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クリニック西川

2008年12月

今年のできごと

加齢とともに時の流れが加速します。つい先日、平成20年のカレンダーを壁に掛けたと思っていたのに、残る1枚も間もなく平成21年のカレンダーにその座を明け渡さなければなりません。新聞やテレビの報道番組が「今年の10大ニュース」一色になっています。こういった報道を観ると、あっという間の1年のように感じていたのに、実に多事多難な年であったことを思い知らされます。
私のコラムも今回が2008年の最終版となりますから、今年1年を振り返って、心に残る出来事を身近なことから地球規模のことまで階層的に一つずつご紹介しようと思います。
一般的な関心事はあらゆるメディアで取り上げていますので、本稿は一般的には取り上げられないことに限定します。また、選考はあくまで私個人の独断と偏見に満ちた基準に拠ります。

自分自身:6月末に胆嚢もろとも胆石を摘出しました。
それまでも御馳走を食べた後、度々心窩部の疝痛に襲われることがありました。「何かあるな」とは思うものの、「医者の不養生」でその度に消化剤と鎮痙剤でごまかしてきました。
しかし、6月の中旬になると、ことさら暴飲暴食した後でもないのに腹痛を感じるようになり、鎮痙剤を注射しながら診療するようになりました。その時点ですでに胆石であろうと自己診断し、友人の医師に腹部エコーで胆石の存在を確定診断されました。それでもまだ「夏休みを利用しようして治療しよう」などと甘く考えていたのです。
ところがついにその晩の痛みはどんな薬を飲んでも治まるどころか激しさを増し、痛みのために意識が朦朧とする始末。翌日が職員の給料日なので、朦朧とする意識の中で何とか給料の振込を終えて、翌朝医師の出勤する時刻を待って、近くの病院にタクシーで駆け込みました。
私の胆嚢は何年にも渡って胆石を育てていたようで、繰り返した炎症によって胆嚢が周囲と癒着していました。そのために手術はそう容易ではなかったようですが、大学の同窓生である外科の担当医が頑張ってくれて、なんとか腹腔鏡下の手術で胆嚢を摘出してくれました。
腹腔鏡による手術は開腹手術と違って、大きくお腹を切らないために、術後の回復が早いのです。おかげで私は術後3日目からは外出して診療することができ、5日目には退院しました。
幼少時は病弱で年中入院しておりましたが、10歳の頃からは生まれ変わったように元気になり、病気らしい病気をしてきませんでした。ですから、久しぶりに患者の身になって改めて医療と看護の何たるかを考えさせられました。的確な診断と治療は言うまでもありませんが、暖かく優しい看護師さんの対応が想像以上の元気を与えてくれます。本当にありがとうございました。
医療はやはりhumanな仕事です。決して機械で代行できるものではないことを再確認しました。
また、あと1年ちょっとで還暦を迎える己の年齢を実感しました。それほどたっぷりとは残されていない人生をどのように過ごすべきなのかということを考えました。
私は幸運にも医師というかけがえのない天職に恵まれました。開業医という分を踏み外さない範囲で、残りの人生を人様の役に立つように頑張りたいと決意しました。

家族:長男が第1志望の法科大学院の入学試験に合格しました。
息子は小学校から近隣の私立一貫校で学んできました。私から見て、才気煥発な天賦に恵まれているとは思えませんが、地道に努力する能力を持ち合わせている男です。しかし長い間、自分がやりたいことを見つけられないまま中学校、高校、大学へと持ちあがりで進学してきました。
真のモチベーションというものは周囲から押し付けられて得られるものではなく、自分で獲得するものですから、どうしたものかと心配しながらも黙って眺めていました。きっかけについての詳細は知りませんが、大学の3年生になって「法曹になりたい」と言いだしました。
法律家は私と全く縁がない分野ですから、とくに援助することもできずに、ただ彼の勉強する姿を見守っていました。私から見れば、彼はこの1年余、本当によく頑張っていると思っていましたが、彼にとっては自分の力で受験をするのは生まれて初めてのことです。入学試験には入学試験用のテクニックが必要とされますから、私は内心では浪人も致しかたなしと考えていました。
第一志望校への合格の報が入って我が家は一気に盆と正月が一緒に来たようなお祝い気分になりました。親馬鹿の私が大喜びであることは言うまでもありませんが、合格、不合格には運が付き物ですから、運にも恵まれたのだと感謝しています。
合格した事実よりも私が嬉しく感じることは、彼が自分の持ち味を十分に生かして日々の努力を怠らなかったことです。さらに、自分の進む道を自分で決定したことです。私自身サラリーマンの息子でありながら、一念発起して医師の道を選びました。そういう遺伝子を伝えられたことが喜びです。
とは言うものの法曹への道は今やっと出発点に立ったばかりです。これからが本当の勝負の時です。「学問に王道なし」。これまで以上に精進してほしいと願っています。

大塚界隈:めっきりと空地が増えました。
クリニックの裏手に「三業通り」という小道があります。三業とは芸妓置屋、待合、料亭の三業種のことで、三業地とはそれら3種の営業が許可された地域のことを言います。大塚駅から南に延びる細長い道の両脇は大塚三業地と呼ばれて、戦前は東京でも有数の色街でした。大分寂れましたが、十数年前までは政治家が秘密で集まる料亭もあったようです。
今の大塚駅周辺しか知らない人たちには想像もできないでしょうが、戦前、戦後しばらくは隣接する池袋や巣鴨など及びもつかないほど華やいだ町だったのだそうです。現在は書店とマクドナルドが入っているビルは白木屋という、この界隈で唯一のデパートだったのです。池袋に西武百貨店や東武百貨店ができたのはずっと後のことです。駅周辺も現在唯一存続している都電、荒川線だけではなく、巨大な操車場があり、都心方向に向かう都電の始発駅としての一大ターミナルだったのです。
地下鉄丸ノ内線が開設される際、当初の計画では始発は池袋ではなく大塚であったとも聞きます。それが、当時の町の有力者のつまらない私欲のためにJRとはかなり離れた場所に新大塚という駅が作られて、始発は池袋にさらわれてしまいました。
JR大塚駅は現在改修工事が行われて、やっとエスカレーターとエレベーターが設置されましたが、山手線の中で大塚駅のように出口が1ヶ所しかない駅は数少ないのではないでしょうか。池袋寄りに出口が増設されれば利用者が増えると思うのですが、その増設も地元商店主たちの目先の思惑で目処がたたないようです。
そんな取り残された町、大塚の中でも私のクリニックのある南大塚一丁目、二丁目地区は特に衰退が加速しています。商店が次々とつぶれてマンションに様変わりしていくのです。私の所属する商店会など商店会長自身が米穀店を廃業してコインパーキング経営者という有様です。もはや商店会の体をなしていません。マンションばかりの町になってしまいましたから、日が暮れると人通りが少なく裏寂しさに拍車がかかります。
どう考えたって供給過剰のマンション事情。空き家が目立つ昨今ですから、マンション建設も侭ならず、コインパーキングや更地になったままの土地が増えてきました。
そこへ持ってきて、10月からの大不況。クリニックの向かい側の土地ではマンションを建築していたデベロッパーの突然の倒産で、基礎建築を終えたところで工事が放棄されました。更地ならばいざ知らず、基礎部分だけが残った土地に買い手がつく筈もなく、放置されたままです。人気の少ない夜間、きわめて治安の悪い場所になってしまいました。
町は生き物です。時代とともに栄枯盛衰、変貌していきますが、町の発展には目先の利害を超えて、時代の先取りをする計画的行動が必要です。昔の賑わいの欠片も見られない現在の大塚の町を見るにつけ、自己利益を離れて先見性を持った指導者不在の悲劇を感じます。

