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クリニック西川

2008年7月

刑事精神鑑定―裁判員制度開始に備えて―

前回のコラムで来年5月から開始される裁判員制度について書き、今回もまた法律に関係したテーマを選びました。これには次のような理由があります。

まず、最近私の担当する患者さんが民事訴訟を起こして、裁判所へ提出する意見書を書く機会が増えてきたことです。さまざまな対人的トラブルを要因として精神的な健康被害を受けることは精神科の診療をしていればごく当たり前に経験するケースです。以前はただその人の治療だけをしていればよかったのですが、最近は相手に対して法的に損害賠償を求める手段をとる方が増えてきたために、裁判資料としての意見書を書くことも仕事に加わりました。日本も段々とアメリカ型の訴訟社会に変化しつつあることを実感します。

2番目には、その流れの中で医療行為に当たっていると、いつ何時医療裁判の被告席に座らされるか分からなくなりました。善意で診療したというだけでは許されない世の中になってきたのです。福島の産科医が、今の医学水準からいって適正な医療行為をしたと思われるのに、不幸な結果に終ったという理由から警察に逮捕されて、刑事訴追を受けるという異常事態にまで到っています。

第3には、成年後見制度が活用されるようになって、刑事訴訟や民事訴訟の際に求められる鑑定に比べればはるかに簡単な家事審判上の鑑定ではありますが、「精神鑑定業務」というものに携わるようになったことです。

第4の理由は、裁判員制度に関して勉強していて、これまでは一開業医である自分とは無縁なことと思っていた刑事訴訟における精神鑑定も、現実的な課題になる可能性があることを知ったことです。

また、私の長男が法曹を志す決心をして、家庭の中で法律に関する話題が自然に増えたことも影響しています。

以上の理由から法に対して関心を深めるようになりました。そうして社会事象や自分の身の回りを見直して見ますと、重大な事件に限らず、今まで何気なく営んできた生活全般が、実は法と密接に関係していることを認識しました。法治国家で生活する以上、全ての行為が法の裏付けなしにはあり得ないということを知りました。しかも医療という特殊な職業従事者は殊更、法を理解している必要があります。さらにその中でも精神科はいろいろな意味でより法律と関係が深い診療科であるということも再認識しました。

それにもかかわらず、我が国の精神医学教育では司法精神医学の分野にはあまり力を注いできませんでした。その結果、その分野に精通している精神科医はごく一握りの人に限られています。私を含めて多くの精神科医が司法に疎いというのが現状です。

そこで改めて精神鑑定、中でも刑事精神鑑定というテーマについて考えてみました。

刑事裁判、特に量刑が死刑になる可能性がある重大な事件では、しばしば被疑者あるいは被告人の責任能力の有無やその程度が問題となって検察官、弁護側の双方から精神鑑定が要請されことがあります。鑑定作業には多大な時間(数か月に及ぶ)と労力を必要とします。皆様も宮崎勤やオウム真理教の麻原彰晃の裁判で精神鑑定のために長期間を費やしたことを覚えていらっしゃると思います。

精神鑑定がなぜ重要視されるかというと、鑑定の結果被疑者あるいは被告人が心神喪失であったと認められれば、犯罪自体が成立しなくなります。犯罪が成立しないわけですから、その人に刑罰を与えることはできません。無罪になります。被告人が心神耗弱であったと認められると、犯罪は成立して被告人に刑罰は与えられますが、量刑は大幅に軽減されます。

最近の風潮はマスコミ、特にテレビのワイドショーによる世論誘導によって「目には目を、歯には歯を」という古代のハンムラビ法典1や旧約聖書2などに見られる同害報復的な考え方に流れています。「殺人などの重大な行為をしたにもかかわらず、無罪にするということは許せない」という考え方が世論になりつつあります。

しかし、こういう考え方の行く先は「仇討」「リンチ」であって、すべての物事を法の支配のもとにおくという近代法治国家の根本原則を揺るがすことになります。感情論に流されず、法律に則って正しい判断をしなければなりません。

ではなぜ違法な行為をしたにもかかわらず、無罪になったり刑が減軽されたりすることが可能になるのでしょう。そもそも犯罪というものが成立してその罪を問うためには次の4つの要件が満たされなければなりません。

   1. 犯人の行為
   2. 被害としての結果
   3. 犯人の行為と被害の結果に因果関係があること
   4. 犯人に結果を生じさせようとする意思(犯罪意識)がある

この4つのうち一つでも欠けていれば犯罪として成立しません。

当たり前と思われるかもしれませんが、実際の事件をこの4つの要件ごとに厳密に吟味しますと、この段階で判断に苦しむ例も少なくありません。このことについては今回は省略させていただきます。

ある行為が以上の4つの要件を満たせば、その行為は犯罪として処罰されることになりますが、例外的な事情によって犯罪の成立が否定される場合があり、犯罪成立の「阻却」と言います。阻却される根拠となる例外的な事情を「阻却事由」と呼びます。

この阻却事由にはその行為が通常犯罪とされ禁止されている行為であっても、特にそれを許す法の規定がある場合にはその禁止が解かれる「違法性阻却事由」と、法的な責任を負う能力がなかったり、違法である事を知ることが不可能であったりして責任を問うことができない「責任阻却事由」とがあります。

