四国、九州から北上中であった桜前線がこのところの寒さで暫し足踏み状態でしたが、日曜日になって東京もお花見まっ盛りになりました。
桜は山桜、大島桜など600を超える品種があります。この中で現在、日本を代表する桜と言えば「ソメイヨシノ」をおいて他にはありません。このソメイヨシノは意外にも、明治初期に東京の染井村(現在の豊島区駒込)の植木職人が人為的に作り出した一代雑種です。このために同一個体内で受粉して結実した種が発芽することはありません。
したがって、全国各地で日本国民の目を楽しませてくれるソメイヨシノは、すべて人の手によって接ぎ木で増やされたものです。日本国内に限らず、ワシントンのポトマック河畔の桜を含めて、すべてのソメイヨシノは、元々一本のソメイヨシノのクローンなのです。
花見酒に浮かれ騒ぐわりに、こういった事実はあまり知られていません。JR駒込駅を出てすぐ右手の小さな公園に「染井吉野発祥の地」という碑が建てられていますが、通りすがりに、この碑に足を止める人はめったにありません。それどころか、千鳥ヶ淵辺りで「桜はなんたってソメイヨシノだ!」などと怪気炎をあげた帰りにこの碑の脇で立ち小便する輩さえいます。
クローン種の宿命と言えますが、ソメイヨシノは老齢化が早いのです。また、元は1本の木ですから、いつの日か全国のソメイヨシノが一斉に枯れてしまう可能性も危惧されています。一代限りの命を世界中に輝かせているソメイヨシノは、種の運命そのものが、まさに桜を象徴しているように思います。
「花は桜木、人は武士」。日本人が桜の花をこよなく愛する最大の理由は「花七日」と言われるように、短い命を狂わんばかりに咲き誇る、その華やかな咲き方と潔い散り方にあると言われます。桜の花の咲き方に、華々しい活躍をしながらも連綿と生に執着せずに常に死を覚悟した生き方をよしとする、武士道精神に相通じるものを感じとるからです。つまり、桜は「男伊達」を象徴する花と言えます。
それでは、女性の美しさ、たおやかさはどの花に喩えられるのでしょう。白居易が楊貴妃の美しさを太液芙蓉(たいえきふよう)と喩えたように、蓮の花は昔から美人を表す言葉として用いられています。また「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは美女を指すあまりにも有名な表現です。
「高嶺の花」という言葉で言われる花は高山に咲く山百合を指しているのでしょう。「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」と言いますから菖蒲や杜若も美人の象徴と言えます。また、蘭の花に女盛りの美女を連想するのは私だけではないでしょうし、相手を薔薇の花に喩えて口説いた経験をお持ちの男性諸氏も少なくないはずです。
外観よりもその色香で人を魅了する金木犀、銀木犀も女性の魅力を存分に表わしています。また、花ではありませんが、柳はその細さ、しなやかさから柳眉(りゅうび)とか柳腰(やなぎごし)と言って、美人のシンボルの一つだと言えます。
こうして美女に喩えられる花を挙げればきりがありません。つまり、女性の美しさは十人十色それぞれの美しさがあると言えるのではないでしょうか。だからこそ、我々男子は百花繚乱の景を楽しむことができるというものです。実際に、最近の日本女性は自分の個性を知って、各人各様の生き方やおしゃれをするようになって、輝きを増していると思います。
一方我々男性陣はどうでしょう。女性のように化粧をしたり、エステに通ったりして外見の美しさを追求するようになりましたが、凛とした桜の美しさが見当たらなくなったのではないでしょうか。
むしろ、人の役に立ってもいないのに、いつまでも己の地位や財産に執着する人が増えているように思います。そういう人に限って「尊敬する人は坂本竜馬」などとぬけぬけと言います。