医療業界:メンタルクリニックが急増しています。
医療崩壊の原因の一つに心療科の偏在が叫ばれています。医学部卒業生が小児科や産婦人科に進まず、美容外科志望者が急増していることを某テレビ局のドキュメンタリー番組で観ました。また、勤務医と違って、夜間、休日の過酷な当直業務が無く、しかも高収入が見込まれる開業医が急増しているという報告もあります。
このような報道からは、現在の医療崩壊の一因が楽して金儲けしている開業医の存在にあるという結論が誘導されます。この考えはある意味、間違っていません。体力があり、地域の救急医療を支えなければならないはずの若手医師が病院を離れて開業して、その結果勤務医不足が加速しています。
しかし、この流れの原因は「鶏が先か卵が先か」であって、開業する医師が皆「楽して儲けたい」という動機からだと考えられては困ります。勤務医の労働環境があまりにも過酷なために勤務を続けられずに、否応なく開業に踏み切る医師も多いはずです。その結果、病院勤務の環境はさらに過酷になり、残っていた医師も辞めざるを得なくなる。そんな悪循環の輪が出来上がってしまっているのではないでしょうか。
開業医志向の傾向は私の診療分野にも顕著に現れています。私が開業した18年前と比べて、精神科や心療内科を標榜する診療所、いわゆるメンタルクリニックの数は数倍に増えました。歯科ほどではありませんが、主要な駅周辺のビルの至る所にメンタル系のクリニックを見かけるようになりました。
私が開業した当時は精神科の保険診療点数が低いために、開業しても食っていけないのではないかと言われていました。しかしその後、社会の需要と精神科医たちの努力によって医療点数がそれ相当に引き上げられて、都心のビルを借りても経営していけるようになりました。また、精神科や心療内科は臨死のような救急場面に遭遇することが少なく、大がかりな医療器械を必要としないので開業しやすい科だという理由から人気が出てきました。
そのような理由からメンタルを標榜するクリニックが急増して、患者さんを奪い合う状況になってきています。既存の精神科開業医としては厳しい環境になりましたが、私は一人で診ていける範囲の診療しかしませんから、メンタルクリニックの乱立に既得権を振りかざして文句を言うつもりはありません。
ただ問題なのは、本来精神科医でも心療内科医でもない医師が、安直に開業できるという理由だけから精神科医や心療内科医になりすまして開業するケースが増えていることです。
我が国では標榜科目は自由に選択できます。したがって、昨日まで産婦人科の勤務医をしていた医師が、今日から精神科診療所を開設することだってできるのです。勤務は産婦人科であったが、個人的に精神医学を修得したと言われてしまえばそれまでですが、洋服を売っていた男が突然鮨を握るようなものですから、相当に問題があると思います。
実際に、とんでもない精神科医療をやっている医師には精神科以外の経歴の持ち主が多いのです。朝青龍のモンゴル雲隠れ事件の時に登場し、王監督の娘との結婚騒ぎでも話題になったH医師も、一応精神科医と自称していますが、実際には包茎治療を生業としている実業家です。私の周囲で怪しげな精神科医療をしている医師としては脳外科出身の医師が目立ちます。脳外科は大がかりな設備のある病院でしかメスを揮えませんから、開業するとなると設備を必要とせずに脳に関連した精神科を選択するのかもしれませんが、木に竹を接ぐような所業です。
もっと性質が悪いのは「隠れ精神科医」です。標榜科とは保健所と社会保険事務所に届け出る診療科です。必ずしも看板に明記してなくてもよいのです。これをよいことに、精神科とはおよそ無縁な科を開業しているのに、保健所と社会保険事務所にだけ精神科を届けている医師がいるのです。そうすれば、例えば不眠の症状の方に睡眠導入薬を処方するだけで、特別に精神科的な行為をしてもいないのに「外来精神療法」を保険請求できるのです。
こういう医者が貴重な医療費を食い物にしていますが、表面化しないので実態が把握できません。先日私の近くで整形外科をやっている男が酔いに任せてつい口を滑らしました。「うちも精神科やってるよ。あんなもの誰にでもできるから。」
嘆かわしいことに、医療の世界ではこのような輩が闊歩しているのです。

日本:4名の日本人研究者がノーベル賞を受賞しました。
物理学賞で南部陽一郎(現国籍はUSA)、小林誠、益川敏英の3博士が、化学賞で下村脩博士がノーベル賞を受賞されました。日本人のノーベル賞受賞者はこれで1949年の湯川秀樹博士以来16名となりました。
4氏の研究は相当以前の業績であり、その研究結果はすでに応用の段階に入っています。南部理論などは教科書にも記載されておりますから、遅すぎた受賞だと言えますが、4人同時受賞はやはり日本の科学研究界にとって素直に快挙と喜ぶべきなのでしょう。
4博士とも真摯で実直な研究者らしいお人柄がテレビの画面から滲み出て、品性下劣な拝金主義者や傲岸不遜な政治家の顔ばかり見せられてうんざりしていた私の心にすがすがしさを蘇らせていただきました。
中でも益川博士は天衣無縫な人柄に由来するお茶目な発言が耳目を集めて一躍時の人になりました。博士が「私は日本語しか喋れない」と言って、授賞式まで日本語で通したことには、同じく英語がからきしだめな私はひどく感激しました。
トップレベルの研究をしていく上で英語ができないはずはありません。自説は日本語で発表したとしても、海外の論文を読まないで研究を進めるわけにはいきませんから、町の英会話教室に通っているそんじょそこらのお習いごと好きな人なんかよりは、はるかに英語の読解力をお持ちであるに違いありません。
しかし、思考は日本語で行っているので、2,3歳の知能に成り下がってしまう片言の英語で話すのではなく、日本語で自分の思っていることを十二分に伝えたいという益川博士の考えには非常に共感するものがあります。
4氏のノーベル賞受賞で基礎研究という分野がにわかに脚光を浴びました。また、小林、益川、両博士は「考える力を育てるような教育が大切である」と力説して、教育のあり方にも一石を投じていただけました。
しかし、移ろいやすい世の関心は、急激な経済危機の到来もあって、1ヶ月もしないうちにノーベル賞の話題から離れて行ってしまいました。
先日、国立の某研究所で研究室長をしている後輩が「研究費がどんどん削減されていく。それも人件費を削ってくる。将来有望な研究者を放出せざるを得ない状況です。人は一朝一夕で育つものではない。」と憤慨していました。
今回のノーベル賞受賞を契機に、すぐには実益を生まない地道な基礎研究の大切さを学び、目先の利益だけを追求する悪しき風潮から脱却して、底辺の重厚な国造りを目指していただきたいものです。

世界:アメリカ発の大不況が到来しました。
国家ぐるみの詐欺商法と言える、いかさま金融商品の破綻に端を発した経済危機の嵐は、1930年の大恐慌の時に比べて格段の速さで世界中に伝播しました。麻生総理(ご本人がどれほど深刻に考えているかは定かではないが)の言うとおり、まさに70年に一度の未曽有の経済危機です。
この問題が今年のトップニュースであることは間違いありません。近頃新聞の紙面を飾る記事の大半はこの問題がらみですし、経済学、政治学、社会学の有識者が各人各様の論を展開しています。一精神科開業医の私などが、わずかな紙面で論じるには手強すぎるテーマですから、今回はあえて口を塞いでおきます。
素人ながら一言だけ言わせてもらえば、今回の騒ぎは経済の分野だけの問題ではなく、根本的な構造の大転換の、表面に現れた一現象であるということです。その大転換とはアメリカによる世界支配の終焉の始まりです。
今後数年は大変な状況が続くでしょうが、見方を変えれば、日本がとってきた明治維新以来の欧米追随姿勢、戦後のアメリカ属国化から上手に脱却して、新しいポジションを模索する絶好の機会が到来したと言えるのではないでしょうか。
前回のコラムでも書いたとおり、長い歴史を通じて我が国は漢字文化を育んできました。遠く太平洋の向こう側の顔の色ばかり窺っていないで、ここ数十年の恩讐を超えて、アジアの一員であることを再確認するべきだと思います。
内海のような日本海を跨げば、すぐにでも手を繋ぐことができる近隣諸国との関係改善に力を注ぐことが、これから日本が生きる道であり、日本をよりよく生かせる道ではないかと予感しています。

