久しぶりに精神医学の話に戻ります。統合失調症には特徴的な症状がいくもあります。このうち幻聴、被害関係妄想、させられ体験については昨年のコラムで説明しました。今日は「病識欠如」という症状のお話をします。
「病識」はドイツ語でKrankheitseinsichit、英語ではinsight of disease
と言います。つまり「疾病に対する洞察」という意味です。一般的には「自分が病気であることを認識する能力」と説明されていますが、実際にはこのような簡単な説明では表現できないデリケートな見当識の一種です。
病識という言葉はピック病を発見したA.Pickが用い始めましたが、明確な定義をしたのは精神医学の巨人、カール・ヤスパース(K.Jaspers)です。
ヤスパースは、個々の疾病症状全部、あるいは病全体として、種類も重さも正しく判断されることを病識としています。ただしその基準は「同一文化圏の平均的健康人と病人との間にできる判断の正しさに到達しさえすればよい」としています。
非常に難しい表現で余計に分からなくなってしまいそうです。私は「自分の今の状態が今までとは違っている。そしてその違和感は周囲が変化したためではなく自分の変化だ。今までの自分が健康な自分であるはずだから今の自分は病気に違いない。と判断できる能力」と理解しています。
病気の理解とは何も科学的な理解を要求はしません。医学を勉強していない人が難しい病名やら分類やらを知ってる筈がありませんから。逆にどこかで耳にしたことのある専門的な用語を並べたてていたとしても、自分が病んでいるという肝心のこととに結びついていない人も少なくありません。「なんかヤバい。病気かも?」と直感できることが本質です。
統合失調症では極めて高率(ほぼ全例)でこの病識が欠けてきます。要するに、自分が病気であることを認められなくなるのです。ですから同時に起きる幻聴や妄想を自分が病気であるために起きているとは認められないで、間違いなく他人が自分に仕掛けてきた迫害や嫌がらせだと強固に確信してしまうのです。
「病識の欠如」は治療上、最も厄介な症状です。自分が病気であるという認識がないのですから治療に応じてくれません。家族が病院に連れてくることさえ困難な場合が少なくありません。なんとか診察を受けてくれても薬を飲んでもらうのはさらに一苦労です。
こういう状態の人をどんなに理屈で説得しようとしてもうまくいきません。知的な理解を超えた別の次元の障害だからです。昔、著名な精神科医自身が統合失調症にかかりました。普段、患者さんや医学生に対して「幻聴とは」といった精神医学の説明や講義をしているにも関わらず、自分の幻聴は「これは本当の声だ」と言い張り、頑として自分の病気を認めなかったそうです。
ではこの症状の本体とは何なのでしょう。私は「自」と「他」、「主観」と「客観」との弁別能力が低下すること、もしくは「自」と「他」の座標軸がずれてしまうことに起因すると考えています。
私たちは自分が得た情報を「自分が内に感じたもの」と「外部から得たもの」を区別して総合判断しています。それによって主観的に感じることを客観的情報とすり合せて、自分の対応が現実世界と齟齬をきたさないように調整しています。その能力が低下すれば、自分に不都合な出来事を自分の不調とは捉えられずに外部からの不都合と解釈してしまうのではないでしょうか。
この病識欠如という厄介な症状があるために、精神科医療では他科のように、インフォームドコンセントを得ることなく治療に踏み切らざるを得ない場合があります。本人が拒否しても家族の同意の下に入院治療する「医療保護入院」という制度。もっと重症で自傷他害(自殺あるいは他者への傷害)の恐れのある患者さんの場合には家族の同意がなくても都道府県知事の命令で強制入院させる「措置入院」という制度まであります。こういった制度があるのはひとえに「病識欠如」という症状があるためです。
本来は患者さんの同意を得て治療するべきなのですが、こういった精神科特有の事情があるのです。しかし、本人の意思に逆らっても強制的に治療を施しても構わないという根拠はあくまでも、その治療が患者さん自身のためでもあるという大前提がなければいけません。
社会はともすると自分と異質なものを排除しがちです。ナチスによる民族浄化、学校や職場でのいじめ、ヒステリックな嫌煙運動等々です。
こういう社会管理の道具に医学、とくに精神医学は利用されやすいのです。その際のキーワードが「病識欠如」です。