人間は自分にないものに憧れをもちます。ですから、自分が桜や竜馬になれないからこそ、桜や竜馬を愛するのかもしれません。しかし、ただ他人事のように拍手喝采するだけではなく、私たち一人一人が、たとえ果たせずとも、男らしく美しい生き方を目指したいものです。そして凋落の一途をたどる今の日本にとって、桜木精神の傑出したリーダーの出現が待ち望まれるところです。
私はこのコラムで小泉元首相の政策について終始非難してきました。しかし、彼が国民を熱狂させるだけの人間的な魅力を持っていたことは認めざるを得ません。天性の「可愛げ」と国民からのラブコールを振り切って退陣した、あの潔さは、最近の政治家の中で出色だと思います。最後の最後に次男、進次郎を接ぎ木しさえしなければ、本当に錦上に花を添えたでしょう。
目覚めた時にはなんでもないのに夕方になると下肢を中心にむずむずとした不愉快な感覚が起きてくる。この苦しみから逃れるために脚を動かしたいという強い欲求が起きてじっとしていられなくなる。ベッドに入る頃になると、その異常感覚は激しさを増し、もういてもたってもいられなくなる。もぞもぞ、そわそわ、脚を動かし続けるためになかなか寝入ることができない。明け方近くになるとこの異常感覚が弱くなってきてやっと眠りにつける。しかし、間もなく起床しなければならない。かかりつけの医者から睡眠薬を処方してもらって飲んでもいっこうによくならない。
こういう不眠にお悩みの方はいらっしゃいませんか。あなたは「むずむず脚症候群(Restless Legs Syndrome(RLS))」の可能性が高いのです。この病気についてはすでに昨年のコラムでご紹介しましたが、再度説明したいと思います。というのは、一般の方にまだ十分に知られていないことと、最近新しい治療薬が承認されたからです。
ここで、むずむず脚症候群をもう一度おさらいしてみます。
異常感覚は名前の通り、脚のむずむず感ですが、自覚的には必ずしも「むずむず」という表現だけで表わされるものではありません。「つっぱる感じ」、「ちくちくする」、「ひりひりする」、「むずがゆい」、「虫が這う感じ」、「痒い」、「火照る感じ」、「ピンでなぞられている感じ」、「針で刺されている感じ」、「痛い」、「振動みたい」などさまざまです。出現部位も脚だけではなく、腰や背中にも出現しますし、上肢に異常感覚を感じる患者さんも稀ではありません。中年以降に発症して、男性よりも女性の方が1.5倍かかりやすいことも分かっています。
不眠症の原因疾患として取り上げられるむずむず脚症候群ですが、本体は一般的な睡眠障害と違って、睡眠覚醒機構そのものにある訳ではありません。この病気の本体はどうやらパーキンソン病などと同様に、不随意運動をつかさどる錐体外路系の神経機構の異常にあり、この病気でも脳内のドパミンの機能異常が主な原因であるらしいのです。
むずむず脚症候群の患者さんの85%以上に周期性四肢運動が認められます。周期性四肢運動とは手足の筋肉が20~40秒間隔で0.5~5秒の持続で不随意にぴくぴくする症状です。このうち、睡眠中に起きる短持続の不随意運動は以前、夜間ミオクローヌスと呼ばれて不眠の原因の一つとされていました。その後の研究でもう少しゆっくりしたディスキネジアと呼ばれる運動も見られるし、覚醒時に起きることもあるので周期性四肢運動と呼ぶようになりました。
周期性四肢運動が不随意運動をつかさどる錐体外路系の機能異常であることは疑いがありません。治療的にもクロナゼパムという抗てんかん薬やドパミン製剤が有効なことからも理解できます。
むずむず脚症候群にこの周期性四肢運動が高率に合併すること、また同じくクロナゼパムやドパミン製剤が有効なことが、「むずむず」という異常感覚が主訴であるにもかかわらず運動機能系の機能異常が根本問題であると考える根拠の一つです。