宇宙:事もなし。
私の知る限り、巨大彗星が地球との衝突コースに入ったとか、宇宙の膨張が収縮過程に転じたとか言うようなビッグニュースはありません。地球上の細々として煩雑な出来事などとは無関係に、これまで通り猛スピードで膨張を続けているようです。

自分中心に考えても悲喜こもごも、実にさまざまな出来事を乗せて1年の時が流れました。どちらかというと悲観的なニュースが多かったように感じますが、皆で知恵を絞り、汗水たらして難局を打開しましょう。平成21年に幸多からんことを祈って筆をおきたいと思います。よいお年をお迎えください。

今日のお言葉

数週間前から、私が数個の諺や格言と四文字熟語を使った小文を創作、提示して、それぞれの言葉について解説することが、我が家の夕食時の行事になりました。子供たちからの要望があったからです。
ことの始まりは「麻生さんが言葉を知らない」という話題でした。麻生さんは論外ですが、子供たちが「近頃は四文字熟語や諺、格言があまり使われないので、よく知らない。それなのにお父さんは文章だけでなく会話の中にもそういう言葉をよく使う。できれば少しずつ教えてよ。」と言ってきたのです。
そう言われてみると、私は会話の中で殊更気にも留めないで諺、格言、四文字熟語を使うのですが、しばしば子供たちから「それってどういう意味?」とか「どういう謂われなの?」と聞かれることが少なくありません。改めて注意して観察すると、町中の会話の中からは、こういった言葉が姿を消しつつあることが分かりました。
我が国は中国で創作された表意文字である漢字を使用する、世界の中でも数少ない民族です。表意文字はその名の通り、1字だけで1つの意味を表します。したがって、森羅万象、多くの事物や概念に応じた文字が作られています。文字を覚える作業は、26文字のアルファベットさえ覚えてしまえばよい英語などと比べて、想像を絶する労力を要します。欧米に比べて、文字ということに関しては、基礎教育の段階で詰め込んで覚えさせなければならないことが遥かに多いのですから、「ゆとり教育」なんて言ってはいられないのです。
それでも、ある程度以上の画数の漢字は偏(へん)と旁(つくり)の組み合わせですから、偏、旁、それぞれの表す意味を正しく理解すれば、それを組み合わせた漢字の意味は容易に想像できるようになっています。したがって、基本となる漢字を深く習得すれば、複雑な文字は比較的容易に覚えることができます。ここが中国人の優れた発想だと感心するところです。
表意文字は概念と結びついていますから、いったん脳に入力された文字は、脳の広範な領域にまたがって刻み込まれます。ですから、脳が障害されて失語症に陥った際には、表音文字である平仮名や片仮名は早期に失われてしまうのに対して、漢字はかなり進行するまで障害を受けにくいのです。
また、数少ない文字の組み合わせで意味のある文章を表現できるのでとても使いやすいし、表音文字だけの表現に比べて奥深い表現をすることができます。なにせ1つの文字がきちんとした概念に対応していますから。想像を逞しくすれば1文字だけで一定のメッセージを読み取ることさえできます。
そのよい例が、今年は「変」に決定された「今年の文字」。これは毎年末、日本漢字能力検定協会がその年一年を表す文字を全国に公募して決定し、清水寺貫主が書き記す文字です。
「変」1文字によって、度重なる首相の交代、アメリカの金融破綻に端を発した世界経済の急変、ガソリンをはじめとする物価の乱高下、「change」を掲げたオバマ氏が次期大統領に決定してアメリカの与党が共和党から民主党への政権交代が決定したことなどがあったこの1年を言い表しています。アルファベットではこうはいきません。表意文字文化ならではの行事です。
1文字でもこれだけのことが伝えられるのですから、数文字が組み合わされば、ちょっとした物語になります。それが三文字熟語、四文字熟語です。私が座右の銘としている「塞翁之馬」*1などは数年に及ぶ物語を集約した四文字熟語です。

四文字熟語は漢字文化圏にしか存在しませんが、諺、格言、名言は欧米の表音文字文化圏にも数多く見られます。多くは古代ギリシャ、ローマ時代の史実に由来しますが、近代になって生まれた言葉も少なくありません。
ダグラス・マッカーサーの退任演説の最後のフレーズ「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」などは渋くて重みのある言葉であり、さまざまな場面でよく使われます。石田純一の「不倫は文化だ」が後世の格言として生き残るとは思われませんが、これからも新しい諺や格言が創り出されていくでしょう。

こういった言葉を理解するためには、単に暗記するだけでは足りず、その来歴を知らなければなりません。つまり歴史を学ばなければならないのです。四文字熟語に関しては歴史だけではなく、漢文に関するある程度の素養も求められます。
私は単科の私立医大卒業であって、特別に文科系の教育を受けたわけではありませんし、それほどの読書家でもありません。それでも、四文字熟語や諺、格言をそこそこ知っているのはおそらく私が受けた中、高教育のお陰だと思います。
私の出身校である麻布学園は私立の中高一貫校です。家から近く、父も兄も麻布生であったので、当然のように麻布に進学しました。
麻布学園は今や開成高校や灘高校ほどではありませんが、東大合格者数が多い進学校というのが世間の評価するところです。しかし、父や私が在学した頃までの麻布学園の特色は受験教育ではありませんでした。
東洋英和女学校の男子部から出発した麻布は、学祖、江原祖六が「府立中学校に入れないような男子に対してもきちんとした教育が必要」という建学の精神が受け継がれてきました。校風を一言でいえば「自由奔放」でした。それ以外にも、「ちょっと世の中を斜に構えて見る」、「野暮ったさを軽蔑する」、「反権力、反体制」、「自己責任」といった言葉が似合う学校でした。
ですから、一般の方には信じてもらえないかもしれませんが、中高一貫して受験対策とは対極のカリキュラムでした。東京のど真ん中の学校だというのに、中学校では農業の授業があり、多摩川べりの農園に行って芋掘りなどの農業実習もさせられました。
もうすぐ大学受験という高校3年生の時に、「大学に行ってから役立つ」という信念をもった教諭たちがそれぞれ勝手に受験科目とは関係ない幾何学、論理学、哲学といった講義を展開していました。こちらはその大学に入れるかどうかが大問題だというのに、頓着されませんでした。物理学や生物学も文部省のガイドラインを無視して、理数系の大学で習うようなハイレベルの講義でした。
その流れの中で、希望進学学科には関係なく、やはり受験直前まで相当濃密に教えられたのが「古文」と「漢文」でした。私が現在使っている四文字熟語や諺、格言の多くはこの時の授業で習った知識が大半です。
大学受験には全く役に立ちませんでしたし、大学でも役に立ったとは思いませんが、この歳になって初めて恩師から受けた一連の教育のありがたみが理解できるようになりました。受験にとっても、また大学でも科によっては何ら実益に結びつかない分野だからこそ、あの時期に教えていただいてよかったのだと思います。特に私のような特殊な職業に就いた者は、大学以降の人生においては、よほどの動機がなければ漢文や古文に触れる機会には恵まれないからです。

四文字熟語や諺、格言を理解するには歴史を始め幅広い教養を身につけなければならないと述べました。したがって、会話の中でこういった言葉をお互いに使える間柄というものは、そうでない関係に比べてずっと深みのある人間関係を構築できます。それはお互いが歴史に目を向け、哲学する姿勢を共有できているからです。
熟成された日本語の語彙は貧困なのに、英語混じり、カタカナ略語の金融用語をやたらと駆使して偉そうにしている人が増えていますが、そういう会話しかできない人々の人間関係は、その間柄も利害優先で浅薄な域を脱し得ません。
国民の民度を向上し、質の高い社会を作るためには是非とも教養を高めるような、言葉の教育に力を注がなければならないと思います。
折しもNHKが10月から日曜日の深夜帯に「漢語論語」という番組を放映しています。1回の番組で3つの熟語や諺をコントをまじえながら分かりやすく解説しています。この番組がいつまで続くかは視聴率次第ですので、是非ともお休み前にご覧になることをお奨めします。