これを拡大解釈すれば、権力の意にそわない者すべてに精神障害のレッテルを貼ることが可能です。スターリン時代の旧ソ連においてはこうやって多くの反体制派の人々が精神病院に収容されました。そこまではいかなくても、「病識欠如」を利用して、生活保護を受けている弱者を強制的に受診させる手口で儲けているあくどい精神科医もいます。ですから、周囲が迷惑するからという理由からだけで、本人に不利益な治療を強制することだけは絶対にあってはなりません。
さて、この「病識欠如」の状態は統合失調症だけに特有なものなのでしょうか。私は恋愛にのぼせている時の脳の状態に極めて似ているように思います。恋の病に冒されている時には周囲が口を酸っぱくして何を説得しても聞く耳を持ちません。しかし、こちらの方は措置入院などさせるわけには参りませんから、自然治癒力を信じて見守るしかなさそうです。治癒しないで一生病に冒されている方が幸せかもしれませんが、恋の病も必ず治ってしまいます。
残念。
平成13年に新設され、一昨年6月に改正された危険運転致死傷罪によって飲酒運転による重大事故は急激に減少しています。アルコールの血中濃度を下げるための時間稼ぎのために轢き逃げ犯が増えて、一部には「逃げ得」という矛盾した結果を生む場合もありますが、飲酒運転に起因する死亡事故は平成17年には十年前の半分になりました。
代って、高齢運転者による重大交通事故が社会問題化されてきました。免許保有者1万人あたりの死亡事故数は若い人たちの中では最も事故割合の高い16歳~24歳でも1.4件なのに、75歳~79歳は1.6件、80歳~84歳では2.3件、85歳以上では4.2件と年齢とともに死亡事故に関係する割合が高くなっています。
特に第一当事者(過失の最も重い者)として65歳以上の高齢運転者が死亡事故に関わる件数が顕著な伸びを示していて、平成17年度においてすでに全死亡事故件数の16.9%を占めることになっていました。
しかも、社会全体の高齢化に伴って、高齢者の運転免許保有者数も年々増加の一途をたどっています。平成17年度には65歳以上の運転免許保有者が1000万人近くに達しました。現在はとうに1000万人を超えていいます。
このような高齢運転者の引き起こす交通事故を分析すると、高齢者の運転には信号無視や一時停止違反、蛇行・ふらつき運転、進路変更の合図をしない、アクセルとブレーキを踏み間違える、などといった特徴があることが分かりました。さらに検討を進めますと、こう言った不適切な運転の背景に認知機能の低下があることも分かりました。自分が危険な運転をしていることを自覚できていない方が多いのです。
認知症の有病率から単純計算すると、全国で約30万人の認知症の免許保有者がいる計算になり、きわめて由々しき社会問題として取り上げられるようになりました。
これを受けて警察庁では不適切な運転をする高齢運転者に対して、認知機能を判定する検査を義務付けて、もし認知症と診断された場合には免許取り消しの行政処分をするべきだと考えました。
具体的には、本年6月1日から免許更新手続きや交通取り締まり、事故処理の現場において認知症を疑われる人に対して、専門医による診断(臨時適性検査)または、かかりつけ医による診断書の提出を義務付ける道路交通法の改正を行いました。
処分の基準は
1.アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症および6か月以内に回復の見込みがない認知症の場合には免許の取り消し。
2.6か月以内に回復する見込みがある認知症の場合には6か月以内の免許の取り消し。
となっています。
そして、認知症の疑いをスクリーニングする検査として以下の3つの検査項目から成る簡易検査をします。
時間見当識:検査時の年月日、曜日および時間を回答する。
手がかり再生:一定のイラストを記憶して採点には関係しない課題を行った後、記憶しているイラストについて回答する。
時計描写:時計の文字盤を描いてさらにその文字盤に指定された時刻を表す針を描く。
この高齢者講習予備検査の内容は医療現場で一般的に行われてきた簡易認知機能検査の一部を抜粋加工したものです。したがって、この検査の点数は信頼性、妥当性共にある程度保証されていると考えます。
しかし、私は今回導入された検査は通常の日常生活を送る上での認知機能を測定する検査としてはよいですが、車の運転を許可するか否かを判定する検査としては易しすぎると考えます。
日常の生活ではちょっとした失敗は許されます。しかし車はきわめて危険な殺人兵器とも考えられます。このような重大な自傷・他害の恐れがあるものの使用許可に際してはより厳しい判定が必要ではないかと考えるからです。
