東京都 豊島区 大塚 精神科 心療内科 神経科 内科 神経内科 メンタルクリニック 認知症 うつ病

クリニック西川

2009年8月

民主主義のルールによる我が国初の革命

私が原稿を書いている時点ではまだ開票作業中ですが、すでに民主党の勝利が確定しました。単独過半数を確保して、まさに雪崩をうつような圧勝です。私の選挙区でも、小泉ごまかし政権の象徴である小池百合子が、民主党の新人、江端貴子候補によって退治されました。
我が国では本格的な政権交代は初めての出来事です。そのこと自体に大変な意義があると考えます。
これまで我々日本国民は草食系農耕民族らしく、国民をないがしろにした、いい加減な政治に振り回されていたにも関わらず、己の運命を恨むだけで主権者としての意思表示をしてきませんでした。それよいことに「民衆は老いた女である。ぶつぶつもぐもぐ言わせておくがいい」というカーライルの教えを受けた政治屋どもに好き放題されてきました。その我慢もついに限界にきました。草食系動物の切れた時の怒りが鉄槌となって彼らの頭上に振り降ろされたのです。
今回の総選挙は我が国で初めて行われた民主主義の手続きにのっとった革命と言えましょう。新政権に期待することは数多ありますが、まずは、非核三原則の「持ち込ませない」が実際には二枚舌の嘘であった疑惑に代表される、これまで行政と自民党によって隠蔽され続けてきた、国民に対する秘密を公開することです。核の問題以外にも、帝銀事件、下山事件等々国民にとって納得のいかない隠し事が数多くあります。こういったことに関する情報公開は政権が交代して初めてできることなので是非とも実現してほしいと思います。

民主党が大勝すればするほど、民主党の国民に対する責任は重くなります。古くから言われる「国は人を以て本となす。人安ければ国安し(潜夫論)」、「国政の成就は衣食に窮する人無きにあり(島津斉彬)」、「政府はただ人民の福利のためにのみ存在す(マコーレー)」といった名言を思い出して、これからの4年間、国民のための政治に徹してほしいと思います。私たち国民も、今回の政権交代が単に器だけのもので終わることのないように、注意深く監視していきましょう。

忘れてならない国民審査

解散して早3週間以上経過した8月18日に第45回衆議院議員選挙が公示されました。戦後初の本格的な政権交代となる可能性が高まっているために、各候補者、各政党ともこれまで以上に熱い選挙運動を展開しています。
それにも増して、いつになく高まっているのが国民の選挙に対する関心です。ある報道機関の調査によると、80%近い有権者が投票に行くと答えています。戦後最も高い投票率をあげた総選挙は、60年安保を控えた1958年、岸伸介首相のもとで行われた第28回総選挙(話し合い解散選挙)時の76.99%です。その後は漸次、政治に対する期待が低下して、70%前後を低迷していました。
「郵政民営化賛成か、反対か」という小泉マジックに国民が踊らされた、前回の総選挙でさえ、投票率は67.51%でした。今回は投票率でも戦後最高の数字を生むかもしれません。喜ばしいことです。
さて、肝心の選挙運動の内容はというと、相も変わらずどの政党、候補者も選挙前だけの阿諛便佞の傾向から脱却できていません。票のために、これまでの主張をきれいさっぱりと忘れて臆面もなく三寸の舌を掉っている候補者も少なくありません。
我々有権者はこれまで何度も彼らの巧言に欺かれ続けてきました。そのことによって、政治に対する関心を失い、白けてきました。そしてそれがさらに口先だけで泳ぎ回る碌でもない政治屋を増長させてしまいました。
もともと舌は嘘を吐くものです。人の本性を見極めるのはその人の行動でしかありません。「耳の楽しむ時は慎むべし」です。私たちは候補者たちの巧言に白けるのではなく、耳をふさいでじっと彼らの行動を観察して行こうではありませんか。地味で目立たなくても当初の約束を果たすために努力する政治家を育て、上辺のパフォーマンスと美辞麗句で塗り固められた嘘吐きには鉄槌を下しましょう。これが投票の意義だと思います。
言いたいことは山ほどありますが、これ以上総選挙について踏み込んで書くと公職選挙法違反に問われかねないので、今回はここまで。総論に止めておきます。
さて、私たち有権者は8月30日に衆議院議員を選択するという権利を行使する他に、主権者としてのもうひとつの重要な権利を行使します。それは最高裁判所裁判官国民審査です。ところがこの国民審査についての関心の低さには毎回驚かされます。多分この審査の仕組みそのものを知らない人が少なくないのではないでしょうか。御多分に洩れず、今回の総選挙でも衆議院の熱いバトルの陰に隠れてしまっているようです。

