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クリニック西川

2008年6月

アスペルガー症候群

退陣間際の安倍前首相を揶揄して「KY」という言葉が流行りました。KYすなわち「空気が読めない」の略で、安倍前首相が国民からの要望をまったく理解していないかのような発言をくり返していたためにそう言われたのです。
「空気を読む」ということは、人とのコミュニケーションの中で相手の身振りや表情、その場の雰囲気、状況の流れから推察して、言語そのもの以外のメッセージを相手から読み取るということだと思います。
社会的動物として生きる人間にとってはかなり重要な能力と言えます。まして、アメリカのような多民族、他宗教国家と違って、長い間、単一の言語、単一の文化を守り続けてきた日本では「言わずもがな」とか「空気を読む」という能力がより強く要求されます。日本に限らず、一々言葉で事細かに説明しないと了解できない人は馬鹿にされ、仲間はずれにされやすいことは世界中どこででも言えることだと思います。しかしよく考えてみると、この仕草や状況、雰囲気から相手の心を読み取る能力は、当に高度で洗練された知的機能です。

1944年オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー(Aspeperger.H)が特徴的な自閉症の児童の一群を報告しました。しかし、同時期(1943年)にアメリカの精神科医レオ・カナー(Kanner.L)がやはり幼児の自閉症の一群についての報告をして、早期幼児自閉症(Early Infantile Autism)という概念を作りあげていったので、当初アスペルガーの業績はドイツ語圏では反響を呼んだものの、世界的にはあまり注目されませんでした。1980年代から徐々に再認識されるようになって、1990年代になって世界中の注目を浴びるようになりました。
自閉を示す発達障害に関してはアスペルガー症候群、カナー症候群のほかに、高機能自閉症、低機能自閉症、サヴァン症候群、自閉性障害などの用語があって、それぞれの定義があいまいであったり、各疾患間に明確な境界線を見出せないために混乱しています。
現在はこういった発達障害を自閉症スペクトラムとして捉えて、高機能自閉症はアスペルガー障害と、低機能自閉症はカナー症候群とほぼ同義であると言ってよいでしょう。アスペルガー症候群とカナー症候群とは主として知的機能(知能指数IQ)の高低によって区別されます(図1)。
すなわち、アスペルガー症候群は知的機能が正常あるいは高いにも関わらず極度に自閉的な人です。妊娠中、周産期および出産時に大きな異常はなく産まれ、乳児期も正常な発達をします。幼児期の言語発達にも遅れは認められませんが、5歳くらいまでには通常の児童とは異なる徴候が現れてきます。そして、青年期、成人期を通して異常が持続します。養育環境などに大きく左右されないことから生物学的な発達障害と考えられます。
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―図1―(ウィキペディアより引用)
アスペルガー症候群の特徴的な症状は以下の6つに要約されると思います。
1.他者と相互に関わるための社会的な能力の著しい障害:人としての共感能力に欠け、他人の感情や考えを理解して相手の心の動きに適切に反応しようという本能的な衝動が欠落しています。また、社会で暗黙の了解となっているようなサインを認識することができません。アスペルガー症候群の人たちは自分自身の現実にだけ心を奪われているのです。このために、他人の感情を察知できないで、情緒的にも社会的にも不適切な行動をとってしまいます。妥協、複雑な動機、その時々で変化する心身の状態、条件付の主張、不確実な感情といった曖昧なものごとを理解することができません。真実か虚偽か、善か悪か、正直か嘘か、必ず黒白をつけて考えないと理解できないのです。
人間関係を円滑にするための技巧を持ち合わせていない人は、愚直なほど正直で率直な人、無垢で誠実な人と受け止められることもありますが、多く場合は無神経でぶしつけ、自己中心的で他人に対する配慮に欠けた人として疎んじられ、遠ざけられます。結果として仲間や友人を作ることが困難です。
アスペルガー症候群の人たちは、この障害がほとんど啓蒙されていないために、社会の中でさまざまな不利益を受けていると考えられます。
2.非言語コミュニケーションの障害:言語以外の手段のコミュニケーションが著しく障害されています。目と目で見つめあうアイコンタクト、表情、姿勢、身振り手振りなどのボディ・ランゲージがうまくできません。このために目を合わさないで話したり、逆にじっと見据えて相手に緊張感を与えてしまったりします。喜怒哀楽、その場の状況に相応しい表情ができないで、こわばったままでいます。ジェスチャーも奇妙で、話している内容に不相応な奇妙な動作をします。
人間のコミュニケーションは言語を用いて行われていますが、キャッチボールしている内容は言語そのものよりも表情やボディ・ランゲージを介して伝わるニュアンスのほうが圧倒的に大切であるということが心理学的に言われています。アスペルガー症候群の人たちは言語そのものの表わす定義を字句通りにしか理解できないので、一般社会ではかなり不都合を生じると思います。
3.奇妙な話し言葉と言語感覚:会話は抑揚や強弱の置き方が普通の人達とは変わっていて奇妙な印象を与えます。話すときも書くときも堅苦しい学術的な言葉遣いをする傾向があります。話している時に相手が理解しているか、もうその話題に飽きているかといった反応を察知できないために一方的にしゃべりまくるか、ほとんどしゃべらないか、極端に走ります。また、相手の言葉を字義通りに受け取るために、皮肉やユーモアを理解するのが苦手です。ユーモアを持ったとしてもそのユーモアは通常の人の感覚とは違ったユーモア感覚のために、相手はまったく可笑しくなかったり、神経を逆なでされることが少なくありません。
幼小児期には相手の言葉をオウム返しにする「反響言語」が見られることもあります。成人になると同じことばを何度もくり返す「保続症」のような症状が見られることもあります。
4.きわめて狭くて限定された領域への興味・関心:きわめて数少ない興味・関心の対象に対して異常なほどの集中力で没入します。ごく限られた自分の関心事以外のことにはまったくと言ってよいほど無頓着です。また、その興味の内容や現れかたには繰り返しの傾向が認められます。つまり、ごく限られたことに対して強迫的かつ常同的に寝食を忘れて没頭するのです。したがって、興味の対象が有益なことであった場合には偉大な業績を残すことがあります。この特性が、アスペルガー症候群の人の中から歴史上の偉人を生み出す結果になります。
5.反復的、常同的な行動:特定の日課や儀式をかたくなにこだわって常同的にくり返します。毎日の決まりきった行動を何かの原因で阻まれて、いつも通りに日課が果たされなかったりすると、ひどく動揺します。パニックになることも少なくありません。そういった行動は内容だけではなく、時間にも厳密です。必ず時間配分を決めてそれにしたがって行動したがります。物を収納する場所もいつも自分が決めている場所でなければ気がすみません。食べ物もいつも同じものを食べるのを好みます。服装も時や場所、季節とは関係なく強迫的に同じ服着たがりますので、放っておくと外観にはまったく無頓着と捉えられてしまいます。
6.運動が著しく不器用:種々の運動能力が劣っているだけではなく、歩く時にもぎごちなくて普通に腕を振れなかったり、靴の紐が結べない、話をしている間の何気ない動作や拍手といった、普通の人がいとも簡単に行える動作を円滑に行うことができません。