私に与えられたわが家でのこの毎日の業務。最初のうちは数個の言葉をA4の紙に列挙するだけでした。しかし、だんだんとハードルが高くなり(実際には自分で勝手にハードルを上げているのかもしれませんが)、最近は「今日のお言葉」と呼び、朝日新聞の「天声人語」のように、今日一日に私が感じたことをテーマにしてミニコラムを書き、その中に数語の4文字熟語と諺、格言を散りばめる体裁になりました。
この仕事は想像していた以上に労力を要求されます。週1編、このコラムを書くだけでもかなりの負担なのに、さらに苦役が増えてしまいました。朝から何を書こうか眉間に皺を寄せて思案の毎日です。

最後に、今晩の夕食時にお披露目する「今日のお言葉」を皆さまにもご紹介してこのコラムの結びとさせていただきます。
「2008年12月21日
今日は気温が20度近くまで上がり風もない『小春日和』であった。こんな日は健康のために陽光を浴びて運動をするべきである。それにもかかわらず、また常日頃患者さんにもそのように指導していながら、自身は蟄居を決め込んでいた。『医者の不養生』の誹りを受けても致しかたない。しかし、部屋に籠っているにはそれなりの理由がある。なぜならば、私は休みの日にまとまった運動をするだけの時間が取れないのだ。この歳になって、週1編のコラムを書くという、自らに課した責を果たすためには、日曜日はほぼ一日、机に向かわざるを得ない。『生地安行』や『学知利行』を果たせなかった浅学非才の私には『困知勉行』*2以外に残された道はないのだから。
嗚呼、『少年老い易く学成り難し』*3
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*1塞翁之馬:出典「淮南子」。北方の塞(とりで)のそばに住む老人の飼っていた馬が塞の外に逃げた。隣人がそれを慰めると、老人は「この不幸が幸いとならないと言えようか」と答えた。やがて逃げた馬が良馬をたくさん引き連れて戻ってきた。今度は隣人がこれを祝うと老人は「この幸いが不幸とならないと言えようか」と言った。果たして老人の息子がその馬から落ちて足が不自由になった。これを見て隣人が同情すると、老人は「この不幸が幸いとならないと言えようか」と答えた。果せるかな、この息子は、足が不自由なおかげで徴兵を免れたという故事から、人生の幸不幸は、変転定まらないことを例えている。転じて、いたずらに一喜一憂するべきでないと諫める言葉である。
*2生地安行、学地利行、困知勉行:出典「中庸」。人が踏み行うべき道を認識して実践していくには3つの道程がある。すなわち、生まれつき先天的にそれを持っている完全な道徳的人間の「生地安行」、生まれつきには持っていないが、後天的にそれを認識し学んで正しいと知り、初めて実践する「学地利行」、生まれつき聡明でなく、発憤して心を苦しめ、やっとのことでそれを認識し、一心に努力を重ねて実践する「困地勉行」である。修養には結果は同じ3つの道があるから、才能の劣った者でも努力すべきであると言っている。
*3少年老い易く学成り難し:出典は朱熹の詩「偶成」。若い時は先が長く慌てる必要はないと思っているが、月日の過ぎるのは早くてすぐに年をとってしまう。しかし学問はなかなか成就しないものである。だから、若いうちから寸暇を惜しんで学問に励まなければいけないということ。

最後の晩餐-若き日の臨戦体験-

私は昭和25年3月5日生まれの戦後っ子です。5つ違いの兄は昭和20年生まれなので食糧難の時代に育ちましたが、私は朝鮮戦争勃発にともなう特需景気で、荒廃した日本経済が急速に回復を迎えた時期に生まれました。このために戦争体験はおろか戦後の悲惨な食糧難も体験しておりません。
空地には焼け落ちた廃屋や防空壕と思わしき地下空間。省線(あの当時は山手線などのJR線を「しょうせん」と呼んでいました)には白装束の傷痍軍人。上野の地下道にたむろする敗戦孤児。トタン屋根のバラック作りでいかにも怪しげな商店など、身の回りには刻まれて間もない戦争の爪痕がしっかりと残っていたにもかかわらず、私にとっては生々しい現実感のある光景ではありませんでした。
物心ついた私は両親や祖父母から戦中戦後の苦労話を聞かされても、どこか別の世界のお話のようにしか聞いていなかったようです。私の中で戦争は、月刊誌「少年」に載せられていた小松崎茂画伯の戦艦大和や零戦の絵の影響もあって、「かっこいいもの」として映っていたように思います。
我が家から至近の駅である目黒駅前に行けば、まだバラックが多かったとはいえ、「コスギ」という果物店でプリンやフルーツポンチが、「とんき」というとんかつ屋さんでは肉厚のおいしいとんかつが食べられました。モンブランというお店のシュークリーム目当てに目蒲線に乗って自由が丘にも行きました。目黒駅始発の5番の都電に乗り、途中魚藍坂下で4番に乗り換えて銀座に行けば、その賑やかさはもはやつい10年数年前に空襲を受けていたことなど微塵も感じさせませんでした。
私が小学校6年生の時に開催された東京オリンピックを境に、多くの日本人の頭の中でさえ戦争というものが、自分にとっての想い出から過去の歴史という引出しに移し替えられたように思います。この戦争というものに対する感覚の鈍化は、私よりも年長で、戦争を体験した人たちの中でも起こっていったようです。
その後私は高校生の時になって、ベトナム戦争反対集会や70年安保のデモに参加しました。しかしそういった行為は戦争の実態を把握して、内なる衝動に駆られてとった行動ではありませんでした。
ジョーン・バエズ等の反戦フォークソングをギターで弾き語り、先日亡くなった筑紫哲也さんが編集長を務めていた朝日ジャーナルを読むのがお洒落で異性にもてる、という極めて不純な動機の延長線上にあったのだと思います。
私たち世代の若者に麻疹のように伝播した反戦、反体制の学生運動は、機動隊による東大安田講堂陥落を機に衰退していきます。
1973年1月27日パリ協定締結によるベトナム戦争終結をもって、多くの若者を巻き込んだ学生運動は終焉します。一部の若者が閉鎖的な集団を作って過激な反体制運動を継続するようになり、ますます一般の若者の離反を招くとともに、社会問題を真剣に考えること自体を敬遠させる結果となりました。
私の進学した私立医科大学は開業医の子弟が過半数でありましたから、ことさら社会問題に対する関心は薄く、学生委員長としての私の活動も大学内部の問題に終始して、私の中で戦争というものは、自分とは異次元の世界の出来事になっていました。

