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クリニック西川

2009年6月

猿に烏帽子-死語となった「分相応」-

私は自他共に認める「おばあちゃん子」でした。昔から「祖母(ばば)育ちは三百安い」*1と言われるように、確かに私は祖母の溺愛に甘やかされて育ったために、我儘で協調性に欠けるようです。
しかし、両親に加えて祖母からの溢れんばかりの愛に恵まれて育てられたお陰で、無用な劣等感を持つことなく、自分という存在に誇りを持って生きてこられたと思っています。
たくさんの人と会うことを商売としていますと、最近は何かと言えばすぐに僻んだり、他人を恨む傾向が強くなっているのではないかと感じます。他人に対しての寛容さが小さくなって、相手を攻撃する能力ばかりが高くなっているようにも感じます。
こういった傾向の根底には、核家族化によって両親とは異次元の理屈を超えた祖父母の愛情を受けることなく育つようになったこともあるのではないかと考えています。他者との優劣とは関係なく、ただそこに存在するということだけで愛されるという経験をすることが健康な自我の発達にとても大切だと思います。
祖父母と一緒に暮らす素晴らしさは、このような無償の愛だけではありません。言い尽くされていることではありますが、昔からの言い伝え、習わし、人生哲学を肌身を通して伝授してもらえます。私が取り立てて習い事をしないでも、一人で和服を着ることができたり、茶席に招かれても困らないのは、皆祖父母との同居生活があったからです。
祖父母から教えられた物事を書きだしたらきりがありませんが、その中で常に私の行動規範になっている教えが「分相応に生きなさい」と「みっともない真似はしないように」の二つです。
実はこの二つの教えは密接につながっています。分不相応な生き方はみっともないですし、格好良く生きるということは分を弁えた中で縦横無尽に活躍するということだからです。
人が天から与えられた自分の個性、能力を生かして、実りある人生を送る上でとても大切なことだと思うのですが、近年この「分」という言葉は死語になってしまったようで、とんと耳にすることが少なくなりました。そして、現実に今の世の中では分を弁えずに悪戦苦闘して傷つく人、分不相応な望みのためになりふり構わず金儲けや功名に走るみっともない人が急増しているように思います。
人が分不相応な欲望のために動くと本人が意味もない挫折感を味わうだけでなく、社会全体の健康な機能が損なわれてしまいます。

先日、東国原宮崎県知事が自民党古賀選挙対策委員長からの衆議院議員選挙への出馬の打診を受けて、引き受ける条件の一つとして自民党総裁の椅子を要求したことが大きな波紋を引き起こしています。
御当人は会談内容がリークされて非難の声の方が大きいとみるや、「地方分権を実現するための手段だ。」とか「自民党にそのくらいの意気込みがあるかを問うているのだ。」とか舌先三寸で論調を変えています。しかし、彼のこれまでの人生行路や言動の数々を振り返って見れば、自民党の混乱ぶりをみて己の上昇志向を満足させる千載一遇の好機と考えているのは明らかです。
そもそも、本人は「地方分権」というワンフレーズのキャッチコピーで国民をごまかせたと思っているようですが、「政策で全国知事会の要望を受け入れる政党を支持する」と言いながら、一方で「総裁選に出してくれるならば自民党から出馬する」ということは、まったく支離滅裂で理にかなっていません。
この男、お笑いタレントとしての知名度を頼みに宮崎産の物産を売り歩くセールスマンとしての腕前はそこそこ評価せざるを得ません。しかし、腰と膝を十五度ほど折り曲げて、揉み手しながら鼻眼鏡で歩く媚態は、やり手の押し売り商人以上の者ではありません。腰を折れば折るほど全身から成り上がり者、権力欲、傲慢な差別意識の異臭が漂ってきます。
彼の虚構の人気は御多分にもれずマスコミの力です。お笑いタレントで知事という美味しいキャラクターをテレビが放っておくわけがありません。普通の知事ならば絶対に取り上げられないような日常行動まで面白おかしくカメラが追いました。この結果、彼の知名度は鰻登りになり、本人も自分に本当に力があるかのように錯覚してしまったようです。つまり、マスコミが煽てあげて馬面の豚が木に登ってしまったということなのでしょう。

かたや東国原になめられた形の麻生さんは、棺桶に片足突っ込んでるにもかかわらず、都内を精力的に自民党公認都議選候補応援のために走り回っています。
そして、行く先々で馬鹿の一つ覚えのように、べらんめえ口調の演説を披露しています。その度に相も変わらずお馬鹿ぶりを発揮しているようです。先日も「必勝を期して」と言うべきところを「惜敗を期して」と振ってから「頑張ろう」コールをしてしまいました。しかも同席の議員から指摘されてもしばらく気付かなかったのこと。さらに情けないことにはこれほど致命的な言い間違いをしても、この手の失言は日常茶飯事となってしまったのでニュース性が無くなって、もはやマスコミにそれほど大々的に取り上げられなくなってしまいました。
この麻生「与太郎」さんの盟友と言われている安倍元総理の手書きの原稿が週刊誌にすっぱ抜かれて、胃弱な元総理大臣の頭の中身も明らかになりました。その原稿には「実績」が「実積」、「軍艦」が「軍盤」、「批判」が「批反」と書かれているのです。
総理大臣に漢検二級の国語力や当意即妙の話芸を要求する必要はありません。しかし、建国230年そこそこの移民国家ならばいざ知らず、少なくとも2000年を超える歴史と文化、そして何よりも1億2千万人の国民を代表する総理大臣には、少なくとも平均以上の教養と人格が求められて然るべきではないでしょうか。
カレンダーのように、交替する度に薄っぺらになっていく総理大臣。この流れの行き着く先が少女買春したチンケな破廉恥漢の立候補であることは当然の帰結なのかもしれません

