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クリニック西川

2010年2月

一目惚れ(fall in love)

「Fall in love」。なんてすごい言葉でしょう。日本語でいえば「一目惚れ」。こちらも素敵な響きの言葉です。
広辞苑によると「惚れる」とは「心を奪われるまでに異性を慕う。恋慕する。」とあります。別な意味としては「ぼんやりする。放心する。」とあります。特定の異性を恋い焦がれて、その人にまつわること以外の思考機能が停止あるいは極端に低下した状態を言います。
この際機能低下するのは思考力だけではありません。その人以外に関することには無感動になりますし、仕事にも集中できず、食事も喉を通らなくなり、眠れなくなります。つまり、思考力以外に、感情、意欲すべての機能が損なわれます。精神医学的にみた場合、相当重度の精神障害です。
さらに、一目惚れとは一目見ただけで、何の前ぶれも無く、一瞬にしてこの惚れた状態になってしまうのですから、統合失調症など及びもつかないほど重症かつ急性の精神障害と言えます。心拍数が一気に増加し、血圧が上昇、瞳孔は散大して呼吸困難感をおぼえる。いったい脳の中はどうなっているのでしょう。
この精神障害のメカニズムを研究するためには一目惚れ状態のカップルを集めなければなりません。ところが、これが相当に困難な作業です。

世の中には数多くのカップルがいますが、一定期間付き合っているうちに相手のことを理解して段々と好きになり、やがて惚れた状態になるというケースがほとんどではないでしょうか。中には、心ときめくものはないけれど、経済的将来性を考慮すればこの辺りで我慢しておこうと考えて繋がっているケースや、空家歴十数年、本来はどうでもいい相手だけれど、これを取り逃がしたら一生独り身で過ごさなければならないという、切羽詰まったケースも少なくないように思います。
お互いが相手に一瞬で恋に落ちるケースは稀有と言えましょう。実際、多くの一目惚れは片想いに終わるようです。片想いは相思相愛よりも却って恋慕の情を強化します。人格が成熟していて自制心が完成している人ならば、自分がしばらくの間病に伏せっているだけで済むのですが、未熟な人格の持ち主であると自分の行動をコントロールできずにストーカーと化します。恋に落ちた時点で大変な病気にかかってしまっているのですが、ストーカーになると相手を巻き込んだ大事件になってしまいます。
ところで片想いの相手を追いかけまわす行為のすべてがストーカー行為かと言うとそうでもありません。初めのうちは好きでなかったのに、相手から繰り返しプッシュされているうちに、情にほだされて次第に好意が芽生えてくることだってあります。昔から「好きになったら押しの一手」とか「嫌よ嫌よも好きのうち」などと言われるように、相手が自分を一目惚れしてくれなかったとしても諦める必要はありません。ドラマ「101回目のプロポーズ」の例もあるではないですか。
ただ、どこまで押してよいのか、どこまで来たら諦めなければいけないのかの見極めは非常に難しいのです。絶対的な指標はありませんが、「嫌」が精神的な「嫌」であるうちは大丈夫ですが、身体症状(頭痛、嘔吐、下痢など)を伴う生理的な嫌悪感になった場合には早晩、警察から呼び出しが来るものと覚悟すべきでしょう。ただ、通常相手のそういう細かい症状を把握することは困難ですから、「嫌い」と言われたら額面通りに受け取って身を引く方が安全です。

閑話休題、今述べたように一目惚れ同士の研究対象が少ない上に、人間は嘘をつくので本当の「一目惚れ」ケースを集めることさらに困難です。当然ながら、動物実験の結果をそのまま人間に当てはめることができませんから、一目惚れの脳内メカニズムは未だに解明には至っておりません。
現時点でまことしやかに言われている説を二つ披露しましょう。一つは似た者同士説です。耳、目、鼻、口の形がお互いによく似ている者同士あるいは配置が似ている者同士が一目惚れしやすいと言うのです。この説は何度も繰り返してみた顔や記号に対して親近感を持つと言う認知心理学、発達心理学における研究に基づいています。
一方、生物学的な遺伝子研究からは対極的な説が出されています。この仮説は細菌やウィルスに対する免疫機能に関連した遺伝子の型が異なっている者同士ほど一目惚れしやすいというものです。免疫機能に関する遺伝子が多様なほど、外来生物からの侵襲に対して安全性が高く、生存に有利です。このために子孫が生き残る確率が高くなるように、免疫系の遺伝子が遠く離れた異性を好きになるようなプログラムを本能として組み込んでいるという仮説です。
確かに、長く夫婦を続けていますと面白いように顔形までもが似てくることは日常的によく目にします。ですから前者は容易に受け入れやすい説ですが、最もよく似ている兄弟姉妹に対して一目惚れはしませんし、出来立てほやほやの熱々カップルがみな似た者同士ではありません。
一方、後者は生物学研究における究極のセオリー「生体機能は合目的的に作られている」という前提から導き出した、やや強引な仮説のように思います。だいたい、一目会った時に遺伝子の型が離れているという情報をどうやって得るのでしょうか。動物の行動の多くが遺伝子によって規定されていると言う考え方にはおおむね賛成ですが、遺伝子と行動との間を橋渡しする因子が解明されない段階では、結論ありきの牽強付会の説の域を脱しないように思います。
二つの仮説を組み合わせると、一目惚れは「似て非なる者同士間で起こりやすい」ということになります。