アスペルガー症候群の人はいったいどのくらいいるのでしょうか。アスペルガー障害の正確な診断をすることができる医師が少ないこと、また他の発達障害との境界が不明確なことなどから正確な数字は出ていません。一説には300~400人に1人と言われています。この計算ですと我が国では30万~40万人のアスペルガー症候群の方がいることになります。もう少し広い概念から計算すると120万人とも言われています。
ともかく発達障害のために社会に適応することに困難を感じている人は想像以上に多いものと考えられます。
男女比をみると圧倒的に男性に多く、男:女=8:1とも言われています。この理由としては女性のほうが元来社会適応しやすいからだとか、脳の発達期に男の脳のほうが外からの侵襲を受けやすいからだとか言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。
アスペルガー症候群の人の多くは社会適応能力の欠如から、仲間が作れずに、疎んじられて苦しい目にあっています。学校などでもいじめの対象になっていると思われます。
しかし、幸運にも彼らの特性である4.と5.が充分に発揮できる環境が与えられると、常人ではどんなに努力しても及ばない、偉業を達成します。なかでも、数学、物理学、哲学、芸術などの分野ではアスペルガー症候群であったと思われる巨人たちが多数挙げられます。
ミケランジェロ・ブオナローティ、アイザック・ニュートン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アルバート・アインシュタイン、バートランド・ラッセル、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン、アンディ・ウォホールなどがその例です。

言語以外の、仕草や状況、雰囲気から相手の心を読み取る能力は相当に高度な知的機能のように思われますが、ヒト以外の高等動物にも備わっている機能です。動物同士のコミュニケーションのほとんどは言語を介したものではありません。また、同種の動物間のコミュニケーションにとどまらず、動物とヒトとの間のコミュニケーションも言語を介しているとは考えられません。
犬を飼っていらっしゃる方は常に体験されていると思いますが、飼い犬は言葉が通じなくても、ご主人のその時の機嫌を鋭く察知して、上手な対人関係を継続する能力を備えていることを実感されているでしょう。
つまり非言語によるコミュニケーションのほうが歴史的に古い機能です。ところがヒトでは他の動物と異なって、言語機能が高度に発達したためにコミュニケーションの多くを言語に頼るようになりました。
アスペルガー症候群の人たちは人が動物として本来持っているはずの非言語コミュニケーション機能が発達できずに、ヒトだけが備えている言語機能だけが発達したと言えます。このために言語(外言語および内言語)に頼る生き方しかできないのです。論理的な思考には卓越していますが、予測不可能なものや不合理なものへの対応はきわめて苦手です。
原因としてミラーニューロンの機能不全が注目されていますが、ミラーニューロンの欠陥だけではアスペルガー症候群の全ての症状を説明することはできません。ミラーニューロンについてはいずれコラムでお話します。
前に述べましたように、アスペルガー症候群は養育環境によって決定されるものではありませんから、幼小児期の育て方をいくら工夫しても発症をくい止めることはできません。また、現在のところ有効な治療薬も見つかっていません。
ところで、アスペルガー症候群というと異常者であり、その他の人は正常者ということになりますが、視点を変えて彼らをみた場合、客観的で、事実を正確に理解して表現するということには一般の人よりも優れていると言えます。また、「言葉を額面通りに受け取る」とか「細かい事象にこだわる」ということも「厳正に規則を守る」と言い換えることができます。
こうして考えると、発達の仕方が他の多くの人達と異なっている、単なる少数派であると考えることができます。正常、異常と考えずに多数派、少数派と考えて彼らを社会の中で受け入れてあげることが最善の方法であるように思われます。

