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クリニック西川

2008年11月

「救急患者受け入れ拒否」報道の誤謬を正す

マスメディアは医療の分野に関する報道において、ここ数十年来の論調をころりと変えました。すなわち、これまでは行政に同調して医療者に対する攻撃ばかりであったのに、最近は国策による医療体制の崩壊と、そしてこの医療崩壊による被害者が受療者のみならず医療者も含まれることも論及するようになりました。
さて、国の誤った医療政策を象徴する題材として産科救急患者の受け入れ拒否にともなう患者のタライ回しが取り上げられます。このテーマに関する報道や論評の中で「医師不足」「医師の過酷なる労働環境」についてやっと触れてくれるようになりました。しかし、タイトルはあくまでも「救急患者受け入れ拒否」、「患者のタライ回し」です。

「拒否」とは、要求・希望を承諾せずにはねつけることです。この言葉には「できるにもかかわらず断る」というニュアンスがありますから、医療の現状を正しい理解に導きません。本来は診療できるのに、面倒くさいから、あるいは疲れるからという理由で断ったかのように誤解されかねないからです。
確かに、かなり以前には一部の怠慢な医師によって、診療できるのに受け入れを拒否して、患者さんをタライ回しにした例もなかったわけではありません。そういう例についての批判が相次いで、何時の間にか患者さんの診療を断る理由をきちんと検証せずに、すべて医療者側の責任として報道してきたのです。
ところが現在病院が直面している状況はまったく違っています。診たくても、診ることが不能なのです。苦渋の「断念」をしているのです。
当直医は救急患者さんを待っていることだけが仕事ではありません。すでに入院している患者さん(入院を必要としているのですから軽症であるはずがありません)の夜間対応や病状急変時の対応がなによりも重大な職務です。その上で救急患者さんの診療にあたっているのです。
救急に限らず、患者さんにとっては自分が全てです。しかし、医師はその方だけを診るわけではないのです。すでにベッド上で苦しんでいる方、苦しみながら待合室で待機している方、そして病院を探している患者さん。すべての方に対応しなければならないのです。
もし目を離すことができないほど重症の患者さんの治療にあたっている時に、新たに重症の救急患者さんを受け入れることが責任ある医師の行為でしょうか。身体は一つしかないのですから、安易に受け入れた場合にはどちらかの患者さん、または両方への対応がおろそかになります。そうなれば不幸な結果を一つ、いやもしかすると二つも招くことになるかもしれないのです。
また、自分は救急患者さんを診ることができる状況にあったとしても、病状に対応できる設備(ベッド、医療機器等)が確保できなければ受け入れることはできません。人的資源と物理的資源の両方が満たされて初めて、患者さんが期待する高度な救急医療が可能なのです。

現在もっとも問題となっている周産期の救急医療の場合には特に、産科医の確保だけではなく、受け入れ設備の確保もネックになっています。つまり妊婦の治療設備だけではなく、出産する可能性のある胎児に対する治療設備も確保しなければならないからです。すなわち、新生児集中治療室(NICU)*1に空きベッドがないと受け入れるわけにはいきません。
11月2日の読売新聞に、同紙が全国75ヵ所の「総合周産期母子医療センター」に対して行った調査結果を載せていました。その結果によれば、「救急要請を断る場合がある」と回答した26ヶ所のセンターの断る理由で一番多かったのが「NICUが満床の場合」でした。
NICUの整備は1996年から始まり、現在全国で2,309床あります。しかし、不妊治療による多胎妊娠の増加や未受診妊婦の増加などによって、NICUを必要とする超低出生体重児*2が年々増加して整備を上回る勢いで需要が増加しています。超低出生体重児は1990年の2051件から2005年の3037件へと、この15年間で1.5倍になっています。これだけでもNICUは1000床ほど不足しています。
この不足の理由の一つは、国がNICUに正当な診療対価を支払わないことがあります。現在の診療報酬体系では、厳しい設置基準*3を満たすNICUを増やせば増やすほど病院は赤字になって病院経営が成り立たなくなります。国はNICU増設の掛け声ばかりで、それに対する保証をしていないのです。医療者の自己犠牲の上に胡坐をかいている医療行政の典型例です。
さらに、ベッドを増設しても、そこに長期間入院し続けている赤ちゃんが多数いるために、新たに受け入れをできる有効なNICU数はもっと少なくなってしまっているのです。本来、超低出生体重児はNICUで数週間から3カ月程度集中治療を行った後には後方病床(継続保育室)に転床するのですが、この後方病床が不足しているために転床できないで、NICUに数年居続ける赤ちゃんが増えてきています。
出生時1000人に対して3床のNICUが必要であるとされていますが、現在この条件を満たしているのは全国で9県にすぎません。その他の都道府県は受け入れ設備自体が不足しているのです。