医師は他人の身体をメスで切開したり、注射で針を刺して血液を抜いたりします。普通ならば傷害罪(刑法204条)に当たる行為を日常的に行っているにもかかわらず、処罰されません。医師による医療行為が犯罪とされないのは違法性阻却事由によるものです。根拠としては刑法第35条「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」があげられますが、医師法などの法令の中に明確に規定されているわけではありません。このように曖昧さを残しているため、先ほど述べた福島県産科医師逮捕のように、医療の結果次第で不当な司法介入を許す余地を残しているのではないかと思います。

もう一つの阻却事由である責任阻却事由の代表が、自分で行った行為について責任を負うことができる能力がないこと、すなわち責任無能力です。刑法39条1項に「心神喪失者の行為は、罰しない。」と定めてあります。

心神喪失とは精神の障害のために、行為が違法であると認識して、その認識に従って自分の行動をコントロールする能力がない状態を言います。つまり事の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)がないか、または弁識能力はあってもそれに従って行動を制御する能力(行動制御能力)が失われた状態です。

また、事理弁識能力または行動制御能力が失われてはいなくても、著しく減退した状態を心神耗弱とよび、犯罪の成立を阻却する事由にはなりませんが、刑を減軽することになります(刑法第39条2項)。心神耗弱は責任減少事由とされているのです。

私が実際に身近に経験した出来事では、脳外科の手術を受けた後の患者さんが、意識がもうろうとした状況で同室の患者さんを果物ナイフで刺してしまったという事件があります。加害者の患者さんは自分の行為を全く記憶していません。病院に対して管理責任を問うことはできても、この方に傷害の罪を問うことはできないでしょう。このように責任能力の観点から犯罪の成立や量刑を考慮しなければならない事例があるのです。

さて、刑事事件において要請される刑事精神鑑定には刑事訴訟法によって、裁判所の命じる公判鑑定と検察官の判断によって行われる起訴前鑑定とがあります。公判鑑定は起訴後の被告人を対象とした精神鑑定で、起訴前鑑定は起訴前の被疑者を対象とした精神鑑定です。さらに起訴前鑑定は嘱託鑑定と簡易鑑定とがあります。この3種類の精神鑑定について簡単に説明をします。

公判鑑定:裁判官の命令で公判の過程で実施されます。一般的には検察官からではなく、弁護人からの要請を受けて裁判所が命令するという形で行われます。検察官は取り調べの段階で被疑者の責任能力ありと判断して起訴するわけですから検察官からの要請ということは異例なことです。鑑定人は裁判所に召喚され出頭し、起立した上で宣誓を行わなければならない。また、鑑定人は証人として扱われるので、証言の義務を負って、場合によっては証人として喚問されて尋問を受けることがあります。その場合、陳述に虚偽があった場合には偽証罪に問われることになります。このために、進んでこの鑑定業務を引き受けたいと思う精神科医は多くはありません。

起訴前嘱託鑑定:被疑者の同意なしに、検察官の判断で実施される精神鑑定ですが、裁判官の許可が必要で、実際の鑑定業務は公判鑑定とほとんど同じくらいの労力を要求されます。ただし、法的には嘱託鑑定を依頼された者は正式には「検察官の依頼/嘱託による鑑定受託者」と呼ばれ、宣誓の義務はなく、鑑定書は検察官に提出します。ただし、裁判所から鑑定処分許可状が発行されて、要求があれば法廷に出頭して証人喚問されることがあります。

簡易鑑定:検察官は逮捕した被疑者を最長23日間勾留することができます。その間に捜査結果に基づいて起訴するか否かの決定をしなければなりません。この勾留中に検察官の判断で実施される精神鑑定を簡易鑑定と言います。この鑑定には裁判官の許可はいりませんが被疑者の同意が必要です。23日間という拘留期間中に鑑定書を提出しなければならないために診察は通常1回で所要時間も1~3時間程度しかかけられません。わが国では、他の二つの鑑定に比べてこの簡易鑑定の数が非常に多いと言われています。この鑑定で責任能力欠如とされた場合には概ね不起訴となります。しかし、責任能力を認めて、検察が起訴に踏み切った場合には、公判において証人尋問を受ける可能性はあります。

いずれの精神鑑定においても要求される主要な課題は「責任能力の判定」です。この責任能力の判定をめぐって司法精神医学では二つの立場があります。それは「不可知論」と「可知論」です。

「不可知論」は精神障害は人の意志や行動の決定過程にどのように影響するのかを厳密に判定することはできないとする立場です。この立場に立てば、狭義の精神病の診断が下れば自動的に責任無能力とします。一方、「可知論」では精神医学的な診断だけではなく、個々の事例の症状の質や程度、またそれらと行為との因果関係について検討すれば責任能力の程度を判定できると考えます。

従来、日本の司法精神医学関係者の間では、「不可知論」を支持する見解が強かったのですが、向精神薬による治療が可能になり、早期に社会復帰できるようになって、精神病から不治の病というイメージが払拭されてきました。それと並行して精神障害者の責任能力に対する考え方は「可知論」に傾いてきました。

もっとも、裁判所は精神鑑定の結果をそのまま採用するわけではありません。精神鑑定の結果はあくまで司法判断をするための一つの材料であり、最終的な判断を下すのは裁判所であることは言うまでもありません。

我が国の判例の歴史を見ますと、裁判所は戦前から精神障害=心神喪失という不可知論は採用していなかったようです。戦後、不可知論的な判例が多発した時期があったようですが、1984年(昭和59年)最高裁判所第3小法廷における大量殺人を起こした統合失調症者の判決で「被告人が犯行当時精神分裂病を罹患していたからといって、そのことだけで直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく、その責任能力の有・無程度は、被告人の犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様を総合して判定すべきである。」と判示して、可知論的な判断を採用するべきだと明言し、これ以降の司法判断の立場を決定しました。