マスコミが世論を支配するようになって、マスコミに露出する者が優秀であるかのような錯覚が蔓延しています。本人の実力とはかけ離れた嘘名がまかり通り、やがて嘘から出た真になってしまうのです。いまやマスコミが時代をいかようにも作り変えられると言っても過言ではないのでしょうか。
こういった悪しき流れをうまく利用したのが小泉でした。そしてマスコミによる嘘名を利用したビジネスもあらゆる分野で繁昌しています。たいして美味しくもない店でも金を払ってテレビに取り上げられれば、翌日から行列ができる「評判のレストラン」になります。医療の世界でもマスコミが「名医」を販売している話はすでに過去のコラムでご紹介しました。
このような悪弊の根源は、情報を受け取る側の我々が、その情報を正しく消化しきる能力を持っていない。つまり、本当に自分の目で物を見、自分の舌で味わい、自分の頭でものを考える力がないということに因ります。小泉以来の衆愚政治は私たちの能力の低さの証明なのです。しかし、そういった実態を知っていながら利益追求の目的でいたずらに世論を誘導するマスコミは絶対に猛省すべきです。

私は、戦後の日本人の間で死語となってしまった「分相応」という言葉を復活させることが急務であると考えています。もし分を弁えることが大切にされるならば、麻生さんも漫画以外の読書に励んだでしょう。安倍さんもスローガンとしてだけでなく、中身のある「美しい国、日本」を描けたのではないでしょうか。東国原に至っては、自分が総理大臣のいすに座っている姿が「猿に烏帽子(えぼし)」*2以外の何物でもないことに気付くはずです。
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*1:祖母育ちは三百安い:祖母に育てられた子供は、甘やかされて育ったために、他の子供と比べるとしっかりしたところがなく、劣って見えるということ。三百とは三百文という貨幣単位。「祖母育ちは銭が安い」とも言う。
*2:柄にもないこと、ふさわしくないことをするたとえ。また、外観だけ装って実質がそれにともなわないことのたとえ。猿に人間のかぶる烏帽子(えぼし)をかぶせるの意から。烏帽子とは昔、元服した男子の用いた冠物。

鬼子母神に問う―臓器移植法改正―

「畏れいりやの鬼子母神」という遊び言葉で知られる台東区入谷、真源寺の鬼子母神堂は夜叉の女神の一尊であるハーリティーを祀っています。子供と安産の守り神とされている鬼子母神は、東京では入谷の真源寺のほか雑司が谷の法明寺鬼子母神堂も有名です。
安産を願う妊婦さんや子供の健やかな成長を祈る若い御夫婦のお参りが後を絶ちません。仏教発祥の地インドでもハーリティーは子授け、安産、子育ての神とし て手厚く祀られているそうです。我が子の無事な成長を願う親の気持ちは世の東西を超えて変わりがないことがよく分かります。