しかしなんと言っても、全国的な産科医不足が一番深刻な問題です。なぜならば、施設や機器はお金さえかければ短期間で増設することができますが、経験を積んだ産科医を育てるには10年以上の年月が必要だからです。
厚労省が行った最新の調査結果によると全国で産科の常勤医師数は882名、非常勤医師数が148名でした。非常勤医師は名前の通り非常勤であって、いつでもお産に対応できるわけではありません。実質1,000名に届かない産科医によって年間111万件ほどのわが国の産科医療は成り立っているのです。
単純に割り算をしても一人の産科医が年間120件以上の出産に携わっていることになります。一般の中にはこの数字を「大したことはないな」と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、産科医にとんでもない過労を強いている数字です。
産科医の業務は出産を取り扱うだけではありません。多くは婦人科も担当する産婦人科医ですから、日々婦人科の診療にも当たっています。また、産科の仕事は妊娠から出産までの妊娠管理も大切です。新生児科医が配備されていない病院では、出生後の新生児の健康管理や治療も業務範囲です。
昼間は朝から産婦人科の外来診療と出産や手術に携わり、夜間も受け持ちの産婦の分娩に当たる日々です(どういうわけか出産は夜間に多い)。当直医でなくてもほぼ24時間勤務を強いられることが多いのです。そこへ当直となれば高度の医療を要求される救急患者が運ばれてきます。現在の我が国の産科医たちは体力の限界ぎりぎりの生活をしているのです。
そこへ持ってきて、大野病院事件のように理不尽な刑事告発です。過酷な生活を「先生どうもありがとうございます」の一言に勇気づけられて頑張ってきた産科医たちの誇りを踏みにじる出来事でした。産科医療をやっとの思いで死守してきた産科医たちが一斉に産科医療から撤収したくなる心情は十二分に理解できるものです。
国は産科医療崩壊に対して、産科医療の保険点数をわずかに増加させることによって、医師を産科医療に呼び戻そうという、相も変らぬ官僚特有の机上理論で乗り切ろうとしています。馬の顔先にニンジンをぶら下げるやり方です。
「我々医師を馬鹿にするな」と声を大にしたい。保険点数の増加は当然のことですが、厚労省が提示しているような少額では、いつ倒産しても不思議ではない全国の病院にとっては焼け石に水です。
国民に高度医療を提供しろというならば、営利とは相いれない医療の世界に医療経済学などという本末転倒の理論を持ち込んだ根本的な非を認めて、社会保障の本来あるべき姿に立ち戻らせることから始めなければいけません。

一般の方はあまりご存じないようですが、私たち医師という職業は産科に限らず、労働基準法から除外されています。看護師や事務職員と違って、当直をしたからといって翌日が代休になることはありません。連続36時間勤務や48時間勤務が当たり前とされてきました。
眠たい目を擦りながら、外来診療をしたり手術に臨む。それが当たり前とされ、医師たちも声をあげて抗議してきませんでした。それは医療の原点は社会奉仕にあると叩き込まれてきたからです。医師が少数派で声が小さいことにつけこんで、国は長年にわたって私たち医師を先進諸国の中でも群を抜いて安い医療費でこき使うだけこき使い、世界でトップ水準の医療を提供させてきました。
飽くことを知らぬ厚労省は、自分たちは年金をはじめありとあらゆる利権を食い尽くす一方で、本当に必要な医療に纏わる国家支出をさらに削減するために医療者に対するネガティブキャンペーンを張り続けてきたのです。
「医師は儲けすぎている。」「医師はサラリーマンに比べて高所得すぎる。」「医師はさぼりたいために救急患者をタライ回ししている。」等々です。医療者を一般国民の敵役に仕立てて、医療費削減を円滑に進めようとしたのです。こういった国の悪だくみに果たしたマスコミの役割も小さくありません。A新聞などは医師の不祥事さえ書けば発行部数が伸びると考えたのでしょうか、公正な報道とは程遠い医師に対するバッシングを繰り返してきました。
国民も見事にこのキャンペーンに乗せられました。風邪で診療を受けても「ありがとうございました」という、従来のごく素朴な医療に対する感謝の念はいつの間にか消え失せました。医師は金儲け第一主義の輩であると考える人が増えてしまいました。
確かに、いつの時代、どの集団にも必ず不心得者はいるものですが、「窮すれば濫する」のたとえのごとく、自ら医師の尊厳をかなぐり捨てて医療商人になり下がった連中が増えてきているのも事実です。苦しい時期であるからこそ、私たち医師も反省・自戒しなければならないと思います。