したがって、鑑定人を受けた精神科医は、単に精神障害の診断を下すだけではなく、犯行前、犯行時、犯行後を通して可知論的な立場から厳密に弁識能力と制御能力を検討する必要があります。

  さて、裁判員制度が開始されますと、前回のコラムで書きましたように、公判前整理手続きの段階で鑑定を請求されるケースが増加すると思われます。現在鑑定業務を担っている数少ない精神科医だけでは要求に応じきれなくなり、私たちのような一般の精神科医にまで要請がくる可能性があります。

  一方で、できる限り短期間で鑑定書を作成することが要求されます。さらに、一般市民にも分かりやすい、平易で簡潔な鑑定書でなければなりません。

  つい最近、最高裁は裁判の長期化を防ぐ目的から、原則として、鑑定は公判に入ってからは行わないようにするほか、鑑定結果が裁判員の判断に必要以上の影響を与えるのを避けるため、責任能力の有無などの結論には踏み込まないように求めるとの方針を発表しました。また、起訴前に検察側が2~3か月かけて公判前鑑定を行った場合は、弁護側から問題が指摘されない限り、起訴後に新たな鑑定を行わないとの方針も打ち出しました。 
来年5月に裁判員制度が実際に開始されたのちに、私たち精神科医がどの程度の影響を受けるのかはいまだ不明確です。しかし、どのような状況になっても対応できるように、日ごろから責任能力という側面に留意しながら診療にあたることを心がけたいと思っています。

裁判員制度スタート間近

平成16年5月28日に公布された「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)」に基づいて裁判員制度が平成21年5月までにスタートします。
「国民の司法参加」と言われているように、裁判が身近で分かりやすいものになり、司法に対する国民の信頼が向上するものと期待されています。また、本制度の導入をにらんで平成17年11月の改正刑事訴訟法で取り入れられた公判前整理手続を活用することによって裁判の迅速化が図られています。
後期高齢者医療制度に関しては実施前の説明がまったくなされていないために大混乱をきたしました。しかし、この裁判員制度に関してはだいぶ以前から国民に向けてさまざまな啓蒙活動が行われてきました。しかしその多くは、この制度の導入の是非を問うことではなく、制度導入は既に決定事項であり、その内容を周知するためのものであったように思います。
ここで改めて裁判員制度のあらましとその問題点について列挙してみたいと思います。

まず述べておかなければならないことは、今後は裁判員として刑事裁判に参加することが原則として日本国籍を持つ成人の新たな義務となるということです。
裁判員の選出方法は各年度ごとに市町村の選挙管理委員会が、衆議院議員の公職選挙人名簿登録者から「くじ」で翌年度の裁判員候補予定者を選定して、「裁判員候補予定者名簿」として各地方裁判所に送付します。
地方裁判所はこの名簿を基に、毎年度、「裁判員候補者名簿」を作成して、その名簿に記載された人へ、その旨を通知します。その際、調査票を送付して就職禁止事由に該当しないか、1年を通じて辞退事由があるかどうか、特定の月に参加することが困難な場合はその月とその理由について調査します。この資料を基に各事件に対する候補者選びの際の参考にします。
そして各事件ごとに呼び出す候補者を、再び「くじ」で選定します。選定された候補者に対しては「質問票」と「呼出状」が送付されます。この通知を受けた人は質問票に回答して裁判所に返送しなければなりません。この質問票では欠落事由、就職禁止事由、事件に関連する不適格事由、辞退事由のあるなしについて質問がなされます。
欠落事由とは義務教育を終了していない者や禁錮以上の刑に処せられた者などです。就職禁止事由とは一定の公務員、法曹など法律関係者、警察官などです。事件に関連する不適格事由とは被告人・被害者の関係者、事件関与者などです。辞退事由とは70歳以上、学生、重要な用務があること、直近の裁判員従事などです。
質問票の回答によって明らかな欠落事由、就職禁止事由、事件に関連する不適格事由があるか、辞退事由が明らかに認められる人以外は呼び出しが取り消されることはありません。
こうなると次は裁判所に呼び出されます。裁判所は非公開で出頭した候補者の中から裁判員と補充裁判員を選任します。質問票に虚偽の記載をした場合には50万円以下の罰金または30万円以下の過料が課せられます。また、呼び出しにもかかわらず、正当な理由なく出頭しないものには10万円以下の過料が課せられることがあります。
裁判長、陪席の裁判官、検察官、被告人または弁護人は出頭した候補者に必要な質問をしてこの回答に基いて選任しないものを決定します。こういった一連の手続きをした上で、裁判所は裁判員と補充裁判員を選任・決定します。
裁判員裁判の対象事件は重大事件に限定されます。具体的には強盗致傷、殺人、現住建造物等放火、強姦致死傷、傷害致死、強制わいせつ致死傷、強盗強姦、強盗致死、覚せい剤取締法違反、危険運転致死などで、平成18年度を例にとって見ると地方裁判所で扱った事件数のおよそ2.9%(3,111件)です。
人数は、原則1つの裁判で裁判官3名、裁判員6名です。場合によっては裁判官1名、裁判員4名のこともあります。こうやって計算すると1年の間に裁判員候補者になる確率は330~660人に1人。実際に裁判員または補充裁判員になる確率は4,000人に1人ということになるそうです。
裁判員の選任手続が終わったら公判に入り、裁判員は裁判官とともに証拠書類・証拠物の検討や、証人尋問、検証、被告人質問などの証拠調べを経て、評議・評決の上、判決に関与します。この際、アメリカの陪審員制度と異なって、有罪、無罪の確定だけではなく、その量刑の決定にまで関与します。