現在の我が国は民主主義国家です。この体制の成立過程についてはとかく議論の多い所ですが、ともかく民主主義国家であって、主権者は私たち国民です。しかし国家という組織は少しでも油断すると、主権者である国民の上に立って、国民を支配、抑圧するものです。
この国家権力の主権者に対する横暴、抑圧の危険を少しでも小さくするために考案された制度が国家の権力分立です。戦後日本は立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)の三権を分立させて、相互に監視し合うことによって国家の一部、とくに行政に権力が集中しないような仕組みになっています。
ところが、実際には最高裁判所長官を指名するのは内閣、任命するのが天皇であり、その他の最高裁判所裁判官の任命は内閣が行います。また下級裁判所の裁判官は最高裁判所が指名した者を内閣が任命します。さらに裁判官が行政機関である法務省に出向したり、行政官である検事が裁判所に出向して判事になるといった判検交流が広く行われていて、内閣が裁判官人事に深く関与しているのが現状です。
この結果、行政事件では行政に不利な判決は滅多に見られませんし、国民が国家(行政)を訴える国家賠償訴訟では地方裁判所、高等裁判所までは国民の勝訴であったものが、最高裁判所に上告されると逆転して、判決が国の勝利に覆る例が数多く見られます。
本来、最高裁判所は国家が国民に対して結んだ契約である憲法に基づいて、主権者の立場を守る最後の砦として「憲法の番人」と呼ばれるべき存在ですが、我が国の最高裁判所の実態は行政に雇われた「権力の番人」に堕している感があります。
私たちは主権者とは言っても司法や行政に直接関わることはほとんどできません。地方行政の長である知事や町村長は直接選挙することができますが、国家行政の長である内閣総理大臣は国会議員の投票を通して間接的な関与しかできません。司法に至っては全く蚊帳の外です。司法は国民にとってかなり縁遠い存在です。
国民と司法との距離を縮め、司法を身近なものにするためという理由で裁判員制度が導入されましたが、突然、人を絞首台に送る役目の片棒だけ担がされるのは迷惑千万です。それよりも裁判官の選択にもっと国民が関与できるようにするべきではないでしょうか。
ところがよく考えると、とても消極的ではありますが、唯一国民が司法に直接関与できる仕組みはあったのです。それが総選挙と同時に行われる最高裁判所裁判官国民審査です。
この制度は日本国憲法第79条第2項及び第3項ならびに最高裁判所裁判官国民審査法に基づいています。任命後初の衆議院議員選挙の時に審査を受け、その後は審査を受けてから十年を経過した後に行われる総選挙時に再審査を受けるとされています。
審査の方法は信任投票ではなく不信任投票です。有権者は罷免すべきと判断した裁判官の氏名の上に×印を付けます。投票者の過半数が不信任とした裁判官が罷免されます。ただし、最低投票率が1%と規定されているので投票率が1%未満だと罷免とはなりません。
主権者が司法に唯一物言える重要な場ですが、どの裁判官が不適切であるか否かを判断できるだけの情報が十分に提供されているでしょうか。一応公報には経歴や過去の判断が載せられていますが、こういったものに目を通す有権者はほとんどいません。大半の人は各裁判官の過去の判断例など知る由もなく、それどころか名前さえ審査当日に投票所に異って、初めて目にするのが実態です。