「一目惚れ」は極めて重篤な精神障害ですが、幸いなことに予後はよいのです。一生、この状態が続くことはありません。どんなに惚れていても、晴れて結ばれると、ほぼ半年以内に寛解状態に回復します。この辺りも「似た者同士説」や「遺伝子説」だけでは説明ができない点です。長く連れ添う夫婦はますます顔形が似てくるのに、病状は快方に向かいます。遺伝子だけで規定されるならば、時間がたっても病状に変化はないはずです。
精神医学的には病気がよくなって喜ばしいのですが、御当人たちは必ずしも幸せになる訳ではありません。むしろ、失望、落胆に陥ります。なぜならば、病気のひどい時には笑窪に見えていたものがあばたであったことに気付くからです。病状が重症であった人ほど、病期と回復期とで、パートナーに対する評価のギャップが大きいので、より辛い半生を送ることになるでしょう。
病気の時の方が治った時よりも幸せであるということが、他の精神障害と決定的に異なる点です。

この精神障害は思春期が好発年齢です。「老いらくの恋」とは言いますが、残念ながらこの病気は加齢とともにかかりにくくなります。胸がキューンと締め付けられ、その相手以外この世のすべてが見えなくなってしまう、あの病気に是非とももう一度かかってみたいものです。

名誉回復した男性たち―でっちあげられたメタボ基準―

先日一つの朗報が入りました。メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の適正な診断基準を検証していた厚生労働省研究班(主任研究者=門脇孝・東京大学教授)が、診断の大黒柱とされてきた腹囲の数値によってでは、心筋梗塞や脳梗塞の発症の危険性を明確に判断できないという調査結果を発表したのです。
私が一昨年のコラムで指摘した問題点を正式に認めたわけです。誤った判断基準を科学的根拠にして厚労省が強引にスタートした特定健康診査がようやく見直されることになりそうです。

「100円玉と1円玉とどちらが重いか」と聞かれて、それぞれを数百個ずつ集めて重さを測定して統計処理をした後に、「危険率0.001%で有意に100円玉の方が重いです。」と答える人がいるでしょうか。それぞれ1個を両掌に載せてみれば100円玉の方が重いことは一目瞭然です。ところが実際にはこういう馬鹿げた結果の発表がとくとくとなされているのです。
以前ならば大変な労力をかけて手計算していた統計処理ですが、コンピュータが普及した今では、単にデータを入力しさえすればとても複雑な検定がクリック1回でできて、グラフまで作ってくれます。
余りにも簡単に計算ができるので、データの意味を深く考察する前に、とりあえず何でもかんでも検定してしまうようになりました。そうなると、たまたま偶然の出来事でも関連性があるかのような検定結果をはじき出してしまいます。
たとえば、たとえば過去十年間の様々な価格変動の資料をもとに手当たり次第に相関関係を計算したところ、ソウルの朝鮮ニンジンの値段とニューオルリンズのA教会への寄付金との間に有意の相関係数値が得られたとしましょう。この結果をもって、韓国の朝鮮ニンジンの値段が上がるとアメリカ南部の教会の寄付金が増えると結論付けることができるでしょうか。
まさか、そんな結論を真顔で発表する人はいないし、もし発表したとしたら皆から一笑に付されることでしょう。しかし、対象が専門的で複雑なものの場合には、よほど慎重に考えないとばかげた結論を鵜呑みにしてしまいます。受け取る側だけでなく、計算をした者でさえ、その計算結果に意味があるのかないのかの判定が難しい場合も少なくありません。こうしてとんでもない学説が罷り通る可能性が出てくるのです。
多くの方が誤解されていますが、統計が真実を導き出すのではありません。統計的手段は、研究者の洞察から導き出された結果に対して一定の保証を与えるだけです。データから結論を導き出すのはあくまで研究者の論理的な思考によるのです。
また、本当に因果関係があったとしても、原因と結果を取り違える危険性もあります。たとえば、癌患者の様々なデータを集めた調査によって、癌の進行度とその人の所得との間に負の相関が得られたとしましょう。普通に考えれば「癌が重症になると仕事ができなくなり、治療費もかさむために貧困になる」という当たり前の状況を表していると思うのですが、曲解すると、貧乏な人ほど癌が進行するという結論になってしまいます。