症状が似ているために鑑別が必要な疾患にはアカシジア、睡眠時クローヌス、夜間ディストニア、線維筋痛症、多発性神経障害、下肢の血行障害、うつ病などがあります。臨床的な鑑別は習熟した専門医でないと難しいので、むずむず脚症候群患者さんには誤った診断、治療を受けて長期間にわたって苦しんでいる方が少なくないと思われます。
中でも、精神症状として分類されるアカシジア(起座不能)との鑑別はかなり困難です。アカシジアはドパミン受容体拮抗薬である抗精神病薬の副作用として出現することが多い病態です。日本語の病名が示すとおり、座っても立ってもいられない状態です。
むずむずした感覚が下肢を中心に起こりじっとしていられません。絶えず脚を動かして、足踏みをしたり頻繁に体位を変換したりします。同時に心拍数が増加して息切れがする。精神的には強い不安、いらいらによって不穏状態となります。治療は原因となっている抗精神病薬を減量あるいは中止することですが、そうできない時には抗ヒスタミン薬、抗コリン薬、βブロッカーを併用します。
ドパミンの機能低下が一時的原因であることも共通しているので両者は同一の病気であるという意見もありますが、アカシジアはじっとしている時に限定して起こるわけではなく、むずむず脚症候群と違って午後から夜間にかけて悪くなるという症状の日内変動がありません。発生部位も下肢に限らず上肢、顔、舌など広範囲に起きます。このように幾つかの点で大きな違いがあるために両者の関係については未だ最終結論が出ていません。
ドパミン機能異常による病気の本家本元であるパーキンソン病との関連性も今後の研究の課題として残っています。
むずむず脚症候群の治療は、パーキンソン病と同じようにドパミン製剤が有効ですが、量的にはパーキンソン病よりもはるかに少量で済みます。さて、
これまで厚労省は実際には有効な薬なのに、保険診療における使用を認めてきませんでした。そうなると本来は患者さんたちに自費で支払ってもらわなければなりません。しかも現時点では混合診療は禁止されていますから、その薬の分だけを実費でいただくと言うやり方さえ許されていません。
そうはいっても現実的には診察料をはじめその日の診療費のすべてを自費で支払っていただくわけにもいきません。そこで私たちは保険審査の目をかいくぐるためだけの病名をつけることになります。それを「保険病名」と呼びます。
この保険病名は違反行為ですので表立って言うことはできません(今言ってしまいましたが)。でも実際の臨床では、そうしなければ患者さんの治療ができないのが実態です。ですから保険病名の使用は、むずむず脚症候群に限らず、あらゆる病気の治療で行わざるを得ないのが現実ですから、私がここで書かなくてもすでに公然の秘密です。
むずむず脚症候群の患者さんの場合にドパミン製剤を使用する場合には「パーキンソン病」という保険病名をつけていました。ところがこの度、プラミペキソールというドパミン作動薬の効能・効果に晴れてむずむず脚症候群が認められました。
これから私たちは嘘を吐かずにむずむず脚症候群の治療をすることができるようになったのです。むずむず感や通常の睡眠導入薬で改善されない不眠でお困りの方は専門医を受診することをお勧めします。
2006年の道路交通法の改正によって駐車違反の取り締まりが強化されてほぼ4年が経ちます。私のクリニックの前の通りではめっきり駐車している車の数が減りました。300円投入すると30分間駐車できるスペースにも車の姿を見かけません。そんながらんとした通りを駐車監視員(緑のおじさん)が暇そうにぶらぶら散歩をしています。
のんびり散歩をして健康保持のためになり、しかも給料をいただけるのですから、駐車監視員は退職後の再就職先としてうってつけのように思います。
さて、この厳しい違反駐車の取り締まりによって通行の迷惑になる駐車がなくなるのはありがたいことですが、さほど邪魔になるとは思われない場所に止まっている車や業務上やむを得ず、ほんの短時間止まっている車に対しても、杓子定規に違反切符を切るやり方は乱暴であり納得がいきません。
