暑い。暑い。暑い。今年の夏はともかく暑い。炎天下、アスファルトの路上に立つと、頭がもうろうとしてふらつき、息苦しくなって思わず犬のように口を開けてしまいます。暑いというより熱いと言った方が適切かもしれません。
偏西風の流れが少し蛇行した結果、我が国上空に高温多湿の太平洋高気圧がどっかりと居座るラニーニャ現象が、この連日の殺人的な暑さの原因だそうです。
私は、始めのうちは「また夏が来たな」くらいに思っていました。ところが、毎日エアコンをフル稼働しながら連日のように36℃だ37℃だというニュースを観ているうちに、これは本当に異常な暑さなのだと考えるようになりました。実際に、4万人を超える人が熱中症で救急搬送されて死者も150名近くに達しました。
以前のコラムで書いたとおり、人間の記憶はメタモルフォーゼします。ですから、「今年は過去に比べて格段に暑い」と感じても不確かな印象でしかありません。しかし、先日家内から「小学生の時の夏休みの日記帳にその日の天候を記入したけれど、30℃を超えた日はそれほど沢山なかったわよね」と言われて自分の体感記憶に自信を持ちました。
確かに、子供の頃、夏の日記帳に書いた気温は28℃や29℃がほとんどで30℃を超えた日は数日だけでした。ましてや、35℃などという数字を記した覚えはありません。日本の夏は確実に暑くなっているのです。
暑さだけではありません。全国各地で局地的にダムの底が抜けたような豪雨が起きています。にわか雨は夏の風物詩とはいえ、その程度がにわか雨の限度を超えて、全国各地で観測史上記録を更新しています。
また、本州でバナナがすくすくと繁茂し、これまでには見られなかった生物が発生し、山からは人里へ猿が侵出するなど、生物相の変化までも現れています。異常気象と言うよりは、わが国が亜熱帯になったと考えた方がよさそうです。
毎日、熱中症による死亡者が報告されるに及んで、学識者と称する人間の奨める熱中症対策も昨年までとは異なってきました。これまでは「エアコンのかけ過ぎはいけません」と物知り顔で述べていた人間がここへきて「寝ている間も危険なので朝までエアコンを使う方がいいです」ところっと主張を変えています。
私は、ずいぶん以前から、エアコン有害論が間違いであり、大都市の夏を生き残るためにはエアコンを積極的に使用しなければいけないということを主張してきました。ようやく私の意見が認められたようです。
私はこの他に気になることがあります。それは今年、まだ台風が来ないことです。台風は毎年我が国に大きな人的、経済的被害を及ぼす迷惑な自然現象です。しかし一方、我が国の重要な水源でもあります。このまま台風不足のままで乾燥した冬を迎えると、深刻な水不足が懸念されます。
いくらなんでも9月、10月には台風が訪れると思いますが、いざ台風が来襲するとなると今度は未曾有の被害が出る恐れがあります。なぜならば、日本近海の海水温が非常に上昇しているので、台風が日本上陸間際まで発達し続けて、これまでにない大型台風となる可能性があるからです。ハリケーン、カトリーヌ級の大型台風襲来もあり得る状況です。
さらに、海水温の上昇は台風シーズンを延長する可能性もあります。例年ならば冬物を引っ張り出す11月、12月に台風が襲来することもあり得ます。
そして秋らしい秋を体験しないまま冬になるかもしれません。地球温暖化の一段として気候の変動が極端になると言われますが、まさに今年はそのシナリオ通りになっています。
私は未だに二酸化炭素による地球温暖化説の通りに事が進むとは思っていません。過去の歴史からみて地球規模の気候変動がたった一つの要因だけで決まるわけでないと思うからです。このまま二酸化炭素が上昇したとしても、巨大火山が爆発して火山灰が成層圏まで達したならば、太陽光が遮断されて地球は寒冷化します。また、火山爆発がなかったとしても地球の公転のぶれによってこれから地球は太陽から遠ざかるために放っておいても徐々に寒冷化へと向かいます。地球の気温の決定にはこのように様々な因子が関与するので単純に温暖化するとは言い切れません。