さて先日、臓器移植法改正案が衆議院を通過しました。この後、参議院で可決されれば、平成11年以来10年ぶりの改正となります。今回衆議院を通過した案 の大きな改正点は、年齢を問わず、脳死を一律に人の死と定義すること。また、本人の書面による意思表示を義務とせずに家族の同意のみで臓器提供ができるよ うになるということです。
我が国の現行臓器移植法は先進諸外国に比べて脳死判定による臓器提供に関する制約が厳しいので、施行当初から国内における移植が増えないことが予想されていました。
このため、法律施行後の国内移植医療の成果を検証して、3年後を目途に見直すことになっていました。案の定、国内での臓器移植件数は遅遅として伸びず、多くの患者さんが移植手術を受けるために海外、とくにアメリカに渡航する状況が続いていました。
アメリカにおいても湯水のように提供臓器があるわけではありません。アメリカにおいても多くの人が臓器提供を待っているのが現状です。優先すべきは自国民 ですから、金にあかせて臓器を買い漁る日本人は歓迎されません。そこでアメリカでも外国人には5%以内という臓器配分の枠をはめました。それでも、他国に 比べて金持ちですから、5%枠のほとんどを日本人が占めてしまっています。
豊かな国における移植医療の範囲が拡大の一途であるために、移植のための臓器は慢性的に不足しています。需要に応えるために正規のルートから入手できる臓器だけではなく、違法な方法で入手した臓器が闇のルートで売買されています。
非正規なルートから入手した提供臓器の中には、一族郎党の生存の代償として、第三世界の貧困者、中でも子供たちの身体から生きながらに抜かれた臓器も少な くないのです。当然ながら、金持ちである日本人がこういった闇のルートによる臓器売買の上得意であることは言うまでもありません。日本人の需要が増えたた めに臓器の闇値もどんどんつり上がっています。日本人の移植ツアーが世界の臓器不正売買ビジネスに一役買っているのです。
スポーツ選手などが、移植治療を希望する子供のために募金を呼びかけるということが美談として報道されることがあります。確かに、発起人たちの募金の動機 は、いたいけない幼児の命を救おうという、目の前にある不幸を見過ごせない純粋な博愛の心にほかならないのだと信じています。しかし、尊い一人の命が救わ れる背景に、同じ一人の人間の無念の死があるかもしれません。移植医療に纏わる影の部分にも目を向けなければなりません。
WHOもこの事態を看過することができず、海外渡航移植の原則禁止と臓器の自国内提供を定めるガイドラインを本年5月に策定することにしました(実際には 予期しなかった新型インフルエンザの流行によって来年に延期)。このために、法の改正は焦眉の急であったのです。それにも関わらず、人の死に関わる哲学的 な判断をも要求されるデリケートな法律であることと、もともと議員立法で成立した法という理由で行政が改正議論から距離を置いたために10年も店晒しにさ れてきました。
臓器移植以外に我が子の延命が図れない両親にとっては首を長くして待ち望んでいた法改正です。本来ならベッドから動けないような病状の我が子を遠い外国に 行かせなくても済むようになります。また、5%の狭き門をクリアーするために必要な何十億円という補償金や、渡航費用も必要でなくなります。朗報と言えま す。
原則自国内での臓器提供となれば、日本人の子供を延命するために貧困国の子供たちが生きながらに臓器を抜かれて売買される地獄絵図も改善されるでしょう。
しかし、移植を望むすべての患者さんの需要を満たすだけの臓器が今の日本で入手できるとは到底考えられません。さらに、いったん商売として成立した臓器不正売買がそうたやすく根絶されるとも思いません。
今まではアメリカや中国に送られていた臓器が、巧妙な手段で日本国内に持ち込まれる危険性があります。また、そうでなくても児童虐待が後を絶たない昨今、虐待を隠ぺいする目的や金を得るために、子供の臓器を売る親が出てくることはほぼ間違いないと思います。
脳死を死と考えるか否かという重要課題ももっと時間をかけて検討するべきですが、自然の摂理に反して、他人の臓器を頂いてでも己や我が子の命を長らえさせ たいという、生きることへの欲求はいったいどこまで許されるのかという疑問にはこれまで表立った議論がなされてきませんでした。
なぜならば、人の命は地球より重いという美しい大義名分を前にした時、生半可な勇気では異を唱えることができないからです。しかしながら、この課題につい ては絶対にきれいごとでお茶を濁してはいけません。全国民が本音で議論しなければなりません。少なくとも参議院では、票勘定抜きに、実りある議論がなされ ることを切望します。

ハーリティーは仏に帰依する以前は己の子供を愛するあまり、他人の子供を喰らっていた鬼でした。釈迦の導きで、他人の不幸の上に自分の幸福がないことを 悟って慈愛の神、鬼子母神となりました。彼女が果たしてどのような思いで今回の法改正を見つめているか、大変興味深いところです。

あるがまま

心の健康は単一の原因で損なわれることは多くありません。大半の場合、幾つかの要因が重なって病気になります。それらの要因は内因(素因)と外因に大別されます。内因とはその人の病気になりやすさであり、外因とは外から加わるストレッサーを意味します。その外因にも様々なものがありますが、とくに多いのが環境因と心因です。
劣悪な環境や嫌な出来事によって精神が不健康になるということは容易に想像が付きます。しかし、かなりショックな出来事であっても、それが一時的なことであったり、簡単に解決がつくことである場合には、なんとか心の健康を保てるようです。
例えば、搭乗予定の飛行機が欠航するということは大変ショッキングな出来事ですが、代替えの便がすぐに手配できれば、アンラッキーな思い出の一つになるだけです。このことが原因で精神障害になるということはめったにありません。
また、歩いていて酔っ払いに絡まれたとしても、さっさと逃げてしまえばそれまでです。しつこかった場合でも、法的な問題は残りますが、ぶん殴って退治してしまえば心の健康には問題ありません。
心の健康を損なう外因とは、一つ一つはそうたいしたことでなくても、慢性的に続くこと、あるいはなかなか解決策が見いだせない物事なのです。
例えば、自分に対してとても不愉快な言動をしてくる相手がいた時に、先ほど述べたようにぶん殴ってやっつけてしまうか、一目散に逃げ出して二度と会わなければ精神障害には発展しません。
ところが、人間は単独で行動する動物ではなく、社会を構成して、その社会の中でお互いに連携しながら生きていく動物です。そしてその社会は加速度的に複雑になってきています。ですから、暴力で解決することは禁じられていますし、不本意ながら虫酸が走るような相手とも接触することを余儀なくされます。
また、社会人になると自分の得意でないこともやらなければなりません。例えば、本来緊張しやすくて人前で話すのが苦手なのに、大勢の前でプレゼンテーションしなければならないなんてことはよくあることです。 社会が複雑で大きくなるに従って心の不健康を訴える人が多くなるのは至極当然と言えます。
法律や社会規範といった制限があまりなかった未開な時代には、暴力沙汰で身体的な傷害が絶えなかったかもしれませんが、精神障害はほとんどなかったと考えます。言い換えれば、現代人が生きていくためには、不本意な状況をうまく処理する技が要求されるのです。