我が国の司法に関する大きな変革であり、国民の国家に対する新たな義務が追加される大きな出来事であるにもかかわらず、制度の導入の是非に関する議論は国民の間ではほとんどなされてきませんでした。新制度ありきを前提に、啓蒙活動が進められてきたからだと思います。
今さらながら、この裁判員制度を検討してみますと、実にさまざまな問題点を抱えています。以下にその諸課題を述べてみます。
1. 参加の強制:やりたくない人までも強制的に参加させることが「意に反する苦役」を課すものとして憲法18条に違反するのではないかという意見があります。意識調査においても「参加したい」(25.6%)、 「参加したくない」(70.0%)と、圧倒的に裁判員になることを望んでいない人のほうが多いのが実情です。また、制度のあり方や事務手続きの進め方、免除事由など多くの点から、戦前の徴兵制度との類似性を指摘されています。
2. 裁判員の匿名性・安全性の確保:裁判員の氏名は被告人や他の裁判員開示されることはないというものの、世間には非合法の情報ルートがあることが現実ですから、法律で禁じられているだけでは絶対に安心とはいえません。また、氏名は知られなくても、顔は見られるわけですから、ある程度社会に顔を露出している人物、例えばタレントなどの参加の場合には匿名性は担保されません。週刊誌の、あるコラムに、「お礼参りが怖いから、裁判員になったら絶対に死刑にしてしまうか、無罪にしてしまおう」という皮肉なコメントが載っていました。あながち冗談では済まされない問題です。
3. 裁判員の秘密保持義務:裁判員は「評議の秘密」と「その他職務上知り得た秘密」について、終生の秘密保持義務を負います。違反した場合には刑事罰が処せられます。たんに「くじ」で選ばれた国民が刑事罰の威嚇の下に「墓場まで持っていく秘密」を背負わされることは過剰な義務であるとの批判があります。また、公判で行われた質疑は公開ですから、そのことについては守秘義務が生じませんが、一般人にはどれが公開でどれが非公開かの判別は困難ではないかと思われます。
4. 裁判員の資質の問題:やる気のない裁判員をどう対処すればよいかも議論されています。海外の同じような制度でも飲酒して裁判に参加したり、審理中に居眠りをするといった事例が問題にされています。そこまでいけば裁判長が解任手続きをすると考えられますが、内心の「やる気」までは判定できません。また、罰則があるとはいえ、買収によって結託して判決が操作される危険性は除去できません。
5. 裁判員の構成の問題:意識調査で分かるとおりに、裁判員に参加したい人
よりも参加したくない人のほうが圧倒的に多いのが実情です。あの手この手で裁判員逃れをする人が出てくることが予想されます。例えば過料(罰金)を払えば呼び出しに応じなくてもすむわけですから、お金を払って裁判員になることを回避する人が現れることは容易に予想されます。
ヨーロッパでは実際に、多忙な社会人は罰金を払って参加を拒否しています。結果として、裁判員は専業主婦と年金生活者が多数を占めるという傾向になります。専業主婦と年金生活者に片寄った裁判員では本来の目的である「一般市民の感覚」を代表できるのかということが問題になります。
6. 休暇および不利益の問題:「労働者が裁判員の職務を行うために休暇をとったことを理由として会社は不利益な扱いをしてはいけない。」と定めてあります。しかし、その休暇および給与の実際の運用については各企業の判断に任せられています。実際に大企業では裁判員制度専用の有給休暇制度の導入も検討されているようですが、従業員の少ない零細企業などでは裁判員で人手をとられてしまうと会社の活動そのものに支障が出てくるところもあります。裁判員の職務のために会社を休んだ場合に、解雇や昇進を遅らされたとしても、その救済は困難なのが現実です。
7. メディアによる判決操作の問題:一般の人は情報操作に対する抵抗力がない上に、感情的になりがちです。したがって今まで以上に裁判におけるメディアの影響力が大きくなる可能性が心配されます。裁判員を完全にメディアから隔離することはできません。
我が国では多数のメディアが一体となって特定の人物を吊るし上げたり、興味本位や感情的な報道に終始することは珍しくありません。1994年の松本サリン事件が代表的な例ですが、つい最近起こった四国の祖母と孫2名が殺害された事件でも危うく無実の人が犯人であるかのようにメディアによって世論操作されるところでした。
一般人の感覚を裁判に取り入れるのが目的だからといって、判決に公正さが失われてしまうことだけは断じてあってはいけないことだと思います。
8. 適用範囲の問題:一般庶民の感覚を取り入れるのが目的ならば、身近な民事事件こそが適当であると思うのですが、本裁判員制度は重大な刑事事件に限定されています。この背景にはアメリカの陪審員制度化においては、アメリカ企業が外国企業と民事事件を争う裁判において陪審員が自国アメリカの企業に有利な判決をくだすことが多いのです。もし日本の裁判員制度で民事事件にまで裁判員制度を採用すると、日本でアメリカの企業が逆の目にあうことが予想されるために、アメリカから刑事事件に限るようにとの要請があったためと言われています。
また、従来から裁判官が雇用者寄りの判決を出しやすいことから、民間感覚を取り入れることを長年要求されてきた労働裁判への裁判員の導入も見送られました。この背景にも経済界(雇用主側)からの根強い反対があったからだといわれています。
私がもっとも裁判員制度が採り入れられるべきだと考えるのは、国民が国家の責任によって被った損害を裁く国家賠償法裁判です。公害による被害、薬害による被害や冤罪による誤認逮捕被害などを被った際に、国民が国家に対して損賠賠償を求めて起こす裁判です。いくら三権分立とは言うものの、現在の仕組みでは国が被告である国を裁くために、国側の完全勝訴率が90%以上です。この国家賠償法裁判ほど国民的な一般感覚を必要としているのではないでしょうか。ところがこの国家賠償法裁判も裁判員制度の対象からははずされています。
結果として、裁判員はもっとも心的負担の大きい重大な刑事事件の裁判にだけ参加させられることになってしまいました。この裁判員制度の適用範囲はとても重大な問題であるのに、ほとんど議論されないままに決定されたように思われます。もし本当に外国や経済界からの圧力によって決められたのだとしたら由々しき問題でしょう。
9. 公判前整理手続の是非:刑事事件で公判前に争点を絞り込む手続のことです。裁判の迅速化を図るために裁判員制度の対象となる刑事裁判は全てこの手続きがなされます。裁判は迅速化されますが、手続き後に被告に有利な証拠や証人が出ても採用が制限されてしまいます。
この問題は実際には裁判員制度導入による問題ではなく、現行の政治訴訟法の問題点です。強制捜査権やその結果得られた証拠などの管理権が裁判上は一方の当事者でしかない検察官に委ねられているからです。日弁連は以前から検察官が所有する証拠の事前、全面開示を要求しています。
10. 最後に精神科医の立場からの心配と予想を述べます。心配なことは以上のように裁判員に選任された国民は多大なストレスを受けます。日常の仕事を休んで、人が人を裁くというきわめて過酷な責務を負わされます。こういう体験から精神的な病が発症することは充分に予想されます。その場合、その精神障害の治療に対して国はどのように責任を果たすのでしょうか。この点についても明快な保障はされていません。