さらに、医療そのものに対する理解も誤った方向へ変化してしまったようです。高度の医療を受けられることが当たり前の権利だと思うようになってしまいました。専門家から見れば、難治で治癒する確率が低い疾患でも、「治癒例があるのだから自分も治って当たり前。治らないのはその医師の技量が低いか、真剣でないのだ。」と考える方も少なくないようです。こういった風潮の象徴的な出来事が「大野病院事件」です。
この事件はちょうど国民が最も危機を感じている産科を舞台にしていました。そういう背景があったために、無罪判決が分水嶺となって、世論の風向きに変化をきたすことになりました。
遅きに失した感はありますが、現場医師の労働環境にもスポットライトが当てられるようになり、国がこれまで行ってきた無定見な医療点数の削減や新臨床研修制度*4による甚大な弊害についての論述もなされるようになりました。 しかしマスコミからは、これまで国のお先棒を担いで少数派である医療者を徹底的に悪者に仕立てて攻撃してきた、自らの誤りに対して反省の言葉はありません。それどころか、産科救急医療の悲惨な現状を伝える報道において、未だに「受け入れ拒否」とか「タライ回し」という文言を使っています。
「タライ回し」とは足で盥を回す曲芸から、一つの物事を、責任をもって処理せずに次々と送りまわすことです。現在の救急医療現場は積み重なった多くの要因によって盥を回すために必要な足そのものをもがれた状態です。

壊滅的に保険診療点数を下げられた医療機関は、経営維持のために1例でも多くの診療を行い、収入を得たいのです。診療可能であるのに断る病院など稀有であろうと考えます。
繰り返して述べますが、現在の救急医療において起こっている悲惨な出来事は、決して「受け入れ拒否」ではなく、「受け入れ断念」なのです。この点を明確に表現しない限り、我が国が直面している医療崩壊の実体が正しく認識されず、またもや医療者に責任を押し付けて、正しい政策転換を困難にさせてしまうと考えます。
言論人はぜひとも言葉を吟味して正しく使っていただきたいものです。
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*1新生児特定集中治療室(Neonatal Intensive Care Unit):超低出生体重児、低出生体重児や疾患のある新生児を集中的に管理、治療する部門。常時医師が勤務して、当直が他部門と兼任ではないことバイオクリーンルームであることなどが求められている。このために現在の診療報酬ではNICUは採算がとれず赤字となり、病院経営を圧迫する。
*2超低出生体重児:出生時の体重が2,500g未満の新生児を低出生体重児(Low Birth Weight Infant ; LBWI)と呼ぶ。さらに1,500g未満を極低出生体重児(Very Low Birth Weight Infant ; VLBWI)、1,000g未満の場合を超低出生体重児(Extremely Low Birth Weight Infant ; ELBWI)と分類する。昔は極低出生体重児を獄小未熟児、超低出生体重児を超未熟児と呼んでいた。
*3NICUは他の診療科と兼任をしない専任の医師、看護師などの医療スタッフ、患者一人当たりの専有面積、高度医療機器、バイオクリーンルームであることなどの厳しい設置基準があるために、その設置は病院にとって大きな経済的負担となる。
*4新臨床研修制度:2004年4月にスタートした臨床研修制度。プライマリ・ケアを中心とした幅広い診療能力の習得を目的として2年間履修することを義務付けている。マッチング制度というお見合い方式を取り入れたために、研修医は研修先を自由に選択できるようになった。その結果、研修医が都市部に集中し、地方の医師数が激減した。さらに研修医のアルバイトが禁止されたために、全国の病院で夜間および休日の当直医の確保が困難となった。また、大学付属病院から研修医が激減したために、大学病院が人手確保のために、それまで関連病院に派遣していた医師を引き上げたために、人口過疎地の病院が医師不在になり、閉院せざるを得なくなった。このために地方で無医村地域が激増している。

教養を問われる総理大臣

「頻繁」:「ひんぱん」しきりであること。ひっきりなしに行われること。「踏襲」:「とうしゅう」前人のあとをそのまま受けつぐこと。「未曽有」:「みぞう」いまだかって起こったことがないこと。「詳細」:「しょうさい」くわしくこまかいこと。