さて、KYな総理大臣の系譜はいまだに続いているように思われます。ではKYな彼らは上で述べた2.非言語的コミュニケーション能力を欠くアスペルガー症候群に該当するのでしょうか。私には安倍前総理も福田現総理もアスペルガー症候群であるとは思えません。彼らにはただ国民の窮状を深刻に受け止めて、国民のために国家運営をするという基本的な姿勢が欠如しているだけであるように思います。
これは残念なことではありますが、逆に不幸中の幸いとも言えます。なぜなら、彼らは空気を読もうとしていないだけで、読むことができないわけではないからです。
私たち国民の課題は、まさに、いかにして彼らが「読まざるを得ない空気」を醸成していくかにあると思います。

心神喪失状態、心神耗弱状態(保安処分問題)

先週、心神喪失状態、心神耗弱状態というものについての説明と、そのように判定された場合の刑事裁判上の責任能力に関してご説明をしました。この責任能力は刑法上だけではなく民事訴訟においても問われる重要な争点です。

さて、現在の世論は「被害者および被害者家族の感情重視」の流れにあるように思います。確かに、なんの過失もないのに不幸な事件に巻き込まれた被害者のことを思えば、加害者が情状酌量されて軽い刑で済んで、何年か後には社会で生活をすることには耐え難い感情が湧くものと思います。
しかしながら、あまりにその点に比重をおくと刑事裁判は「目には目を。歯には歯を。」という報復の場になってしまいます。現在テレビでくりひろげられる、扇動的なワイドショーによる過熱報道と来年から開始される裁判員制度とあいまって、この報復至上主義に拍車がかからなければよいと懸念するものです。そして、こういう流れになるといつも検討されるのが保安処分です。

保安処分とは「犯罪者もしくはそのような行為を行う危険性がある者」を対象に、刑罰とは別に処分を補充したり、犯罪原因を取り除く治療や改善を内容とした処分を与えることを言います。
保安処分の必要性をはじめて提起したのは19世紀のドイツの刑法学者クライン(Ernst Ferdinand Klein;1744〜1810)です。社会の健全を保つためには刑罰手段だけでは犯罪防止対策として不充分と考えたのです。責任無能力者による犯罪や再犯の危険性が高い常習犯に対して、刑罰以外の特別な手段をもって対応すべきであると考えて、保安処分の必要性を説きました。
刑罰は犯罪行為に対する「責任」を基礎として、その行為に対する応報を行為者に与えることで犯罪の一般予防を果たそうとするものです。これに対して保安処分は「危険性」を基礎として、再犯あるいは犯罪防止のために特別予防をするものです。
すなわち、刑罰とは実際に発生した犯罪に対処したものであるのに対して、保安処分とは「将来犯罪行為をする危険性がある」とした特定の対象者に対して行うものです。
刑罰は行為者に苦痛を与えることが本質的な内容ですが、保安処分は犯罪防止を目的に治療・改善することを内容としています。とはいうものの、保安処分でも身柄を拘束することも狙いの一つですから大きな問題になります。
我が国では非行少年に対する保護処分や売春婦に対する補導処分などが保安処分の一種と言えますが、刑法上正式に保安処分は採用されていません。しかし、ずっと古くから刑法に保安処分制度を導入しようという動きは再三ありました。
1926年(大正15年)、1961年(昭和36年)、1974年(昭和49年)に答申された「刑法改正要領」は、いずれも保安処分を刑法に盛り込む内容でした。例えば1974年に答申された刑法改正要領では精神障害者に対する「治療処分」や、薬物中毒者に対する「禁絶処分」を裁判所が刑罰の代わりに言い渡すことができるとして、保安施設への強制収容やその期間までもが明記されていました。
しかし、再犯の危険予測自体が極めて困難で、客観的に行うことは不可能であろうという点。また、保安処分の対象者に対する医療制度が保安処分の本来の目的を達成するほどに充実していない点などの批判が相次ぎました。結果、日本弁護士会、日本精神神経学会などからの強い反対によって具体化はしませんでした。