ただし、私たちが今迄のようにエネルギーを使用し続けるならば大気中の二酸化炭素濃度が上昇して酸素濃度が低下することだけは確実です。そうなるとやがて、私たちは毎日息苦しさを覚えるようになるでしょう。激しい運動はできませんから、オリンピックやワールドカップもできなくなるかもしれません。少なくとも各競技での新記録更新は困難になるでしょう。
ですから世界が今、化石燃料の無駄遣いを止めて省エネの生活をする努力をしなければならないことは間違いありません。先進国は強欲アメリカを除いてこの現実を認識して真剣にエネルギーを浪費しない生活へと舵を切ろうとしています。しかし、発展途上国はそうも言っていられません。先進国が今迄浪費してきたつけを自分たちに回されても困るというのが彼らの主張も分からないではありません。
たとえるならば一部の連中がずかずかと食堂に上がり込んで、早い者勝ちとばかりに手当たり次第に御馳走を食い散らかして、いざ自分たちが食堂に到着すると、「食べ物は大切にしなければいけないからみんなで我慢しよう」と言っているようなものだからです。
この理屈は核拡散防止問題でも同じことが言えます。アメリカは広島、長崎で大量虐殺しておいて正式な謝罪をしないどころか、いまだにその核爆弾で世界ににらみをきかしています。そして他の国が同じ武器を手にしようとした時、そんなアメリカから「人道に反するから核はおれたち以外は持ってはならない」と言われたって納得する方が不思議というものです。
しかしアメリカばかりを非難することもできません。エアコン使用を勧める私の主張も同じ矛盾を抱えているからです。エアコンを使用すると、室内の高温に加えて機械の発生する熱を室外、すなわち街中へ排出します。ですから、皆がこぞって一日中エアコンを使用したならば都市の気温はいっそう上昇してしまいます。ヒートアイランド現象を促進し、ひいては地球温暖化に加担することになります。
地球の将来を考えるならば、皆でエアコンを我慢して耐える必要があるのです。ただしそうするためには、道路からアスファルトやコンクリートをはがし高層ビルを取り壊して木造建築に立て直す必要があります。車の使用などもってのほかです。
しかし、そんなことをしたならば現在の生活を維持することができませんし、熱中症で死者の山を築きます。現在の課題と将来の課題を両立させるということは甚だ困難な作業なのです。現実の生活と折り合いながら将来に備えるという難問題は私などの手に余ります。私だけではなく、一政治家、一国家の手にさえも負える問題ではありません。地球に住む全人類が知恵を絞り、一致協力してことに当たらなければならないのではないでしょうか。
私が考えるまず手始めにやらなければならない行動は、軍事行動の中止です。イラク戦争に費やされた石油は一体どれほどの量でしょうか。雨霰のように落とされた爆弾の発生した熱、二酸化炭素の量はどれほどでしょうか。しかも、戦争は消費と破壊だけでいっさい何も生み出しません。これほど明瞭なエネルギーの浪費はありません。生活に必要なエネルギーを節約するのはその次だと思うのですが、エネルギー問題の観点から戦争を論じることが少ないのはどうしてでしょうか。
思考は頭の中の発声を伴わない言葉(内言語)を用いられて行われます。だから、語彙が乏しくて、文法の異なる外国語で難しいことを考えてもよい結論には至りません。これは頭の中では高等なことを考えついているのにそれを言葉にできないだけというのではなく、思考そのもののレベルが低くなってしまうのです。
ネイティブでない人が英語で議論した場合、中学1年生レベルの英語力の人は中学1年生レベルの論旨しか展開できません。高校3年生のレベルの英語力を持っている人は高校3年生並みの主張をすることができます。つまり、思考力は言語力に裏打ちされているのです。
だから、私は以前のコラムでグローバル化の掛け声のもとに、小学校低学年における国語教育を削って英語教育を開始する現在の潮流に異を唱えました。この年齢はすべての分野の基礎力が養われる時期です。ここで国語力を鍛えないということは、すなわち思考力の低下につながります。
英語教育早期開始を訴える人たちの主張も実はここにあります。つまり、いくら日本語において優れた主義主張を持っている人でも、外国語力がなければ、外人相手の交渉であっさりと負けてしまうことを危惧しているのです。しかし、本当に外人相手にその国の言葉で打打発止とやりあうための語学力にはネイティブに近いバイリンガルのレベルが要求されます。中途半端なセミリンガルでは所詮たいした交渉はできません。