私の身近にもかなり危ない運転をしている高齢者の方がいます。今のところ非常に幸運なことに重大な事故には結び付いてはいませんが、いつ死亡事故の第一当事者になるのではないかと心配です。また、事故の当事者にはならなくても、間接的に周囲の車の重大事故を誘発する原因になる可能性が高いのではないかと憂慮しています。
その人の運転には次のような傾向が見られます。流れに乗れず極端に低速で走行する。高速道路での車線変更を避けるために低速にも関わらず追い越し車線を走り続ける。高速道路に進入する際に適切なタイミングで決断できないために車列が迫っているのに進入したり、逆に絶好のタイミングなのに進入路で止まってしまう。車幅感覚が鈍っているために路側に駐停車する際、充分に左側に幅寄せできないで走行車の障害になる。視野が狭く後方から車が迫っているのにのろのろと車線変更する。必要もない状況でブレーキを踏む。
ところが、困ったことに自分は安全運転をしていると固く信じており、自分が原因で道路全体の円滑な流れを障害している自覚が全くありません。いくら周囲が運転を止めるように説得しても頑として応じません。もしこの方の車両を避けるために周囲の車が無理をして、その結果重大事故が発生したとしても、ご本人は自分とは関係ないと信じて疑わないでしょう。
このように、重大事故の大元にはなっているのに本人はまったくそのことを自覚せず、処罰の対象にもならないため事故統計にも表れない高齢運転者が、実は相当いるのではないかと思います。にもかかわらず、こういう方が今回の簡易検査で認知症と判定される確率は低いのです。
車の運転には認知機能だけが要求されるわけではありません。認知するための情報を収集するための知覚機能、また認知機能で適切と判断した行動を遂行する運動機能が適切に機能する必要があります。
残念ながら、年をとって高齢になると認知機能はきわめて優秀であっても知覚機能と運動機能は確実に衰えます。耳が遠くなり、視野が狭くなります。また、中心視力においても遠近を判断するための深視力が低下します。
運動機能はどうでしょう。筋トレでいくら見かけの筋肉を保持しても俊敏な運動はできなくなります。また脳の反射時間も確実に延長して瞬間的、反射的な動きが遅くなります。
このような加齢変化は平穏な日常生活においてはそれほど困らないかもしれません。しかし、安全な運転をするためには欠かせない能力です。どれ一つ欠けても事故の危険性が増します。
認知機能はとても個人差があり、若くから低下する人もあれば、90歳過ぎても的確な情報処理をすることができる老人もいます。でも思考、判断のスピードはどんなに優秀な老人でも遅くなります。つまり、認知症ではない正常な加齢でもすべての領域でスピードが落ちるのです。
会社の経営に関する総合的な判断などは書斎で熟考すればよろしいのですが、運転だけは想定外の状況に対する瞬時の判断が必要です。ですから私は、認知症であるか否かという、ご本人のプライドに関わる基準ではなく、むしろ一定の年齢になったら免許を与えないというやり方の方が良いのではないかと思います。
ただ、地方の過疎化に歯止めが掛からず、人里離れた村落に高齢者だけが取り残されている状況です。そして、経営悪化から路線バスが次々と廃止されています。こういった地方に住むお年寄りにとって車は命をつなぐために欠かせない唯一の交通手段である場合が少なくありません。
もしこのような限界集落に住むお年寄りが車を取り上げられたならば、食料の補給や病院通いもできなくなってしまいます。一概に全国一律で高齢者の運転免許更新を中止するわけにもいかないようです。
しかし、少なくとも東京のような都会に住んでいればJR,地下鉄、バスを利用すれば行けない所はほとんどありません。しかも渋滞した道を運転するよりもはるかに短時間で目的地に着けます。
お金に余裕のある方は今まで車を運転して行っていた場所を全部タクシーで行くことにすればよいのではないでしょうか。車を維持するためにかかる経費(ほとんどが税金)やガソリン代(こちらも半分以上が税金)が高い我が国ではそういった出費が無くなれば、毎日タクシーを使っても絶対にお釣りが出ます。
法律による規制は別として、私は声を大にして「大都会に住む人は70歳になったら自主的に免許証を返納しましょう」と提言します。
死亡事故を起こせば、たとえ保険で莫大な補償金を支払えたとしても、亡くなった命が蘇るわけではりません。お金だけでは責任を果たすことはできません。また、その責任は自分だけが負えば済むわけではありません。大事な子孫にも多大な迷惑をかけます。
長い間一生懸命まじめに働いて、築いてきた平和な家庭が一瞬で崩壊します。晩節を汚すことなく見事に人生の幕を下ろすために、是非とも潔く車とお別れしましょう。