その結果、これまでに過半数の不信任を受けて罷免された裁判官はいません。過去最高の不信任率は1972年の下田武三氏の15.17%です。○×をつける調査方法では、特にどうでもいいと思っている質問項目には、一番先頭の選択肢にチェックをするということが心理学から分かっていますが、まさにその理論通り。これまでの審査では例外なく一番先頭に名前を記載されている裁判官が一番高い不信任率となっています。国民が適切な材料を検討して真剣に判断していないことをはっきりと表す証明でしょう。
この情けない状況の原因は、国民の司法に対する意識不足と言われてしまえばそれまでですが、裁判所やマスコミが啓蒙にまったく力を注いでいないことも責められて然るべきです。マスコミは選挙の方にばかり人々の関心を誘導せず、国民審査に関する情報を繰り返して提供するべきです。きれいごとを並べたてた選挙公約や、当てにならない世論調査などを繰り返すだけでなく、各裁判官の過去の裁判例をかいつまんで報道していただきたいと思います。
因みに今回の審査の対象となる裁判官は那須弘平、涌井紀夫、田原睦夫、近藤嵩晴、宮川光治、桜井龍子、竹内行夫、竹崎博充、金築誠志の九名です。ごく簡単に経歴と主な判決を記します。
那須弘平:弁護士出身の67歳。日弁連常務理事を経て2006年5月に就任。故ロバート・メイプルソープ氏の写真集はわいせつ物でないとした判決で(08年2月)および公訴時効成立後、自首した男に損害賠償義務を認めた判決(09年4月)で裁判長を務めました。
涌井紀夫:福岡高裁長官、大阪高裁長官を経て06年10月就任。67歳。在外被爆者に初の国家賠償が確定した判決(07年11月)および住基ネットを合憲とした判決(08年3月)で裁判長を務めました。
田原睦夫:66歳で最高裁民事規則制定諮問委員、日弁連司法制度調査会副委員長を経て06年11月に就任。衆院選の無効が求められた訴訟で「違憲」の反対意見を述べました(07年6月)。また、防衛医大教授の痴漢事件の逆転無罪判決で裁判長を務め判決は3対2で「無罪」でしたが、本人は「有罪」の反対意見でした(09年4月)。
近藤嵩晴:最高裁首席調査官、仙台高裁長官を経て07年5月就任。65歳。両親の結婚を国籍取得の要件とした規定をめぐる訴訟で、「違憲」の多数意見(08年6月)。また、小学生の胸元をつかむ行為を体罰に当たらないとした判決(09年4月)で裁判長を務めました。
宮川光治:弁護士出身の67歳。終戦時、中国に残された日本人残留婦人らが国に賠償を求めた上告の棄却決定で裁判長で「上告を受理すべき」と反対意見を述べました(09年2月)。
桜井龍子:労働大臣官房審議官、労働省女性局長を経て08年9月就任した元行政官。62歳。静岡県御殿場市の少女集団暴行未遂事件で元少年4人を実刑とした決定で裁判長を務めました(09年4月)。
竹内行夫:外務事務次官、政策研究大学院大学連携教授を経て08年10月就任。66歳。地下鉄サリン事件で実行役を送迎した被告を無期懲役とした決定で裁判長を務めました(09年4月)。
竹崎博充:65歳。現在最高裁判所長官。名古屋高裁長官、東京高裁長官を経て、裁判員制度設計に重要な役割を果たした功績から異例の出世で08年11月に最高裁長官に就任。遠隔監視システムで客を確認する自動販売機を対面販売と認めないとした判決で裁判長を務めました(09年3月)。
金築誠志:東京地裁所長、大阪高裁長官を経て09年1月就任。64歳。警察署の塀をよじ登る行為も建造物侵入罪に当たるとした決定で裁判長を務めました(09年7月)
報道に頼らずより詳しい情報を得るには最高裁判所のホームページをご覧ください。(http://www.courts.go.jp/saikosai/about/saibankan/

