東京都 豊島区 大塚 精神科 心療内科 神経科 内科 神経内科 メンタルクリニック 認知症 うつ病

クリニック西川

2010年7月

外題学問

このところ、テレビのワイドショーは連日大相撲関係者を追いかけまわして、真実を告白するように詰め寄っています。ちょっと前は小沢代議士関係者が対象でしたし、数年前は設計士や食品関係者がマイクに取り囲まれていました。
声を揃えてこう言います。「国民に対して真実を語りなさい」と。マスコミは彼らが大岡越前の前に引き立てられた悪党のように、「こうなったら洗いざらい白状します」としおらしく極悪人を演じれば満足します。しかし、彼らの発言が、自分たちが期待していた絵柄と少しでも違えば納得しません。「説明が不十分だ」、「説明責任を果たしていない」と執拗に追い回します。
こうして、最終的に期待通りの発言を引き出すと「どうです、私たちの予想していた通りだったでしょう」と見栄を切ります。真実を語れと言いながら、その実は自分たちの書いたシナリオに沿った情報を作り出しているのです。
こんな歪んだ報道を生む原因は私たちにあるのではないかと思います。大衆は複雑な真実を理解しようなどと思ってはいません。現実社会の複雑な出来事を単純な勧善懲悪ドラマに仕立てて楽しみたいのです。報道機関はそんな大衆の嗜虐的な欲望を満足させる情報を提供しているだけなのではないでしょうか。

報道という名のドラマの弊害については別な機会に述べます。今回は、こういった報道という名の暴力が罷り通る下地についてお話したいと思います。それは「知る権利」の濫用です。
今や「知る権利」は疑いの余地がない大義名分とされています。大衆はみな際限のない「知りたがり」です。しかし、本当に何でもかんでも知ることがよいのでしょうか。こういった権利を行使することによって私たちは賢く、幸せになったのでしょうか。甚だ疑問に思われてなりません。

現代は「知りたがり」の風潮に応えておびただしい情報が氾濫しています。あらゆる商品の取扱説明書には微に入り細に入り、馬鹿馬鹿しい事柄まで詳しく書いてあります。アメリカでは電子レンジの取り説に「猫を入れないでください」と書いてあることはあまりにも有名です。
実際に猫を電子レンジに入れて殺してしまった消費者が、猫をレンジに入れてはいけないという注意事項がなかったためだとしてメーカーを相手取って訴訟を起こし、勝訴した結果だと聞きます。
私が扱う医薬品の説明書きも日々注意事項が増えるばかりです。医薬品は電子レンジ以上に安全性が要求される商品ですから、注意に注意を重ねることに異論を唱えるつもりはありません。しかし、因果関係がはっきりしていない事故や極めて稀にしか起きない副作用までももれなく記載してあります。私たち専門家が読む場合にはその意味するところを汲み取れますが、医学の基礎知識のない人が読むとただ混乱をきたすことになります。
家電製品や医薬品の説明書に限らず、現代はインターネットを利用すれば、これまでは専門家しか知り得なかった情報を誰もが簡単に入手できます。誰にでも情報が公開されて共有化されています。しかし、情報はただ丸暗記しても知識として役に立ちません。正しく理解して初めてその人のものになるのです。そして正しく理解するためにはその分野で常識となっている基礎知識と思考力が要求されます。
それでは現代人は昔の人に比べ、おびただしい量の最先端知識を理解できるだけ基礎知識と思考力が向上しているのでしょうか。そうは思いません。基礎知識はゆとり教育の弊害によって明らかに減っています。基礎中の基礎である読み書き算盤がおろそかにされてきたからです。
思考力が落ちているのも確実です。何でもかんでも懇切丁寧な注意書きに頼っているからです。その一つの証拠は、多くの人が科学的な根拠に欠ける賞味期限に振り回されていることです。この怪しげな基準を一日でも過ぎた物には一切口をつけない人を見ると唖然とします。
形而上的な難問ではなく、極身近な問題についても自分で考えて判断しようとしないのですから、思考能力は確実に低下しています。いや、能力云々以前に思考しようとしなくなってしまったのです。因みに私は、誰も手をつけない賞味期限切れのお菓子を一手に引き受けるために太ってきてしまいました。

皆が安易に「私、それ知っている」と口にしますが、「知る」にはピンからキリまであります。本来はそのことについて熟知していなければ使えない言葉なのですが、単にその言葉を聞いたことがあるだけでも、平気で「知っている」という風潮です。
英語だと前者は「I understand」で後者は「I heard」ですから、両者の違いは一目瞭然なのですが、曖昧な表現を得意とする日本語ではどちらも「知っている」になってしまいます。
「外題学問」という熟語があります。これは、書物の書名だけを知っていて、その内容をよく知らない似非学問のことを言い、うわべだけの学問をあざけって言う言葉で、「本屋学問」とも言います。
このような四文字熟語があるように、昔から知ったかぶりや生かじりは馬鹿にされてきました。ところが最近はそうではないようです。実際に、やたらと用語をたくさん覚えている人が深く思考する人よりも尊敬されます。考える能力よりも情報収集能力の方が重視されているからです。こういう状況ではヒトはますます馬鹿になっていきます。つまり「知る権利」を振りまわす結果、どんどん思考能力が低下していくのです。