特定健康診査で採用したメタボリックシンドロームの診断基準では血圧、血糖、血中脂質の3項目の上位に腹囲を据えていました。しかもその腹囲の基準値が男性85センチ、女性が90センチであったのです。
身長の高低によって左右されるはずの体重や腹囲を、それに比べて他因子の影響を受けにくい血圧、血糖、血中脂質という項目に優先させるということは素人目にもおかしいと感じます。その上、あろうことか平均身長が高い男性の腹囲の基準値の方が平均身長の低い女性の値よりも小さいというからびっくり仰天ではありませんか。
身長が170センチ以上ある男性で85センチの胴回りはごく普通の健康体に見えます。80センチ以下であったら体型維持に腐心しているナルシストでなければ悪性の慢性疾患をもっているのではないかと疑ってしまうほどです。一方、160センチに満たない身長で90センチを超える胴回りの女性は相当なデブで、健康診査をする前からご本人自身が食事制限と運動の必要性を考えていたに違いありません。
この判定基準には男女を問わず驚きました。特に男性の場合には、それまで健康と考えて生活をしてきたのに、青天霹靂のごとく「メタボリックシンドローム予備軍です」と宣告された方が少なくないのですのです。また、この健診が腹囲を強調するあまりに85センチ=メタボ=デブという先入観が蔓延して多くの男性が「デブ男」という謂われなき汚名を着せられました。
一方、かなりやばい女性に「メタボにあらず」という誤ったお墨付きを与えてしまいました。気を許して健康被害を増大させた可能性があります。

世界中に類を見ない非常識な基準の健康診査が行われた原因については以前のコラムで詳しく書きましたので多くは繰り返しませんが、科学研究のいろはを知らない肥満学会のボスが統計の意味や原則をわきまえないで行った研究結果が大手を振ってまかり通ったことにあります。さらに、その男の主張を真に受けた国の審議会の座長(臨床を知らない元公衆衛生学教授)の不見識によります。
しかし、彼らだけに罪を着せるわけにも参りません。ただただ医療費削減だけしか眼中にない厚労省の役人の不純な動機に基づく拙速な制度設計も責められなければなりません。
彼らは多額の税金を投入して、いたずらに国民に健康不安をあおったことになりますが、結局は彼ら関係者から謝罪の言葉を聞くことはないでしょうし、責任をとる行動もないでしょう。国やその威を借る狐どもが得体のしれない組織を隠れ蓑にしてしまい、誤りを認めることがないことは常識です。菅谷さんの冤罪事件に対する再審公判において当時の担当検事からついに謝罪の言葉がなかったことがこの実態を象徴しています。
それに、肥満がよくないサインであることに変わりはありません。我々男性も85センチを努力目標としておくことにこしたことはありません。気を許さずに日頃の生活習慣に気をつけましょう。
ただ、今回の騒動から得た教訓は、やたらに具体的な数字を掲げて科学的であるかのように見せかけるやり方に十分に注意すべしということです。繰り返しますが、はっきりとした真実は取り立てて難しい手法を使って説明をする必要はありません。複雑で難解な科学的手法を駆使したデータを見たら、すぐに鵜呑みにするのではなく、まずは眉に唾してじっくりと見据えることをお勧めします。