わが国の道路交通行政は現実に則していないものが数多くあります。この駐車違反はその代表例です。都内の道路は隅から隅まですべて駐車禁止です。クリニックのすぐ近くに計画途中で中断した片側3車線でどん詰まりの道路があります。両側にこれといった商店もなく、場違いにだだっ広い全長200メートルほどの通りはめったに車が通りませんから、ここに駐車しても誰にも迷惑がかからないと思うのですが、こんな道路にさえ駐車禁止の標識が立っています。
あらゆる道路が駐車禁止になって、緑のおじさんが歩き回っていては路肩への駐車は不可能です。つまり、私たちは駐車場が完備した場所以外には車で出かけられないということになります。
以前、F1レーサーであった中島悟さんがテレビ番組で我が国の道路行政を痛烈に批判していました。「私たちレーサーは走ることが目的です。しかし、一般の車のユーザーは走ることそのものが目的ではありません。別の目的を果たすための移動手段として車を運転するはずです。だから、ずっと走り続けることはありません。言い換えるならば駐車するために走るのです。それなのにこの国では走らせても止めさせない。一般の人に公道でカーレースをしろと言うのでしょうか?」
私は開業から20年間、ずっと往診を引き受けてきました。当時は今のように声高に「在宅、在宅」と叫ばれるずっと以前で、在宅診療に対する報酬もずっと低かったので、多くの開業医は往診を好んではいませんでした。
私も積極的に在宅医療を心がけたわけではありません。口コミで聞き付けた人からの依頼に応じているうちに、いつの間にか週に1日半を往診に充てなければならないほどに膨れ上がってしまったのです。
やがて、在宅医療に高い診療報酬という人参が吊り下げられると、我も我もとこれに飛びつく医師が急増しました。それに反比例して私へのリクエストは減ってきました。今は最盛時の半分程の例です。でも、先日還暦を迎えた私には真冬の雨の中の往診が相当にこたえるようになってきていたので、これ幸いと往診を減らしていこうと考えていました。
ところが、精神科で往診をする医師は今でも少ないらしく、どこからか聞きつけて時々依頼があります。そういう依頼は誰もが引き受けたがらないような難しいケースです。なかなか楽をさせてもらえません。
豊島区は昔の農道がそのまま道路になっているようなところが多くて車での往診はなかなか困難です。そこで往診をするにあたってキャノピーを購入しました。ピザの配達に使用されている50ccの原付三輪車です。これにまたがって豊島区、文京区、板橋区を走り回っていました。15,000kmほど走行するとパワーが落ちて急な上り坂で青息吐息になったので、数年前にバイクを買い換えました。
どうせ走るならば少しは快適にと思って、2代目は改造して屋根を付けたビッグスクーターを選びました。ワイパー付きでハンドルグリップにはヒーターも装着してあります。これで厳しい冬の辛さが軽減されました。こうして少しでも快適に往診業務を遂行できるように工夫してはいるものの、いまだに往診の度にひやひやと気が気でないことがあります。それはいつ何時私のスクーターに駐車違反のステッカーが貼られやしないかという恐怖です。
往診をする医師は警察に申請すれば警視庁所管の「駐車禁止・時間制限駐車区間規制除外車両標章」というステッカーを発行してもらえます。これは駐車禁止の場所に駐車しても違反切符を切られないためのステッカーです。そんなものがあるんだったら、それを利用すれば問題ないのではないかと思われるでしょうが、それがそうともいかないのです。
このステッカー、昔は簡単な手続きで発行してくれました。ところがここ十年ほどは、毎年嫌がらせのように提出書類の数を増やして面倒にして取得しにくくされてきました。