卒業間近、大学6年の初夏、私は友人から「国際医学生連盟の主催する夏季交換学生の枠に空きができたから参加しないか?」と誘われました。その頃私は学生結婚していて、生活費さえサラリーマンの親の厄介になっていましたから、海外旅行など想像もしていませんでした。当時はジャンボ機が就航したばかりで1ドルが300円の時代。海外旅行はまだまだ一般庶民には高根の花でした。
しかし、往復の旅費とプライベートな旅の費用は自分持ちですが、交換相手の大学にいる約1カ月の滞在期間中の生活費の大半を相手側が負担してくれるという願ってもない条件です。
妻に相談したところ、「行っててくるしかないでしょ」とお尻を叩かれ、親からも「払わなくて済んだ3年分の学費を貯蓄してあるから、それを使えば良い」と銀行通帳を渡されました。
急遽、夏季交換学生に参加することになりましたが、1年前から準備していた他の学生と違って、私は出発直前の滑り込みですから希望の大学を選択する余地はありませでした。否応なくギリシャのテサロニキ(Thssaloniki)大学に行くことが決まりました。
紀元前ヒポクラテスの時代ならばいざ知らず、20世紀においてギリシャは医学の最新国ではありません。アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスといった国が人気殺到で残り籤はギリシャだったと言いうわけです。医学の研修という目的からすれば期待度は低いものでしたが、地中海沿岸で有病率の高い「地中海貧血(thalassemia)を勉強してくる」という大義名分で自分を納得させました。
本心は医学の勉強などではなく、とにかく海外に行ってみたいという気持ちでしたから、ヨーロッパのはずれで、めったに訪れるチャンスのないギリシャは、むしろ私の願いに十二分に応えてくれる目的地でした。2か月弱の夏休みを目一杯使ってテサロニキ滞在1カ月の前後はヨーロッパ各地をふらふら一人旅することにしました。
益川先生ではありませんが、私は英語で読んだり書いたりすることは少しはできましたが、聴いたり喋ったりすることは全く駄目。いくら話しかけられても音としてしか認識できず、言葉としてその意味を理解しようとする作業を一切脳が受け付けません。自信をもってしゃべることができるのは「I can speak English little . 」だけです。
言語による意思伝達能力がない貧乏学生が頼るのは柔道とアメリカンフットボールで鍛えた体力、怖いもの知らずの勇気、そして言葉の裏にある感情(相手が自分に好意をもっているのか、怒っているのか)を察知する能力だけでした。この約1カ月の向こう見ずな一人旅での体験の数々について書きだしたら、何編ものコラムができあがってしまいますから省略します。
さて、一人旅の前半を終え、ローザンヌから目的地テサロニキに向けてオリエントエクスプレスの車中の人となった私は、ちょうどその時、ギリシャを訪れていた世界中の旅行者が慌てて一斉にギリシャから脱出している最中であることを全く知らなかったのです。言葉が不自由でテレビや口コミの情報が入らず、金を節約していたので新聞などを買わなかったことのつけがまわっていたのです。

キプロスは地中海の島の中ではシチリア島、サルディニア島に次いで3番目に大きな島で、地中海の東の端に位置します。地理的条件で古代から諸民族、諸文明の中継地として栄えてきました。
古くからギリシャ系の住民が住んでいましたが、独立は保たれず、有史からヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、ローマ共和国などの支配を受けてきました。1191年十字軍の途中に立ち寄ったイギリス軍によって西ヨーロッパ人カトリック教徒によるキプロス王国が建国。その後1470年にこの王国が途絶えると、ベネティア共和国の植民地とされ、1571年にはオスマン帝国によって支配されてオスマン帝国の1州として併合されました。
オスマン帝国の衰退とともにイギリスが再び触手を伸ばして、1878年に領地権を獲得し、1914年、第1次世界大戦の勃発に乗じて正式に植民地にしました。300年近いオスマントルコによる支配が続いていたために、第2次世界大戦当時には先住のギリシャ系に加えてトルコ系のイスラム教徒も多数居住するようになっていました。
第2次世界大戦の終了後、ギリシャ併合派、トルコ併合派それぞれによる反イギリス運動が高まって1960年にイギリスから独立しましたが、両派の対立は解消せず、ギリシャ、トルコ両国を巻き込んだ民族紛争が後を絶たず、1964年から国際連合キプロス平和維持軍が派遣されていました。
私がのほほんとヨーロッパを歩き回っていた1974年7月15日、ギリシャの軍事政権の支援を受けたギリシャ併合強硬派がクーデターを起こしました。トルコはこの動きに対して敏感に反応して7月20日にトルコ系住民保護の名目にキプロス島に侵攻してクーデター政権が崩壊しました。能天気な私が陸路テサロニ駅に辿り着いた時期はキプロスでの紛争をきっかけに国境を接するトルコ、ギリシャ両国がまさに一触即発という時だったのです。

こういう状況を知ったのは駅まで出迎えてくれたお世話係の学生、バシリオスの口からでした。さらに、多くの交換学生は帰国したというのです。残っているのは国境を接していて、いつでも脱出可能なユーゴスラビアの学生と、やはり比較的近くであり楽天主義の塊みたいなイタリア人学生だけでした。
バシリオスは「今の大統領は妥協をしないから戦争になる危険性が高い。ここはトルコとの国境にも比較的近いギリシャ第2の都市だから、戦争になれば確実に戦場になる。せっかく着いたばかりで残念だろうけど、すぐに引き返した方がいいよ。だけどもし、ここに居たいというのであれば学生寮に案内するよ。」と言うのです。
咄嗟に、日本にいる妻、両親の顔が頭に浮かびました。私よりも情報を持っているだろうから、きっと「早く帰って来い」と願っているのだろうとも想像しましたが、私は即座に「学生寮に案内してくれ」と答えました。
なぜならば、ロンドンから帰国のチケットは日付はおろか飛行便も決まっていたからです。1カ月の生活費はテサロニキ大学の学生寮を当てにしていましたから、帰国の日までギリシャ以外の国を放浪するだけの金銭的な余裕もありませんでした。一方、駅から望む、白い石造りのテサロニキの町はエーゲ海特有の明るい陽の光を燦々と浴びてのどかそのもの。戦争の「せ」の字も感じさせません。何よりも自分自身が戦争というものに対して恐怖を覚えるだけの下地を持っていなかったのです。
それでも漠然とした不安は持ちながらテサロニキでの生活が始まりましたが、ねあかなラテン系の若者と接していると戦争の恐怖は数日で薄れてしまいました。
医学研修の目的である地中海貧血は到着翌日に病理学教室で顕微鏡を覗かされ、担当教官からの「これがサラセミアだ」の一言だけで終わってしまいました。後は、学生寮を拠点に町中を散策したり、若者と海に行ったり、酒を飲んだり、片言の英語で恋愛の話で盛り上がったりで面白可笑しい毎日でした。
ギリシャを脱出せずに居残った私は「さすが日本人はサムライ、空手、勇気がある」と誤解されて大もて。大きな都市なのにその時テサロニキにいた日本人は私だけという状況でしたので、毎日町を歩いていると住民から顔を知られるところとなり、やがて行く先々で「ハーイ、ヤポネゾス!」と声をかけられるようになりました。
しかし、徐々に戦争の危険性が高まってきていることも感じていました。テレビのニュースに血なまぐさい場面が多くなり、学生たちとの会話も政治的な内容が増えていきました。その内容は、「ギリシャ人がいかに文化と伝統を受け継ぐ優秀な民族か」、「トルコ人は野蛮な民族だ」、「オスマン時代にトルコ人がいかにギリシャ人に対して破壊と暴力を行ったか」、「歴史的に見てキプロスはギリシャに所属するのが当然だ」、「真っ先に戦いたいが志願するにはどうしたらいいんだ?」と言ったものでした。