私が精神療法の基盤としているのは、我が母校の初代精神神経科教授であった、故森田正馬先生が1920年頃に発案した森田療法です。森田療法は心の葛藤によって不健康になる神経質症の治療法です。森田は同時代を海の向こうで生きたフロイトの精神分析と対極的な考え方によって神経症にアプローチしました。
極東の島国の精神科医が考案した理論ですから、精神分析とは違って、長い間世界に知られることはありませんでした。日本においても精神療法の主流を歩んできたわけではありません。
それでも、その後弟子たちが地道に治療の実践と啓蒙活動を続けた結果、世界的な東洋文化の流行もあって、1960年頃から世界の注目を集めるようになりました。
ところが、森田療法は治療の実践の場で組み立てられたものであり、系統だった理論として発表されたものではありません。また、森田の理論は本人がどれほど意識したかどうかは分かりませんが、「禅」に通ずるところがあるので西洋人の注目を引く反面、用語やその解釈が難解で、正しく理解するためには、かなりの知的能力を要求されます。このため、誤解されている部分が少なくありません。

森田理論の重要なキーワードの一つに「あるがまま」というものがあります。この「あるがまま」とは種々の刺激に対して、必然的に起こる私たちの心理的、身体的な反応をあるがままに認めて、それを受け入れること。その反応を否定したり、ごまかそうとしないことを言っています。
例えば、大勢の人の前で話をしようとすれば緊張してあがってしまいます。いくら集中して勉強しようとしても、長時間にわたって一心不乱の状態で好きでもない勉強のことだけを考え続けることはできません。必ず雑念が浮かんでくるものです。常に爽やかに健康でいたいという願いは万人共通ですが、生き物であるある限り、時には頭が重かったり、肩が凝ったり、だるかったりします。
こういったことは、ヒトという社会的な生き物が避けて通れない、生理的な心身の反応なのです。自分にとっては不都合で楽しくない現象かもしれませんが、こういった心身の現象が起こることが現実であるということを、そのまま素直に受け入れることが森田の言う「あるがまま」ということです。
森田は「あるがまま」に自己の直面する現実を受け入れた上で、目的に沿った行動をとりなさいと言っています。すなわち、「あがってしどろもどろになったとしても、しどろもどろのままでいいから伝えるべき内容を話しなさい」、「雑念で効率が悪くなったとしても、それなりに目の前の勉学に取り組みなさい」、「たまに身体がすっきりしていなくてもその日やるべきことをやりなさい」と。
そうではなく、こういった心身の現象があると都合が悪いし、そんなことはあってはいけない、あるべきでないとして、人間として当然あるべき現象を「あるがまま」に受け入れようとせず、否定あるいは排除しようとすると、さらにその現象に悩まされることになってしまいます。
人間が行動をする時に大切なのはうまく、すんなりと、一片の不安もなく、快適に行うことではなく、本来の目的を達成することなのです。たとえ不細工であろうが、辛かろうが、不安や迷いをもっていたとしても、目的を見失わないで生きることが当たり前の生き方である。そのことを忘れないことが肝要であると説いているのです。
ところが人は往々にして目的と手段を取り違えてしまいます。
有意義で充実した人生を送るためには健康であることが望まれます。出発点はここなのですが、人によってはいつしか健康でいることが目的にすり替わってしまって、他人の役に立つことは何もせず、ひたすら自分が長生きすることを人生の目的とする人がいます。頭が重いと言っては家族を叩き起こし、37℃発熱したと言っては救急車を呼ぶ人がいます。
こういう生き方は、他人に迷惑をかけるだけでなく、本人も常に不安でびくびくするだけです。これを「ただ馬齢を重ねる」と言うのでしょう。
さて、この「あるがまま」もよく誤解されることばです。自分という自然の創造物は理想通りに作られていない。自分に不都合な事実も、生きているという現実の一部であるということを受け入れて、やるべき物事から逃げずに立ち向かいなさいという意味の「あるがまま」を、自分の思い通りにいかなかったり、不愉快だからそういう状況から逃れたり、横道にそれてしまう悪い行動パターンをあるがままに受け入れて良いと誤解する方が少なくありません。
例えば「人前で話すと上ずってしまうのでそういう場を避けてきた自分をあるがままに受け入れて、今後とも、たとえ業務と言えどもプレゼンテーションは断っていいのだ」とか、「体調不良を心配するのは当たり前だから、そういう心配症の自分をあるがままに認めれば、欠勤することはやむを得ないのだ」という解釈です。

森田理論の真髄である、この「あるがまま」は正しく理解したとしても、言うは易し行うは難しです。神経症の患者さんに限らず、私も含めて人間は自分に不都合なことは認めたくないものです。理想と現実がずれていることに気付いてもなかなか「あるがまま」にその現実を受け入れられません。
ですから、森田理論は何も神経症の治療だけのものではないのです。人がよりよく生きていくための指針を示していると言えます。
生活の中で何かに躓いたり、納得のいかない状況に陥った時には、一歩引いて「あるがまま」に俯瞰してみましょう。そうすれば、いたずらに不安に苛まれたり、自分を責めたり、他人を恨んだりすることが少なくなるはずです。