それよりも、もっとも根本的な問題は、このステッカーを発行するための要件が「緊急往診に限る」となっていることです。つまり、在宅医療で定期的に往診するケースは対象外なのです。ですから、「申請の理由」欄には「心筋梗塞とか脳卒中のような病気を書かなければ認められません。私のように「認知症」を診察する時はこのステッカーを利用してはいけないのです。つまり、警察庁は在宅医療を推し進めようとする厚労省の方針を全面否定しているのです。
さらにこのステッカー登録対象はあくまで自動車であって私の往診用スクーターは申請することさえできません。今や世界中で温暖化ガスを排出する化石燃料の使用量の減少に躍起となっています。人一人が移動する際に排気量2,000cc以上で重量が1トンを超える四輪車に乗るよりも、250ccのスクーターを利用する方が環境に優しいことは火を見るより明らかです。にも拘わらず警察庁の方針はこの環境対策の一大潮流にも真っ向から逆らうものです。
今のところ、「往診中」と手書きしたステッカーを作って、往診中バイクに置いています。しかしそんなものは法的には何の効力もありません。私は往診をするたびに違法行為を繰り返さざるを得ないのです。診察中に運悪くサディスティックな婦警か責任感の強い緑のおじさんが通りかかったら問答無用で違反ステッカーを張られてしまいます。そしてこのまま在宅診療を続けていれば必ずその時がやってくるでしょう。
この他にも、円滑で安全な交通の確保を目的に駐車禁止としておきながらお金を支払えば駐車を許すパーキングエリア。国民の健康増進の目的と称しているものの税収の増加が本音の煙草税の値上げ。物事に本音と建前がつきものとは言うものの、この国の行政の在り方にはこのギャップが大きすぎます。
この国は一体私たち国民をどこへ導こうとしているのでしょうか
ハイチ、チリ、台湾と大地震が立て続けに起きました。それぞれの地域における地震発生の周期が異なるので直接的な関連性はないと思いますが、巨大地震のエネルギーが他のプレート境界面にさざ波のように伝わって次の地震が誘発されることは否定できないのではないでしょうか。数多くのプレートがせめぎあい、普段から地震の多発する我が国に波及しなければよいと願います。
阪神淡路大地震の直後で地震の話題でもちきりの頃、一言居士の友人Aが「本当に怖い大地震はないんだよ」と言っていたのを思い出しました。Aは怪訝顔の私に「巨大地震の震源近くにいた場合には怖いと感じる前に死んでしまう。怖いと感じられる時間的余裕があるのはそれほど大きな揺れではない証拠なんだよ」と得意げに解説しました。
最初の一撃では九死一生であっても、身動きがとれなくなってその後の火災で焼き殺される被災者が多いと言いますから、Aの説は正しいとは言えませんが、地震の実際の大きさと自覚的な恐怖との関係を説明する上で、中らずと雖も遠からずの名言ではないかと思います。
さて地震の大きさを表す尺度は沢山ありますが、被害規模を基準にした震度と地震のエネルギーを表すマグニチュードとが一般的に知られています。この他に耐震設計の際に問題となる、揺れの加速度を表す「ガル」も重要です。
結果としての被害の程度を反映する震度は、その土地の地盤の脆弱性などに大きく左右されるので必ずしも震源地からの直線距離に反比例しません。一方、客観的な地震エネルギーの規模を表す単位がモーメント・マグニチュード(Mw)です。Mwとエネルギーは常用対数と線形関係にあるのでMwが1増えるとエネルギーが10√10、つまり約32倍であり、2増えると1000倍であることを示します。
今回のチリ地震はマグニチュードが8.8で、近代的な観測が可能になった20世紀以降の地震の中で5番目に大きな地震でした。因みに2004年に22万人以上の死者・行方不明者をだしたインドネシア・スマトラ島沖地震は史上3位でマグニチュード9.1でした。観測史上最大の地震は1960年に今回と同じチリで起きた地震でマグニチュード9.5。今回の地震の11倍を超える大きさだったことになります。