このコラムがアップロードされる頃には東京都議会議員選挙の結果が判明しています。この結果を受けて政局が大きく動き出すものと思われます。吉田茂の孫が売り文句の、誇り高い麻生さんとしては自分の手で解散総選挙をしたいところでしょうが、あまりの不人気ぶりに自民党はなりふり構わず総裁の交代を画策してくるでしょう。
小泉は口先では「自民党をぶっ壊す」と言いながら、自民党、なかでも清和会の勢力を飛躍的に増大させました。一方、自民党を救うべく登壇したはずの麻生さんですが、今後の出方によっては自民党を本当に解体させかねない状況になっています。
自民党はもともと政治理念で結びついた政党ではありません。それぞれが常に与党であり、ゆくゆくは閣僚、できれば総理大臣になりたいという野望という一点で結びついてきた集団です。ですから、そう簡単に下野の道を選択する筈がありません。国民に何と批判されようが、選挙のための政治、政局、謀略、強権、あらゆる手段を行使してくると思います。
その一環として、小沢元代表に対する西松建設がらみの政治献金法違反容疑事件がありました。さらにまた、鳩山由紀夫民主党党首の政治献金虚偽記載容疑を引っ張り出してきました。新総裁での選挙態勢が整うまでの時間稼ぎをも兼ねて、与党ならびに現体制を維持したい勢力はこの問題で執拗に攻めてくると思われます。
日本は建前上では三権分立ということになっていますが、実際には行政府の法務大臣が検察、裁判官の人事権を握っていますから、国家寄りの判断に偏っているように思えます。歴史的に見てもしばしば政府与党の要請を受けた国策捜査、国策判断をしてきました。国家賠償訴訟で国民側が勝利することは稀有です。
司法と行政との癒着は何も我が国だけに限ったことではありません。しかし不幸なことに、日本は長きにわたって政権交代がなされてきませんでしたから、その相互依存関係が抜き差しならない状況になっています。私はともかく一回、政権交代をして過去の膿を洗い出さなければならないと考えます。
司法の独立性の話は後日に譲るとして、今回はこういった政局がらみのキャンペーンにおいて活躍する調査・アンケー結果の数字を安直に信用することの危険性についてお話します。
鳩山代表の政治献金虚偽記載に関して、マスコミがそれぞれ国民に対する調査結果と称する数字を出してきました。それによると鳩山さんの記者会見による説明に「納得できた」人は20%に満たず、「納得できない」人が80%近くでした。こぞって「説明責任を果たすべきだ」という結論で結んでいます。こういった数字と「説明責任」の四文字熟語は西松献金容疑の際の小沢さんに対しても雨霰のように浴びせられました。
まず私が述べたいことは最近よく耳にするこの「説明責任」という言葉が非常に耳障りだということです。こういう大義名分をうたった抽象的な四文字熟語はきわめて危険なのです。具体性がなく、しかも反論できないからです。
いったいどこまで説明すれば責任を果たしたと皆が納得するのでしょうか。納得するかしないかということは相手の胸のうちです。相手が満足する答えを口にするまでは責任を果たしていないと言われてしまえば、お互いに利害が一致しない人たち相手に責任を果たすことは不可能です。
冤罪事件で問題にされる警察の取り調べと一緒です。いくら「やっていない」と言っても、こいつを犯人だと思い込んでいる刑事が納得するはずがありません。容疑者は説明責任を果たしていないと連日、執拗に「本当のことを話せ」と追及されて、ついには自分がやってもいない犯罪について自白してしまいます。刑事の側から言えば、これでやっと説明責任を果たしたということなのでしょうが。
小沢さんの時にもマスコミ主導で刑事の取り調べと同じような「説明責任コール」が行われました。大衆とは存外嗜虐的ですから、こう言った時には当事者が涙を流して「参りました。降参です。悪うございました。切腹させていただきます。」と言うまでは容赦しません。
さらに強調したい点は、この際に使われる世論調査結果と称する数字です。私は研究生活が長く、研究に欠かせない統計学を一生懸命学んだと自負しています。そのお陰で統計的手法は使い方次第でいかような結果も導き出せるということを知りました。ところが、一般の方の多くは統計というものに通じていらっしゃいません。ですから出てきた数字だけを鵜呑みにして、容易に作者が意図する結論に誘導されてしまいます。