「一を聞いて十を知る」とまではいかなくても、一つの情報を基に深く考えをめぐらせる習慣を身につけたいものです。

記憶のメタモルフォーゼ

私が今年3月で還暦を迎えたことはすでにお話ししましたが、私はもっとご高齢のゴルファーとプレイすることが少なくありません。むしろ私より若い方とプレイする方が稀です。
70過ぎ、80歳に近い方でも体力があって、ほとんどの方がこの暑さの中を歩きでラウンドされます。しかも皆さん、私よりもずっとお上手です。それなのに、御本人たちはとてもご不満のようです。
なぜならば、日頃いくら健康に留意して、トレーニングを欠かさなくても、70歳を過ぎるとどうしてもゴルフの腕前が落ちてしまうようです。いくら筋力を維持しても体の柔軟性と集中力の低下は防ぐ術がなく、パットが入らなくなり、ショットの飛距離が落ちてしまいます。
経済でも何でもそうですが、絶対値よりも変化の方向の方が気分に大きな影響を与えるようです。つまり、だんだんに上手になっていく時は喜びに満ちていますが、昔できていたことができなくなるということは耐えがたいことのようです。ですから、こういうグランドシニアのゴルファーとプレイをしているとしばしば「昔はこんなもんじゃなかった」という発言を耳にします。
確かにそうなのでしょう。昔、上手であった人ほど忸怩たる思いにさいなまれるはずですから、私のようなへぼと一緒にプレイしている自分が情けなくなって、ついついそのような言葉を口にしてしまうのだと同情を禁じ得ません。
しかし、スコアはご本人のおっしゃる通りなのかもしれませんが、飛距離に関しては、眉に唾しなければならないことが少なくありません。というのは老ゴルファーの「昔はこの木を悠々と超えていたんだけどな」という話を真実とするならば、昔の彼らは遼君よりも飛ばしていたことになってしまうのです。その頃のクラブは今のような硬くて軽くて弾性率が高いものではなく、柿の木を削りだしたクラブでした。にわかには信じられない話なのです。
彼らは大嘘吐きのほら吹きなのでしょうか。私はそうは思いません。本人は自分の記憶に基づいて嘆いているのだと思います。ただ、肝心の記憶が事実と異なっているのです。脳の老化と悔しい思いが記憶を事実から乖離させてしまったと考えます。「記憶のメタモルフォーゼ(変態)」と言うと分かりやすいのではないでしょうか。

記憶という機能はよく、大きな金庫の引き出しに物を蓄える作業に喩えられます。そして記憶を構成する記銘、保持、再生、再認の4つの下位機能を次のように説明します。
記銘:必要な物(情報)を引き出しにしまう。
保持:引き出しで長時間保管する。
再生:その情報が必要となった際しまってあった情報を引き出しから取り出す。
再認:取り出した情報が必要とされたものかどうか検証する。
この喩はとても分かりやすいので、私もしばしば利用させてもらっています。
しかし、実際には記憶は物質的な塊ではありません。宝石をしまっておくの
とは根本的に違うのです。また、引き出しにあたる脳も時々刻々と新陳代謝さ
れているのです。脳が死ねば記憶も消失してしまいます。つまり、記憶とは脳組織が絶え間なくエネルギーを消費することによって保持しているダイナミック(動的)な情報なのです。したがって、引き出しである脳の状態によって中身の記憶が容易に変態します。
このメタモルフォーゼはよいことはよりよく過大に、一方都合が悪いことや嫌なことは小さく過小に変態する傾向があります。これは脳(自我)の自己防衛反応であると思われます。以前のコラムに書いたように、ヒトは本能が退化して発達した自我に依存して生きる少々毛色の変わった動物です。ですからこの自我が崩壊すると大変なことになります。そのためには自我に都合の悪い情報は変態させたり消失させる必要があるのです。
嘘はおそらくヒトのもつ特殊技能だと思います。他の動物は嘘が吐けません。「嘘」も人が地球上でこれだけの繁栄を気づいた大きな要因でしょう。そして、昔から「嘘も100回吐けば真になる」と言われるように、こうあってほしいと思って事実に反する主張を繰り返すうちに、自分自身それが真実であるかのように考えだします。自分自身の嘘による記憶のメタモルフォーゼです。
嘘による記憶のメタモルフォーゼは刑事事件の被疑者に見られることがあるそうです。否認し続けているうちに、自分の記憶の中から犯罪行為が消去されることがあるそうです。さらに、詐欺師や政治家や新興宗教の教祖は記憶のメタモルフォーゼ機能が人並み以上に発達した人なのだと思います。