雷電になり損ねた朝青竜

雷電為衛門という名前をご存じでしょうか。江戸時代(明和4《1767年》年~文政8《1825》年)に活躍した力士です。力士生活21年で最高位は大 関。江戸本場所36場所中における通算黒星が僅か10しかなく、勝率は何と9割6分2厘で、大相撲史上、最強の力士とされています。
身長197センチ、体重172キロの体躯は、現在の力士、把瑠都と同一で平均的な体格が現在よりも小さかった当時、その巨漢ぶりは想像を絶するものと思わ れます。当時は年2場所制でしたので、年6場所の現在の相撲に比べて記録づくりには圧倒的に不利なのに、全勝優勝7回を含んで、通算28回の優勝をしてい ます。年6場所もある現在でさえ雷電の記録を超えるのは大鵬の32回と千代の富士の31回だけです。
全勝優勝記録は2場所制で双葉山の8回が雷電を超えましたが、6場所制になっても大鵬(8回)が超えただけで、北の湖と千代の富士も7回のタイ記録で終わり、ついに抜くことはできませんでした。
連覇記録では11場所、9場所、7場所という驚異的な連続優勝の記録を残しています。朝青龍がなんとか7連覇を記録しましたが、11場所連続優勝という偉業は今後誰も抜くことはできないと思います。
連勝記録こそ44連勝止まりで史上7位に甘んじていますが30連勝以上を4回も記録していて、その後この記録を達成できたのは6場所制になってからの大鵬だけです。連敗はなく、1場所中に2敗を喫することもなく、同じ相手に2度負けたのはたった一人だけでした。
あまりの怪力無双ぶりに相手に回復不能の怪我を与えたために雷電だけ「突っ張り」、「張り手」、「閂」を禁じ手にされたという逸話もあります。
こ れほどの力士であるにもかかわらず、ついに横綱を受けることができませんでした。なぜ雷電が横綱になれなかったのかは相撲史上最大の謎とされています。遺 恨試合で相手を死なせたから。容姿が醜く人気が今一つでなかったから。お抱え藩であった松江藩松平家の政治力が弱かったから。たまたま横綱を張って土俵入 りする上覧相撲が開催されなかったから。等々、諸説紛々ですが、どの説もそれを否定する史実があるために未だ謎は解けないままです。
しかし空前絶後の記録を残しながら横綱を張れなかったがゆえに、かえってミステリアルな存在感を増して、様々な都市伝説を残し、歴代の横綱に勝るとも劣らない相撲史上の伝説を築いたとも言えます。

今 では横綱は、小結や関脇と同じような角界の最高位の名前として扱われていますが、本来はそうではありません。厳密に言うと相撲の世界の最高位は大関なので す。横綱は横綱大関とも言って、大関の中で、将軍家が観戦する上覧相撲や寺社への奉納相撲の際に白麻製の綱を腰に巻くことを許された者を言います。実際に 第十五代横綱、初代梅ヶ谷藤太郎までは横綱を張ったとしても番付は大関のままでした。
綱が麻でできているということは重要な事柄です。綱は最近大麻依存症の時にお話しした、神主が持つ大幣や正月に飾る注連縄と同じく神事に関係する物なのです。つまり、横綱は神社の注連縄と同じく、神の依代*1で あって、結界を作り、外界の不浄のものを隔絶した神聖な場所を作り出すアイテムの一つです。土俵は神聖なもので女人禁制とされていますが、実は横綱が土俵 入りをすることによってはじめて神聖な場所たり得るのです。ですから綱を締めての土俵入りは横綱の極めて重要な義務なのです。つまり、横綱大関は土俵を清 める神事を司る役であって、単に一番強いことを誇示する目的で綱を張っているのではありません。心・技・体すべてが求められて当然なのです。
ただ、人格が高潔であるか否かという判定は主観的で十人十色、なかなか満場一致の結論を得ることができません。そこで明治になってから、次第に横綱は最強豪の大関であるという考え方が一般的になりました。また横綱に免許を与えていた吉田司家*2の勢力が衰えたことも一因です。こうして横綱の基準は本場所での成績重視という現在のスタイルができました。
現 在は横綱審議委員会の諮問を経て日本相撲協会が推挙するという形になっています。この制度で初めて横綱となったのは第41代、千代の山雅信です。推薦基準 は「大関2場所連続優勝あるいはそれに準ずる成績」となっています。しかし、厳密に大関になってから2場所連続で優勝することはなかなか難しいので、近年 は「それに準ずる成績」という基準で横綱に推挙されるものが少なくありません。ところがそれに準ずるという文言があいまいでしばしば議論となるところであ ります。
本場所の成績のほかに、品格基準があります。① 相撲に精進する気迫、② 地位に対する責任感、③ 社会に対する責任感、④ 常識ある生 活態度、⑤ その他の横綱として求められる事項の五つです。ところが最近、成績を重視するあまりこの品格が軽視されてきました。相撲の格闘技、興行として の側面が強調されて神事の側面がないがしろにされた結果です。

