはごくあたりまえの、心の正常な反応です。いやな目に会って爽快な気分になったら、それこそ気がふれた異常な反応と言えるでしょう。
こういう状態は原因になっている事象から距離をおけば、時間とともに回復してきます。むろんこういう方も治療したほうが早期に回復しますが、時間に勝る妙薬なしです。
一方、本当のうつ病はきっかけになった出来事から時間がたっても改善しません。むしろ時間とともに症状がひどくなっていきます。たとえば、肉親の死去をきっかけにうつ病になる場合には、逝去直後はそうでもないのに49日の納骨の頃からひどくなることがよくあります。
前回述べましたように、精神科の敷居が低くなったり、一般医が精神的な問題を扱うようになった結果、精神の不調を訴える方が、以前に比べて早い段階で医療につながるようになりました。
このために、先ほど述べたような一過性の抑うつ状態の方が医療機関を受診して、「うつ」という診断を下されるケースが増えてきました。これが「うつ病もどき」の一つになっているのです。
このような人たちは、医師が「症状が少なくとも2週間以上続く」という診断基準を厳密に守っていれば、「うつ病」とは診断されないはずです。

一過性のうつ状態とは違って、本当のうつ病と同じように長期間にわたって抑うつ状態を訴える「うつ病もどき」があります。その一つが統合失調症です。
統合失調症というと幻聴、被害妄想、興奮などの派手な症状(陽性症状)ばかりが知れ渡っていますが、この病気の中核的な症状はこういった目立つ症状ではなく、自閉、意欲の低下、感情の表出障害など(陰性症状)であると考えられています。
つまり、家に引きこもって人と接触をしようとせず、何をする気もせずにごろごろとして、周囲のいろいろな出来事に対して感動せず無関心に見えるという、きわめて地味な陰性症状こそが統合失調症でもっとも問題となる中核症状なのです。
そして陽性症状がほとんど顕在化されずに、陰性症状だけを訴えるケースはしばしば「うつ病」と誤診されます。熟練した専門医であっても注意深く診察しないと鑑別できないくらい間違いやすい症例もあります。
したがって、「やる気がでない」、「気分が滅入る」という訴えの統合失調症患者さんが一般医を受診した場合には高率に「うつ病」と誤診されて、抗うつ薬を投与されます。いつまでたっても症状は改善しません。それどころか、病勢がひどくなって、それまで影を潜めていた幻覚や妄想などの陽性症状が現れて大騒ぎになる場合があります。
うつ病と紛らわしい統合失調症は発症から時間が経過した慢性期の状態によく見られます。したがって、若い時からの症状の流れを丁寧に聴取すれば判別がつく場合が多いのです。しかし、統合失調症には発症直後から陽性症状はほとんど見られずに陰性症状だけが目立つタイプもありますから、見極めはそう簡単ではありません。自己評価スケールだけに頼っていたら確実に「うつ病」と診断してしまいます。
最終的には面接場面での表情やしゃべり方、ちょっとした仕草などから判断しなければならないこともありますから、うつ病との鑑別には豊富な臨床経験が要求されます。

本当のうつ病や統合失調症の抑うつ状態と同じように、長期間にわたって抑うつを訴えるもう一つのグループがあります。それはICD-10によると持続性気分(感情)障害(Persistent mood 〔affective〕disorders)に分類される人たちです。
この一群の人たちは何年にもわたる持続的な気分障害を呈しますが、その障害の程度は「うつ病エピソード」の基準にまでは達しない軽いものです。この中でも「気分変調症(Dysthymia)」が「うつ」を混乱させるという点で一番問題になる障害だと思います。なぜならば、鑑別が難しいこと、うつ病とは違った対応が要求されること、そしてなによりも相当多数存在すると思われるからです。
「気分変調症」の特徴は症状の程度において、軽症の「うつ病エピソード」の診断基準を満たさない程度の軽い慢性的抑うつ気分です。このグループの人たちは通常、自分で調子がよいといえる時期を数日か数週間もちますが、ほとんどの期間は疲労と抑うつを感じています。何をするにも努力を必要とし、楽しいことは何もない、考え込んでは不平を述べて、不眠がちで自己不全感を持っていますが、自分の好きなことは楽しめますし、日常生活で必要なことは何とかやっていけます。この点において、日常生活が破綻してしまい、本来楽しいはずのことまでもが楽しめずに、むしろ苦痛に変わってしまう本当の「うつ病」との大きく異なります。
たとえば病気休職した場合、本当のうつ病の人は医師から「会社のことは忘れてゆっくりと休みなさい」と言われても、「自分が休んだために周りの人が自分の分まで仕事をしなければならない。迷惑をかけて申し訳ない。」と自分を責めて、休職していることがかえって重荷になることが少なくありません。
これに対して気分変調症の人の中には真っ黒な顔をして診察に現れて、「先生がゆっくり休めというからハワイに行って波乗りしてきました。向こうでは楽しく過ごせたんですけど、日本に帰ってきてもうすぐ会社に行き、またあの課長の顔見るのかと思うと憂うつになってしまいますよ。」などと言う人もいます。
うつ病の人が常に自分を責める、自責的であるのに対して、気分変調症の人は害して他罰的です。こういうポイントを押さえて、「うつ」と称する人達を再度チェックしてみると、実は「気分変調症」であるという例が相当な数に上ると考えられます。
さてこの「気分変調症」は単に軽いうつ病と解釈してよいのでしょうか。いいえ、そうではありません。似て非なるもので、根本的に発症機序の異なる障害なのです。