国権の一翼を担う司法活動に対して私たちはもっと関心を持って主体的に国民審査に当たりましょう。そうでなければこの審査制度は器だけで中身のない形骸化したままです。主権者とは権利に相当する責任を負っていることを忘れないようにしましょう。

赤心奉国

先週のコラムで、マニフェストには確信的な嘘が書かれているからそんなものを鵜呑みにしてはいけないと書きました。そうしたらそれを読んだ友人から「西川は子供だな。国民はもっと大人だからお前に言われなくたってマニフェストなんて誰も信じていないよ」と言われてしまいました。
確かにそうかもしれません。年配の人たちはこれまで何度も政権公約に裏切られてきて、たとえマニフェストに衣替えしても、それが単なる撒き餌であることを知っています。今回初めて投票する若者世代も、こういった大人たちの政治に対する冷めた態度の中で育ってきたせいか、選挙に多くを期待しているように見受けられません。政治そのものに対して期待がないと言ったほうが正しいかもしれません。
そう言われてみれば、確かに私は20代の若者に比べて子供っぽいかもしれません。私はこの歳になってもまだ、自分たちの努力で自分たちの社会を、そしてこの国のあり方を変えられるのではないかと、一縷の望みを捨てきれないからです。でも子供っぽいと言われてもやはり政治に冷めてしまってはいけないのではないでしょうか。私たちの関心の低さが、本来守られて当然であるべきマニフェストをいい加減にしているのだと思います。

私は診察室で患者さんにしばしば「もう少し大人の対応ができるようになるとよい」と偉そうに喋っています。でも本当は誰よりも自分自身が子供っぽいということを自覚しています。しかも、内心「下手に大人になる必要はない」、「子供の心を失わない方がよい」とさえ思っているのです。
それではなぜ患者さんには「大人になれ」などと言うのかというと、私の所を受診される方はそれまでの生き方によって傷ついている方が多いからです。子供を失わずに生きるということは多大なエネルギーを必要としますし、人間関係で傷つく可能性が高いのです。
ですから周囲との摩擦に耐えられるエネルギーがあると自信を持っている方には、いつまでも子供っぽさを失わないでいてほしいと思いますが、疲れて傷ついた方は自分を身近な日常生活においては、大人の生き方を身につけて無益なエネルギーの消耗を避けることをお勧めしているのです。
そうは言っても、へらへらと斜に構えて、飯を食って息をするだけに一生を送ってはいけません。摩擦を恐れてはいけない場面もあるのです。ただ長生きだけを目標にして日夜健康維持に励んだとしても、自立して生きていられるのはたかだか5,60年です。後進にすべてを託して墓場に行くことは避けられない宿命です。
ですから人生の終盤を迎えた者は、自分のことはさておき次世代の将来に関わる問題から目をそらしてはいけません。責任を持たなければいけません。この社会の将来の舵取りをする政治に関しては、死ぬまで主権者としての責任ある行動を取るべきだと思うのです。いかに年をとっていたとしてもこと政治に関しては日和見の大人の態度に逃げ込んではいけないのです。
それなのに、政治の話になると余計に物知り顔の大人ぶる人が少なくありません。若い人が素朴に感じた疑問や義憤をぶつけても「青臭いこと言ってもだめだよ。世の中はそんなに単純じゃないんだよ」と言ってかわそうとします。ずるい態度です。
我々大人一人一人が、理が理としてまかり通るまっとうな社会を目指して、諸問題と真摯に取り組むべきだと思います。「理解困難なほど複雑だ」ということにして思考停止させてしまうことは、最も聞かれたくない質問をごまかす常套手段ですが、恥ずかしいことです。

悲しいことに、近年は目の前の問題に正面から取り組むことを避ける悪い傾向がより強くなってきたように感じます。真面目に問題と向き合って、不格好に国民のために汗をかくよりも、「聖域なき構造改革」だとか「自民党をぶっ壊す」だとかいった上辺だけ気を衒って、中身が全く伴わない言葉を吐くほうが受けてしまうのです。こんな世の中をいつまでも続けてはいけません。
また、「嘘も方便」だとか「政治家は清濁併せ飲まねばならない」といったことが政治家であるための条件のように言われますが。これも間違っていると思います。「嘘も方便」という言葉は、原則として嘘を吐かないことを前提にして、初めて成り立つ例外です。正攻法だけでは通じないことがある。そういう場合には例外として嘘という手段を使わざるを得ないと言っているのです。
「清濁」の話もそうです。政治家自身は根本的にどこまでも「清」でなければなりません。その上で例外的に世の中の「濁」の部分を理解できる奥深さも必要だと言っているのです。
ところが今の政治家はどうでしょう。本来例外である部分の方が強調されて、基本的に嘘吐きで、濁った水の中を泳ぎ渡る能力だけに長けています。また、政治の世界とはそうしたものだと誤って信じているようにも見受けられます。麻生さんがこの勘違いの象徴です。べらんめえ口調で大人を気取り、漫画やモデルの名前を知っていることでいかにも庶民や若者の心に精通しているかのようにはったりをかましています。しかし、そんな見せかけの器量やはったりは国家、国民の指導者たる者に求められる本質ではありません。
坂本竜馬が、高杉晋作が嘘やはったりだけで人を動かしたでしょうか。そうではありません。真に人民の琴線に触れ、世の中を動かす力は、心から民と国を思い、その目的に向けて「真」を貫き通す実直さです。