さほど難解とは思えない4つの熟語を正しく読めない人がいます。現職の日本国総理大臣、麻生太郎さんです。彼によれば「頻繁」は「はんざつ」、「踏襲」は「ふしゅう」、「未曽有」は「みぞうゆう」、「詳細」は「ようさい」と読むようです。

最近の若者は国語力の低下を指摘されていますので、試しに大学生の息子と娘に尋ねてみたところ4問とも正しい読みをしました。息子は「俺を馬鹿にしているのか」と憤慨してしまいました。

肝心の麻生総理は記者から誤読に関しての質問をされると「あっ、そう、それは単なる読み違い、もしくは勘違い、はい!」と言って不機嫌に会見を打ち切ってしまいました。メディアも面白がって報道しますが、概ね「字を読み間違えることは些細なことであって、肝心なのは政策である。」という姿勢です。

確かに字を読み間違えることは誰でもありますし、そういったミスの一つ一つをあげつらって人を揶揄することは、揶揄する側の人格や品性を疑われかねません。些細な読み違いとしておいたほうが無難なのかもしれません。

しかし私はそうは思いません。彼の言い間違いは、たまたまで済ませられる頻度ではありませんし、「頻繁」を「はんざつ」とした誤りは単なる読み違いではなく、言葉の意味を理解していないとしか思えないからです。つまりケアレスミスではなく、国語力が著しく劣っていると考えられます。国のリーダーである総理大臣が、自国の言葉を正しく使えないということは忌々しき問題です。

例えば、麻生総理が母校、学習院大学で開催された日中関連イベントで「日中首脳の交流が頻繁に行われている」と述べるはずのところを「日中首脳の交流が煩雑に行われている」とスピーチした件などは、単なる言い間違いではすまされません。煩雑とは「わずらわしくごたごたすること」をいう意味です。2国間の交流に対してネガティブな感情を抱いていることになります。中国に対して大変無礼な話です。

言葉の意味を理解している人が単に言い間違えたならば、気付いた段階で顔色を青くして謝罪と訂正を述べるはずです。漢字一字の使い方が一国の存亡を分けるという事例は、徳川家康に滅ぼされた豊臣家*1を筆頭に、我が国だけでなく中国の歴史の中にも数多く見られるのです。ところが涼しい顔をしているということは、頻繁と煩雑という語の意味の違いをまったく理解していないことを証明しています。

麻生さんは漫画愛読者を自称していますが、これは票目当ての目的で若者におもねって、ことさら強調しているのだろうと思っていました。しかし一連の国語力欠落のエピソードを知った今、これは私の大きな誤解であったと言わざるをえません。彼は本当に漫画しか読んでいないのでしょう。漫画しか読めないのかもしれません。なぜならば、日常的にそれなりの書籍を読んでいるのならば、あれほど稚拙な間違いをするはずがありません。

世間は麻生さんが連日のように高級レストランや高級ホテルのバーで飲食することに対して「庶民感覚に欠ける」との非難を浴びせています。しかし、彼がどんな所でいくら払って飲食しようが、そんなことはどうでもよいと思うのです。むしろ金のある人がどんどん金を使うということは経済を活性化するためにはとてもよいことだと思います。

国のリーダーが一般庶民の生活実態を知る必要はありますが、何も庶民と同じものを食べ、同じものを飲まなければならないとは思いません。それよりも大事なのは、国を正しい方向に舵取りして庶民の生活をよりよくするために、高い教養を基に熟慮して、ぶれずに行動することです。

このうち思考能力と行動力は生まれつきの資質に由来するところが大きいのでいかんともしがたいのでしょうが、教養は努力によって向上します。総理大臣ともなると政務に追われて自分の時間はごく限られてしまうと思います。その貴重な時間をおじいさんの真似をして葉巻を片手にホテルのバーで飲むのも、少年ジャンプを読んで過ごすのも結構ですが、せめて大学生レベルの教養を身につける勉強にも少しは当てていただきたいものです。庶民感覚は実感できなくても、有能なお殿様宰相であればまだしも、庶民感覚に疎い馬鹿殿様では箸にも棒にもかからないのです。

私は以前のコラムで総理大臣に求められる資質の一つとして「圧倒的な教養」と書きました。中でも高い国語力は必須です。なぜならば思考とは頭の中の言語で行われる作業です。語彙が乏しくて国語力が弱い人の思考は貧困にならざるを得ません。