斯く言う私の記憶も年とともに大分メタモルフォーゼしてきたようです。なぜならば、いろいろな場面で「昔は良かった」と感じるようになってきたからです。やがて記憶の中で自分の過去が錬金術のように輝きを増し、「今の若い者は」という説教が多くなるのでしょう。

夏の夜の夢

「夏の夜の夢」はシェイクスピアの有名な戯曲です。親から許されない恋人同士、またそこに横恋慕する若者たちの錯綜する人間関係が森の妖精たちのいたずらをきっかけに円満解決するという喜劇です。
なぜ夏の夜なのかと言うと、一年の中で昼が一番長い夏至は太古の時代から農耕を営む人類にとって特別な日でした。そこから、夏至の日には森の妖精たちが集会をするという神話が生まれました。シェイクスピアがこれを基に戯曲を作ったのです。
ところで確かに、夏の夜の睡眠は夢が多いようです。その原因に妖精の魔法が関係するかどうかは分かりませんが、我が国においてはなんと言っても高温多湿な夏の気候が主因であることに間違いはありません。
睡眠については過去何度も書いてまいりましたが、睡眠時脳波などを指標として考えると、たいていの人が一晩に4~5回は夢を見ていると考えられます。これは夏も冬もそう変わりはありません。
それなのに多くの人が夢を見たという実感が持てないのは、夢を見た後に深い睡眠を経過するために、目覚めるまでに忘れてしまうからなのです。明け方の夢のすぐ直後に目覚めた場合にだけ、その夢を覚えています。そしてこう言います。「今日は夢を見たよ」と。でも正確に言うと「今日は夢を覚えているよ」なのです。
ここ十年ほどの我が国の夏の暑さは激しさを増しています。特にコンクリートとアスファルトで塗り固められた都会の暑さは狂気の沙汰です。この都会の暑さは昼間だけではありません。夜になっても気温が下がりません。熱帯夜です。
私が子供の頃には高層ビルはなく幹線道路以外は土の道でした。ですから、午後2時、3時は相当な暑さであっても、陽が傾くとともに暑さは和らぎ、夕立に恵まれたならばいっきに涼風を得られました。
ところが近年はコンクリート化によって町全体が冷却されません。いつまでたっても昼に蓄えた熱を保持し続けます。熱帯夜です。
以前のコラムで睡眠の重要なメカニズムとして深部体温の変化について説明しました。自然の中ならば夜は大気が冷却されるので深部体温も下がりやすく深夜は深い眠りに就きやすいのです。ところが昼間とのけじめがつかない都会の熱帯夜においては深部体温も下がりにくくて、睡眠が深くなってくれないのです。
気温だけでなく湿度の高さも睡眠には不利な条件です。人間は寝ている間にコップ1杯の汗をかくと言われています。この汗が蒸発する際に奪われる気化熱によって身体を冷やしているのです。それなのに室内が高湿度ですと、せっかくかいた汗がなかなか気化しません。ですから、汗をかくわりに体温が下がらず、深部体温が高いレベルに維持されて、深い睡眠に入れません。
以上の理由から熱帯夜における睡眠は浅くならざるを得ないのです。夢をみる睡眠の後に浅い睡眠しかとれないとそれぞれの夢を記憶してしまう可能性が高くなります。浅眠多夢という睡眠障害になります。自覚的には「夢ばかり見てぐっすりと眠れなかった」と感じます。
こういう睡眠が何晩も続くと、やはり昼間のパフォーマンスが低下します。必要とされる睡眠が夜の間にとれていないので、身体が昼間に眠ることを要求します。そうでなくてもだるいのに、こうなるとうとうと船を漕いで上司から叱られることになります。
夏の寝苦しさ対策として様々な対策法が提唱されていますが、電気料金が払える方はエアコンの使用に勝るものはありません。
ところが、未だに「エアコンは身体によくない」という迷信が根強く残っています。この誤った説を信じている人を説得するのは並大抵なことではありません。「重病人が入院している病院でも、超高級ホテルでもちゃんと適切な温度と湿度にエアコンディションしているでしょう」と説いても半信半疑の顔をしています。
先ほど述べたように、昔の日本であったら、網戸にでもしておけば夜が更けるとともに気温が下がってきましたが、現在の都会は状況が違いますので、そういう方の中には扇風機をかけて寝る方がいます。しかし、この扇風機の方がよっぽど危険なのです。
扇風機の風を直接身体に浴び続けていますと、際限なく気化熱を奪われます。
度過ぎた低体温になってしまいます。幼児の場合には死に至ることもあります。身体に直接風を当てるのではなく、部屋全体の気温と湿度を適正に調節すればこのような危険性はありません。むろん、設定温度を下げ過ぎたり、吹き出し口を直接身体に向けてはいけません。
エアコン使用に際しては、タイマーを使って寝付いたらエアコンを切るなどという姑息な方法はとらずに、朝まで適正な室内環境を保つ必要があります。最近は明け方になっても外気温が下がりませんから、エアコンが切れるや否や室内が高温多湿になってしまいます。そうなると、せっかく下がった深部体温が再び上昇してしまいます。結局、浅眠多夢となってしまいます。
しかも、こういった悪条件下で見る「夏の夜の夢」は戯曲のようにハッピーエンドで終わる喜劇ではなく、不愉快な悪夢を見る悲劇ですからご用心。