私のような一精神科医がなぜこの保安処分制度についてのコラムを書くのかというと、保安処分の対象者の大半が精神障害者であるからです。
「精神障害者が罪を犯した場合、凶悪な罪を犯しているのにもかかわらず、責任能力が欠落しているという理由から無罪になったり、刑が減軽されるのは納得がいかない。」、「それならば、そのような者は予め社会から一生隔離して犯罪の危険性を減らしておくべきだ。」という意見が必ず出てくるのです。
事実、精神障害者にかかわるわが国の法律は保安処分的色彩をめぐって過去からずっと大きく揺さぶられてきました。
明治33年の精神病者監護法は精神障害者を完全に社会から隔離する保安処分に基づく法律でした。すなわち、精神病者は地方長官の許可を得れば、私宅や病院などに監置できるという法律でした。
大正8年に制定された精神病院法という法律は都道府県が精神病院を設置できるという法律でしたが、実際には病院の設置はまったく進みませんでした。
やっと精神障害者を病人として扱う初めての法律ができるのは戦後も5年たった昭和25年になってです。精神衛生法がその法律です。この精神衛生法によって初めて都道府県に公立の精神病院の設置が義務付けられ、長年にわたって精神障害者を苦しめてきた私宅監置が廃止されました。現在の精神保健福祉法の原型ともいうべき法律で、自傷他害のおそれのある精神障害者に対する措置入院制度や保護義務者の同意による同意入院の制度が創設されました。これによって精神障害者に対する処遇は一定の決着を見ました。
しかし、1964年(昭和39年)3月にアメリカ大使ライシャワーが大使館前で統合失調症の患者に刺されて重症を負った、所謂ライシャワー事件がおこることによって、精神衛生法に対する内外の批判が相次ぐことになりました。これを受けて昭和40年に精神衛生法の一部が改正されて措置入院制度が強化されて、同法の保安処分的色彩が強いものとなりました。
ところが昭和59年3月に宇都宮病院という精神科病院でおきた看護職員による患者の傷害致死事件(宇都宮病院事件)*1をきっかけに日本の精神医療のあり方が再び世論の批判を浴びるようになり、昭和62年に精神衛生法に代わって、患者の人権保護を強く打ち出した精神保健法が制定され、その後何回かの改正を経て、平成7年に精神保健および精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)が制定されました。
この間、世論は障害者の人権のほうに比重がおかれていたのですが、その後精神鑑定によって判決が大きく左右されるような重大事件が多発しました。その結果、再び精神障害者は危険であり、社会から隔離することが望ましいという論調が力を増してきました。そして平成13年6月に大阪府池田市で起きた池田小学校事件*2によって世論は再び大きく方向転換しました。世論というものは何年かおきに右や左に大きくぶれるものです。
こうして、平成17年7月に保安処分法である「心神喪失者等医療観察法」が日本精神神経学会や日弁連の反対を押し切って施行されたのです。この医療観察法は心身喪失や心神耗弱の状態で重大な他害事件をおこしたものを指定医療機関に強制的に入院させたり、通院させることを定めた法律です。
多くの反対意見を押し切って施行された法律ですが、指定医療機関の整備も不充分であり、入退院のための「鑑定ガイドライン」も完成していないままの見切り発車でした。現時点でも十分な体制には至っていません。
国は「社会復帰のための手厚い医療」と言っていますが、実際には「治安のための長期拘束」になる可能性が否定できません。既に対象疾患を治療効果が期待しがたい人格障害、発達障害、認知症にまで広げようという動きがあります。大変危険な動きです。
医療観察法の拡大適用がなぜ危険なのかというと、保安処分の対象者が際限なく拡大されて乱用される危険が拭いきれないからです。
以前のコラムにも書きましたが、一般的に(もちろん例外はありますが)、生来おとなしい人格の方が精神障害になるとおとなしい患者さんになります。生来粗暴で凶悪な人が精神に障害をきたした場合には普通の病院では扱いに困るとんでもない患者になります。社会に対して危険性が高いか低いかということは病名だけで決まるわけではないのです。
ところが、保安処分制度の適用がどんどん拡大されていくと、精神障害というだけで対象者になり、身柄を拘束されて社会から隔離されてしまう可能性が高いのです。
わらには厳密に精神障害者だけに適用される保障はありません。もし国家がこの法律を濫用すれば、国家権力は反体制派の人間に精神障害者のレッテルを貼って、長期にわたって監禁するおそれがあります。現に旧ソ連や中国では治安維持を理由に保安処分が利用されて多数の政治犯が精神病者として幽閉された歴史があります。我が国でも戦前は治安維持法の名の下に政治犯が数多く拘禁されました。
国家という圧倒的な権力に「打ち出の小槌」を持たせてしまうことになるおそれがあります。
それでは、明らかに再犯を重ねるおそれの高い人間を世の中に放置しておくのが正しいのかと問われれば、それも否です。
私の58年間の人生経験から考えて、世の中には本当に危険で隔離するしかない人間もいると思います。ただ、それを病名で決めろといわれても私にはできません。じゃあどうやって決めるんだと聞かれれば、事例を個別的に詳細に検討していくしかありません。それでも主観的な曖昧さが残りますが、その作業を煩わしく思ってはいけません。
簡単に線を引くことができない事柄を法律という名の下に規則化しなければならないところに難しさがあるのでしょう。誰か本当に頭のよい人が現れて、誰もが納得がいく、客観性の高い基準を作って欲しいものです。

なお、心身喪失者等医療観察法の適用対象拡大には絶対反対です。なぜならば、こんなコラムを書いている私も対象者に選定されてしまうかもしれないからです。
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*1宇都宮病院事件:1人のアルコール中毒と診断された患者の不審死が発端となって病院内で日常的に患者に対する暴行が行われていた事実が判明した事件。その後の取調べで、同病院では3年間で200人以上の不審死があったことが判明。また、患者が死亡するとその脳を採取して東大医学部のT助教授に研究材料として提供していた事実まで判明して社会的に代波紋をひきおこした事件。精神障害者に対する非人道的な扱いが注目されたが、一方ではどこの病院でも扱いに困るような粗暴な患者を一手に引き受けてくれる病院で合ったために、同病院が解散させられた時には周辺の病院はその患者たちの引き受けに困った。社会的必要悪としての存在でもあったのである。
*2池田小学校事件:平成13年6月8日に大阪府池田市にある大阪教育大学付属小学校に当時37歳の宅間守が乱入して児童8名を殺害、児童13名と教諭2名に傷害を追わせた事件。宅間は最終的に死刑が確定し、平成16年9月14日に死刑執行された。宅間は精神科通院歴があり、逮捕当初精神障害者を装っていた言動があったために、心神喪失等による刑事上の責任能力について世間の関心を集めることになった。

心神喪失状態、心神耗弱状態(精神鑑定)