私にも戦争が現実的に感じられたのは8月13日のことです。トルコ軍が第2次派兵を行い、キプロスの首都ニコシア以北を占領したのです。ギリシャ学生たちの話題は一気に「宣戦布告はいつか?」、「自分たちは徴兵されるのだろうか?」、「軍事力に勝るトルコ軍がテサロニキに進行してくる可能性は?」という具体的な内容になりました。
ユーゴスラビア人学生は国境までの車の確保と国境への出迎えの手配をする。イタリア人学生は海路の脱出とユーゴスラビア経由での陸路の脱出法を検討して本国と国際電話をかけまくる。町の目抜き通りを戦車をを含む多数の軍事車両の列がトルコ国境のある北東方向に向けて走り抜けて行く。
私は、「本当に退去したほうがいいよ」とバシリオスに言われて、「そろそろ年貢の納め時かな」と思い、難しいことは日本語でないと通じないので、とりあえず大使館の日本人に相談するためにアテネの日本大使館に電話を入れました。受話器から聞こえたのは比較的流暢だが日本人ではないことが明らかな日本語。現地雇いのギリシャ人大使館員だったのです。
彼の言葉は「日本人のスタッフは全員帰国されました。」「貴方も即刻ギリシャを出てください。」「しかし、国際空港は封鎖されて外国への便は発着がありません。」というものでした。
ギリシャ人たちは一生懸命私の国外脱出の方法を考えてくれました。「とりあえずユーゴスラビアに入ること。」、「共産国でビザがないと入国できないが、非常事態だし、日本人は受けがいいから日本人であることを強調しろ。」、「お前はトルコ人に間違われるかもしれないから、これを身体にぶら下げて行け。」と言って、日の丸とヤポネゾスと書いた画用紙を渡されました。
しかし私は、国境でオリエントエクスプレスの内にマシンガンを持って乗り込み、長時間に渡る検問をしたユーゴスラビア兵の姿を思い出して、陸路の脱出はあきらめていました。また、正しい歴史認識を持たないままにギリシャ人に刷り込まれたおかげで、その時私の頭の中には「トルコ=悪」という図式がすっかりできあがっていました。「ここで死ぬのも何かの縁。トルコ兵がテサロニキに侵攻してきたら、一宿一飯の恩義でトルコ兵を一人は殺そう。」と真剣に考えるようになっていたのです。今から考えれば恐ろしいことです。
ユーゴスラビアの学生はうまく帰国しましたが、思慮が足りず、能天気なイタリア人学生は結局のところ見込み違いで帰国の手だてが見つかりませんでした。そんな状況でも陽気に振る舞えるのがイタリア人の素晴らしさだと感心させられたのが、大統領からの重大発表があると予告された前日の出来事。しこたまワインとチーズを仕入れてきた彼らから「飲みに行こう」と誘われました。大学近くの小高い丘に登って、暮れなずむテサロニキの町を眺めながら「最後の晩餐だ」と言って盛り上がった時には、誰もが明日の大統領発表はトルコに対する宣戦布告だと思っていました。さすがのイタリア野郎も明日のわが身はどうなるか分からないと不安だったのでしょう。
翌日、人だかりの出来たテレビから大統領の重々しい演説が流されました。ほどなく、皆から歓喜のどよめき。ギリシャ語が分からない私には、戦争突入に対する愛国的な叫びなのか、戦争回避による平和への喜びなのか分かりませんでした。すぐに満面の笑みを湛えたバシリオスが「戦争はなくなった。」、「お前はゆっくりアテネ見物してから日本に帰れるぞ。」とがなりたてました。NATOの調停によってギリシャとトルコの全面戦争は回避されたのです。

生まれて初めて戦争に巻き込まれる覚悟をしたこのテサロニキでの体験は、私に戦争と平和にまつわる様々なことを実感させてくれました。
1.戦争はそれまで考えていた異次元の世界の話ではないこと:ちょっとした偶然さえ重なれば、誰でも簡単にしかも否応なしに巻き込まれてしまう、平和とすぐ隣り合わせにあるのです。
2.戦争と日常とは別次元のものではない:ゲームのように「さあこれから戦争モードですよ」という風に、平和な日常と切り離されてはおらず、ごく日常的な生活と並行して存在するものであるということ。戦争の最中にも人は生きていくために物を食べ、時には酒も食らうのです。そうしていながら、目の前に敵が現れたならば躊躇なく殺戮を行います。
3.人は与えられる情報によって、いとも容易に洗脳されてしまうこと:ギリシャ人とだけ話していた私は、たった2週間ほどで完全にトルコの行為を理不尽と思うようになり、トルコ兵を殺そうとまで思っていました。
4.一般民衆の多くは本心では平和を求めているということ:あれほどトルコを非難して、戦場での活躍を誓っていた若者が、戦争回避の報を聞いて見せた笑顔がそのことを物語っていました。
5.最後に頼れるのは自分の力だけ:いざという時に大使館は当てにならない:日本人大使館員は残りの業務を現地職員にまる投げしてさっさと帰国してしまいました。異国の地でパスポートの比護を過信してはいけません。最後に頼れるのは自分自身の人間力だけだということを痛感しました。
6.自分が時・場所ともに好運に恵まれて生きてきたこと:歴史的に見ても、地理的に考えても、戦争だらけです。1950年に日本で生まれたということは相当に幸運なことなのだということを理解しました。
7.善と悪の戦争など存在しない:後年、トルコを旅行する機会がありました。
そこで出会ったトルコ人たちは知的で穏やかな親日家でした。あの時ギリシャ人たちから教えられた無教養な野蛮人のイメージとはかけ離れた人たちばかりでした。改めてキプロス紛争について勉強すると、トルコにも正当な言い分があることが分かりました。

平和というものはきわめて脆くて壊れやすい状態です。皆が全力で努力し続けなければ平和は維持できません。その努力を少しでも怠れば、あっという間に戦争という魔物が忍び込んできます。
最後の晩餐と称して、テサロニキの丘で味わったワインとチーズの味は、夕焼けの景色とともに34年経った今でも、私の中で鮮明な記憶として残っています。
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キプロスは現在も南部トルコ系の北キプロス・トルコ共和国と南部ギリシャ系のキプロス共和国に分断された状態が続いている。

医者は非常識

伴食宰相であることが明白に実証されてしまった麻生さんですが、今流行りのお馬鹿キャラとしての人気は鰻登りです。
私は、「今日はどんなボケを演じてくれるのだろう」、「この次はどんな放言を吐くのだろう」とワクワク期待しながら、テレビニュースや新聞を見ます。実際に繰り返し放映される失言場面は下手なお笑い番組よりはずっと受けます。お馬鹿タレントとしては貴重な存在と言えます。
麻生さんの一連の失言はその原因から4つに分類されます。1.無教養のために漢字が読めない。2.不勉強なために現状や政策を理解していない。3.信念が欠落しているために朝令暮改となる。4.共感能力が欠落している上に粗野な振る舞いが格好良いと錯覚しているためにTPOをわきまえずに暴言を吐く。

第4の放言は読み違いでも言い間違いでもなく、彼の本音を正直に言っている、麻生さんなりの一家言です。個人の意見としては拝聴しなければなりません。しかし国を代表する総理大臣の意見となると黙って聞いているだけでは済まないこともあります。選挙を通して鉄槌を下すのを待っているわけにはいかず、直ちに撤回を求めなければならない事項もあります。
その最たるものが「俺はいっぱい払っている。何もしないで、たらたら飲んだり喰ったりしている奴の分(医療費)をなんで俺が払わなきゃいけないんだ。」という発言です。その後の記者会見でしどろもどろの言い訳をしていましたが、まったく筋の通った釈明にはなっていませんでした。やはり、「年寄りや貧乏人は早く死ね。」というのがこの人の本音なのだなという思いを強くしました。
この発言は憲法で規定されている社会保障制度というものを完全に否定しています。国家の国民に対する不可侵の契約である憲法を否定するのですから、ほろ酔いで身内に喋っているのならばともかく、公式の会議での発言ですから、即刻日本国総理大臣を辞するべきです。
麻生さんは大手企業グループ(戦前から悪評高い会社だが)の大株主で、自分でも高言している通りお金持なのですから、総理大臣を辞めても生活に困るわけではありません。総理大臣なんかにならなければ知能や人格上の欠点がこれほど明るみには出なかったので、単に金持ちのいい格好しいというだけでそれなりにファンも残ったでしょう。
母校の学習院の学生は彼の度重なる漢字の誤読に自分たちの学力を疑われると恥ずかしがっています。今回の「たらたら・・・」発言でも、その前振りで「同級会などに出席すると67,68の奴がみんなヨボヨボしている。」という行がありました。小学校途中から学習院をもちあがった麻生さんですから、この同級生というのはやはり学習院の方たちでしょう。「よぼよぼ」だとか、「たらたら」だとか言われて快いはずはありません。
身の程知らずに総理大臣を目指したがために、国民はおろか身近な人たちからも総すかんを食う羽目になったのではないでしょうか。