ドイツ流の従来型診断法からアメリカ型の診断法に変わって、とても大きな出来事がありました。それまで、精神障害の大きな部分を占めてきた神経症(ノイローゼ〔独:Neurose〕〔英:Neurosis〕)というものが消え去ってしまったのです。そしてそれまで神経症と呼ばれていた人たちはさまざまな新しい疾患概念に振り分けられたのです。
以前、不安神経症と呼ばれていた人たちは不安障害というグループに組み入れられました。強迫神経症は強迫性障害というカテゴリーになりました。そして、以前抑うつ神経症と呼ばれていた人達が振り当てられた病名が「気分変調症」なのです。
訴える症状は気分の抑うつと意欲の低下ですが、根本はその人の性格に起因して起こる自覚的な不全感ですから、ただ抗うつ薬を飲んでいるだけでは解決しません。適切な精神療法によって、物事に対する考え方を変えたり、行動様式を変えなければなりません。
気分変調症では、本当のうつ病とは違って、時には叱咤激励によって健康な社会生活へ引き戻してあげることが必要になります。したがって本当のうつ病との鑑別が極めて重要なのですが。こういう方が一般医の下で漫然と抗うつ薬や抗不安薬の投与を受けていると、いつまでたってもきちんとした社会復帰ができません。
最近のうつ病は「程度は軽いがなかなか治らない。」と言われますが、実は気分変調症をうつ病と間違って治療しているケースも多いのだと思います。

もう一つ忘れてならない「うつ病もどき」は人格障害(Personality disorders)に随伴するうつ状態です。人格障害の人は、その人格の偏りから、周囲の環境に対して常に不適応を起こしてさまざまな精神症状を示します。人格障害には種々のタイプがありますが、情緒不安定性人格障害(Emotionally unstable personality disorder)、不安性人格障害(Anxious personality disorder)、依存性人格障害(Dependent personality disorder)などの人は抑うつ状態を呈することが頻繁にあります。
注意深く診察すれば、本人が訴えるうつ状態の背後に重大な人格の偏りが存在することが分かるはずです。しかし、診察時に示されている症状だけに目を奪われると「うつ病」と診断してしまう可能性があります。
当然ながら、こういう方の問題解決をするためには根気強い精神療法(精神科カウンセリング)が要求されます。抗うつ薬の投与だけですむわけがありません。

「抑うつ状態」は非特異的で、さまざまな精神障害で示される、あまりにポピュラーな症状群です。時間的な経過、抑うつ以外の隠された症状、症状に取り組む姿勢、元々の人格(性格)などをきめ細かく検討しないと、多くの「うつ病もどき」を見落として、結果、所謂「うつ」を増加させることになります。
自己チェックリストで抑うつ症状が高得点であるからといって「うつ病」と決め付けるのは早計です。「うつ病」以外にも抑うつ状態を示す病気がたくさんあることを忘れてはいけません。