精神科医として関心がある点は最高裁が公判の迅速化のために、公判後の精神鑑定は原則として行わずに公判前鑑定1回だけにするという方針を打ち出したことです。つまり、検察が起訴するか否かを判断する前に行う起訴前鑑定か、起訴と公判開始の間の公判前整理手続中に行われる公判前鑑定かどちらか1回しか行わないことになるようなのです。公判が始まった後では精神鑑定を請求できないことになりますから、念のために公判前鑑定をしておこうと考えて、鑑定の依頼が増える可能性が高いと思います。公判後の鑑定は多くの時間と労力を要するために、とても開業医が引き受けられるものではありませんが、起訴前簡易鑑定は充分な資料さえあれば数回の診察で判定可能です。したがって、件数が多くなると一般の精神科医にも依頼が来るかもしれません。しかし、我が国では司法精神医学に関する教育に力を注いでこなかったために、一般の精神科医では鑑定の質が保証できません。裁判員制度導入は私たち精神科医が早急に司法精神医学を研鑽しなおす必要を迫っているといえます。

以上、実施までに1年を切った裁判員制度の概要と、思いつく問題点について書いてみました。よく考えてみると、さまざまな問題点を内包して、必ずしも国民に歓迎されているとはいえない制度であることが分かります。
本制度の導入が、またもやアメリカからの要望の結果であるとの噂を耳にすると、ますますもってうんざりしてしまいます。

ところで、私のように一人で診療している開業医は辞退できるのでしょうか。おそらくは正当な辞退理由にはならないものと思われます。私自身は司法に関心がないわけではありませんが、患者さんを放り出して数日間臨時休診とすることには正直、ためらいがありますし、人を裁くことへの強い抵抗があります。できるならば、裁判員としてでなく、公判前精神鑑定業務でこの制度に参加したいと思っています。

統合失調症あれこれ(6)―治療の歴史―

1792年にフィリップ・ピネル(Philippe Pinel、1745-1826)がパリ郊外のビセトール病院で、精神障害者を鎖で拘束することをやめさせたことは以前のコラムでも書きました。精神障害者が長くて暗い中世の頸木から解き放たれて、近代精神医学が産声をあげた画期的な出来事です。
しかしながら、精神障害に対する科学的な理解はそう簡単には進展しませんでした。グリージンガー (Wilhelm Griesinger、1817-1868)の「単一精神病」説で代表されるように、精神障害は依然混沌として無差別に「精神病」として扱われていました。
19世紀の後半になるとフランスのモレル、ドイツのヘッケル、カールバウムといった精神科医たちによって、十把一絡げにされていた精神病の中から現在、統合失調症として分類されている一群を分離しようという試みがなされました。
そして、ハイデルベルグ大学教授であったクレッペリンEmil Kraepelin (1856-1926)が、1893年の「精神医学書 Compendium de Psychiatrie」第4版の中で,この一群の精神障害に「早発性痴呆 Dementia Praecox」名前をつけて1つの疾患群として分離しました。またクレッペリンは狭義の精神障害を早発性痴呆と躁うつ病の二つに大きく分類しました。
20世紀に入って、スイスのチューリッヒ大学教授、ブロイラー( Eugen Bleuler 、1857-1939)は、この疾患は必ずしも痴呆状態に到るわけではないことと、この障害が単一の疾患ではなく、幾つかの病態の集まりである「症候群」であると考えました。また、この障害の示す症状の本質は、さまざまな概念と概念との連合(association)がうまくいかなくなることにあると看破して、Schizophrenieということばを作って、病名として提唱しました(1911年)。因みに、Schizoは「分かれる」、「分離する」という意味を持つことばで、phrenieは「心」、「精神」を表わす古いことばです。
これ以降、多くの優秀な精神病理学者によって統合失調症の理解が飛躍的に進捗することになります。しかし一方、精神障害の治療に目を向けてみると、ピネルの後100年以上も科学的な治療法は開発されないままでした。つまり、精神障害に関しては診断はあっても治療はないという時代が長く続いたのです。