もの忘れの功罪

徐々に進行してきたのでしょうが、最近自分の記憶力が確実に悪くなっていることを自覚します。新しいカタカナ用語や略語(CDS*1とかPPIP*2とか)をなかなか覚えられません。自分の専門でない経済用語なんか覚えられなくても当たり前と自分を慰めてはみるのですが、専門分野の医学用語でさえも例外ではないのですから言い訳はできません。
「ARB*3」 と言われて「なるほど。アンギオテンシン受容体阻害薬だからアンギオテンシンンのA、receptorのR、blockerのBなんだ。」といったんは覚 えたつもりになるのですが、しばらく経つと「アンギオテンシンのA、receptorのR、inhibitorのIだからARIかな?」という調子です。 自信をもって覚えたと言えるには数週間を要してしまいます。
専門の精神医学の領域でさえ言葉を覚えるのに苦労します。例えば、今や講演のタイトルにまで使われる「アドヒアランス」も覚えるのに一苦労しました。患者 さんが主体的に治療を続けていくという意味だったということは思い出せるし、たしか「ア」から始まったなというところまでは出てくるのですが、その後が出 てこないのです。ただ、研究会などで皆さんが口を揃えて「今までの患者さんに治療者の方針を順守させるコンプライアンスではなく、これからはアドヒアラン スです」などと使うのに、メモを取らなかったためにすぐには覚えられませんでした。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。とある研究会に参加した直後、勇気 をもってその研究会で顔を見かけた知り合いの医師に尋ねました。「今まで使われていたコンプライアンスに代わって流行りだした概念で、アで始まるやつって なんでしたっけ?」。
それから何度も復唱して頭に叩き込みました。言わんとする内容はとりたてて声高に連呼するほどのことではないのですが、すっと言葉が出てこないと、若手の 精神科医や製薬会社のMRさんたちに馬鹿にされそうですし、患者さんからの信頼をなくしてしまうので必死にならざるを得ません。
こんな調子ですから、雨後の筍のように登場するタレントやお笑い芸人の名前なんか、まったく覚える間もなく当人たちが消えていってしまいます。それでも伊 東美咲の名前はデビューするや否やしっかりと覚えましたから、自分の情動や本能を強く刺激する対象についての記銘力は衰えていないようです。
ということは物を覚え込むという記銘機能の潜在能力そのものは保たれているわけですから、美咲ちゃん以外の人物名、医学用語、政治経済用語をすんなりと覚 えられない原因は記銘力そのものにあるのではなく、美咲ちゃん以外のことを覚えることを脳がサボタージュしているに違いありません。
他の脳機能と同様に、記憶も他の諸機能と相互に深く連携しています。ですから、できるだけ多くの機能が関連した記憶ほど覚えやすく忘れにくいのです。中でも本能や情動と結びついた事象は強く深く記憶されます。
こう考えると加齢とともに記憶力が悪くなるというのは単純に記憶機能そのものが低下しているのではなく、本能や情動の感受性が低下していることも関係して いるのではないでしょうか。言葉を変えれば、年を取るとだんだん興味や関心が狭く、弱くなるために、いくら覚えなさいと命令されても記銘機能がさぼってし まうのでしょう。
専門の学術用語に関して言えば、本当に画期的で目から鱗のような発見ならば、今の私でも一回聞いただけで覚えると思います。否が応でも忘れられないと思い ます。アドヒアランスを覚えるのに苦労したのは、内容を聴いて、「臨床に携わっていれば言わずもがなの当たり前のことを、ことさら奇を衒って横文字の名前 を持ち出しているだけじゃないか。ばかばかしい。」という思いが心の底にあったために、無意識のうちに記銘することを拒否していたのかもしれません。
人間は加齢とともに経験が増えます。そうすると何か新しい出来事に遭遇しても、「ああこれは以前に経験したあの例とほとんど同じことだ」と言うように、過 去に体験し記憶している出来事に当てはめて類型化して対応しがちです。このやり方は効率が良くて失敗が少ないのですが、好奇心を惹起しませんから目の前の ことを新たに記憶しようというモチベーションが上がりません。結果として新しいことを覚えなくなります。
ですから、記銘力の低下を防止したいならば過去の記憶に頼って無難に生きるではなく、当たり前と思うことにも疑いを持ち、今まで関心を持たなかったことに も目を向けて、ドキドキハラハラしながら好奇心旺盛に、ちょっとあぶなっかしい生活をするほうがいいのかもしれません。