今時の「うつ」事情(2)―所謂うつを増やしている要因―

前回は複数の診断方法が併用されていることによって、専門医の間でも「うつ病」の診断に混乱があることをお話しました。ですから、お互いに長所と欠点はあるものの、どれかひとつの診断法に統一して話を進めるほうが混乱は少ないと考えます。
全員が、現在我が国で一番広く用いられているWHOの国際疾病分類ICD-10を基準に考えれば、共通の認識の下に「うつ病」のことを語ることができます。現実に最近はそういう流れになってきています。
ここで再度、ICD-10による「うつ病エピソード」の診断基準を示します。
〔特徴的な症状〕
1.抑うつ気分
2.興味・喜びの喪失
3.活動性の減退
〔他の一般的な症状〕
1.集中力、注意力の減退
2.自己評価と自信の低下
3.罪責感と無価値感
4.将来に対する希望のない悲観的な見方
5.自傷あるいは自殺の観念や行為
6.睡眠障害
7.食欲不振
〔特徴的な症状〕のうち少なくとも2つ以上、さらに〔他の一般的な症状〕の中から少なくとも2つ以上の存在が認められなければならないとされています。そしてこういった症状が2週間以上持続して初めてうつ病と診断されます。

すなわち、単に「ゆううつ」というだけでは「うつ病」とは言えないし、幾つかの症状が揃ったとしても、それが2週間以上続かなければ「うつ病」とは言えないのです。
1つ1つの項目について、熟練した専門医が評価をして「うつ病エピソード」と診断したものを「うつ病」と定義した場合に、「うつ病」は本当にそれほど増えているのでしょうか。
目先の利益ばかりを重視するアメリカ型市場経済論理が世界を席捲している現在、日々の生活は何事にも追いたてられて、慌しく、心にゆとりを持つことができません。こういう社会環境ですから、確かに「うつ病」は増えているものと思われます。うつ病を基礎に自殺を図る人が後を絶たないといわれているのも間違いではないでしょう。
しかし、「うつ」と称する人の増加は本当の「うつ病」の増加数をはるかに上回っていると思います。その原因は「うつ」と称する人の増加には本当の「うつ病」の増加に加えて、「うつ病もどき」が加わっているからだと思います。
診断基準が徐々に統一されてきているのに、なぜ「うつ病もどき」が増えているのかというと、マニュアル化されて一見客観的に見える診断方法ですが、各項目の評価を正しくできるだけの技量のない人が用いた場合には、きわめてあいまいで主観的な診断になってしまい、いたずらに「うつ」が増えてしまう結果になります。
いくら症状A群が2つ以上で症状B群が2つ以上で持続期間2週間以上と定めても、その症状群にある各症状の有無を正しく判定できなければ、いい加減な診断に辿りついてしまいます。この結果、「うつ病」の基準に達しない人までもが「うつ」と称されて世間を闊歩することになってしまっているのです。朝青龍の一連の騒動でも「うつ病」が登場したことは皆様の記憶に新しいのではないでしょうか。
それでは、世の中の精神科医や心療内科医たちはそれほどに未熟できちんとした教育を受けていない医師ばかりなのでしょうか。そうではありません。精神科あるいは心療内科の専門医たちは一定のレベルの教育と経験を踏んでいますから、それほどいい加減な診断をする人はそう多くはありません。「うつ病もどき」の増加の主な要因は3つあると思います。

第1はうつ病に対する中途半端な啓蒙と自己チェックリストの氾濫によって、「自称うつ」が増えてしまったことです。
これまで精神科医は「うつ病は心の風邪のようなもの」などと言って、うつ病の敷居を下げることに躍起でした。そのかいがあって、うつ病は人に言えない恥ずかしい病気ではなくなりました。しかし、「うつ病」が市民権を得たのはよいのですが、少し行き過ぎた感があります。
中には自分がうつ病であることを誇るような人まででてきてしまいました。誇るというのは大げさかもしれませんが、「うつ」と言えば認知されているので、本当は医師からうつ病と言われていない人がうつ病と自称するケースがでてきました。
「うつ病は自殺の危険がある」とか「うつ病に叱咤激励はよくない」といった知識が普及して、「うつ」と言えば、腫れ物に触るような扱いをしてくれることとも関係がありそうです。
また、今流行の自己チェックリストも「自称うつ」を増加させているのではないでしょうか。「ゆううつですか?」、「疲れやすいですか?」なんていう簡単なチェックリストに「はい、いいえ」で答えて、「何ポイント以上あったらうつ病です。」というやり方をすれば、ちょっといやなことがあった人や、仕事が忙しい人は皆うつ病になってしまいます。
チェックリストでなくても、家庭の医学といった本を読んでいると、皆重病に該当しているかのように感じられて不安になってしまうものです。