ピネルは施設の中で精神障害者に温浴療法を試みて、なんとか社会復帰させようと情熱を傾けましたが、充分な効果はあげられませんでした。ピネルの弟子のエスキロールは「精神科の患者が、騒ぎや騒音を離れて楽しめる静寂と、職場や家族から離れて、以前の不健康な感情から解き放たれることは治療上有益な効果がある」と考えて、施設への隔離を進めました。
こういった施設はアサイラム(Asylum)と呼ばれて、ヨーロッパを中心に爆発的に世界中に広まりました。このアサイラムの中で行われていた治療は規則正しい生活をするという生活行動療法の先駆けのようなものが主体でしたが、会話を通して治療しようという試み、すなわち精神療法も誕生しました。
これといって有効な治療法を見出せないでいた精神科医たちはこぞって精神療法に没頭しましたが、たまたま症状が軽快する例があるといった程度で、真に有効な成果を得られなかったことは言うまでもありません。
有効な治療方法を持たないままに患者を受け入れていたアサライムはやがて「慢性の患者と痴呆患者のためのだだっ広い倉庫」と化してしまいました。つまり、回復して社会復帰する可能性もなく、殺到する入院患者に対して、精神科医たちは圧迫されて、ただ隔離、放置するだけの収容施設へとなってしまったのです。
その間、精神科医たちも会話による精神療法のほかに催眠療法、水治療法、温熱療法、松葉浴などの入浴療法、電気刺激療法、マッサージ、理学療法などいろいろな方法が試行錯誤的に試みてはみました。しかし、その多くは末梢神経を刺激することで中枢神経系の症状の改善を図るものでで、いずれも失敗に終りました。

オーストリアのユリウス・ワーグナー・ヤウレック(Julius Wagner Ritter von Jauregg、1957-1940)は1883年、感染症で発熱した精神病の患者の精神症状が改善したことに興味を持って、以来、発熱によって精神疾患を治療することに取り組みます。丹毒やツベルクリンでの試みは失敗に終りますが、マラリヤ寄生虫接種による発熱によって神経梅毒の治療に成功しました(1917年)。
この発熱療法の業績によってワーグナーは1927年にノーベル生理学・医学賞を授与されますが、この治療法は神経梅毒に対してだけ有効であって、他の多くの精神疾患に広く適用されるものではありませんでした。
その後、阿片、モルヒネ、幻覚剤、覚醒剤、睡眠薬、麻酔薬などが治療に試みられました。この中では睡眠薬や麻酔薬によって数日間眠らせるという持続睡眠療法が一時有望視されましたが、精神症状の改善効果は一過性のものであり、これに対して誤嚥による死亡や薬物耐性などの問題が大きすぎるために、やがて姿を消しました。
ポーランド人精神科医マンフレート・ザーケル(M.J.Sakel)はウィーンでインスリンによって昏睡状態をきたした患者の精神症状が改善することに着目しました。ザーケルは1933年、インスリンを大量投与して、人為的に低血糖ショック状態を引き起こすことによって、統合失調症の興奮状態やうつ病のうつ症状を治療するインスリンショック療法を提唱して、一時は世界中で採用されましたが、死亡例が多すぎるために1950年代には廃れてしまいました。
1934年、ハンガリーのメドゥナ(L.J.Meduna)がカルチアゾールという薬物によって人為的に患者にけいれんを起こさせることによって統合失調症の症状が改善することを報告しました。
けいれん療法が考え出された背景には統合失調症の患者はてんかんになりにくく、てんかんの患者は統合失調症になりにくいという、現在は否定されている考えが基盤になっていました。彼らはこの考えから一歩飛躍して、人工的にてんかんを起こさせれば統合失調症がよくなるのではないかと考えたのです。
やはり同様の理論から、イタリアのツェルレティ(U.Cerletti)とビニ(L.Bini)が頭皮上から100Vの交流電流を通電することによって患者にけいれんを引き起こして、精神症状が改善することを報告しました。統合失調症では幻覚妄想、精神運動興奮が、うつ病でも自殺念慮などの重症のうつ症状が短期間で改善することが分かりました。「電気けいれん療法(electroshock therapy)」の登場です。
この電気けいれん療法はネーミングや見かけのおどろおどろしさとは違って、重篤な副作用も少なく効果発現が早いことから、後で述べる抗精神病薬による薬物治療が登場するまで、精神科治療の一つの柱となりました。薬物治療が主役となった現在でも、改良された「無けいれん電気けいれん療法」が重症のうつ病に対して短期間で治療効果が得られる治療法として確立されています。