さてもうひとつ世間の話題になった放言に「医者は社会的にすごく非常識な人が多い。」というものがありました。マスコミは医療保障制度否定と同じレベルの失言として報道し、多くの医師も憤慨して日本医師会は公式に抗議しました。
しかし、私は「あんたにだけは言われたくない。」という思いはありますが、あの発言はそれなりに事実を言い当てており、侮辱されたという怒りの感情は湧いてきません。
医師は医学部という専門学校のような特殊な大学で6年間学び、同級生はすべて医業に携わる同業者。卒業して医師国家試験を合格すると直ちに「先生」と呼ばれ、人間関係においては数少ない上司を除いては頭を下げられるばかり。
「先生」と呼ばれるのは患者さんや他の医療スタッフからだけではありません。お互い同士も先生付で呼び合います。
酒場やゴルフ場ではしばしば、大声で「○○先生」、「××先生」と呼びあっている医者のグループに出くわします。実に異様な光景なのですが、医者自身は若い頃から先生と呼ばれることに慣れっこになっていますから、当たり前と思っているようです。
昔から「先生と呼ばれるほど馬鹿じゃなし」と言われますが、先生という呼称は必ずしも敬意が込められているとは限らず、かえって馬鹿にした意味で使われることがあります。しかし諺で注意されているにもかかわらず、医者に限ったことではありませんが、先生、先生と呼ばれていると頭が反り繰り返ってくるようです。
また、ただ度重なる診療報酬減額によって急激に地盤沈下していますが、医者は生活レベルで世間一般の平均に比べて高収入のグループです。麻生さんには遠く及びませんが、いわゆるプチブルの集団を形成してきました。金銭感覚の点でも国民の平均的な感覚とは違っている人が少なくありません。
さらに、最近の政治家と同様に医者は2世、3世と世襲が多数を占める世界です。代々開業医の家に生まれ、育ち、医学部を出て医者になる。こうなれば極めて狭い物の見方しか育たないことは不思議ではありません。私はサラリーマンの息子ですが、大学の同級生の過半数は開業医の子弟でした。入学した直後、周囲が皆同じような価値観の持ち主で、話題にバラエティが乏しいことにがっかりしました。
こういう背景を持っていますから、医者は確かに社会的な一般常識から外れた人が多いと言われてもいたしかたないと思います。私の尊敬する元豊島区医師会長は、医師会の会議において「そんなことは非常識だ!」と声高に叫ぶ医者がいると、ニヤニヤ笑いながら私に小声で、「医者の常識、非常識」と囁いてきたものです。
「職業に対する差別的発言だ。」として抗議した日本医師会の行動が私にはピントはずれな行動であるように感じました。抗議すべきは、医者が常識的か非常識かなどという不毛な論点ではなく、医者が非常識であったとしても、そのことが現在の医師不足の原因ではないという点なのです。これまで国の行ってきた誤った政策に起因する現在の医療崩壊の原因を、医者が常識的かどうかなどという瑣末な問題にすり替えさせてはいけません。
もともと、現在の日本医師会はわが国の医療を先導していくという気概や自尊心が見受けられません。「寄らば大樹の陰」と政府、与党に擦り寄り、癒着しているようにさえ思えます。ですから、今回の抗議行動も単なるパフォーマンスであり、首相官邸で本当に柳眉を逆立てて抗議したかどうかは疑わしいものです。「麻生さん、まずいこと言ってくれたな。」、「これじゃなにがなんでも自民党支持を打ち出している日本医師会の面目がたたず、全国の会員の造反が起きてしまうよ。」という危惧から、形式的に抗議して、これに対して首相が陳謝したという演出をしただけではなかろうかと思っています。なにせ、官邸の密室の中で行われたやり取りなので真相は定かではありません。

さて、そもそも常識とは何なのでしょう。常識とは広辞苑によると「普通、一般人が持ち、また持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力、判断力、思慮分別などを含む」となっています。
言うまでもなく、どういう知識までが常識として必須なのかという明確な基準はありませんし、時代とともに変わります。一般という定義自体が極めてあいまいな概念です。おそらく大多数の人たちが共有する知識と考えられますが、一つ一つの知識やふるまいを国民投票による多数決で決めているわけではありません。
このために地域や年代によって、自分たちが「一般的」だと考える知識や考え方が違ってきますし、教育程度や職業によっても異なってくるのは当然です。いくら専門的でない知識と定義しても、長く一定の地域に住み、教育を受け、一定の職業に就いていますと、自分たちが日常的に当たり前と思って使っている知識を常識と思うようになります。ですから、集団によって異なった常識が存在することになります。ここが「常識」の難しいところです。
ですから、生まれ育ち、現在所属する集団によって常識が違うということを各々が自覚して共生していくことが大切だと思います。そういうことを正しく理解し、分別できる真の常識人はあまり他人に対して自分の常識を押し付けません。ところが偏った常識を持っている人、つまり常識というものの不確かさを理解していない人に限って、自分の常識を他人に押し付けて非難しがちです。
「非常識」という言葉は自分と違う考えを持った人を集団で非合理的にバッシングする道具として重用されます。いわゆる村八分です。そこまでいかなくても、やたらに常識、非常識を持ち出す人は論理的思考力の劣る、あまり上等な人だとは思いません。

医師は先ほど述べたような背景をもって、特殊な業務を日常とする、しかも全国民の中では少数の集団です。理解力、判断力、思慮分別で大きく劣っているとは思いませんが、最大多数を代表する知識や意見の持ち主でないという意味では非常識であって当然と言えます。
なによりも、医師は一般の方がめったに体験することのない、人の「生」、「死」という出来事に日常的に直接関与しています。一般の方とは異なる価値観、人生観を持つ可能性が大です。しかし、そういった価値観に基づく常識的でない発言は社会にとって必要な場合があるのではないでしょうか。常日頃「生・老・病・死」という、目を背けたいけれど逃れられない生き物の宿命を肌で感じている者ででなければ言えないことがあるのではないかと考えます。
精神科医である私の場合には、劣悪さが増す雇用環境が主な要因になって、症状が悪化する患者さんが増えていることを実感します。また、往診をしている高齢者の患者さんの介護にあたっている方の中で、介護の負担から、ご自身の健康を損ねて、共倒れになる例が後を絶ちません。さらについ最近、私の地区で熱心で善良な活動を続けていた介護サービス業者が、介護報酬が少ないために経営を継続できず、ついに閉業しました。
こういう現実と身近に接していると、「経済効率が全てに優先する」という最近の「常識」から大きく外れた考えに行き着くのです。

麻生さんがおっしゃる通り、私は自分のことを常識人だとは思っておりません。しかし、それで良しと考えています。むしろ今後も、常識と思われて見過ごされていることに対して警鐘を鳴らせるような「非常識」でありたいと思っています。

院内処方の診療は時代遅れなのか?

当クリニックは国の政策に沿った時代の流れに逆らって、未だに院内処方方式を原則として診療しています。今や時代遅れの診療スタイルと思われています。
院内処方方式とは診察した医療機関で直接薬を提供する診療のやり方です。これに対して現在多くの医療機関で採用している院外処方方式とは、診察、検査、手術や処置(消毒やギプス固定など)は医療機関で行い、投薬に関しては処方箋だけを発行するやり方です。患者さんはこの処方箋をもって薬局に赴き、調剤してもらい、薬を受け取るわけです。この形態を医薬分業とも言います。
医薬分業は国の政策です。国はこの政策を推し進めるために、医療機関が薬を購入する際の卸売価格を高い値に引き上げました。また以前このコラムで書きましたが、医薬品に関わる5%の消費税は特例品目として最終消費者である患者さんに負担はなく医療機関が負担しています。実にむちゃくちゃな話ですが、この医療者苛めの実態は国民の多くに知られていません。
この結果、薬価差(小売価格と卸売価格の差益)はおしなべて5%未満になりました。窓口で高い薬代を支払ったとしても決して医療機関の収入になっているわけではありません。私たちは単なる徴収役で、患者さんからいただいた薬代は右から左へと薬の卸売問屋を経由して製薬会社へまわっているのです。中には逆ザヤ(小売価格より卸売価格の方が高い状態)の医薬品もあります。そういう薬の場合には処方すればするほど医療機関が損失を被ることになります。さらに、薬を貯蔵しておくためのスペースや設備、薬を分包するための機械や薬包紙、薬を入れる袋、薬の期限切れによる損失、薬を調剤してお渡しするための人件費といった経費を考えると院内処方方式では赤字になってしまいます。
一方、国は紙切れ一枚書くだけで済む、院外処方箋の発行に対する診療報酬を高くしました。その結果、多くの医療機関が雪崩をうつように院外処方箋方式に移行したのです。
医薬分業の推進の最大の目的は不必要な薬の投薬、いわゆる「薬漬け医療」の改善にありました。数十年前は薬価差が70%近くある上に消費税がないため、薬を出せば出すだけ儲かるシステムでした。このために、心ない医療機関は必要もない薬を山のように投薬して金儲けに走っていたことも事実です。「薬漬け医療」は患者さんの健康に好ましくないだけではなく、医療費を食い潰してしまい、現在の医療崩壊を招く一因になりました。医療者側はこの点を猛省して総括するべきだと考えます。