今回立候補している諸氏は、ひたすら愚直に「赤心奉国」の姿勢を貫いて、政治家のあるべき姿を忘れないでいただきたい。当然、私たち国民も上辺の格好良さとか威勢のよさにごまかせることなく、「本物」を見抜く眼力を養わなければなりません。政治家は私たち国民の鏡なのですから。

内股膏薬のマニフェストは要らない

まだ公示日前だというのに巷は総選挙モード満開です。政権与党なので真っ先に公約発表して然るべき自民党ですが、最後の最後に後出しじゃんけんでいいとこ取りのマニフェストを発表しました。見苦しい限りですが、そんな些末なことはさておいて、何はともかく各党のマニフェストが出揃って政策論議となったわけです。
詳しく各党のマニフェストの内容を検討したわけではありませんが、相も変わらず玉虫色の理念や涎が出そうな甘言が羅列されているようです。
さてマニフェストというカタカナ言葉が我が国の政治の舞台に登場したのは2003年のことでした。当時の岩手県知事、北川正恭氏がイギリスで行われていたこのやり方を取り入れるよう提案して、岩手県、神奈川県知事選挙に導入されたのが始まりです。国政選挙としても2003年の総選挙から実施されました。
それまで選挙に際して候補者が国民に対して当選した暁に果たすとする約束は「選挙公約」と呼ばれていました。今でもマニフェストの日本語訳は「政権公約」であって、何のことはない、本質的には我が国お得意の言葉の置き換えにすぎません。
ですが敢えてこのカタカナ言葉に置き換えた目的は、それまでの選挙公約のように漠然とした政治理念だけではなく具体的な施策とそれに関する数値目標、期限、工程を明記して、事後評価・検証を可能にすることでした。この目的がしっかりと叶えられるならば我が国の民主選挙が少しはレベルアップしたはずです。
その後、選挙のたびに立派なマニフェスト集が作られてきましたが、意に反して政治のレベルはますます低下してきたように思います。なぜなのでしょう。
具体的な施策とそれに対する具体的方法を列挙するという、形式だけは整えていても、政治家にその約束を必死に守ろうという姿勢がないからです。以前の公約では、どうとでもとれる曖昧な理想だけぶち上げていましたが、マニフェスト選挙になってからは平気で嘘を吐くようになりました。政治により真剣に取り組む努力をするのではなく、面の皮を厚くするトレーニングに励んできたようです。
小泉などは「赤字国債は増やさぬ」と言っておきながら、いざとなったら国民に詫びることもなく国債を増刷して「こんな約束違反はたいしたことではない」と言い切りました。盗人猛々しいとはこのことです。でも、上っ面だけの格好良さを追いかけて、本物を見抜く力のない国民は、涙を流してこの盗人に喝采を送ったのですから、何をかいわんやです。
無論、神でない限り将来のことを確約できるはずはありません。状況によってマニフェストで約束したことが実行できなくても仕方がないでしょう。だからと言って、目先の票を得るために、初めから実現するつもりのない美味しい言葉を並べたてる行為がすんなりと許されてしまってよい筈がありません。べたべた所狭しと張られる内股膏薬のごときマニフェストは国民が馬鹿にされている証にほかならないのです。