今までの話は物を覚え込む記銘という機能の話でした。ところが、記憶という機能は記銘だけではなく、覚え込んだ記憶を整理して貯蔵し、必要な時に収納してある棚から取り出して使えなければなりません。
アルツハイマー病のように重篤に脳が障害されてしまうと記憶を収納している倉庫もやられてしまうので、完璧に記憶が消し飛んでしまいます。コンピュータの ハードディスク自体が破損してしまうようなことです。しかし、普通に年をとっていくだけではこういう事態にはなりませんから、あまり過剰に物忘れを心配す ることはありません。
ところが、いざ必要となって記憶の倉庫から取り出してこようと思ってもなかなかそれを見つけることができないという状態はどんな人でも年をとってくると避 けることができません。これは記憶の再生障害と言って、倉庫にしまってあることは確実であるにも関わらず、どの棚に分類してあるかが即断できなかったり、 その棚を開けるための鍵を見失ってしまう状態で、若い時にも起きますが加齢とともに確実に増加します。
再生障害と言うと難しそうですが、平たく言えば「ど忘れ」です。喉のあたりまで思い出しているのに言葉になって出てこないというやつです。記憶自体が失わ れているわけではありませんから、元いた部屋に戻ってみるなど、状況を変えたり、他の作業をやるとかしているうちに、ふっと思い出すのが常です。
銀婚式を過ぎた夫婦を見ていると、「おい、あれだけどさ。なんとかうまくいったよ。」、「あらそう。良かったね。私の方もあの人にちゃんと言っておいたか ら。」なんて、「あれ」だとか「あの」だとか、代名詞ばかりの会話をしていることが少なくありません。この現象は二人揃って、若い時に比べて記憶の再生機 能が低下しているから起こるのです。しかし、言葉として表現しなくても意思伝達ができるのですから、コミュニケーションが効率化されたと考えられなくもあ りません。しゃべらずとも通じ合えるのならばそれはそれで日常生活には困りません。
ただ、このテレパシーのような意思伝達は、何十年に亘って生活を共にして同じ体験を共有し合ってきた二人だからこそできる技です。この調子で二人だけの社 会での効率よく無難な生活だけを続けていますと、再生機能が本当に錆び付いてしまいます。そうなってしまうと、いざ家庭外の社会であかの他人とコミュニ ケーションをとろうとしてもできなくなってしまいます。
ですから、お互いの記憶力保持のためには、いくら以心伝心の仲良し夫婦と言えども、いやそうだったらなおさら、代名詞だけで済ませられるような定常的で退 屈な生活だけでなく、若い日を思い出してハラハラドキドキするような、未知の状況や体験に二人してチャレンジすることをお勧めします。新しい状況ではお互 いに一生懸命言葉を使わなければならないからです。そういう努力をすると、いつの間にかどこかに置き忘れた大切な鍵が出てきて二人の仲が一層輝くものにな ると思います。その鍵とは「愛してる」という言葉がしまわれている棚の鍵です。

さて、先ほどから記銘力の低下だとか再生機能の低下だとか、加齢に伴う記憶機能の変化を、一般的説明に倣って、マイナス方向の表現だけで説明してきました が、別の見方をすることもできます。それは記銘や再生機能の低下は年とともに記憶量が増えるために、二次的に情報を新たに取り入れたり、倉庫から取り出し てくるのに手間がかかるようになっているために起こるという考えです。
お釈迦様や聖徳太子以外の並みの人間は、現実に処理することができる情報量には限界があります。コンピュータに例えれば一時記憶装置が有限であるというこ とに相当します。ですから新たな情報を記憶しようとすると、今までこの領域に貯蔵されていた情報の一部を永久記憶装置(ハードディスク)の方に移して空き を作らなければなりません。けれども、一時記憶装置にある情報は瞬時に活用できますが、いったんハードディスクに貯蔵してしまった情報は取り出す際に手間 がかかります。こう考えると、年とともに覚えにくくなったり、ど忘れが多くなることを説明することができます。
実際に我々の脳がこれまでに味わった体験をすべて生々しい感情を伴った近時的な記憶として蓄積し続けたならば、私たちはパニックを起こして、まともに生き ていけないでしょう。なぜならば、「命長ければ恥多し」とはよく言ったもので、人生を長くやっていきますと誰も人に言えないような、また口に出したくない ような嫌な出来事や恥ずかしい体験を数多くするものです。その一つ一つを何時までも新鮮に覚えていたら苦しくて生きていけないからです。私なぞはとっくに 何回も自殺していたでしょう。
こういった事態を避ける自己防衛の目的で、脳は積極的に忘れる、「忘却」という機能を備えているのです。もちろんこの忘却機能が働いても、そういう事実が あったことまでを消し去るわけではありません。マイナスの感情などをできる限り削ぎ落して、単なる事実という形にして永久記憶倉庫の片隅に密封するので す。
ちなみに政治屋になるための資質の一つは、この忘却機能が優れていることだと思います。彼らの記憶装置では、都合が悪く密閉された秘密の棚の鍵は完全封印されるか、棚自体が消去されるようです。
閑話休題、何も嫌な事項だけを奥まった倉庫に移すだけでは現代の雪崩のように流入してくる情報を処理できません。したがって普段使わない事項はさっさと奥 の倉庫へと圧縮されて保存されます。空きを作らないと新しい情報を取り込めないことはすでに説明しました。確かに、新しいことを覚える能力の優れた人は、 さほど重要でない事項についていつまでも生々しい記憶を持っていません。