そこで、小学校から英語教育をしたとしても、バイリンガルを育てることはそう簡単ではありません。なんとかセミリンガルを創り出すのがやっとのことだと思います。
悔しいことですが、経済、軍事的な力関係から、今の世界では英語をしゃべれなければ海外での活動はおぼつきませんが、本当の勝負は表面的な語学力ではありません。ましてや語彙の数ではなく、その人の思考力、人間力です。難しい部分は通訳に頼ればよいのです。まずは、思考力その物を高くすることに精進するべきなのではないでしょうか。そのためには母国語を徹底的に教育しなければなりません。
私は英語教育を軽視しているのではありません。二兎を追う者は一兎をも得ず。外国語を教えるために母国語の教育をないがしろにすることに反対しているのです。
語学力の重要な要素に語彙数があります。一つのことを言うのにどれだけのの表現を持っていて、それぞれの微妙な意味や使用法の違いを知って使い分けられるかで語学力のレベルに差が出ます。その差は思考力にも影響します。なぜならば語彙が豊富だということは、内言語が豊かであることであり、概念が豊富であるということだからです。
朝の挨拶一つとってみても、「おはようございます」、「こんにちは」、「ごきげんよう」、「おはよう」などの言葉を時と場所に応じて使い分けられる人と、どんな時でも「ちわーす」しか言えない人とでは、頭の中身の差は歴然でしょう。
ただし、難しい単語をいくら数多く知っていても正しい意味を理解して、正しい脈絡を持って構成された文章表現をしなければなりません。すなわち、論理的な思考力が要求されます。意味を理解しないままに、耳に覚えのある言葉を脈絡なく並べ立てたならば、かえってお馬鹿さんを露呈しかねません。A元総理は漢字の読み間違いだけではなく、しばしば言葉の間違った使い方をしていたのであれだけ皆から揶揄されたのです。
脈絡なく単語を並べ立てる意味不明の発言の最右翼はなんといっても巨人軍監督の原辰徳さんでしょう。彼の残した迷言をいくつか披露しましょう。
「悩みは誰にでもある。しかし、太陽は東から昇り、西に沈むんだ。」
「巨人軍は、巨人軍独特の何人も侵すことのできない聖域がります。」
「今の気持ちを表現するならば、大きな海が非常に凪の状態になっているという感じです。侍ジャパンは日本野球人、いや、世界野球人の代表。誇りという部分においては、しっかりと戦ってくれると信じています。」
またとある実況解説で、「プロ初本塁打というのは打った場所、相手、球種、場面。すべてにおいて頭にインプットされているものなんです。彼も生涯、忘れることはないでしょう」と爽やかな発言に対して実況アナウンサーが「ちなみに原さんのプロ初本塁打はいかがでしたか?」と切り返すと、「わかりません」と即答したのは有名です。
彼の生き生きとした感情は伝わってきますが、何を言わんとしているかは全く不明です。論理的思考とはかけ離れた発言ですが、嫌みのない人柄から、愛されこそすれ軽蔑されることはありません。ただ、正しい国語を教育して国民の思考力向上を目指さなければならないのに、次から次へと悪文例を作り出してくれる甚だ困った人でもあります。
原監督の大先輩であり、国民的英雄であった長嶋茂雄さんは原語録がかすんでしまうような迷言、珍行動を残しています。天然ボケは巨人軍の伝統なのかもしれません。
ところで、意味のない言葉の羅列は巨人軍の専売特許ではありません。最近、一般の方の会話の中に、気になるものが増えてきました。いろいろと単語や用語を並べ立てていて、耳にしただけでは何か大層なことを言っているように聞こえます。御本人も格好よく雄弁を奮っているように勘違いしているのですが、よくよく吟味してみるとほとんど内容のない会話。そういう発言をしばしば耳にします。
そういう見かけ倒しの雄弁で目立つフレーズが「・・・・の上に、・・・」、「・・・・の中で・・・・」や「・・・・における・・・・」です。中も外もない、上下とはまったく無関係な文脈の中に、なぜか「上」や「中」や「おける」をつけたがる人が少なくありません。