我が国のマニフェスト選挙を形だけのものにしている何よりの元凶は事後の評価・検証がなされないことだと思います。今回も国民の物忘れの良さに付け込んで4年前の郵政民営化選挙時のマニフェストの結果がどうなったかを全く検証していません。
郵政民営化がなされた今、本当に構造改革がなされて、社会が安定し、国民の生活が豊かになり、我が国に活力ある社会が戻ってきたのでしょうか。「舌の化け物」竹中は「道半ばで改革が充分になされていないからだ」とか「不測のアメリカ発金融危機があったからだ」などと臆面もない言い訳で事足れりとしています。
しかし、マニフェストは4年間の工程を具体的に示していたはずですし、金融危機自体が小泉、竹中の目指した市場最優先の新自由主義経済が行き着く当然の帰結です。その重要な点についての明確な総括はありません。
金融危機を境に、その主張を180度転換させた変節漢の有識者たちもいかがなものかと思いますが、まったく責任を取らず、反省の弁もない竹中を未だにのさばらせているマスコミの無責任さにも呆れます。
投票日までまだ時間があります。今回のマニフェストにごまかされないために是非とも4年前のマニフェストを引っ張り出して、そこに書いてある約束に政治家たちがどう取り組んで、どのように実行したか点検してみようではありませんか。公約に嘘がまかり通るならばどんなに立派な体裁を繕っても、蒔絵の重箱に牛の糞盛るです。
マスコミも口先だけの各党スポークスマンの雁首を並べて、時間潰しの議論ばかりさせていないで、4年前のマニフェストの客観的検証に当ててほしいものです。

マニフェストでは具体的な施策が列挙されるようになった代わりに、この国の将来の道筋を示す大局的なビジョンが語られなくなりました。短期、中期的な目標はその先に目指すべき遠い目標が定められて、初めて示せるはずです。
私の内股はもう膏薬でいっぱいです。徳川家康のような人物までは期待しませんが、国民に国家百年の計と、その目標に向けて私たちがどのような心構えで立ち向かうべきかを示してくれる真の政治家の出現が望まれます。

精神症状を読み取る力-患者さんと遊ぶ-

私が曲がりなりにも精神科医を名乗っていることができるのは多くの方々からご指導をいただいたお陰です。病棟、外来、出張病院、研究室などあるゆる場面で 数多くの先輩から有益なご指導、御助言を受けました。先輩に限らず、同僚や後輩、さらには看護師、臨床心理士の仲間たちからも多くを学んできましたし、何 よりも実際に診療を担当した患者さんたちから教えられたことが多かったように思います。つまり、診療はそれまで学んできたことの実践であると同時に、新た に学ぶ場でもあるのです。
さてこのように多くの方々を師としてきたわけですが、あらためて「あなたの恩師は?」と尋ねられたならば、ためらうことなく「新福尚武先生」と答えます。新福先生は私が医学部学生、精神科大学院生であった時の東京慈恵会医科大学の精神神経科主任教授です。
新福教授からは教えられた医学知識は数え切れませんが、知識そのものはその後の研究によって変更されたり追加されたりしました。ことに最近は「痴呆」が「認知症」になるなど、用語や分類などが目まぐるしく変更されたり、MCI(軽度認知障害)*1といった英語表記の略語が次々と考えだされるので記憶力の低下した私はついていくだけで青息吐息です。
しかし、「痴呆」が「認知症」に変わったとしてもその疾患の本質が変わったわけではありません。ましてや患者さんにとって大きく希望が開けたわけでもありません。認知症に限らず、ここ数十年で精神医学がどれほど進歩発展したかというとそれほど多くはありません。
しかし、精神科の臨床は確実に日進月歩しています。ですが、その進化は医学そのものではなく医学を取り巻く合成化学、機械工学といった周辺科学の発達によるところが大きいと思います。副作用が少なくて長期間服用しやすい薬の開発やPET(ポジトロン断層法)*2、MRI(核磁気共鳴画像法)*3などの検査機械の開発が精神科医療進歩の立役者ではないでしょうか。精神医学自体に大きな進歩がないからこそ用語を変えたり分類を変えたりといった小手先のことが業績になるとも言えます。
奇を衒ったネーミングのような、業績のための業績はかえって迷惑することが少なくありません。本質的にはなにも解決していないのに、その言葉だけが独り歩きして、一般の方々をかえって混乱に誘いかねないからです。
このような状況で表面的な事象に振りまわされることなく患者さんの診療をしていくには恩師を通して身につけた基本的な観察と思考法がより大切になっています。