第2には診断書には必ずしも正確な病名が書かれていないということです。以前にもふれましたが、医師は医師法によって患者の不利益になることに対しては守秘義務があります。従って、裁判所などに提出する診断書は別ですが、学校や会社に提出する診断書に記載する病名は、患者さんがその後不利益になる可能性のある病名は書きません。しかし、虚偽を書くこともできません。そこで精神科領域での診断書用の病名として頻用されるのが「うつ状態」という状態診断名です。
精神的に不調な時には病気の種類に限らず、たいていはゆううつな状態になっていますから、嘘ではありません。しかもうつ病は前述の通りに社会的に認知された病気になっていますから、それを匂わせる状態診断名を書いておけば、当たり障りがありません。
こういう理由から、「うつ状態」あるいは「抑うつ状態」という診断名が世間に溢れるようになりました。このことも「うつ」が猛烈な勢いで増えた理由のひとつです。

第3に挙げなければならないのは一般身体科の医師と製薬会社の活躍でしょう。近年、比較的副作用の少ないといわれる抗うつ薬(SSRIやSNRI)が登場しました。これを機に製薬会社は売り上げ増加の目的で販路を拡大する作戦に出ました。つまり、これまで精神科や心療内科に限ってプロモートしてきた抗うつ薬を一般医、特に内科の医師を対象に売り込んだのです。
売込みを受け入れた一般医たちにもそれなりの事情がありました。ここ10年ほど毎年のように診療報酬点数を下げられて経済的に苦しくなっていたのです。それまでは自分の領域とは思わなかったうつ病の患者を自分たちが診療することができれば、自分の扱うレパートリーが増えて収入増につながります。
マニュアル化された診断法や自己チェックリストを用いれば、うつ病の診断は簡単であり、治療薬に副作用がほとんどないとなれば、治療も怖くはないと考えたのでしょう。一般医によるうつ病の診断と治療が一気に増えました。現在、抗うつ薬を服用している患者さんの過半数が一般科で処方されています。製薬会社の思惑が見事に当たったのです。
一般科の医師がうつ病の診療をすることが悪いわけではありません。患者さんが気楽に受診できる機会が増えるわけですから、早期発見、早期治療につながります。しかしそれはあくまでも正しい診断と適切な投薬をするということが前提条件です。
結果としては、マニュアルを正しく評価できないために、やたらにうつ病という診断だけが増えてしまいました。また、本当のうつ病ではない人に抗うつ薬を投与しても効果が上がりませんし、うつ病のタイプによってはSSRIやSNRIの投与は不適切な場合が少なくありません。新薬はオールマイティではないのです。
不適切な投薬は精神症状が遷延化する遠因となりました。私たちのところへ回ってくる方は、一般医で治療していてなかなか治らなかったり、余計にひどくなったり、誤診の結果とんでもない症状が現れてからやって来るというケースが増えてきています。

以上のように、本当の「うつ病」の増加に加えて「うつ病もどき」が紛れ込み、さらには安直な薬物療法が広まったことによって、「うつ」の診療に混乱がもたらされているのが現状です。
本当の「うつ病」ではない「うつ病もどき」の正体については近いうちにお話したいと思います。