豊富な知識と優れた思考能力の持ち主の思いつきやひらめきはノーベル賞級の発見や発明を生みますが、両者を欠く人間の思いつきは傍迷惑な騒動を生み出すことがほとんどです。今、全国を混乱に陥れている定額給付金などは愚者のひらめきの典型例ではないでしょうか。

国策でありながら具体的な判断や作業を市区町村にまる投げするという前代未聞の愚策に対する批判に対しても、「地方分権だからいいんじゃないの?」と意味不明のコメントをする始末。今回の政策は地方への責任の押しつけであり、権限の移譲ではありません。ここでも分権という言葉の意味を理解していないことが明らかになりました。痴呆露見です。

票集めのために税金をばらまくという思惑が露骨に見えてしまうこの定額給付金、私自身はいったい何に使おうかと思案しました。その結果、私は全額を野党候補への政治献金に当てることに決めました。

おためごかしの大義名分ではありますが、この定額給付金の目的は、悪化している経済の活性化と生活困窮者への社会福祉であったはずです。この両方の目的を達成するためには、一刻も早く知恵遅れ政権に退場していただくことが必要ですから、野党への政治献金は定額給付金の本来の目的にかなった最善の使途ではないかと考えます。

小泉退場の後、日替わり弁当のように登場する内閣は次々と国民の期待を裏切ってきました。現麻生総理大臣に至っては濫竿充数*2のたとえがふさわしい状態です。ますます憂国の念が増すばかりですが、私は我が国民の底力を信じます。伏竜鳳雛*3、1億2千万人の国民の中には必ずや有能な指導者としての資質を備えた者がいるはずです。

最近、麻生さんや田母神前空幕長のように、虚勢を張って自分を豪放磊落に偽装する人物がもてはやされる風潮が見られます。大変危険な社会現象です。

見せかけの器や威勢の良さに惑わされることなく、真にリーダーシップのある指導者を見つけ出し、育てていくことが私たち国民の急務であると思います。
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*1方広寺鐘銘事件:慶長19年(1614年)春、豊臣家が再建していた京都、方広寺の梵鐘の銘文の中に「国家安康」、「君臣豊楽」という文言があった。これに対して徳川は家康の名前を分断して、豊臣家の繁栄を願い、徳川家を呪詛する意味があるとして、豊臣家攻撃の材料にした。これをきっかけに両家の関係は一層険悪となり、その年の11月、大阪冬の陣に突入する。
*2濫竿充数(らんうじゅうすう):中国の故事に由来する。実際には能力のない者が、いかにも才能があるかのように振る舞い、分不相応の地位に居座って能力以上の待遇を受けること。
*3伏竜鳳雛(ふくりょうほうすう):中国「蜀志」より出典の言葉。才能がありながら機会に恵まれず、力を発揮できない者、まだ世に隠れている優れた人物のたとえ。
※最後の段落は敢えて難しい熟語を使ってみました。

レセプター(受容体《receptor》)