例えば答えの選択肢を「充分に説明責任を果たしたと思う」と「そうは思わない」にしたとしましょう。「充分に」という言葉が入っていると、このハードルは相当に高くなります。少しでも欠けていると思われるところがあれば「そうは思わない」になってしまいます。つまり質問の段階で答えの分岐点が中央値でないのです。80から90の所に選択肢の分岐点がありますから、「そうは思わない」という回答が多くて当たり前なのです。
こうして得られた数字が「国民の80%が説明責任を果たしているとは考えていない」という見出しに加工されれば、かなり実態とはずれた世論が出来上がります。
衆議員議員総選挙と同時に行われる最高裁判所判事国民審査について関心をお持ちの方はいらっしゃいますか。じつはこれが司法に対して国民が意思表示できる唯一の機会なのです。にも拘らず、ほとんどの国民は現在最高裁判所判事の名前すら知りません。
関心がないことに答えを求められた場合、人間は最初の答えに丸をつけます。ですからこの国民審査の結果は常に一番最初に名前を載せられた人が一番多く丸を頂く結果になっています。
アンケートを作成するときには自分が望む答えを選択肢の一番最初にデザインすると期待通りの結果を得ることができます。なぜならばその問題に対する回答者の関心度が千差万別であり、すべての人が真剣に応えるわけではないからです。最高裁判所判事国民審査にならって、巧妙にデザインしたアンケートをなるべく無関心な人を対象に行えば、結果は意のままです。
今や客観性を求めて、ありとあらゆるものを数値化して示す傾向にあります。本来数値化するには無理がある物事までも数字で示さないと大衆が納得しないからです。逆に言えば、数値にさえなっていれば、盲信してしまう人が少なくないと言えるのです。
この数値偏重主義は前回のコラムで触れた「要するに」や「一言でいえば」文化に通じます。なんでも簡単に数値として視覚化されてさえいれば、とくにその分野に通じていない人でも、簡単に理解できるはずであると信じている人が多いのです。
中世まではガリレオ裁判に象徴されるように、まず神ありきという偏見によって科学が抹殺されてきました。ルネッサンス、産業革命を経て科学的思考が宗教を凌駕してきました。しかし、今度はそれが行き過ぎているように思えます。
この世にはきわめて重要だが、主観的にしか表現できないが事柄が厳然と存在しています。それにも関わらず、そのような事象は客観性がないとか科学的でないという理由だけで軽視されたり無視される傾向があります。
また、曖昧なこと、真実とは程遠いことでさえ、科学的手法を通してロンダリングし、数値化された「エビデンス(証拠)」というカタカナ言葉で示して見せれば、簡単に人を説得させることができます。
このような詐欺的手法で人々をだまして世界中を未曽有の混乱に陥れた良い例が今回のアメリカ発金融崩壊です。今回の危機は金融工学という、一見科学的に見える手法によって創作された「エビデンス」を基に作られた金融商品の破綻で引き起こされたのです
「エビデンス」は先のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが対イラク戦争を始める際の演説の中でも使われました。「サダム・フセインの率いるイラク政府が大量破壊兵器を準備しているというエビデンスがあるから世界平和のためにイラクと開戦しなければならない」。この「エビデンス」がどういう結末になったかは皆さんよくご存じのとおりです。
国家が関連する政治、戦争それから国家ぐるみの金融犯罪だけでなく、日常的な詐欺においても、最近では霊感よりも怪しげな数字で人々を煙に巻くやり口が増加しています。「科学信仰」が上手に利用されているのです。
私の専門である医学の世界においても「エビデンス」がわがもの顔にのし歩いています。以前のコラムでも書きましたが、各製薬会社はそれぞれ御用達学者を雇っているようです。
A製薬会社主催の講演会ではX先生が全国を練り歩いてその会社が販売している薬が一番すぐれているという発表します。一方、Y先生はB社主催の勉強会でB社の薬がすぐれていると力説します。そしてややこしいことには、どちらも立派な「エビデンス」を示します。どうやらそれぞれの会社に都合のよいエビデンスがあるようです。
ある程度薬に関する基礎知識や研究、統計のことを知っていれば、そういった「エビデンス」は眉に唾を塗って聞き流してしまいますが、そうでないと「エビデンス」が独り歩きすることになります。困ったものです。
万病に効く薬はない。リスクがない金儲けはあり得ない。こういった自明の理を説得するのにエビデンスを持ち出す必要はありません。難しい数値や「エビデンス」が出てきたら要注意です。皆さん眉に唾する準備を怠らないように。