6月8日、日曜日の昼、多くの人が行き交う秋葉原の歩行者天国で25歳の男によって無辜の市民17名が殺傷されました。
犯行前々日にわざわざ 遠路福井まで赴いて殺傷能力の高い刃物を複数本購入、前日にも上京して犯行現場を下見するなど、犯行は用意周到です。また、犯行直前まで携帯電話から掲示 板に犯行予告と実況中継と思われる膨大な書き込みをしていました。あまりにも異常な事件であり、また容疑者が「自分は精神病だ」と発言したこともあって、 検察は鑑定留置をすることにしました。
この事件に限らず、このところ世間の関心を集める事件の裁判において精神鑑定が行われて、犯行時の精神状 態が問われるケースが多くなってきています。つい先日も、渋谷の「夫ばらばら殺人事件」の第1審判決がなされ、心神耗弱状態であることが認められて検察側 の求刑よりも刑期が5年短縮されました。
精神鑑定を必要とする事件が増えているということは、それだけ誰もが異常と思われるような重大犯罪が増えていることを物語っているのだと思います。

さて、精神鑑定において出される心神喪失状態とか心神耗弱状態とかいうものはどのような状態をさすのでしょうか。
心身喪失状態とは、精神の障害によりことの是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)またはそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態を言います。
心神喪失状態においては刑法39条によって、その責任を追及することができないために、刑事裁判で心身喪失が認定されると無罪の判決が下ることになりま す。もっとも、心身が喪失しているとまで判定されることはきわめて稀です。平成17年の犯罪白書によりますと、裁判で心神喪失とされた者の数は全事件の 50万分の1であり、平成16年以前の10年間の平均で2.1名です。
無罪判決がでるほどの重度の精神状態であれば回復の見込みも低いために、罪は問われなくても一生精神科病院で過ごす可能性が高いのです。
心神耗弱とは、精神の障害によりことの是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)またはそれに従って行動する能力(行動制御能力)が著しく減退している状態を言います。
心神耗弱状態においては刑法39条によって、その責任が減少されるために、刑事裁判で心神耗弱が認定されると、刑が減軽されることになります(必要的減 軽)。心神耗弱とされた者の数は心神喪失とされる者よりもはるかに多く、上記と同じ犯罪白書によると平成16年以前の10年間の平均で80.4名です。

心神喪失や心神耗弱の対象となる精神障害はさまざまですが、社会的に問題となるものは統合失調症と薬物中毒です。
統合失調症の特徴的な症状についてはこれまでのコラムで説明してきました。その中で被害的な内容の幻聴と妄想については詳しくお話したと思います。統合失調症の初期はすごく怖い内容の幻聴や被害妄想があることが少なくありません。
「殺される」という確信を与えるような生々しいこういった病的な体験があれば、「殺される前に防御しなければ」という、患者の立場からすると正当防衛の思いで犯罪を犯してしまうことがあります。こういった場合に心神喪失あるいは心神耗弱が認められることがあります。
こういうことを書くと統合失調症の患者さんはなにをするか分からない恐い人という印象を与えてしまいます。元来人間は自分と異質な者を排除しようという傾 向があります。そういった本能に統合失調症に対する過剰な恐怖心が加わりますと、保安処分のように患者さんを社会から排斥して隔離しようという世論が高ま りを見せてしまいます。
実際には統合失調症の患者さんの犯罪率は、統合失調症でない方の犯罪よりも低いのです。統合失調症を病んでいない人間の方がより犯罪を引き起こしているのです。しかし、統合失調症の人が凶悪犯罪を犯すこともあります。
統合失調症は脳の疾患です。したがって、どんな人でもかかる可能性があります。本来の人格が温和な人も、粗暴な人も統合失調症にかかることがあります。も ともと温和な人格の方が統合失調症にかかれば温和な統合失調症患者になります。粗暴な人が統合失調症になれば粗暴で反社会的な統合失調症患者になります。
中には「俺は精神病と診断されているから、お前を殺したって無罪になるんだよ」とうそぶいて、自分の意思で計画的に凶行におよぶ人もいます。こういう人の反社会的行為を、単に精神障害のレッテルだけで許してよいはずはありません。
しかし、今述べたような症例はかなり例外的です。統合失調症になりやすい性格(病前性格)の人はシャイで本音と建前をうまく使い分けられない、嘘をつくのが苦手な、生きていくことに不器用な人たちが多いのです。愛すべき人が多いというのが実感です。
結局、病名だけで人の行動を一括りにすることはできません。言い換えれば、統合失調症という病名がつけばすべての行動が法的に問われなかったり、減軽され るということもいき過ぎだと思います。責任を問われている行為が病気の症状に基づいて行われたか否かという観点から、個別に慎重に判断すべきだと考えま す。

薬物中毒の場合には犯行時にいくら心神耗弱状態に陥っていたとしても、心神耗弱状態に陥る行為自体は本人の意思によるものですから、犯行の責任を薬物作用に求めてよいものかどうかが問題になります。
酩酊状態下の犯行に対する判決が、すべてのケースにおいて薬物によって神耗弱状態であると判断して刑を減軽していては、意図的にこの減軽を狙ってくる輩が出現してくることも想定できます。
例えば、ある人を刺し殺したいと考えた時に、その人と合う前に自ら大量に飲酒して酩酊状態になってからその人と出会い、犯行に及ぶように予め計画しておいた場合に、この犯行をアルコールによる酩酊下の犯行として心神耗弱状態を認めるべきでしょうか。
当然、認めるべきではないでしょう。犯意を持った時に事理弁識能力は十分に保てており、アルコールを飲まないでいようと思えば飲まないでいられた行動制御 能力も持ち合わせていたわけですから、この場合には自らの意志において犯行におよんだと考えるべきではないでしょうか。
この点については「原因において自由な行為」として専門家の間で熱く議論されていると聞いています。