色即是空、空即是色

先日、新聞の書評を読んで「数の宇宙」という本を取り寄せてもらいました。ついでに数学と宇宙物理に関する本を数冊購入してきました。このところ、週刊誌 程度しか目にしていなかったので、歯ごたえがあります。しかし、大学受験の時に医学を選ぶか物理を専攻するか迷った物理好きの私ですから、やはり物理学に 対する興味が尽きることがありません。
私に限らず森羅万象、この世の仕組みを解き明かす有力な方法である数学や物理学に関心を持っている方は少なくないと思います。なぜならば、この世の始まり とこの先向かう先を知りたいという願望は人間という生物に固有の欲求であって、その欲求の程度は「業」呼べるほどの根強いからです。
なぜそんな業 に捕らわれたかと言うと、人間という動物は本能が退化して、それに代って自我が発達しました。そしてこの自我を拠り所として生きる道を選択したことにある のではないでしょうか。
自我は森羅万象の一環として生命誕生以来機能してきた本能と違って森羅万象に対峙する性格をもちます。にも拘らず、人間の 自我は未だ生まれたばかりでか弱く脆いのです。そこで何よりも先ず自身の存在理由を求めて止みませんが、その答えは未だに見つかっていません。だから私た ちは、神、国家、民主主義などの幻想で己を支えなければ生きていけないのではないでしょうか。
数学や物理学を用いた宇宙の誕生と行き先の探求と は、幻想に頼らないで、世界の仕組みと自分という存在そのものを明らかにしたいという、根源的な欲求を満たす作業の一環なのです。
残念なことに、 多くの物理学者や数学者の精力的な努力にも関わらず、ゴーギャンの「我らいずこより来るや?我ら何者なるや?我らいずこへ行くや?」という命題、またアイ ンシュタインの「我々は何故世界を認識できるのか?」という問いに対する答えは見つかっていません。

さて、数学の基礎を築いた人と言えば古代ギリシャ時代の偉人、二等辺三角形の斜辺の長さを求める定理で有名なピタゴラスという答えが衆目の一致するところ でしょう。ピタゴラス(BC569~475年)は数学と哲学、宗教の概念を同一に考えて「マテマティコイ」という教団を創り閉鎖的な集団の中で幾何学、数 学に関する数々の発見をしました。
彼は「万物は数である」という言葉を残しています。数に惹かれ数に殉じた一生でありましたが、「ゼロ」という 概念を数字として確立していませんでしたし、ピタゴラスの定理と矛盾するにもかかわらず、すべての数は「有理数」だと信じていたようです。
奇しくも、ローマで数学の芽吹きが起こったちょうどその頃、東の国インドでは地球が生んだ史上最高の哲学者、釈迦が瞑想の中で様々な物事の理を悟りまし た。彼は電子顕微鏡などない時に物の最小単位、原子の大きさを推測していましたし、仏陀となった彼の訓えの一つ「色即是空。空即是色。」*1は量子宇宙物理学の最新研究の結果得られた「宇宙の始まりは真空で あった」という説を見事に予見していました。
そもそもインド、中国と伝わった思想が生んだ「宇宙」という言葉は、西洋科学ではアインシュタインの 登場を待たねばならなかった時空の概念を表わしています。釈迦の偉大さに改めて驚かされます。
-------------------------------------------------------------
*1:色即是空、空即是色:色とは現象界の物質的存在のこと。そこには 固定的実体がなく空(くう)である。一方、固定的実体がなく、空であることによってはじめて現象界の万物が成り立つということ。
クリニック西川
〒170-0005 東京都豊島区南大塚1-18-2 作田ビル1F
TEL:03-5395-0721 FAX:03-5395-0722
Copyright(C)クリニック西川. All Rights Reserved.
【当クリニック運営サイト内の掲載記事に関する著作権等、あらゆる法的権利を有効に保有しております。】