五島勉さんという人を覚えていらっしゃいますか。「ノストラダムスの大予言」という本で大儲けをした人です。ノストラダムスの予言通りならば、今の地球は私がのんびりコラムなんか書いている状態ではありません。
先日再審査請求が認められて、17年ぶりに無期懲役刑での収監から解放された小菅さんのことが話題になっていますが、一部の関係者を除いて、あの事件をしっかりと記憶していた方は少ないのではないでしょうか。
選挙の際のマニフェストの幾つが実行されて幾つが反故にされたか分かっている方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。
このように、個人だけではなく社会としての記憶にも忘却という機能が働いているのです。もし社会記憶に忘却機能がなければ五島勉さん、細木数子さんをはじ め、占い師と称する人種は、予言が当たらなかった責任を問われて、とっくに惨殺されています。政治屋もそうです。国民がしっかりとマニフェストを覚えてい るという前提ならば、あれほど舌先三寸の公約などできる筈がありません。
みな、国民が物忘れであるということを前提に行動しているから成り立っているのです。この物忘れも、現実社会で次々と勃発する新しい事態に対応するために 致しかたないことなのかもしれません。そして情報量が加速度的に増加する現在、社会の記憶の忘却のスピードも驚くほど速まっています。しかし、社会の記憶 はあまりに早く永久倉庫に封印されてしまっては困ります。時々倉庫から引っ張り出して生々しい感情を呼び戻す必要があるのではないでしょうか。そうしなけ れば私たち社会はいつまでたっても過去の経験に学ぶことがありません。
戦争、政治、重大事件などの重要事項は是非とも、取るに足らない新しい情報を犠牲にして、生々しい一時記憶の場に止めておいてほしいものです。
私の身近な問題としては新型インフルエンザがあります。一時は過剰反応していたのに、今やほとんど話題にも上りません。しかし、本当に皆が注意を払わなければいけないのは実はこれからなのです。
世界中に広まって、最早常在ウイルスに近い存在になり下がった豚由来インフルエンザですが、気をつけなければいけないのは、今のところ猫を被っている彼等がいつ虎に変身するかもしれないからです。
ウイルスは増殖を繰り返すごとに変身していきます。弱毒と言われているこのインフルエンザがある日突然強毒化する可能性は十分にあるのです。ですからこそ、私は以前のコラムで「早いうちにかかってしまえ」と提唱したのです。

物忘れは良い側面と悪い側面があります。新しい情報を取り入れたり、心や社会の安全を保つためには物忘れをしなければなりません。しかし、一朝事ある時には即座に記憶が蘇らなければ正しい状況判断ができません。
とても難しいことなのですが、個人も社会も上手に物忘れしなければいけません。

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*1:CDS:credit default swap(企業倒産担保証券)の略。
*2:PPIP:public-private investment program(官民投資プログラム)の略。
*3:ARB:腎臓に存在するアンギオテンシンという血圧を上昇させる生理活性物質を抑制することによって血圧を下げる薬物の総称。

自然への畏敬-あなたも自然の一部ですー

砂漠に聳え立つ地上800mの摩天楼。海には世界地図を模した人工島。灼熱の砂地に人工スキー場やゴルフ場。世界金融危機勃発以前のドバイは世界中から資本と労働力が集まりお伽噺の実現かと思われていました。
広告塔としてセレブと称される人々がドバイでのバカンスの素晴らしさを謳い、日本でもそれに乗せられ、見栄、小金その上暇を持て余しているお馬鹿さんたちがこぞってドバイを目指しました。
私はもともとそんな所へ行くほど金も暇もありませんが、もしあったとしても、行ってみたいなどとさらさら思いませんでした。ドバイの気違いじみた光景を見るたびに旧約聖書、「創世記」に登場するバベルの塔を連想し、吐き気すら覚えたほどです。
ドバイは中東の中では原油産出量が極めて少ない国です。したがって、石油に依存しない経済システムを模索した結果、巨大な人工都市を作り上げて観光での立国を目指しました。
石油に過度に依存した経済からの脱却を努力すること自体は理解できないことはないのですが、結果としてアメリカを中心とした金の亡者たちのマネーゲームの場になってしまいました。できあがるであろう建造物を担保にさらなる投資。金が金を生む巨大ネズミ講のからくりで膨れ上がる虚構の富。ドバイは正に歪んだ新資本主義経済の象徴と言えます。
ですからリーマンショックに端を発した金融破壊でドバイの建設ラッシュにも急ブレーキがかかりました。無責任な資本家が蜘蛛の子を散らすようにドバイから逃げ去ったのです。
経済誌を読むと金融危機も底から抜け出して、ドバイに再び資本が戻ってきているとのことですが、長い目で見た場合にあの砂上の楼閣が長く栄華を誇れるはずがありません。
先ほどバベルの塔を引き合いに出しましたが、私はユダヤ教徒でもキリスト教とでもありません。したがって神の怒りの雷によってドバイが滅ばされるなどとは思っていません。このような人間の企てが成功しないのは、自分自身がその一部分であることを忘れて、自然に挑戦し、自然をねじ伏せようとしても無理だからです。
現代の一部文明国の住民は自分たちが、脳が異常に発達しただけの猿であることを忘れて、思い上がった振る舞いをしています。自分たちも地球や宇宙という大きな自然のシステムの中の砂粒よりも小さな一部分であるにも関わらず、自我だけが肥大してしまいました。その結果目先の快楽や利益を追求するために自然を破壊し続けています。自然を破壊するということが自分自身を破壊することであるということに気付いていません。