責任能力の有無に関する最終決定権は裁判官に委ねられていますから、精神科医は診察結果を検討して虚心坦懐に鑑定書を作成すればよいのです。しかし、形式 だけの鑑定では困ります。判決に関して重要な判定材料足りうる鑑定書を作ることが、精神科医にとっての極めて重要な責務であることは言うまでもありませ ん。
ところが、精神科はレントゲン写真やMRIのような画像診断で確定できる分野ではないので、虚心坦懐ということ自体がとても難しい診療科な のです。どうしても、自分の主観が色濃く反映されてしまいます。結果、精神科医としての力量や鑑定実務の経験の有無によって鑑定書の軽重に差がでてきてし まうことは否めません。
我が国のこれまでの精神医学教育では、欧米のように精神鑑定を行うための司法精神医学にはほとんど力を注いできませんでした。したがって、正確な精神鑑定をできる精神科医は多くありません。
決して好ましいことではありませんが、今後は、これまでは想像もしなかったような異常な犯罪がさらに増えて、精神鑑定を要求される事例が増加することは充 分に予想されます。私たち精神科専門医に客観的で質の高い精神鑑定書が要求される機会が増えるものと思われます。精神科医の卒後教育の中にもっと司法精神 医学を取り入れていかねばならないでしょう。

さて、秋葉原の無差別殺傷事件の異常性には身震いするものがあります。しかし異常、すなわ ちいくら犯行が常人の感覚からかけ離れているからといって、直ちにその行為が精神障害によるものであるということにはなりません。ましてや刑法上の責任能 力の欠落が導き出されるものではありません。
被害者、遺族のためにも至急詳細な精神鑑定を行って、犯行時の事理弁識能力と行動制御能力の有無の判断がなされることを望むものです。

後期高齢者医療制度―骨格こそが大問題―

私が今年になってからこのコラムで3回にわたって取り上げた後期高齢者医療制度が政争の具となり、現在国会は大騒動です。
民主党を初めとして野党は、4月から始まったばかりの新医療制度を撤回して元の老人保健制度を復活させるべく、「後期高齢者医療制度廃止法案」を参議院に上程して、その法案は6月6日に参議院で可決されました。
一方、与党の自民党と公明党は新医療制度を断固として守る姿勢です。衆議院では与党が絶対的に多数ですから「後期高齢者医療制度廃止法案」が成立する見込みはありません。
野 党もこの法案が成立するとは考えていないはずです。現政権に対する「No」を提示するための材料として利用して、これを機に解散総選挙に持ち込み、政権奪 取をもくろんでいるに過ぎません。しかし、今ほど政権に対する支持率が低下した状態で福田総理が解散に出るとは考えられませんから、結局後期高齢者医療制 度は存続していくのでしょう。
この医療制度は実施直後からさまざまな不備や問題点が露呈して舛添厚労相と福田総理は弁明に追われています。とこ ろで、この法律はそもそも小泉内閣が2年前に作った「健康保険法等の一部を改正する法律」に基くものです。引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、無責任 にオペラ鑑賞などを楽しんでいる小泉の尻拭いをさせられて、挙句の果てに支持率がみるみる低下する福田総理はお気の毒としか言いようがありません。
とは言うものの、いくら小泉が種を撒き、厚労省の官僚が敷いた路線だとは言え、既定方針だからというだけで、無反省にひた走ろうとするのでは、やはり総理大臣としての責を問われても致し方ないでしょう。
舛添さんも福田さんも「この制度の骨格は正しいが、細部に対する心配りが足りなかったから、そういう点を手直ししましょう」と言っています。まずは世論が 猛反発している低所得者層の保険料負担を減額。保険料の年金からの天引きを同居する世帯主による肩代わりや口座振込も選択できるようにする。被扶養者の保 険料も減額。次々と改善案を提出しました。
新聞を初めマスコミも国の改善案が実施されるとどれだけの高齢者が当面救済されるかについては詳細に報道していますが、こういった改善案が期限付きのものであることや、なぜ国が骨格を残すことに固執しているのかについての詳しい論評は避けています。
国 が当面はどんな妥協を受け入れてもなぜに骨格だけは残したいのかと言えば、骨格さえ残しておけば、いずれ近い将来、立法府である国会の審議を経ないで、政 令あるいは省令ひとつで元の形に戻すことができるからです。諸々の改善策が将来ともに担保される保証はまったくないのです。国家のこういったやり方には常 に警戒をしていなければなりません。
「老人は早く死ね」という本音が表れているということで、国民から非難の的である診療報酬の「終末期相談支援料」*についても、凍結あるいは運用面での再検討をするといっているに過ぎません。いずれは復活すると解釈するのが正しいでしょう。
私は、75歳という年齢で線引きをして、高齢者を他の国民から引き離す制度の骨格こそが問題であると考えます。国は新医療制度設立の主目的を超高齢者社会 の到来の際に想定される若者の負担増を防止することとしていますが、その目的のためには75歳以上のお年寄りを切り離すよりしか他に方法はなかったので しょうか。
日本社会の高齢化はずっと前から確定していたにもかかわらず、この点についての真面目な議論は充分になされてはきませんでした。この謗りは今頃になってこの問題を政争の具として、成立不可能であることを承知の上で「廃止法案」を提出した野党も甘受しなければなりません。
道路で代表される特定財源のあきれかえる無駄遣いなどを止めて、国民があまねく負担する消費税率を少しだけアップさせれば、別立ての医療保険制度などをわざわざ新設しなくても老後の安全保障を確保できるのではないでしょうか。
ところが別立ての新制度を作ったために、この制度を維持するための事務費が増加して、天下り先が新設されてしまいました。後期高齢者医療保険を管轄する都 道府県単位の広域連合という組織が新設されたために、多くの健康保険組合などの各医療保険者から広域連合への莫大な納付金が発生したそうです。これまでの 老人保健のときの負担に比べて5割り増しほどにもなったと聞きます。現役世代の負担軽減どころではありません。
この広域連合という組織はもちろ ん厚労省関係者の新たな天下り先です。この広域連合のトップの年収は3000万円にもなるそうです。1000円単位の保険料の工面にも困る年金暮らしの高 齢者を初め、国民から絞り上げた保険料からまかなわれます。さらに、この広域連合は年金の不祥事から近々解体される、社会保険庁の役人の受け皿になるとの 噂もあります。
新制度が導入されなければ、こういった天下りポストができずに、新たな事務費も発生しなかったことを考えると、なんとも苦々しい限りです。官僚は転んでもタダでは起きないどころではありません。転んだら倍は手に入れて起き上がるのです。