では何故地震エネルギーの大きさを単純に30X、1000Xと表記しないで常用対数を使って1とか2とかで示すのでしょう。多くの自然現象が直線棒グラフで表わされる一次関数では理解しがたい動きをするからです。
多くの現象は指数関数的に増加あるいは減少します。ところが地べたを這いつくばって生きている人間は日常的な生活の中で一次関数的な比例の感覚でしか、ものを捉えにくいのです。そこで本当は指数的な現象を頭の中で想像しやすいような値に変換して提示すると分かりやすいのです。この作業が対数化です。つまり対数表示とは神の世界のできごとを私たちの目に見えるようにするための眼鏡の役割をしていると説明している方がいます。とても分かりやすい表現です。
私たちが指数現象を直観することが苦手であることを示す1例をあげます。厚さ0.1mmの新聞紙を100回折りたたむと厚さはどのくらいになると思いますか?答えは1023km。言い換えると1010光年(100億光年)です。何と宇宙の果てに近い厚さになってしまいます。この際、新聞紙の広さの方は一辺が原子の直径よりも小さくなってしまいます。
紙を折りたたむという日常的な行動からはちょっと想像できないスケールの結果を生じるわけです。新聞紙を100回も折りたたむことなんてありえない作業ですが、自然界ではこの折りたたみ作業が頻繁に行われているのです。
宇宙創成の歴史は時間的にも空間的にも指数現象です。宇宙誕生から10-44秒後に重力が他の力から分離しました。その後加速度的膨張をして10-4秒後にクォークが閉じ込められてハドロンとレプトンが誕生します。つまり、熱く光に満ちた世界になりました。まっかな火の玉状態の宇宙が今の恒星などを有する宇宙構造になったのが105年です。
生体の薬物に対する反応も線形グラフには乗ってきません。やはり指数、対数の世界です(正しくはS字状曲線)。つまり服用量が2倍になったからと言って効果が2倍になる訳ではありません。
微小な量子の世界から宇宙の果てまでの空間、また宇宙誕生から現在までの時間の中でおこるありとあらゆる現象は指数現象であると言っても過言ではありません。それを私たちの頭が理解するにはどうしても対数の眼鏡を通す必要があるのです。
対数的な視点で世の中の事象を再考してみると人間とチンパンジーとはほとんど差がありません。犬、猫と比較したって極めてわずかな差でしかなく、細菌あたりと比較した時にやっとはっきりとした違いが見えてくるくらいのものです。ましてや、人種や宗教の違いなんてものは限りなく0と言えます。
些細なことで周囲の人と争いを起こしている私たちですが、時々、自分たちの営みを対数グラフ化して見てみることをお勧めします。日頃の悩みが馬鹿馬鹿しく思えるはずです。
ここ数年我が国では「脳」流行りです。任天堂DSの「脳トレーニング」ゲームの売れゆきは未だに好調。もじゃもじゃ頭の脳科学者がテレビや本で大人気です。彼のおかげでドパミンが聞きなれた言葉になり、一般の人が日常会話で使うようになりました。
先日会食した医師ではない友人が「何でもかんでもドパミン、ドパミンと耳にたこができてうっとおしい」と言っていました。それほど脳に関連した用語を耳にするようになりました。
脳科学の啓蒙は、これまで科学的に理解しようとせず、不思議なものとして封印されてきた「心」というものに光を当てたということに大いなる功績があります。これまでは一般の方の脳に対する理解が少なかったので、似非心理学的で怪しげな占いの付け入る隙を与えていましたが、そういった商売がやりにくくなってきたのではないでしょうか。
一方、脳というものに対する基礎的な知識のない方がドパミンだとか報酬系といった言葉だけを知ると、複雑精緻な脳というものを心臓などと同じ単純な装置と錯覚してしまう危険性があります。以前のコラムでもお話ししたように、脳の生理的なメカニズムはまだほとんど未解明です。脳を開発の遅れているアフリカ大陸に例えるならば、今はまだ周辺海岸のごく一部に町が建設された20世紀初頭の状態です。広大な内陸部はまだ人跡未踏のままなのです。