今時の「うつ」事情(1)―混乱している病名―

一昔前は声をひそめてしゃべっていた「うつ」という言葉がおおっぴらに語られるようになりました。また、新聞をはじめ各種メディアでも「うつ」という言葉が頻繁に飛び交うようになりました。
この理由は3つあります。第1は私たち精神科医たちの長年の努力によって「うつ病」が啓蒙されてきたことです。この結果、精神病の中でも特にうつ病に対する偏見が薄れてきて、訳の分からないいわゆる「きちがい」ではなくて、誰でもかかる可能性のある脳の不健康な状態であるという考え方が一般の人にも理解されてきました。
第2は自殺が社会問題としてクローズアップされてきたことです。近年我が国の自殺者の増加は世界的に見て突出しています。一時期ほぼ同数であった交通事故死亡者数(現在は年間1万人を割った)をはるかに上回って年間3万人を超えています。
特に中高年の自殺者の増加が目立って、この自殺の原因の75%以上が「うつ病」とも言われています。国も自殺の問題を軽視できなくなり、昨年から国家プロジェクトとして「自殺対策」、「うつ病対策」を考えるようになりました。
第3は「うつ」の増加です。啓蒙活動によって「うつ病=きちがい」というイメージは払拭されたのですが、本当に正しく理解されているかというと、そうではありません。「ゆううつ=うつ病」という安直な理解のままに「うつ」という言葉が使われています。
正しく使われていないことが多いために、以前このコラムで書いた「自律神経失調症」や「神経衰弱」などといった病名と同じようなあやふやさをもつことになりました。このようにうつ病が中途半端に啓蒙されたために「うつ」という言葉が独り歩きして「うつ」と称する(自称、他称を問わず)人が猛烈に増えたのです。
それでは本当の「うつ病」と「うつ病もどき」とはどのような違いがあるのでしょうか。この話をするためには狭義(本当)の「うつ病」というものを説明しておかなければなりません。

最初に、「うつ病」の定義についてお話をしたいと思いますが、この話をするにあたって先ず述べておかなければならないことがあります。実はメンタル系の病気の治療にあたる医師の間でも「うつ病」の定義に関して混乱があるのです。
私が精神医学を初めて学んだ頃は、わが国はドイツ精神医学が主流でした。この流れをくむ従来からの診断法とその後台頭して、現在主流となっているアメリカ精神医学の診断法はかなり異なっています。このために、日本語で「うつ病」と言っても必ずしも同じ病態をさすとは限らないのです。
ドイツ精神医学に基いた従来からの診断は現在の症状に加えて既往歴、家族歴、病前性格、経過などを総合的に判断して診断します。しかもそれぞれの項目の重み付けは診断する医師の判断に任されていました。
ある場合は現在の症状に重きをおいて判断しますし、別な場合にはこれまでの既往や経過に注目して判断します。現在の症状がそれほど重たくなくても、病前性格を重要視して診断することもあります。
したがって、臨床経験など、診断する医師の技量によって診断名が異なってくることがありました。また、国や風土の違いで診断が違ってきてしまうために国際的に比較検討する場合に不都合でした。何よりも主観的であいまい、科学的でないとの批判から逃れることができませんでした。
また、精神科医療は医師、看護師、薬剤師などの医療人以外に臨床心理士やソシアルワーカーなどの福祉関係の人がかかわることが多い診療科です。このために専門的に医学を学んでいない人とも共通の認識を持つことが要求されました。
こういう理由から、アメリカ精神医学会が、アメリカ人らしい発想で、診断のマニュアル化を進め、1952年にDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder)という診断マニュアルが作られました。
この診断法は病因論などにはあまり踏み込まずに精神症状のみを論理的な推察と統計学的要素を取り入れて分類したことにより、診断基準を明確にし、今まで医師の主観的な判断に頼っていた診断をより客観的な判断によるようにした点や、技量の差異による診断の違いを小さくした点で評価されました。
1980年に改訂された第3版DSM-Ⅲあたりから急速に世界中に普及されてわが国においても取り上げられるようになりました。現在は2000年に改訂されたDSM-Ⅳ-TRが使われていますが、2011年にDSM-Ⅴが出される予定です。
しかし、DSMは従来までの診断法に比べて革命的なアプローチをもたらしたと評価される一方、診断基準の内容や疾患分類の妥当性については疑問視する声も少なくありません。また、政治的・経済的な圧力に左右された経緯があることから純医学的な概念ではないという指摘もあります。

現在、もっと国際的広く使用されている診断基準にICDがあります。ICDは「疾病および関連保険問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Disease and Related Health Problem)」の略で世界保健機構(WHO)によって公表された分類です。
ICDは当初は国際死因分類として1900年に国際統計協会により制定されました。以降10年ごとに見直しがされて、第7版からは死因だけでなく疾病の分類が加えられ、医療機関における医療記録の管理にも使用されるようになりました。現在の最新版は1990年、第43回世界保健総会で採択された第10版で、ICD-10と呼ばれています。
このICD-10による診断もDSMの流れを踏襲してマニュアル化されています。精神科領域の項目はかなりDSMと重なります。
ここでこのICD-10による「うつ病エピソード」の診断基準を示してみます。
〔特徴的な症状〕
1.抑うつ気分
2.興味・喜びの喪失
3.活動性の減退
〔他の一般的な症状〕
1.集中力、注意力の減退
2.自己評価と自信の低下
3.罪責感と無価値感
4.将来に対する希望のない悲観的な見方
5.自傷あるいは自殺の観念や行為
6.睡眠障害
7.食欲不振
ICD-10では軽症と言えども〔特徴的な症状〕のうち少なくとも2つ以上、さらに〔他の一般的な症状〕の中から少なくとも2つ以上の存在が認められなければならないとされています。そしてこういった症状が2週間以上持続することが必要条件です。