この「姥捨て山政策」を立案した小泉はアメリカ政府から毎年提出される「政府要望書」に沿った形でこの国を運営してきました。すなわち彼が理想として考えていたのはアメリカ型市場経済優先の弱肉強食型資本主義国家なのです。
国民は小泉や竹中に扇動されて、ひたすらに競争に凌ぎを削り、格差を開く生活をよしとして走ってきました。しかし、このような社会のあり方で国民に本当の幸せは訪れるのでしょうか。
トヨタはその収益においてGM社を抜こうとしています。しかし、トヨタが世界に冠たる自動車生産会社になったからと言って国民の生活が豊かになったでしょ うか。幾つもの銀行が合併して世界に伍するメガバンクが誕生したからといって日々の生活にゆとりが生まれたでしょうか。
私はグローバルスタンダードといってアメリカの猿真似をしてきた結果、日本文化のもつ良さが失われて、ぎすぎすとして住みにくい世の中になっているだけのように思います。
そもそも小泉がお手本としたアメリカ型資本主義経済は、巨万の富を手にしているごく少数の資本家が、90%以上の貧しい人々の犠牲の上に、マネーゲームによってさらに莫大な富を手に入れる歪な社会構造を生み出しました。
しかし、この実態をともなわない馬鹿げたマネーゲームにもそろそろ影が刺してきたようです。それにもかかわらず、アメリカに比べてはるかに体力の劣る我が国が盲目的に同じ道を歩んでいます。破綻は目の前に迫っているのではないでしょうか。

中曽根元総理が「指導者は歴史観を持って行動しなければならない」と言ったと聞きます。彼がどのような歴史観を持っているのかは分かりませんが、ある意味 正しいと思います。政治家が官僚による慣例優先の問題棚上げ、先送り行政をただ黙認していては我が国に未来はありません。何十年先の日本を見据えた舵取り が要求されるのです。
日本の政治家はアメリカの言うなりになって我が国を自殺させるのではなく、日本の国民の安全保障と幸せを追求した国家作り を考えるべきではないでしょうか。こういう観点から考えると、後期高齢者医療制度の抱える問題は、保険料が高い、安いという末梢的な課題よりも、我が国の 国家像をどう定めるのかという、より大きなテーマに関わる象徴的な課題であると考えます。
私は、超高齢化社会を迎える今こそ、日本を弱肉強食路線から離脱して、北欧のように、経済的に覇権を唱えなくても国民一人一人がそれなりの豊かさを感受できる社会福祉優先の国作りに方向転換するかどうかを議論するべき、大きな岐路に立っていると考えます。
そのためには、国民の一人一人が目先の利害を度外視して、真剣に将来の日本国像を設計し、その意見を政治に集約させなければなりません。後期高齢者医療制度に関する議論は年金の問題と併せて、今後の我が国の将来を占うよい試金石と言えるでしょう。

私が何回も例えてきたように、この制度は老人を乗せた「アウシュビッツ行きの貨車」です。高齢者をまとめて貨車に乗せるという制度(骨格)を許してはいけません。貨車をいくら慌てて綺麗に飾り立て、座り心地をよくしたとしても行き着く先に変更はないのですから。
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* 後期高齢者終末期相談支援料:75歳以上の後期高齢者が癌などの疾病で終末期を迎えた時に医師が患者と相談して、容態急変時の延命治療や救急搬送の希望の 有無などの治療方針を文書化して患者に示せば医師に出る2000円の報酬が出る。延命治療の中止など、患者に意思決定を無理強いして、強引に医療費を削減 しようとするものであるとの批判が湧き起こっている。

今時の「うつ」事情(4)―見直される躁うつ病―

これまで3回にわたってうつ病とその周辺の精神障害についてお話をしてきました。ここまでの話を読んで、「うつ、うつと言うけれど、じゃ一体躁はどう なってしまったんだい」という疑問をお持ちになった方がいらっしゃると思います。こういう疑問をもたれる方はかなり精神医学に造詣が深い方です。