考えるに、語彙が乏しくて論理的思考訓練が不十分なために、それまできちんとした日本語を使ったことがない人が、社会人となって必要に迫られ商用文を覚えたところ、思考がそのパターンだけになってしまったのではないでしょうか。
自分の思考力の乏しさを糊塗しようとしているのでしょうが、いくら形式ばった言い方をしても内容がなければ滑稽なだけです。しかも、長嶋さんや原さんのように伝わってくるパッションもありませんから、むしろ後味の悪さが残るだけです。
結局、母国語、外国語に限らず、雄弁とは流暢に格好よくしゃべることではなくて、相手にこれだけは伝えたいという強い思いに裏打ちされた発言なのではないでしょうか。その強い思いがなければどんなに難しい単語を弄しても意味がないのだと思います。また、語彙が豊富で論理的であっても、その根底に実直な思いがなければ単なる詭弁です。竹中平蔵がよい例です。逆に外人がたどたどしい日本語でしゃべっても、真剣に何かを訴えている時には、私たち聞き手の方が想像力を動員して、その意を理解するではありませんか。
つまり、本当の雄弁とは鋭い感受性、高い思考力、そして相手に対して誠実に向き合うことによってなされるのだと、自戒を込めて断言します。
イソップの寓話に「金の斧」というお話があります。皆さんよくご存じだと思いますが、改めてあらすじを述べます。
あるきこりが川辺で木を切っていましたが、手を滑らせて斧を川に落としてしまいました。きこりが困り果てていると、そこにヘルメス神が現われて川から金の斧を拾ってきて、「お前が落としたのはこの金の斧か?」と尋ねました。きこりが「違います」と答えると、ヘルメスは次に銀の斧を拾ってきて、「それではこの銀の斧か?」と尋ねます。きこりはそれも違うと答えます。ヘルメス神が最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりは「これが私の斧です」と答えました。ヘルメスはきこりの正直さに感心して、金、銀、鉄、すべての斧をきこりに与えました。
これを知った欲張りのきこりは、わざと斧を川に落として途方にくれたふりをしました。ヘルメスが前の時と同じように金の斧を持って現れると、欲張りきこりは「それが私の斧です」と答えました。ヘルメスは呆れて何も渡さずに去ってしまいました。おかげで欲張りきこりは金の斧どころかもともと自分が持っていた鉄の斧も失ってしまいました。
この話は無欲と正直を美徳とする寓話として解釈されていて、同じような話は日本の民話にも存在するとのことです。欲張りを戒める日本の民話は「瘤取り爺さん」、「舌切雀」など枚挙のいとまがありません。それだけ、昔から欲張りで嘘つきが多かったということだと思います。
さて、この「金の斧」をよくよく考えてみると、このきこりが単なる無欲な正直者だとは思えません。むろん大嘘吐きの業突く張りだとは思いませんが、きこりという仕事に誇りを持った職人気質の男であり、物の本当の価値を知っていたことが重要なポイントではないかと考えます。
彼が金の斧や銀の斧を断ったのは、金や銀は値が張って、飾るにはよいかもしれませんが、そんな柔らかい材料でできた斧は木を切り倒すという本来の目的には適さないということが大きな理由であったのではないかと思うのです。
値段の高低と有用性の高低とが無関係であることは斧に限らずあらゆるものに言える自明のことです。ところが、すべてを金の尺度でしか判断しなくなった現代では、そんな当たり前のことが分からない人(欲張りきこり)が増えています。
タレントが単に料理を食べて、「う~~~ん 美味しい」と言って見せるだけの何の意味もないグルメ番組とやらがあります。そこで供される料理のほとんどは確かに美味しいのでしょうが、中には「この人たちは舌で食べているのか?」疑いたくなる料理もあります。たとえば、世界三大珍味のフォアグラとキャビアとトリュフをてんこ盛りにした丼。確かに材料費からいって目玉が飛び出るような高価な一品かもしれませんが、ごちゃまぜにされてしまったらそれぞれの風合いが失われてしまって美味しいはずがないと思います。それなのに、そう仕事の多くないタレントはこう言います。「美味しい 最高です 究極の丼です」と。一方、「わあ 美味しそう 私も食べてみたい」という視聴者が少なくないのですから困ったものです。こういった食べ物は食欲を満たすのではなく、金銭欲を満たす料理です。味覚が退化して金銭感覚だけが肥大した現代人にぴったりの一品なのかもしれません。