こういうマニュアル化された診断基準は誰でも診断ができて、共通の概念で話ができるという点ではとても優れているのですが、○×式の安直なやりかたなので診断の質が低下します。
またこういったマニュアル化はいかにも客観的で科学的であるかのように見せかけられますが、一つ一つの症状項目があるかないかを判断するためには、やはり診断者の一定レベル以上の技量が要求されます。ですから、いくらマニュアル化しても診断の入り口はどうしても主観的なあいまいさが残るのです。

マニュアル化された診断法が必ずしも優れているわけではないことはお分かりいただけたかと思いますが、それでも患者も医師、看護師、薬剤師も福祉関係者も共通の認識で話ができるのであれば、ICDに統一して話を進めたほうがよいでしょう。ところがそうもいかない別の事情があるのです。
我が国の保険医療では厚労省が認めた病名とそれに適用とみなされた薬剤や治療法しか適用できないことになっています。この保険診療で使用される診断名は従来型の診断法による診断名なのです。
したがって、我が国では1つの精神疾患の診断に従来型の診断法による診断名とICD-10で代表される新しいマニュアル化されて診断法による診断名の二つが並存するのです。
実際にうつ病を診療する場合、診療報酬を請求するレセプトには従来型の診断名を記載しなければなりませんが、自立支援法申請時の診断書にはICD-10による疾病コードの記号と数字を記載しなければならないのです。
あまり訓練されていない医師は新しい方式の診断を無理矢理従来型の診断にはめ込んで病名をつけざるを得ません。また、熟練した医師でさえ実践的な治療に即した保険向けの病名をつけざるを得ないのです。
このことも「うつ」を取り巻く状況を混乱させて、「うつ」を増やしている大きな要因のひとつなのです。

精神科医の間でもこれだけの混乱があります。ここに患者さんの自己診断や他の一般科医たちの精神科領域への参入があいまって「うつ」は訳の分からない状態になってしまっています。次回、そういった点についてお話したいと思います。

後期高齢者医療制度新設の余波(いつものご都合主義)

厚労省は診療報酬の請求を近い将来インターネットを使ったオンライン方式に切り替えようとしています。現在はレセプト用紙という紙を使っている医療機関とフロッピーディスクやCDなどで提出している医療機関があります。私のクリニックではフロッピーディスクで請求しています。
このオンライン請求にする目的は経費削減と省力化ということになっています。確かに膨大な紙を使用することは資源保護の観点から考えてみるともっともと思われるかもしれませんが、果たしてなんでもかんでもインターネットを利用することがよいのでしょうか。私はそうは思いません。
診療に関する諸情報は、各患者さんたちのもっとも大切な個人情報です。医師法で厳しく規定されている守秘義務に関する個人情報が山盛りです。このような重要な情報を、機密漏洩する危険の高いオンライン化してよいものなのでしょうか。
そもそも省資源という謳い文句には嘘があります。私が一生懸命フロッピーディスクで提出したレセプトは、社会保険診療報酬支払基金や国民健康保険連合会で紙にプリントアウトして審査しているのです。実際にはペーパーレスにはなっていないのです。
国の本当の狙いは別のところにあると私は考えています。第1は審査の省力化です。適当なソフトを考えれば、機械的に審査できるということです。単純事務上のミスでもソフトによる審査ではうむを言わせず査定してくることになると思います。
第2の目的は上記第1の審査の強化によって支払うべき医療費の削減ができて総医療費抑制の一助になることです。このことがいかに無茶なことであるかは以前のコラムでお話しました。
第3の目的は医師の定年制の事実上の施行です。厚労省はだいぶ以前から医師の定年制の実施を企てていました。高齢の医師には医療の現場から去ってもらおうと考えているのです。若くてもどうしようもない医師もいれば、後期高齢者になっても毅然とした医療をされている医師もいらっしゃいます。
年齢で医師の適、不適を線引きしようなんて無茶な話で、医師会からの反対などもあってなかなか実現できないでいました。しかしながら、レセプト請求のオンライン化が義務付けられれば、多くの高齢の開業医は半強制的に引退せざるを得ません。
医学や医療に関しては高いレベルの学識と技術を持っていても、コンピュータの知識はお持ちでない先生が少なくありませんし、そう長くない将来のことを考えるとオンライン化に伴ってパソコンの設備投資を逡巡される方が多いと考えられるからです。