う つ病は大きな分類からいうと、気分(感情)障害(Mood〔Affective〕disorders)という一群の精神障害の中の一つです。感情や意欲が 標準的なレベルより低下してしまった状態がうつ状態です。したがって、感情や意欲のレベルが標準以上に高まってしまった躁状態という病的な状態がありま す。昔は気分障害を代表する病名としては「うつ病(Depression)」という言葉よりも「躁うつ病(Manic-Depressive Illness)」という言葉の方がよく使われていました。
躁病(Mania)ではうつ病の反対に気分が高揚して意欲が亢進します。高揚した、 開放的な、またはいらいらした気分が数日以上持続します。気力と活動性が亢進して著しい健康感と心身両面の好調さを感じます。社交性が増大して、多弁にな り、過度になれなれしい態度になります。性的な欲求が高まり、眠りはあまり取らないでも元気で、次から次へと観念が湧いて出て、本人は頭の回転が速くなっ たと感じます。しかし、周囲から客観的に見ると注意力が散漫で一つのことをじっくりと成し遂げることができない状態です。
重症になると誇大的あ るいは過度に楽観的になって、実現不可能な計画に熱中したり、浪費を重ねてサラ金から多額の借金をしたり、過剰に性的な行動に走ったり、攻撃的になって、 やたらと他人とトラブルを引き起こしたりします。サラリーマンの場合には上司やお得意先を相手に説教したり、喧嘩をしてくびになることもあります。
このような躁病の時期と、逆に元気がなくなるうつ病の時期をくり返すのが典型的な躁うつ病です。現在の診断法の分類でいうと双極性感情障害 (Bipolar affective disorder)と言います。これに対して、うつ病だけをくり返すあるいは持続するタイプを単極性感情障害(Unipolar affective disorder)と言います。
この双極性の「躁うつ病」は私が学生時代はポピュラーだったのですが、徐々にその名前を聞く機会が減っていきました。それに代わって増えてきたのが単極性の「うつ病」です。つまり、躁病を見る機会が減ったのです。
一時期は、「もう躁うつ病はいないのではないか」とまで言われたほどでした。反比例して通常の抗うつ薬でなかなかよくならない、だらだらと続く軽症のうつ病がやたらと増えたと言われてきました。

本当に躁うつ病はなくなってしまったのでしょうか。実はそうではありませんでした。アメリカ精神医学会による診断基準、DSM-ⅣTRでは双極性感情障害を大きくⅠ型とⅡ型の二つに分類しています。
Ⅰ型は躁病のエピソードがはっきりしているグループです。これに対してⅡ型はうつ病相ははっきりしているのですが、躁病相は軽い躁状態にとどまって目立った異常行動を示さないグループです。
軽躁状態は気分が爽快でやる気がみなぎって頭の回転も速く社交性が高まり、仕事も趣味のこともすべてに対して満足感を持って臨むことができます。かといっ て、本当の躁状態のように社会規範から逸脱することもありませんから、本人にとってものすごく好都合の状態です。周囲の人からも活動的としか思われないこ とが少なくありません。
このⅡ型の双極性感情障害で軽躁状態を過去に頻回に経験したり、軽躁状態が長期間続いたりした例では、本人も周囲もこの 軽躁状態が本来の状態であると勘違いしてしまいます。エネルギッシュでまめで仕事も遊びもできる人と捉えられているのです。この人が軽躁状態を脱して、普 通の状態になると、相対的にうつ状態になったかのように感じられます。ましてや本当のうつ状態になった場合にはその落差は相当なものになります。
従来、安易に「うつ病」と診断していた症例の経過を注意深く検討してみると、実はこの双極Ⅱ型障害ではなかろうかと思われるケースが想像以上に多いことが分かってきました。
特に、頻回にうつ病をくり返す例や通常の抗うつ薬があまり効かない例の中に相当数の双極Ⅱ型障害が単極性の感情障害である「うつ病」と誤診されていたのでないかとの反省がなされるようになりました。
双極性感情障害に対してはSSRIをはじめとする抗うつ薬があまり効を奏しません。抗うつ薬とは全然別の感情調整薬というグループの薬による治療が有効と されています。実際に頻回にうつ病相をくり返す患者さんや抗うつ薬による治療で難治の患者さんが感情調整薬でよくなることが少なくありません。
さらに最近は、過去に軽躁状態のエピソードが1回もみられないうつ病の患者さんであっても、いろいろな指標をチェックすることによって、将来躁病あるいは 軽躁状態を呈する可能性が高い感情障害のグループに対して「双極スペクトラム障害(Bipolar spectrum disorder)」という病名をつける動きもあります。こう考えると躁うつ病の数は相当増える可能性があります。
世間に「うつ」が溢れて、安直に抗うつ薬治療が行われ、しかもなかなかよくならずに、だらだらとうつ状態が続く症例が増えている現在、双極性感情障害(躁うつ病)の存在をもう一度見直す必要に迫られていると考えます。
先ほど述べたように「うつ病」と「躁うつ病」とでは治療法が違ってきます。両者の鑑別を早期にすれば、遷延するうつ状態の患者さんを減らすことができるかもしれません。

一時期、「うつ病」の増加に圧倒されて、めっきり姿を消したと思われていた「躁うつ病」が復権した感があります。自称、他称の「うつ」の人々を再検討すれば、かなりの数の「躁うつ病」が発見されるのではないでしょうか。
私も明日から新しい視点で診療に当たりたいと思っています。
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