1950年、フランスのローヌ・プーラン社(現在サノフィ・アベンティス社)が抗ヒスタミン作用を持つ外科的麻酔薬としてクロルプロマジン(chlorpromazine)を開発しました。当初、抗ヒスタミン作用が弱すぎるとの評価でしたが、1951年にアンリ・ラボリ(Henri Laborit)がこの薬が精神的に落ち着かせる作用があることに気付いて論文に発表しました。
1952年、パリ、サンタンヌ精神病院の医師、ジャン・ドレー(Jean Delay)とピエール・ドニカー(Pierre Deniker)は8名の統合失調症患者に対してこのクロルプロマジンを投与して精神症状が改善することを報告しました。現在の精神科薬物療法の出発点であり、ピネルの業績に匹敵する偉業だと考えます。
その後、類似の構造を持つフェノチアジン系の薬物が次々に開発されて、抗精神病薬あるいは神経遮断薬と呼ばれて統合失調症や躁病の治療に一筋の明るい道が開かれたのです。
さらに1957年ベルギーのヤンセン社のポール・ヤンセン(Paul Janssen)がアンフェタミン(覚醒剤)の運動量昂進に対して拮抗する薬物としてハロペリドール(haloperidol)を開発しました。この薬物はクロルプロマジンとは構造的にまったく異なるブチロフェノン系の薬物ですが、クロルプロマジンに勝る抗妄想、抗幻覚作用を有する抗精神病薬であることが分かりました。
また、1954年にはメプロバメート(meprobamate)、1957年にはディアゼパム(diazepam)といった抗不安薬が、同じく1957年にはMAO阻害薬のイプロニアジド(iproniazid)と三環系抗うつ薬のイミプラミン(imipramine)といった抗うつ作用を持つ薬が発見されました。
このように1950年代に入ってから、精神症状に効果を示す薬物が相次いで発見されて、精神科治療はめざましい発展を遂げることになります。

統合失調症の領域では抗精神病薬の開発は以下の3つの変革をもたらしました。
1. それまでは事実上、ただ収容されていただけであった患者さんに対して、初めて本格的な治療が施されるようになりました。患者さんたちは一生を病院で過ごすのではなく、症状が改善して社会復帰できるようになったのです。入院主体の治療から、外来での通院治療主体へと治療体系の大転換がなされたのです。
2. 統合失調症が脳の障害であるということが再認識されました。それまで統合失調症は、診断はつくものの、これといった決定的治療手段が見つからなかったために、一部の人たちの間で統合失調症は脳の疾患ではないという誤った理解がなされてきました。精神療法家、特に精神分析を行う精神科医を中心に、統合失調症は母親の誤った養育態度が作り出すとか、不幸な社会環境が生み出すといった、心因論的な主張がまかり通っていたのです。
抗精神病薬の普及とそれに伴う患者の劇的な症状改善は、統合失調症が治療可能な神経生物学的な疾患であることを証明し、精神医学を本来の自然科学の世界に引き戻しました。
3. 統合失調症の病因、病態生理の解明に多大な寄与をしました。次々と発見される抗精神病薬の薬理作用を検討すると、共通してシナプス間におけるドパミン遮断作用(正確にはドパミンD2遮断作用)があることが分かりました。このことから統合失調症の発症にドパミンの伝達異常が深く関与しているのではないかと考えられ、ドパミンを中心とした神経伝達物質に関する研究に力が注がれ、数多くの発見が得られるようになり、本疾患の本態解明が実現可能な課題にまで近づきました。

統合失調症は古代ギリシャ時代以降、隔離収容する以外手立てのない、もっとも攻略困難な病気でした。しかし、1950年代以降の精神薬理学的発見によって急速に治療の道が開けました。この50年余りのこの分野における進歩にはめざましいものがあります。
このペースで研究が進めば、近い将来もっと優れた、画期的な治療薬が開発されることが充分に期待できます。さらに、治療するだけではなく、より積極的に発病を予防する薬物の開発も可能だと思います。
私が精神科医になったのがクロルプロマジン開発の後であった幸運にただ感謝するばかりです。

自殺者は減らせるか?―精神科医の限界―

先日、警察庁が平成19年の自殺者数を発表しました。前年より2.9%多い3万3093人で、1978年に統計をとり始めてから、過去最悪であった2003年に次ぎ、2番目に多かったのです。
3万人を上回ったのは10年連続で、このうち60歳以上と30歳代の自殺者は過去最多でした。先進諸国の中で突出した自殺者を減らすべく、国も自殺対策に乗り出したことは過去の私のコラムで書きました。
さて、自殺の原因として注目を浴びているのは「うつ病」です。国もうつ病対策を掲げています。これはこれで意義のあることですが、うつ病という精神障害の治療にだけ力を注げば、本当に自殺者は減るのでしょうか。私はそうは思いません。

精神障害の患者さんの治療は各種薬物療法と精神療法だけでは充分ではありません。その方を取り巻く環境(人的、社会的)をより良い方向へ調整する必要があります。この作業においても精神科医が舵取りをしなければならないことは言うまでもありませんが、精神科医だけでできるものではありません。
環境調整は、家族、職場、友人、地域、行政などたくさんの人や組織の協力があって、初めて可能になります。
うつ病をはじめ、抑うつ状態を呈する方の治療も抗うつ薬と精神療法だけでは解決にはなりません。その人を取り巻く環境の中で悪い影響を与えている因子を取り除いて、その人の本来の力が充分に発揮できるような環境に作り変えてあげなければ、社会復帰は困難ですし、復帰したとしても容易に再発してしまいます。
私は30年以上精神科医療に携わってきましたが、近年薬物療法と精神療法よりも環境を変えることのほうに力を注がなければならない「うつ状態」の患者さんが急増していると感じています。しかも、その環境改善が容易ではなく、社会そのものを変えなければならないと感じる例が増えています。
極端に言えば、山ほど抗うつ薬を処方したって到底治らない。お金をあげるか、まっとうな職を見つけてあげれば、たちどころに改善すると思われる方が少なくありません。職を失い、日常の生活に窮して絶望の淵に立っている人が増えているのです。