ところで、悪評の嵐が巻き起こっている後期高齢者医療制度(長寿医療制度)がなりふり構わず強引に4月1日からスタートしました。
保険料の天引きに関する不都合が4万件以上に上ったことは新聞で報道されました。将来の医療の質が保証されていないことに対する不安の声も上がってきました。私が以前にコラムで書いたことが今になってやっと騒がれ始めました。
遅きに失した感はありますが、今からでも問題点について議論されることは結構なことです。ところが、医療機関が被っている損害についてはあまり取り上げてくれません。医療者は数の上から言って圧倒的な少数派だからでしょうか。
3年前に国会で決定した制度であるにもかかわらず、対象者である高齢者の方々への周知がほとんどなされてなかったことは既に野党やメディアだけにとどまらず、与党の一部からも批判・指摘されています。
後期高齢者を受け入れる医療者に対しても十分な説明はまったくなされてきませんでした。どういう保険証でいつどういう形で配布されるのか。どういう診療体系になっているのか。70歳から74歳までの前期高齢者の方の扱いはどうなるのか。こういったことを私たち医療者が知ったのは制度開始のおよそ1ヶ月前3月に入ってからのことです。詳しい内容が各都道府県医師会を通じて教えられたのは3月下旬、制度開始の10日ほど前でした。
4月1日新制度開始から今日までの病院窓口での混乱状況は報道されている通りですが、私たちはもっと別の深刻な問題について詳細を知らされずにやきもきして過ごしていたのです。
それは4月診療分のレセプトをどこに、どのような形で(お役所仕事の通例だが、ひどく細かいことまでうるさい)請求すればよいのかが正確に通知されないままに月末を迎えてしまったのです。
月末ぎりぎりになっておおまかなことと、つまらない枝葉のことだけが通知されました。しかし、各都道府県共通の書式が決められなかったためにレセプトコンピュータ会社の対応が間に合いませんでした。
このために、コンピュータでレセプト管理をしているにもかかわらず、4月診療分はコンピュータからプリントアウトしたデータを紙に手書きで書き写さなければならないという、馬鹿げた事態になってしまいました。世はゴールデンウィークであるというのに私たち医療機関は黙々と数字を書き写す作業を夜遅くまでやらなければならないのです。

ゴールデンウィークなんか無縁で働いている方は大勢いらっしゃるのは充分に承知しています。それなのになんでこんなぼやきを書くのかというと、少数派である医療者の声も少しは知ってほしいからです。
私たちはこれまで数え切れないくらい何回も、国のご都合主義に振り回されてきました。しかし、「国策に失敗なし」とか「官僚に間違いなし」と皮肉って言われるほど、国家権力は己の非を認めはしません。
いつもとばっちりを喰うのは国民と末端の役人と我々のような実務担当者です。こういった被害者の中でも少数派は特に置き去りにされてきました。医療に関することだけに限って言えば、これまでメディアは多数派である受療者の立場からの報道には力を知れても、少数派である医療者の立場からの意見はほとんど取り上げてくれなかったのです。
私がコラムを書き続けている動機のひとつが医療者の声があまりにも世間に伝わっていないということです。これは日本医師会をはじめ医療者側の怠慢であるとの謗りは甘んじて受けなければならないと思います。そこで「ごまめの歯軋り」。私などがささやかなこのコラムを通じて少しでも声を上げようと思っているのです。

私たち医療機関のことも少しは知っていただきたい。機密漏洩の点からも不安が大きい、信頼できる昔からのかかりつけ医師はずしが狙いの、レセプトのオンライン化に反対する私たちの立場にもご理解をいただきたいものです。

今回の後期高齢者医療制度の導入がレセプトオンライン請求義務化の後であったとしたら、いったいどうやって手書きの請求書を光ファイバーに押し込めばよかったのでしょう??
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