私のクリニックは近くにある警備業に関係した人材派遣会社の健康診断を請け負っています。警備業務に携わるためには種々薬物の依存者でないことと、重大な精神障害者でないことを証明しなければならないからです。
この会社でアルバイトをする若者を毎日何人も面接します。会社の方ですでに一定の選別をしていますから、問題のある方はまずいらっしゃいません。しかし、この面接を通して、現在の都市生活者がいかに不健康な生活をしているか、また、自分が不健康な生活をしていることを自覚していないかを知って愕然とします。
「これまで睡眠障害で困ったことはありませんか?」と尋ねると90%以上の人が「ありません」と自信深げに答えます。続いて「それではだいたい何時くらいにベッドに入りますか?」と尋ねると、これまた自信満々に「2時くらいです」と返ってきます。
睡眠というものは眠っている時間だけではなく、眠る時間帯も重要です。本来は10時くらいには就寝したほうが良いのですが、地方で農業や漁業に従事している方と違って都市で生活している人は10時に寝るという生活はなかなか困難だと思います。しかし医学的に考えると100歩譲っても0時までに床に就かなければなりません。つまり今日中に寝るということが大切です。
脳はきわめていい加減な臓器ですからいくらでも夜更かしできるかのように錯覚しますが、ホルモンをはじめその他の身体のシステムは0時以降眠る生活には対応していません。ですから遅寝遅起きを続けていると様々な精神障害やメタボリックシンドロームと呼ばれる現代病に陥る危険性大です。
我々がエネルギーを大量に消費して深夜遅くまで動き回る異常な生活をするようになったのはたかだかここ数十年ですが、生また時からこのような生活を続けてきた若者にとってはこのクレイジーなライフスタイルが当たり前の生活なのです。
なお、今ここに書いたことは昨年のコラムでも説明しました。
私はこういった若者に、人間がなぜ昼間活動して、夜になったらさっさと寝なければいけないかを解説します。その際、ヒトが昼行性動物であることから説明を始めるのですが、まず「あなたは夜目がききますか?」と尋ねることにしています。
たいていはその段階で私の言わんとするところを気付くのですが、中にはここでも力強く「僕は夜でもよく見えます。」と答える人がいます。その何の疑問も持たないあっけらかんとした顔を見ていると慄然とするものがあります。街灯やネオンで照らし出された夜景に慣れっこになっていて、夜が暗いということも知らないのです。
この数十年で不夜城のごとき異様なライフスタイルが定着したと言いましたが、こういう生活をしているのは文明国の都市生活者だけです。今現在でも地球規模で考えれば太陽の光を中心に自然に逆らわない生活をしている地域が殆どです。一部の人間だけが富とエネルギーを収奪して自然を作り変えて不健康な生活をしています。
かく言う私も東京生まれの東京育ちであり、生まれてこのかた偉そうに講釈を垂れるほど健康な生活をしてきたわけではありません。私自身、いったん文明を手に入れた者が急に原始の生活に戻れと言われたって、そう簡単にできないことを痛感しています。
ですから、今すぐ電気を使わないで農業をしろと言っているのではありません。まずは現在の自分たちが当たり前と思っているライフスタイルが実は正常ではないことを自覚してほしいのです。時々で良いから自分が洋服を着た猿であることを思い出してください。

自然に合わせて、自然に逆らわないような生き方を忘れた人は自然はいくらでも自分の都合に合わせて改造することができると錯覚しています。だから一番身近な自然現象である「生死」に対しても大いなる錯覚を抱いています。
すなわち、病気は治るもの、健康でいて当たり前、死ぬのは不当と言った考えです。
実際には我々は数限りない危険に囲まれて生きていますから、いつ死んでも不思議ではないのです。自然界の中で我々が生を受け、何十年も生きながらえているということは本来相当に幸運なことなのです。生きている有難さを理解していない人が増えている証拠が理不尽な医療訴訟や行き過ぎた移植医療ではないでしょうか。
確かに、医療行為の中に歴然とした過誤がある場合には訴えられて然るべきですが、本来ならばとっくに死んでいるような疾患に対して医師が懸命の医療を行った場合にも、その結果が不幸に終わったら訴えられます。また運よく助かっても、何らかの後遺症を残すと、「医療が充分ではなかったのではないか」と邪推して訴えます。
移植医療もそうです。角膜や二つある腎臓などは理解できますが、肝臓だ心臓だとエスカレート。その内に脳の移植もブラックジョークではすまされなくなる時代が来そうです。
自然界の原理に従えば、種としてのヒトを健康に保存するためには、生きる能力の弱い個体が淘汰されていかなければなりません。個々にとっては悲しいかもしれませんが、それが自然界の厳粛な掟です。にも関わらず、裕福な個体が貧困地域の健康な個体から臓器を収奪して、本来淘汰されるべき個体を延命しようとしています。こういう個人のエゴによる自然への挑戦が種としてのヒトの将来に良い結果をもたらすとは思えません。

さて、それほど脅威でもなかった新型インフルエンザに国を挙げて蜂の巣を突いたように大騒ぎ。マスクとタミフルが引っ張り凧でしたが、タミフルはついちょっと前までは異常行動の副作用が出ると言われてさんざん叩かれていた薬です。
学会が因果関係は証明できないとの見解を示したにも関わらず、何千万人に数人という特殊な例を取り上げて袋叩きにしました。あの時、タミフルの危険性をしたり顔で力説していた人が、その舌の根も乾かないうちにタミフルを求めて奔走しているのですから何をか言わんやです。
ですから、今回のインフルエンザ騒ぎは、人間が自然の中では弱い生き物であり、我々はたかだか0.1ミクロン程度の、生物とも呼べない粒子の前にいとも簡単に生存を脅かされるということを再認識するという意味で、とてもよい機会であったように思います。

私たちは今日一日生きていられることの好運に感謝して、自然の一部としての分をわきまえて、謙虚に生きていかなければいけないと思います。世界中の人、とくに先進国の人々が、自然を畏敬し、自然をねじ伏せようとすることの愚かに気づけば、環境問題も大きく進展するのではないでしょうか。
そうしなければ、大脳だけが異常に肥大した、自然界の奇形種である人類に明るい将来はなさそうです。
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