先日ある方から、私のコラムの中で精神医学の話は教科書的で読みづらいというお叱りを受けました。そう言われて、改めて過去の医学コラムを読みなおしてみますと、確かに一般の方には難解かなと感じました。
現在妥当であると考えられている知見をできるだけ正確に伝えようと考えると、あまり面白おかしく書くことができないのだからやむを得ないかなとも思いましたが、よく考えるとそれだけではありませんでした。拙文をさらに読み難くしている元凶は私の一人合点にあると気付いたのです。
つまり、一般の方には耳慣れない言葉を、自分では周知の事実であるとの前提で話を進めているために、医学生向けの教科書のような文になってしまったようです。こういう傾向は自分の専門分野になればなるほど顕著になりがちです。
そこでこれからはup-to-dateな話題だけではなく、医学用語の解説を時々書いてみることにしました。今回はその一回目です。これまでのコラムにも盛んに登場したレセプターというものを説明してみましょう。
レセプターあるいはリセプターは医学の世界では3つの次元で使われています。まず第1は器官(organ)のレベルです。すなわち外界や体内からの刺激を感知する器官のことをレセプターといいます。日本語では受容器とも言います。たとえば視覚情報の場合には眼球の網膜がレセプターです。
第2のレベルは細胞レベルです。刺激の受容器官の中で内外の刺激に反応する細胞がレセプターです。日本語では受容細胞とも呼びます。先ほどの視覚を例にとれば、網膜にある視細胞(錐状体、杆状体)がレセプターに当たります。
最後は分子レベルで使われるレセプターです。これは各受容細胞の構造上、刺激を感受して、それを細胞全体にシグナルとして知らせる分子およびその複合体のことをレセプターといいます。視覚の場合には視細胞に存在するロドプシンやヨドプシンという物質が光受容体です。
このようにレセプターというと厳密にはどのレベルにおけるレセプターなのかが問題となりますが、現在はただ単にレセプターと言った場合には通常、第3のレベルである細胞膜、細胞質あるいは核内にある分子構造を指します。
また、レセプターは内外すべての刺激に対応して存在しますが、現在もっとも研究が進んでいて、頻繁に話題になるのは神経伝達物質(neurotransmitter)や内分泌(hormone)などの特異的な物質(リガンド)を感知して、シグナルとして細胞の状態を変化させる化学的レセプターです。
私の専門である神経科学で問題となる、神経と神経の間のシナプスや神経と各種臓器の間のシナプスにおける化学的神経伝達物質と反応するレセプターは細胞膜を貫通するタンパク質でできていて、細胞膜の中に埋もれています。
レセプターは反応する物質が決まっています。どんな物質にも反応するレセプターというものはありません。反応する相手によってドパミンレセプター(D受容体)とかセロトニンレセプター(5TH受容体)と呼ばれます。
最近はそれぞれのグループがさらに幾つものサブタイプに分けられるようになりました。例えば、現在のところドパミン受容体はD1、D2,D3,D4,D5受容体といった5種類あることが知られています。それぞれ特異的に対応するリガンドがあります。
レセプターの最大の特徴はこの「特異性」という性質です。特定のリガンドとしか結合して反応しないのです。この特異性はそれぞれの分子構造の違いによって生まれます。周囲にどんなにいろいろな物質がたくさん存在していても、自分の形に当てはまる構造をした物質でないと、そのレセプターにとりつくことができません。
この特異性を説明するために昔から「鍵と鍵穴」が喩えられてきました。

(東北大学大学院医学研究科薬理学講座 薬理学演習より引用)

上の図はGABA受容体に生理的に生体内に存在するGABAの他に、ベンゾディアゼピン(benzodiazepine)、バルビツール酸(barbiturate)、ピクロトキシン(picrotoxin)といった薬物が結合する様子を模式化したものです。
鍵穴にあたるレセプターは自分の形とピッタリと合致する形をした物質しか受け付けません。実際には化学区的な構造式の一部分がお互いに適合することによって結合の度合い(親和性)が決まるのです。 生体内で生理的にレセプターに結合してその細胞に作用(興奮または抑制)する神経伝達物質やホルモンなどがリガンドであるということになります。
リガンド(マスターキー)と似た構造式(鍵の特徴)を持っている物質は、本来のリガンドでなくてもレセプターに結合することができます。合鍵みたいなものです。そういう物質が薬として合成されるわけです。
この合鍵に相当する物質の中で、結合することによって細胞に本来のリガンドと同様の変化をもたらす物質をアゴニスト(作動薬)と言います。これに対して結合するだけで細胞に変化をもたらさない物質をアンタゴニスト(拮抗物質あるいは拮抗薬あるいは遮断薬)と呼びます。
椅子取りゲームをご想像ください。アンタゴニストを加えると、レセプターにとりついて鍵穴を占拠してしまうために本来のリガンドが結合する余地がなくなってしまうために、そのレセプターを介する機能が低下します。
結合といっても、レセプターとリガンド、アゴニスト、アンタゴニストとの結合は、一度くっついたら離れないのではありません。くっついては離れ、くっついては離れを繰り返しているのです(動的平衡状態)。ですからアンタゴニストを適用したとしてもリガンドの作用が全く遮断されるわけではありません。作用の確率が減少するだけです。
また、化学物質の中にはレセプターに結合して一部はアンタゴニストとして働くが、一部はアゴニストの作用も持っているというものもあって、実際にはとても複雑ですが、これ以上は専門的すぎますので省略させていただきます。