もじゃもじゃ男が喋っているのはこのごく僅か分かってきたことだけを材料にした話をしているのですが、あまりにも簡明に話をまとめてしまうので、脳の機能の大部分が解明されたかのような誤解を生む結果にもなります。私たちの行動が単にドパミン報酬系の活動だけで規定されているなどと努々思わないでください。
と言っても、神経薬理学を中心としたここ数十年の研究が脳の機能解明に輝かしい成果を生んできたことは間違いありません。新しく確立された分子生物学と協力して今のスピードで研究が進んで行けば、近い将来脳の機能の多くが解明され、さらには精神病の画期的な治療法が開発されるものと思います。
私が大学を卒業する頃は、まだ精神病が脳という臓器の障害に基づく疾患だという考え方で一致していませんでした。Schizophrenogenic mother(分裂病を生み出す母親)という言葉が使われていたように、統合失調症は育て方が原因で起こる障害だという説がまかり通っていたほどでした。
私は精神病は実態のない「病んだ心」ではなく、脳の機能障害であるという信念を持っていました。ですから、脳科学的なアプローチで精神病を研究したいという志を持っていました。そこで中枢神経薬理をテーマにしておられた福原教授のもとで神経薬理を学ぶことにしました。そこで問題になったのが、卒業後精神医学と神経薬理学と、どちらを先に学ぶかということでした。
当時の精神科主任教授の新福教授に直接そのことを相談に行きました。新福教授の答えは「君が最終的に精神科の臨床をしたいのならば最初に精神科に来たまえ。薬理学者がゴールであるならば、まず薬理学を学びなさい。」「まっさらな時に得たことが体に染み込む。最初に精神科の臨床を体験しておけば途中何年基礎研究をしたとしても、また臨床現場に戻った時に必ずその時染みついた臨床医の勘が戻る。最初の数年を基礎研究に費やせば研究者としての勘が身に着く代わりにその後、いくら一生懸命精神科臨床を学んでも体で感じ取るものはなかなか身に着けられない。」
そして止めに言われたのが次の言葉です。「将来、薬理学をはじめ様々な脳科学が精神病を解明する日が来るかもしれない。だが、脳科学者たちによって精神病が解明されたとしても、彼らは精神病患者を治すことはできない。精神病患者を健康な生活に戻すことができるのは精神科医だけだ。」
精神科医療に携わって35年になろうとする今、あの時の新福教授の言葉の意味が実感として理解できるようになりました。
DSMのような操作的な診断が主流となり、ドパミンだアセチルコリンだと言って、簡明にいかにもそれらしく説明できるようになったために、精神医療がマクドナルド化してしまいました。一見すると精神科医療は進歩したかのように錯覚させられますが、本当にそうでしょうか。私は精神医療の質はかなり低下したのではないかと危惧しています。
患者さんの表情の変化、言葉の抑揚、息遣いにとても重要なサインが秘められています。それは精神科のいろはであったはずです。それにも関わらず、現在のメンタル医療ではそういったことに目もくれず、患者さんに紙っぺら一枚の質問票を記入させて、その得点結果から「ハイ、あなたは○○点だからうつです」、「じゃこの薬を処方しましょう」といった精神科医療がまかり通っています。こういったことが医療の質が低下したことを示す何よりの証拠です。
脳の生理機能が解明されつつあるからこそ、精神病患者さんは現在分かっている脳の科学的知見だけでは救えないことがより一層はっきりしてきました。私たちはそのことを真摯に受け止めて医療に当たらなければなりません。
新福教授の教えは、わが母校の学祖、高木謙寛の言葉「病気を診ずして病人を診よ」に通ずるものです。精神科医は精神病を診るのではなく、精神病患者と向き合い、全人格的に彼らを救うことが使命なのです。