当時新福先生の門を叩いた医師は、研修医も大学院生も、1年間は精神科病棟に配属されて指導医の下に受け持ち患者さんの治療に当たりました。唯一私が他の 同級生たちと違っていたのは、教授の「君は大学院生だから4月1日から来たまえ」の一言で、卒業後の一息も国家試験の準備の時間も与えられずに病棟に放り 込まれたことです。
さて、この時教授から言われた言葉が「この1年で患者さんと遊べるようになりなさい。患者さんと遊べるようになれば一応精神科医と言える。難しい本はその後読めばよろしい。」でした。
当初は「患者さんと遊べる」という意味がよく理解できませんでした。しかし夢に見ていた精神科医の道を歩き出した私は嬉しくて、来る日も来る日も暇さえあ れば病棟をウロウロしていました。当直でもないのに夜遅くまで病棟で過ごす。ギターを抱えて患者さんの歌の伴奏をする。天気の良い日はバレーボールや野球 をする。
いつの間にか病棟に自分の臭いが、自分に病棟の臭いが浸み込んでいったようです。確かに1年ほど経つと医師と患者さんという境界が薄らいできました。そして患者さんの一挙手一投足、ちょっとした表情や語調の変化の中から精神症状を読み取る力を獲得していったようです。
今になれば「患者さんと遊べるようになったら一応精神科医」という新福先生の言葉の意味が明瞭に理解できます。
精神症状は麻痺や痙攣といった派手で大きな症状と違って、自分の五感をフルに使って感じとらなければ見つけることができないデリケートなものが少なくあり ません。そういった症状は患者さんと遊べるような感性を育てなければ察知できないのです。精神症状を読み取る力はそうやってしか身に付きません。いくら難 しい本を勉強したとしても、目の前にいる患者さんの中からそこに書いてある症状を見つけることができなければ畳の上の水練です。
精神科医療も今やDSM*4やICD*5のような操作的診断で進められます。こういった診断方法は専門的な修練の度合いによって診断に差異が出ることを防げる点が強調されています。しかし、本当にそうでしょうか。
診断基準を列挙して「幾つ以上の項目が満たされれば○○○と診断する」と、一見客観的で科学的なように見えても、それぞれの症状を検知する能力に差があれば診断は大きく異なってきます。入口を間違えれば正しい出口に辿り着く筈がないのです。
似て非なる物を同一視して喧々諤々議論し合っている可能性ありです。ましてや、患者さん自身に紙一枚に書かれた症状のあるなしを記載させて、「はい、あな たは△△点以上ですからうつ病です」なんて診療をしているところもありますが、ここに至ってはもはや詐欺に近いと思います。

私は新福先生の言葉の後半部、「難しい本はその後読めばよろしい」を実践できなかった不肖の弟子です。その結果やっとこさっとこ精神科医の末席を汚すに留 まってしまいました。しかし患者さんと遊ぶことだけはできるようになったので、そこそこ精神症状を読み取る力を身につけているのではないかと思っていま す。
あらためて新福先生の御指導に心から感謝いたします。
-------------------------------------------------------
*1:MCI:軽度認知障害(Mild cognitive Impairment)の略。認知機能はまだ保たれているが記憶障害だけが認められる認知症予備軍。
*2:PET:ポジトロン断層法(Positron Emission Tomography)陽電子反β崩壊する核種で標識された放射性トレーサーを用いて各種組織の代謝量や血流量を画像化する検査法。
*3:MRI:核磁気共鳴画像法(Magnetic Resonance Imaging)の略。強磁場を利用して生体内の主として水素原子を画像化する検査法。CTよりも解像力がすぐれており現在の画像診断法の主役である。
*4:DSM:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersの略でアメリカ精神医学会の定めた精神診断と統計の手引き。数年ごとに改訂されて現在はDSM-Ⅳ-TRが使われている。
*5:ICD:WHO の定めた国際疾病分類(International Statistical Classification of Disease and Related Health Problems)の略。数年ごとに改訂されて現在は第10版であるICD-10が使用されている。
クリニック西川
〒170-0005 東京都豊島区南大塚1-18-2 作田ビル1F
TEL:03-5395-0721 FAX:03-5395-0722
Copyright(C)クリニック西川. All Rights Reserved.
【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】