医薬分業が進むことによって、この他にもいくつかの点で患者さんに対するサービスが向上しました。その一つは同じような効果を持つ薬の重複投与の防止です。
患者さん、とくに高齢者の患者さんは複数の医療機関に並行してかかっていることが少なくありません。高血圧や高脂血症で内科に通院して、腰痛の治療で整形外科に通っているということはよくある例です。
そういう場合、内科と整形外科でそれぞれ渡している薬をお互いによく把握していなければなりませんが、この情報の共有は必ずしも常に円滑に機能はしていませんでした。そういう状況下で院内処方方式ですと、同じ効能効果をもつ薬が複数の医療機関から重複して投与される事態が起きました。例えば、腰痛に対して整形外科で鎮痛解熱薬を処方されている患者さんが風邪の症状を訴えてないかを受診した時に、解熱の目的でさらに鎮痛解熱薬を処方される可能性がありました。
院外処方方式であって、患者さんがすべての医療機関で発行された処方箋も同一の薬局で調剤してもらっているとすれば、医療機関で処方の重複があったとしても薬局の段階でチェックされて各医療機関に問い合わせて、重複しないように再調整することができます。
もう1つ行われるようになった患者さんへのサービスは、薬局が処方された薬の効果や副作用が簡単に記された写真入りの説明書を薬と一緒に配るようになったことです。患者さんは自分の飲んでいる薬がどういう作用や副作用をもっているのかを知ることができ、安心して服薬できるようになりました。他の病院に受診する場合にも、その説明書を持参すれば今まで服用していた薬が一目瞭然ですから、先ほど述べたような重複処方の防止にも役立ちます。

良いこと尽くめのように思われるかもしれませんがそうでもありません。院内処方方式の場合の処方料と調剤料は、院外処方方式の場合に医療機関で支払う院外処方箋と薬局に支払う調剤料よりもはるかに安い設定になっていますから、同じ薬を同じ量貰った時に医療費の合計は、院外処方方式の方が高くなります。当然のことながら、患者さんが窓口で支払う自己負担料金も薬局で薬をもらう方が高いのです。
また院外処方方式の場合には、一回の診療で患者さんは医療機関と薬局の2箇所に行かなければならず、それぞれにおいて一定時間待たなければなりません。院内処方方式だと医療機関にさえ行けば、診療のすべてが事足りるのです。患者さんの労力と時間に関しても院内処方方式の方が安くつくというわけです。
私の専門である精神科は近年かなり認知度が高まって敷居が低くなったとは言え、まだまだ偏見がなくなったわけではありません。今でも、かなりの勇気をもって、やっとの思いで受診される方が少なくありません。そういう方が診察の後にまた、薬局に行って向精神薬をもらうことには相当のエネルギーを消費します。私が自分のクリニックを院内処方方式で頑張っているの最大の理由はこの点です。患者さんの負担する肉体的、精神的、経済的負担をできるだけ少なくしたいのです。
同じ理由から、私は小児科もできる限り院内処方方式を採用するべきだと思います。木枯らしや氷雨の時に高熱の乳幼児が親に抱えられて医療機関と薬局を梯子するのは酷だと思います。医療機関で治療のすべてが完結することが望ましいのではないでしょうか。
重複処方の危険性は院外処方方式でも避けられないことがあります。なぜならば、患者さんが1か所の薬局だけで薬を受け取るとは限らないからです。国の医薬分業政策に乗って、調剤薬局が多数開設されました。その多くは各医療機関に近接しています。患者さんが処方箋をもって長距離彷徨う必要がないのが利点ですが、見方を変えるとそれまで病院の敷地内にあった薬の窓口が屋外に移動しただけと言えるような状況でもあります。このために、Aという医療機関でもらった処方箋はその目の前にある○○という薬局で調剤してもらう。Bという医療機関で処方された薬はその近くにある××という薬局でもらうというケースが少なくありません。これでは重複処方のチェック機能を果たすことはできません。
また、重複処方のチェックは院外処方方式でなくてもできるようになってきています。国の進めた善い政策の結果、自分の処方してもらった薬を記載してもらう「お薬手帳」というものが広く普及しました。患者さんがお薬手帳を携行していれば新たに院内処方方式の医療機関を受診しても同じ薬を処方する危険は回避できます。
薬の説明書には弊害もあります。一つの薬剤について数行しか記載していませんから、説明が表面的で通り一辺倒になることはやむとえませんが、このために患者さんがかえって混乱することがあります。
精神科で扱う薬は各薬剤間のデリケートな性質の違いを駆使して処方することが多いのですが、例の説明書ではそんな違いまでは説明できません。「気持ちを和らげる薬」とか「気分を明るくする薬」といったおざなりの説明しか記載されていません。このために、同じ効能の薬を何種類も処方されたかのように誤解されることがあります。
もっと困るのはある種の薬はてんかんの治療薬であると同時に感情の浮き沈みを調整する薬効を持っているのですが、例の説明書に「けいれんを抑える薬」となっているために気分障害の患者さんに処方した時に「何で私はてんかんの薬を飲まされなきゃいけないんだ。これは誤診だ。」と大騒ぎになってしまうことがあります。
副作用に関してもいろいろな危険性が羅列してあるために、患者さんにめったに起こらない副作用の心配を引き起こすことになる場合があります。
以上の理由に加えてカラー印刷の説明書を作成するだけの経済的な余裕がありませんので、私のクリニックは説明書を発行していません。必要性あるいは患者さんの要求に応じて手書きのメモを書きながら口頭で説明することにしています。説明の仕方は説明を受ける相手方の薬に対する基礎知識や理解力に応じて変わります。一般的な解説に留まることもあれば、分子レベルの作用機序にまで及ぶこともあります。

院内処方方式を原則としていますが、最近は院外処方箋を発行するケースが増えてきています。なぜならば、めったに使用する機会のない薬を買っておいても使用期限切れになってしまった時には莫大な赤字になってしまうからです。また、最近は患者さんの方から薬剤を指定されることが多くなってきたことも理由です。他の医療機関から私のクリニックに転医されたかたは、以前服用していた薬に対して絶大な信頼感を抱いていることが多いのです。その場合に、いくら「似たような作用ですよ」と説得しても、やはり新しい薬に対する不安を拭い去ることはできません。薬の作用には実際の薬理学的な作用の他に心理的な効果、「プラシーボ効果」というものがあります。患者さんが安心して服用できるならば、今まで通りの薬を提供することがベターだと思います。しかし、それに応じて何万種類も出回っているすべての薬剤を準備することなど不可能ですから、そういう場合には院外処方箋を利用します。
しかしながら、私のクリニックに訪れる方は「できればここで薬を出してほしい。」とおっしゃる方が圧倒的に多いのが現実です。

以上、院内処方方式と院外処方方式とにはそれぞれ一長一短があります。診療科の特性や患者さんの希望に応じて両システムを使い分けることがよいのだと思います。しかし、院内で薬を渡す設備や人員を一旦廃止してしまった医療機関が、再び院内での調剤を復活することは物理的にかなり困難です。一方、院内処方をしている医療機関が院外処方箋を書くことはいとも容易いことです。
一見、時代遅れのように見えるものが最も時代の先取りをしているということはよくあります。私は今後も院内で薬を渡すことができる体制を維持しつつ、ご希望があれば薬局向けの処方箋を発行する今のやり方を出来るだけ続けていきたいと思っています。
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