衣料装飾品もそうです。もともと大型のトランク作りで定評のあるフランスブランドのスカーフを気取って身に纏ったり、馬具製造から始まって革製品に定評のあるブランドのセーターを得意げに着たり。本当の物の価値を知っている人が見たら吹き出すような価値観の人がたくさんいるのです。
スポーツの世界に「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉があります。むろん、ある程度以上の技量が備わっていなければ人を指導することはできませんが、人を指導、育成するにはプレイする能力とはまた質のちがう能力を要求されるのです。ところが先の名言があるにもかかわらず、スポーツの技量が優れていると何でもできると錯覚する人は少なくありません。元スポーツ選手の国会議員が大量に排出される理由です。ちょっとサッカーが上手かっただけで、「旅人」とか称してあちこちに顔出す勘違いまで出てくる始末です。
一般の社会においてもそうです。売り上げナンバーワンの名営業マン=名課長ではありませんし、名部長=名社長ではありません。逆に、課長時代にはさしてうだつのあがらなかった人が重役に就任したとたんに大活躍することも稀ではありません。適材適所。営業に向いた人と、人や組織をマネージメントすることに向いた人がそれぞれいるのです。
それに、多くの人のトータルの能力はそれほど差がありませんから、むしろ何かに優れていれば、何か欠点があると考える方がよいのです。それなのに、営業売上で好成績をあげると、人よりもすべてに優れていると錯覚しがちです。周囲も同じように錯覚します。質や特性を考慮しないで何か一つの軸における優劣でしかものを判断できない人が多くなってしまったのです。
人々から物を多面的に深く考える能力が衰えていった原因は一つではないと思います。一つには、何でも単純に分かりやすくしてしまった方が楽だからだと思います。一つの軸で定量的に判断する方が労力が要りません。
こうして、小学校に入る前から学力という人間の能力のごく一部だけを取り上げて何年にもわたって競争させられます。会社に入っても営業収益という数字に追いまくられます。その結果、傍から見れば出世したと見えるのに、実際には自分に向かない仕事や職責を背負いこんであくせく苦労する。そしてその苦労の割に成果が上がらず、自らも幸せ薄く、空しさだけが残る人生を送る人が後を絶たないのです。
見かけ倒しの金の斧ではなく、切れあじ鋭い鉄の斧の人生もいいもんですよ。
老年期精神医療関係者の啓蒙活動によってアルツハイマー型認知症で代表される認知症(痴呆)は我が国で多くの人によく知られるようになりました。認知症に対する理解は深まったのですが、今現在、認知症に対する治療薬はドネペジル(アリセプト®)一種類しかありません。しかも、この薬剤は認知症本体を治して元の機能に戻すわけではありません。進行を遅らせる効果しかないのです。
現在、世界中でアルツハイマー型認知症の治療薬開発にしのぎが削られていますが、こういった開発中の薬も進行を遅らせたり、発症を予防することを狙ったものがほとんどです。進行してしまった認知症を治すことはできそうにありません。
こうした流れの中で老年精神医学者が注目しているのがMCI(mild cognitive impairment:軽度認知障害)という概念です。
MCIとは記憶は年齢相応を超えた機能低下があるものの、認知機能や社会生活に支障をきたしていないために認知症とは診断されない人たちを言います。
なぜ、注目されているのかというと、最近の研究でこういう人たちが早晩、本当の認知症に発展していくことが分かったからなのです。つまり、認知症予備軍、あるいは潜在的認知症と言えます。したがってこういう一群の人たちを早期に発見して、治療プログラムに乗せることこそが最も有効な認知症対策ではないかと考えられるのです。
ここでMCIの定義を以下に整理してみます。
1. 年齢に比べて強い記憶障害がある。
2. 日常生活は自立している。