先日、朝青龍が引退を表明し相撲協会が受理しました。朝青龍は幕内優勝25回(歴代3位)、全勝優勝5回(歴代4位)、連続優勝7連覇、669勝173敗76休で勝率7割9分5厘という輝かしい成績を残しました。
し かしながら、2007年、巡業をさぼってモンゴルでサッカーに興じていた事件をはじめ、八百長疑惑、反則負け、土俵上でのガッツポーズ、勝ちが決まった後 のだめ押しなど、挙げればきりがないほど多くの醜聞を振りまいた力士でもありました。しかも、悪事がばれても率直に謝罪するのではなく、不良医者と結託し て仮病を装ったりして、潔さのかけらも見られませんでした。
今回、本場所中に朝方まで飲酒して一般人に暴行したことが明るみに出てついに引退に追 い込まれました。暴力事件も実は今回が初めてではありませんが、これまでは妻や親方といった身内や水商売の関係者であったことからうやむやにされてきまし た。今回こそはどうにも言い逃れできないので、直ちに引退を表明すると思っていましたが、被害者を付き人と偽ったり、高額の示談金で逆転の「うちゃっり」 を狙って相変わらずの悪あがきぶりでした。
相撲協会もドル箱の横綱を失いたくないという思いとモンゴルとの関係が悪くなることへの懸念などの思惑 が絡んで、なんとか穏便に済ませたい様子でした。しかし、予想を上回る逆風の世論と外部理事の糾弾、さらには我慢の限界を超えた横綱審議委員会からの箴言 によって、ついに寄り切られた形です。
こういう事態を招いた原因は、高砂親方のふがいなさは言うまでもまりませんが、相撲協会自体が、口では土俵 を神聖なものと唱えておきながら、現実は利益至上の興行集団に成り下がっていたことが元凶だと思います。相撲協会自体が品格を失っていたのですから、横綱 にだけ品格を求めるのは酷とも言えます。協会だけではありません。これまで相撲を支えてきた谷町も品格不在となりました。現在の角界の姿は世情を反映する 鏡とも言えます。
これを機に相撲が単なる格闘技ではなく、神事の一環でもあることを再認識して再出発しようではありませんか。幸いなことに新横 綱、白鵬は同じモンゴル出身でありながら、相撲の取り口を見る限り、双葉山を思い起こさせる堂々たる横綱相撲です。人種は関係ありません。昭和の大横綱大 鵬もロシア人の血を引いていました。このまま精進に勤めて真の平成の大横綱になってくれることが大いに期待できます。

見方を変えれば、朝 青龍も被害者だったのかもしれません。資質が備わっていなかったにも関わらず、単に強いというだけで横綱にされてしまったからです。単なる大関でいたなら ば、ある程度のやんちゃが許されたかもしれません。むしろ、雷電を凌ぐ、史上最強の大関伝説を築いたかもしれないのです。
横綱を張ったがために、度重なる不祥事で引退を余儀なくされた横綱という不名誉を背負い続けなければなりません。協会は自ら綱の意味を問い直して猛省すべきだと思います。私たちも相撲を今少し深く考えてみましょう。
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*1依代(よりしろ):神霊が招き寄せられて乗り移るもの。神霊の代わりとして祭るもの。
*2吉田司家:後鳥羽天皇より相撲の全権を委ねられた家系。「追風」の号を名乗り、元来、京都二条家に仕えた。その後細川綱利に招聘されて熊本藩に仕えた。