今後レセプターとかアンタゴニストとかいった言葉が出てきたならば、「鍵と鍵穴」を思い浮かべてください。神経伝達の状態がイメージしやすくなると思います。

原始のスープ

地球のことを水の惑星と呼びます。これほど大量のH2Oが液体の形で存在する星は地球以外に見当たらないからです。
古代ギリシャ時代、アリスタルコスは太陽の周りを水星、金星、地球、火星、木星が公転している(当時はまだ土星、天王星、海王星は発見されていなかった)という地動説を唱えました。しかし一般には彼の説は受け入れられず、エウドクソスやプトレマイオスの唱えた、地球が宇宙の中心であるという天動説が以降1800年間主流をなしてきました。
ようやく16世紀に入ってコペルニクスが天動説を打ち出し、その後のガリレオ・ガリレイやケプラーらの働きによって、地球は宇宙の中心の座を太陽に明け渡すことになります。
ところが、太陽の王座もそう長い期間ではありませんでした。18世紀になるとハーシェルが、それまで夜空を彩る背景と思われていた銀河系の構造を明らかにして、太陽も銀河に所属する数多くの星のひとつにすぎないことを示しました。
20世紀に入ってから宇宙物理学や天文学の急速に進歩します。現在考えられている宇宙像では銀河は少なくとも1000億個以上存在すると考えられます。私たちの所属する銀河は直径約10万光年の渦巻き型の銀河でおよそ2000億個の恒星で構成されています。太陽はその銀河系の中心から約28,000光年の位置にあって約2億2600光年の周期で公転していると考えられています。
銀河中心にはブラックホールが存在し、その近傍は恒星が密集しています。ここを都心部に例えると、太陽はちょっと外れた郊外に位置するどこといって特徴のないごくありふれた恒星であることが分かりました。
地球はその太陽を中心に平均半径1億5000万km、公転周期365.26日の楕円軌道で公転する惑星です。23度強の傾斜角で傾いた自転軸で23.93時間の周期で自転しています。この太陽からの距離、地軸の傾き、質量、オゾン層、自転によって作られるバンアレン帯などの絶妙のバランスが地球に豊かな水を蓄えさせてくれているのです。
地球は46億年前に原始太陽が生まれた際に太陽の周りに作られたガス円盤の中のダスト微粒子が集合してできた微惑星が衝突を繰り返しながら大きくなってできたと考えられます。火星くらいまでの軌道内だと太陽の重力の影響で岩石型の惑星になります。しかしそれ以上遠いところを回転する惑星だと太陽の重力の影響を受けにくいので巨大なガス型の惑星になり液体の水を纏うことは困難です。
岩石型の惑星でも水星や金星のように太陽に近くて質量が小さいと水は蒸発して逃げ出してしまいます。火星も質量が小さすぎて水を保持しておくだけの引力が発生せず、極冠にわずかに氷の形で残っているだけと考えられています。
地球の表面の約70%は水で覆われています。その量は14億km3にも及びます。私たちはずっと長いこと、自分たちの住む星が多くの好運に恵まれた、類稀なる星であることを実感しませんでした。地球が水の惑星であることを初めて直視したのは1961年に人類初の宇宙飛行をしたガガーリンでしょう。彼は「地球は青かった。」という有名な言葉を残しています。今では私たちもスペースシャトルや月から映された、豊かに水を湛えた美しい地球の映像を目にすることができます。
コペルニクス以来、宇宙の中心の座から追い落とされた地球ですが、別な意味で特殊で貴重な存在であることが分かってきました。このように水を液体の形で安定して保持している星はかなり特異な存在なのです。現在の観測技術で見渡す限り、地球と同じような「水の星」はまだ見つかってはいません。
一説には現在の宇宙の広さは940億光年以上といわれています。また、年齢は137億年といわれています。この広大無辺、悠久の時空間の中のある時空においては地球と同じような環境の星がいくつあっても不思議ではありませんが、それほどありふれた星ではなさそうです。
なぜ私がこんなに水にこだわるのかというと、地球を覆い尽くすこの水こそ、ヒトを含むすべての生命の源であり、生命の核だからです。