3. 全般的な認知機能は正常。
4. 認知症の診断基準を満たさない。
5. よく観察するとBPSDがしばしば認められる。
BPSDとはbehavioral and psychological symptoms of dementiaの略で、認知症に伴って認められる周辺症状です。具体的には暴行や暴言、徘徊、幻覚・妄想、抑うつ、意欲低下などの症状のことです。つまり、はっきりとした認知症の症状が出そろう前に、周辺症状だけが目立つ場合があるのです。こういう症例は今までは老年期精神病とか老年期うつ病と診断されていた可能性があります。
この段階で認知症の予備軍と判断するか否かで予後が大きく変わってくる可能性があります。実際に最近の研究で、MCIの段階で早期に対処すると本当の認知症にならないで天寿をまっとうできる可能性があることが示されました。
早期の対処とは、認知症の増悪因子である、高血圧、糖尿病、高脂血症などの基礎疾患を厳格に治療すること。規則正しいライフスタイル、食生活を確立すること。保護的で快適な生活環境をたもつこと。そして、ドネペジルを服用させることです
皆さんの周囲でMCIに該当しそうな高齢者はいらっしゃいませんか。もしそういう老人を見つけたならば、速やかに精神科医への受診を勧めましょう。
私も最近、人の名前や用語が喉元まで出かかっているのに、なかなか正確に口に出せないことが増えました。その結果、「あれ」だとか「それ」だとかの多い会話になってきました。息子から「何を言いたいのかは分かるけど、ちゃんと思い出さなければいけないからちゃんと思い出すまでは答えてあげない」と言われることがあります。
高血圧、糖尿病、高脂血症はないのですが、お世辞にも規則正しい生活をしているとは言えません。要注意ゾーンにさしかかっているのかもしれません。ドネペジルを飲み始めようと思っているところです。
大塚駅の駅ビル建設が決まりました。これで数年後には大塚駅もようやく都心駅らしくなります。戦前、大塚が池袋や巣鴨よりも賑わっていて、この地区の中心であったことは以前のコラムでお話ししました。ところが、いつの間にか山手線の駅の中で1,2を争う情けない駅になってしまいました。
衰退の最大要因は地下鉄と接続していないことです。東京唯一の路面電車である都電とは接続していますが、早稲田と三ノ輪橋というあまりにもローカルな地域を結ぶ路線では大きな発展は望めません。東京中を張り巡らされた地下鉄ネットワークと繋がっていないことは致命的と言えます。
聞くところによると、地下鉄丸ノ内線開設時、大塚駅で省線(現在の山手線)と接続する案もあったそうです。このプランが日の目を見なかった理由の一つに、地元商店主たちの利権争いがあったようです。当時この地区の有力者であった人物が自分の土地の近くに駅を誘致しました。その結果、国鉄大塚駅から600m近く離れて、変死体を行政解剖する監察医務院くらいしかなかった辺鄙な場所に新大塚駅ができたのです。
最近多い人身事故で山手線が止まると、「地下鉄に振り替えてください」と構内アナウンスがあります。しかし、山手線に乗れば2分ほどで着く池袋に行くために、10分弱歩いて地下鉄に振り替え乗車する人は多くありません。
大塚駅はその後も何回か復興の機会があったようですが、その度に目先の利益しか考えられない人たちによって潰されてしまいました。
私がこの地に移ってから20年ほどになりますが、この間にもチャンスがありました。JRの貨物操車場跡地の売却に伴って、駅ビル建設と改札口増設の提案があったのです。
当時はバブル経済の最中で、池袋新都心の商業地域がサンシャインシティを越えて大塚の方まで拡大してきていました。このために大塚駅に近いビルに沢山の会社が入って、通勤のためには池袋駅よりも大塚駅の方が近い会社員が増えたのです。ところが、大塚駅には巣鴨寄りの改札口一つしかありません。通勤客は大変遠回りの歩行を余儀なくされており、池袋寄りの改札口増設が望まれていました。