依存症番外編-すーだら症候群-

流行病と言えばインフルエンザのような感染症と考えますが、精神科の病気も流行するようです。近年流行となり、今や風土病のように蔓延してしまったのは「うつ」ですが、最近は「依存症」が流行してきました。「うつ」が「うつ病」ではなくて、単に「うつ」であるのに対して、「依存症」の方はやたらと亜型が多いので覚えるだけで大変です。
思いつくままに列挙してみましょう。ネット依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症、共依存症、携帯依存症、ゲーム依存症、権力依存症、仕事依存症、セックス依存症、ダイエット依存症、美容整形依存症、リスカ依存症、恋愛依存症。きっとたくさんの病名を書き洩らしていて、精神科医のくせに勉強不足だとのお叱りを受けると思います。しかし、次から次へと雨後の筍のように新しい病名もどきが登場するのでとても覚えきれないのです。
依存症とはウイルスが原因の感染症なのでしょうか。いや、そんなはずはありません。依存症と呼ばれる人たちの血液に炎症反応が出現したり、免疫グロブリンが増加したという話は聞いたことがありません。依存症が増えた理由の多くは依存症の概念が拡大したことにあると思います。
以前は携帯電話やインターネットというものその物が存在しませんでしたから、携帯依存症やネット依存症の増加は間違いありません。また、リスカ(リストカット)依存症は、確かに若者の間で口コミやネットで広まって、実数が増加していると思います。
しかし、買い物依存症とかセックス依存症などは、元来、依存症とは命名されていなかった状態をことさらに依存症と名付けたのではないでしょうか。買い物依存症は以前ならば「浪費癖」と呼ばれていたように思います。昔からやたらと買い物ばかりする人はいました。
タイガーウッズの不倫騒動で市民権を確立したかのように見えるセックス依存症も、「助平」と置き換えれば、いまさら取り立ててカウンセリングだとなんだと騒ぎ立てるほどのことではないように思います。古今東西、男はみな助平であり、助平につける薬はないということは誰でも知っています。四角張ってカウンセリングなんていいますが、要するに「湧き上がる助平心はいかんともしがたいけれど、そのまま行動に移すと社会的生命を失うことになりますよ」と言いきかせ、威しあげるだけのことです

依存という言葉は本来、これまでのコラムでお話ししてきた薬物依存症と依存性パーソナリティ障害とに用いられてきました。薬物依存はある種の中枢神経系作用薬が引き起こす慢性中毒状態の一つです。依存性パーソナリティ障害は自我がバランスよく発達できなかったために自分だけで意思決定することができず、常に他人からの助言や保証がないと決断することができない。このために親密な人との関係が壊れることを極度に恐れていつもその人について回り、従属している状態を言います。
止めようと思ってもなかなか止めることのできない薬物への依存や常に頼る人がいないと生きていけない依存性パーソナリティ障害。離れられない、止められないという点を敷衍すれば、過剰な買い物やいつも携帯電話をいじっている状態も依存症と言えないこともないかもしれません。しかし、何か違和感を感じませんか。似ているからといって何でも依存症と命名してしまえば、食い倒れと言われる大阪人は食い物依存症。着倒れで有名な京都の人は着物依存症ということになって、関西は病人だらけになってしまいます。
薬物依存症においては脳の快楽、報酬系であるドパミン機能が重要なカギを握っていることが分かっています。いわゆる依存症においてもドパミン機能に変化がある可能性はありますが、全く同じ機序が働いているとはどうしても思えません。
依存症に限らず、精神科領域では日常的によく見かけ、ことさら単一の疾患として扱う必要がないと思われる状態に「○○病」「✕✕障害」などとネーミングすることがよくあります。そうすることは、これまでそれほど大した問題ではないと見過ごされてきた心の持ち方や行動が、実は放っておくと抜き差しならない状況に発展する危険性に警鐘を鳴らします。また、そういった問題がそれほど簡単に是正できないことを教えて、本人や周囲の人に真剣な態度で取り組ませるという利点があります。
反面、病気というレッテルを張られることによって、本人が「病気なのだから仕方がない」と言って、かえって直そうという努力をしなくなり、病名に安住させてしまう可能性も出てきます。

なぜ精神科領域では病名作りが盛んなのでしょうか。その理由を考えてみましょう。精神科疾患の多くがまだまだ客観的な検査によって診断されません。いくつかの症状の積み重ねから推論することでしか診断することができないのです。こんな背景を利用して一部の精神科医と心理屋さんが自分たちの飯の種を増やそうとしていることが関係しているのではないでしょうか。製薬会社のG社が自社の抗うつ薬の販売を伸ばしたいために、「あなたもうつかもしれませんよ」というキャンペーンを大々的に繰り広げて、うつ病患者を掘り起こし、本当はうつ病でもない人までも「うつ病」申告するような現状を招いたのと同じです。こういう人たちこそ「病名依存症」といった方がよいかもしれません。

いちいち「○○依存症」と名付けていてはきりがありません。そこで私は、こういった所謂依存症を昔、故植木等が歌った大ヒット曲にちなんで「すーだら症候群」と総称することを提案します。
「わかっちゃいるけどやめられない あっ それ !」
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