小泉政権の頃から、国は景気は回復していると主張してきました。経済動向を示す各種指数から算出した数字の上では、日本経済はきっとバブル崩壊の状態を脱したのかもしれません。しかし、それは生産拠点を人件費の安い海外に移した大企業の収益が好転したからであって、一般庶民の生活とは大きく乖離した発表であると感じていた人は私だけではないはずです。
現実は、多くの企業が中国やベトナムなどに工場を移転したために、国内の工場が閉鎖され、多くの労働者が職を失いました。また、下請けの零細企業も倒産して、そこで働いていた労働者も失職しました。そういう人たちが必死の思いで仕事を探しても正規雇用の仕事にありつけることはめったにありません。なんとかたどり着く先は派遣社員です。また、30歳以上の人たちは派遣の仕事にさえありつくことが困難です。
派遣社員がいかに低賃金で過酷な仕事を強いられて、保障が不安定であるかは、近頃やっと廃業に追い込まれたグッドウィルにまつわる多くの報道で皆の知るところとなりました。しかし、極悪な人材派遣会社は折口のグッドウィルだけではありません。ほとんどの人材派遣会社は似たりよったりです。
人材派遣業というもの自体が、自分は働かず人間を右から左へと動かすだけで金をもうけるヤクザな商売です。つきつめて言えば「人身売買」で金儲けする昔の女衒 となんら変わりはないのです。
因みに、人身売買のヤクザな稼業が人材派遣業などと名のって羽振りを利かせるようになったのも小泉の節操のない規制緩和の賜物です。
このように搾取されて低賃金で働く労働者たちを餌食にしてさらに金を搾り取る輩が、これも国の後押しで急成長しました。キャッシングなどというカタカナ造語でごまかした高利貸し、すなわちサラ金です。
借りる人の自己責任と言えばその通りですが、低所得で将来に希望が持てない人をさまざまな媒体を通じてあの手この手で誘惑すれば、ついついローンやキャッシングに手を出してしまうことも納得できます。
こうなると、不安定で少ない収入の中から高利の返済をしなければならなくなります。地獄の始まりです。若い年齢層の自殺にはこういった背景が深く関与していると思います。
最近、インターネットの掲示板で、秋葉原の無差別殺人の容疑者、加藤智大を絶賛する書き込みが増えていると聞きます。彼を小泉が作り出した格差社会の負け組みのヒーローとして讃えているのです。
常識的に考えれば唾棄すべき極悪な犯罪者を英雄視する若者がこれほど多くいるということはきわめて不気味な現象です。しかし、健全で常識的な感覚を持ち合わせていない精神的に異常な若者が多いと考えるよりも、そのような考えに至らざるを得ないほど不遇で追い込まれた若者が多数存在すると解釈する必要があるのではないでしょうか。不健全な社会が人の心を病ませているのです。
高齢者を取り巻く環境は若者以上に劣悪です。企業の利益追求の目的で早期退職を強いられ、その後得られる年金は雀の涙。年金収入だけでその後待ち受けると思われる病気対する医療費や介護費用に備えた上で、なおかつ文化的な生活をできる人なんてほとんどいません。
さらに鞭打つように国は小泉以来、「聖域なき財政再建」と称して社会保障費をどんどん削ってきました。60歳以上の一般庶民に希望を持てといっても不可能なのが現実です。

小泉、竹中は競争社会こそ努力したものが報われる、健全で活気のある社会を生み出すと言っていました。現在の多くの日本人の日々の生活、精神的な健康状態を直視して、彼らが言っていたことが正しいといえるでしょうか。
今でも一部の富裕層は存在します。いわゆる「勝ち組」です。この「勝ち組」の中には人の何倍も努力している人がいることは確かです。しかし、先ほど述べた人身売買や高利貸しに代表されるように、労せずピンはねをすることによって人々から金を搾取する、こずる賢い輩も少なくありません。
努力しても報われず、「負け組」から這い出せない人の数は確実に増えています。多くの国民は今日の生活に困り、明日にまったく希望が持てないのです。自殺者の異常な数は現在の我が国の国民のおかれている現実を正直に反映しているのでないでしょうか。
このように過酷な生活を強いられている国民にさらなる試練が追い討ちをかけてきました。数字上でもごまかせなくなった経済不況、原油価格の高騰、食糧価格の高騰です。それにもかかわらず、政府は「骨太の政策を堅持する」といって、社会保障費の削減方針を変えようとはしません。これまで社会を支えてきた老人に対しては後期高齢者医療制度を強引に発進。職を失って最低限の生活をしている生活保護者に対しては保護費の減額。
減ることはあっても増える可能性のない収入なのに、生きていくために最低限必要な支出は増えていきます。
今の状況は精神障害でなくても、生きていくことが困難な人たちをますます増やしていきます。このままでは自殺者はさらに増加することは確実です。精神科医の尻を叩いて自殺者を減らせと言っても不可能なのです。
本当の精神障害の症状に基く自殺者数は時代によって大きく変わるものではありません。ですから、健全で、明日に希望がもてる社会になれば、自殺者数は自然と減少すると思います。

国は異常な数の自殺者を精神障害によるものとしてごまかさず、不健全な社会が生み出した自殺者が少なくないことを素直に認めるべきです。そして真の自殺者対策は精神障害者対策ではなく、健全な国家社会運営にこそあると認識すべきです。
国家の主体である国民を死に追いやる状態を看過しておくことは、日本国そのものが自殺への道をひた走ることです。国民なくして国家はないのですから。
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