ところが、これまた、地元商店街の猛反対で実現せず、中途半端なホテルが建ってしまいました。反対理由は「駅ビルができると地元商店街のお客が減る」、「改札口が増えると池袋方面に歩いていく人たちが自分たちの店の前を通らなくなってしまう」というものでした。なんともはや、ケツの穴が小さいというか、近視眼極まれりと言うか。自分だけの、しかも目の前の利益にだけに目がくらんだ結果、町全体の活気を失わせ、結局は自分の首を絞めることになったのです。金の卵を産む鶏を見た欲張りが鶏の腹を裂いて殺してしまい元も子もなくなったという童話を思い出します。
既得権益に固執する輩は大塚駅周辺にだけ住むわけではありません。家内の親戚が住んでいることもあって、私は暑い夏の週末はしばしば山中湖に行きます。いや、私は結婚前から山中湖が大好きでした。
関東の避暑地のトップブランドと言えば軽井沢ですが、景色のよさ、涼しさ、東京からの距離のいずれをとっても山中湖の方が優れています。山中湖自身がとても美しい湖ですし、見上げれば霊峰、富士が四季折々の美しい姿で眼前に現れます。山中湖に映る逆さ富士は圧巻です。軽井沢には美しい湖などありません。山といっても、時折噴火で迷惑をまき散らす浅間山と、まがまがしい姿の妙義山くらいしかありません。どちらもお世辞にも美しい山影とは言えません。高度でも山中湖の方が高いために涼しさでも山中湖に軍配が上がります。距離はどうでしょう。都心から軽井沢までは140km近くなのに対して山中湖は100kmちょっとです。軽井沢は山中湖の足元にも及ばないのです。
それなのになぜ、軽井沢の方が避暑地として発展したのでしょうか。それはひとえに、地元の人とデベロッパー(西武の堤さんが頑張った)の努力によります。人の力によって避暑地の王に育てられたのです。とどめは新幹線の敷設でした。新幹線ができたことによって東京から渋滞の列に巻き込まれることなく、快適に往復することができるようになりました。
これに比べて山中湖はどうでしょう。軽井沢より東京まではるかに近いのに車か高速バス頼みなので、休日の帰りは大渋滞の高速道路をのろのろと3時間もかかってしまいます。これではよほど覚悟しないと出かけることができません。
実はあまり知られていませんが河口湖までは電車で行けます。JR大月駅から富士急行という電車が走っているので、大月まで特急あずさを使えば1時間ほどで大月駅に着きます。しかし、そこからが大変です。富士急は単線ですし利用者のことを無視した運行なので接続が悪く、その上運賃が高いときています。しかも河口湖から山中湖まではバスに乗るしかありません。
ところが地図を開いてみると高尾山から山中湖までは道志村という場所を経由してかなり近い距離にあります。高尾山にトンネルを掘って京王線を延伸すれば、新宿から1時間半程度で山中湖畔の平野に辿り着くはずです。
なぜこの計画が実現しないのでしょうか。私の推測では最大の障害は富士急行のオーナーであり、この前まで自民党で派閥を抱えていた堀内光雄とその一族だと思います。富士吉田を本拠地とする堀内一族とそれにたかって既得権益を受けている連中が、富士吉田を迂回して直接山中湖に行かれるのを嫌っているからだと思います。
堀内一族はこの地域のドンで、圧倒的な力を誇って外からの資本算入を阻止してきました。おかげで山中湖は今でも陸の孤島状態なのです。こんな利己的で先見の明がない男に国の将来を託せるわけがありません。前回の総選挙で堀内は落選しました。ここへきて堀内王国にも陰りが見えてきましたから、京王ロマンスカーも夢でないかもしれません。
大塚駅や山中湖に限らず、土地の有力者と呼ばれる人には、己の既得権益のみに執着して町、地域、国という視点で将来の発展を考えられない者が少なくありません。己の利を犠牲にして地域全体のことを考えろとまでは言わないでも、明日、来月、来年のことだけではなく、数十年先の発展という視点でものを考える人がもう少しいて欲しいものです。
当座は少し損をしても、地域全体が発展すれば、やがては己の利益ももっと大きなスケールで廻ってくるというものです。昔から言う、「損して得取れ」です。
考え方を変えれば先の見ることができない欲張りの努力(?)の結果、山中湖は軽井沢ほどの高級ブランドにならず、今でも素朴さが残り、お店の値段も軽井沢よりもずっと安くて済んでいるとも言えます。
おかげさまで私はこの夏も、あまりお金を使わないできれいな湖と富士を眺めながら涼しい夏を過ごさせていただきます。ありがとう。