地球上にいつどのように生命が誕生したかは、未だ確定したわけではありませんが、現在最も有力な説によれば、今から40億年ほど前(地球誕生から6億年ほどした頃)に原始の海の中で生まれたと考えられています。
その頃の地球は煮えくりかえったマグマの海が冷えてきて、厚く覆っていた雲から雨が降り注いで、原始の海ができていました。
この原始の海の中でマントルからマグマが噴き出すホットスポットやプレートが生まれる海嶺には多数の熱水噴出孔があり高温の環境を作り出しています。この熱水噴出孔付近からは水素、メタン、硫化水素などが大量に含まれた熱水が絶え間なく放出されてアミノ酸などの有機物が生成されたものと思われます。
こうやって原始の海にはリボース、リン酸、核酸塩基、アミノ酸などのさまざまな有機分子が濃厚に溜まっていったと考えられます。そういう海水を「原始のスープ」といいます。この原始のスープの中でRNAを遺伝情報源とする原核細胞のような生命体が発生したと思われます。
こうしてできた原核細胞たちに原始のスープに含まれていた有機物が消費され尽くされる頃になると炭酸ガスを炭素源とする生物、さらにその化学代謝のエネルギー源を太陽光に求める光合成生物が出現したと考えられます。
地球誕生から15億年くらい過ぎた頃になると内部のコアの外核(液体状の鉄)と内核(固体の鉄)の分離が起きてきて、自転によるダイナモ作用*が発生して、地球の周囲に強い磁場ができた。このために太陽からの強くて有害な電磁波のシャワーをブロックしてくれるようになって、生命体は海の比較的浅いところまで進出できるようになりました。これが、光合成生物の出現を促したと思われます。
ストロマトライトという岩石はシアノバクテリアの死骸と泥の堆積物によって作られた岩で、地球上のあらゆるところで見つかっていますが、1960年オーストラリアの西海岸で発見されたストロマトライトから生きたシアノバクテリアが発見されました。何と35億年も前から生き続け、成長し続ける岩の存在が明らかになったのです。
こういった原始細菌の営みによって地球上に酸素が満ち溢れることになりました。やがてミトコンドリアや葉緑体といった外来の生命体を自分の細胞内に取り込んだ生物はそれぞれ動物、植物へと進化していきました。

その後の進化の過程は省略させていただきますが、私たち人類もその大元をたどれば、原始の海の底深くにあった熱水噴出孔付近で生成された有機物質に由来するのです。海こそあらゆる生命の母なのです。
それを裏付ける痕跡が私たちの身体にもはっきりと残っています。私たちの身体は種々の細胞の集団からなる器官や組織から作られていますが、そういった組織や器官は血液、間質液、脳脊髄液といった液体の循環に支えられて生存しています。こういった液体成分を細胞外液と呼びます。体重の約20%がこの細胞外液です。
体重の80%は細胞成分ですが、この細胞を構成している物質の大半(67%)も水分なのです。つまり私たちの体の60%(小児では75%~80%)は水なのです。しかも、体液の浸透圧(5,500mmHg)は原始の海の浸透圧にきわめて近いと考えられています。海から陸に上がった生物は、それぞれの身体の内部に海を蓄えているのです。そしてこの「内なる海」を維持していかなければ生きてはいけません。
ところがこの「内なる海」を維持していくためには、現在の地球の海水を直接取り込むことはできません。なぜならば、現在の海水は塩分が濃縮されて浸透圧が高すぎます。したがって陸生の生物は海水でなく、地上に存在する淡水と塩分をそれぞれ別に適当量摂取していかなければなりません。
地球に存在する14億㎞3の水の97%は海水で、淡水は3%しかありません。しかもこのわずかな淡水の約70%は南・北極圏内や高山の氷として存在しています。地下水を含めて、川、湖、沼など私たちが生活に利用可能な淡水は地球の水全体の0.8%にしかすぎないのです。そして今、極圏の氷の融解や砂漠化によって淡水が急速に失われてきています。水の惑星地球とは言うものの、私たちの生命を維持するために不可欠な水は、雀の涙ほどでしかないことを頭に焼き付けてください。

さて、私たちが地球より先に存在していたわけではありません。自分中心から地球中心に考え方を変えてみると、私たちは太古の「原始のスープ」の記憶を語り継いでいくための、束の間の器にすぎないのかもしれません。
ということは、不摂生をして病気になるということは、地球から私たちに託された約束に違反するということになります。自殺などはもってのほかの裏切り行為です。
「なんで生まれてきたんだ」と、生きていることを恨む方がいらっしゃいますが、そういう人は、自分が身体の内に何十億年前の「原始のスープ」を蓄えていることを思いだしてください。私たちが「生きている」のではなく、「生かされている」存在であると感じられれば、人生というものにこれまでとは違った意味を見いだせるかもしれません。
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*地球の外核は液体状の鉄やニッケルなどの金属であり、高温の熱によって対流している。自由電子をもったこれら金属が活発に対流すると、コイルに電流が流れているのと同じ効果を持つ。コイルに電流が流れると電磁石になって磁場を発生させる。したがって地球も液体状の鉄やニッケルが対流、回転することによって磁場を獲得する。
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