むかしむかし、天照大神は天若日子に荒神に服従を服従させるという任務を与えて葦原天国に赴任させました。それにも拘わらず、天若日子は8年もの間、天照の命を果たそうとしませんでした。これに業を煮やした天照大神は詔勅を持たせて雉名鳴女を天若日子の元へつかわせます。ところが天探女(あまのぐさめ)がこの詔勅使の派遣の動きを察知して事前に天若日子に伝えます。このために雉名鳴女は天若日子に矢で射落とされてしまいました。古事記や日本書紀などの日本神話に登場するこの天探女(あまのさぐめ)はその名の通り、人の心や未来を探ることができるシャーマンが神格化されたものだと考えられます。
その後、我が国に仏教が渡来すると、天探女は四天王や仁王に踏みつけられる悪鬼、「天邪鬼」と同一視されるようになりました。つまり人の心を読んでそれと反対のことをする人間の煩悩の象徴とされたのです。
現在では、「他者の思想や言動を確認した上で、あえてこれに逆らうような言動をする、ひねくれ者」あるいは「本心に素直になれずに周囲に反発する人」、またはそのような言動を指して「天邪鬼」と称するようになりました。
煩悩から解き放たれることを解脱と言いますが、解脱はゴッダーマシッダールタ(釈尊)が成し遂げましたが、彼の後、解脱を成し得た人は皆無だと思います。つまり、私たち並みの人間の心の中には多かれ少なかれこの鬼が棲みついています。ちなみに私の心の中はこの鬼だらけだと自負しております。
煩悩から解脱できて悟りを開くことができれば、それはすばらしい理想像なのでしょうが、現実にはまず不可能と考えられます。下手にそんなことを望むと麻原彰晃のような天邪鬼以上の悪鬼に引っかかって、悟りどころかこの世の地獄を味わうことになるのが落ちです
むしろ、人間とはどんなに頑張っても煩悩の虜なのであるということを素直に認めるところから出発する方が利口な生き方だと思います。言い方を換えれば、煩悩とはまさに人間らしさそのものと言えるからです。自分が人間以上でもなく、人間以下でもない存在であるという事実を素直に認めることこそが、この世に受けた生を全うするために最も大切なことなのだと思います。
すなわち、天邪鬼を追い出そうなどという身分不相応な努力に無駄なエネルギーを費やすのではなく、天邪鬼を腐れ縁の悪友と考えて、この鬼の性格を理解してうまく付き合うことを目指すべきなのです。
人間を人間たらしめる煩悩の原因が、他の動物と著しく異なる部分、すなわち特異に発達した大脳皮質の特性によるということは容易に理解できるでしょう。つまり、異様に発達した大脳皮質に天邪鬼が棲みついているのです。そして、この鬼が実にさまざまな不都合をしでかします。
たとえば、私が臨床の場でよく見受ける、なかなか寝付けない就眠障害。明日、大事な用事があるから早く寝なければと思ったとたんに、逆に眠れなくなるものです。
戸締りを忘れていないか気になって何度も何度も確認してしまう。今さっき確認したばかりなのだから、もう大丈夫なはずなのに気になって仕方がないので、再び家に戻って見直してしまう。その上、そんなに気にしちゃいけないと思えば思うほど気になってしまいます。こういったこともすべて、頭の中にいる天邪鬼のなせる技なのです。
この鬼は特に「否定型」の命題に対して、より強力な攻撃力を発揮します。英語で表現すると「 Don’t …… 」で始まる命令を聞くと、待ってましたとばかりにちょっかいをだしてきます。
ゴルフをやったことのある方は、キャディさんから「右はOBですから、右へは打たない方がいいですよ」と言われた時に限って、球がブーメランのように右へ曲がってしまうという体験がおありではないでしょうか。また、それまで順調に回ってきたのに、目の前の池を見てしまって、「ここに入ったら大変」と思ったところ、絶対にやってはいけない大ダフリ。あえなく球は水の中。こんな経験も多いのではないでしょうか。
これは、頭の中に「右へ打ってはいけない」、「ダフってはいけない」という指令が伝わった途端に、天邪鬼が動き出して、スライス球を打つように、ダフルように脳を操作するからです。
お釈迦様ならOB杭、池、バンカーなどの存在を気にせず、心騒がずにプレイされるでしょう。しかし何回も言いますが、私たち凡人の心から天邪鬼を追い出すことは不可能です。次善の策としては、「肯定型」の命令を出してあげることです。つまり、「ここは左の方に打つとすばらしい」、「ハーフトップしてオーヴァーしても大丈夫」と考える方が失敗は少ないようです。
この傾向は何もゴルフに限った事ではありません。「この大事なプレゼンで失敗したらどうしよう」、「あがってしまってうまくしゃべれなかったらどうしよう」と考えれば考えるほど、焦ってろれつが回らなかったり、どもってしまったりします。少しくらい聞きづらくても内容がしっかりしていれば問題ないのですが、「あっ どうしよう、舌が回らない」、「これじゃ失敗してしまう」、「どうしよう、どうしよう」、「このままじゃいけない」と思い出したらさらに悲惨な状況に突入です。次から次へと否定型の指令を発してしまう結果、鬼たちがさらに大暴れ。最後は頭の中が真っ白になって、もう何をしゃべっているのかさえ分からなくなってしまいます。
こういう場合には「このプレゼンをうまくやったら課長からの評価は跳ね上がる」と考えたり、うまくいって拍手喝采を浴びている自分の姿をイメージする方がうまくいきます。子供のしつけや学校教育の場においても、叱るよりも褒めた方がうまくいくのも天邪鬼が関係しているからです。
天邪鬼は「ダメダメ」と禁止されたり叱られると活発に動き出し、「すごいね」と褒められると退屈して居眠りするようです。
最もやっていけないのは、煩悩なんてあってはいけない、自分は煩悩とは無縁だと、自分の中の天邪鬼の存在そのものを否定することです。そんなことをすると鬼は命がけで反発します。
人前で上がってしまう自分、人から嫌われたくない自分をいけないと考えずに、それが人間の現実の姿であることを認めることから始めましょう。つまり、まずは自らが凡人であるという厳然たる事実。すなわち、自分の中の天邪鬼の存在をあるがままに認めることです。
私は小さい頃、両親や祖父母から叱られる時に、きまって「そんなみっともないこと止めなさい!」とか「そんなことしたら笑われますよ!」と言われたものです。たとえば、食べ物を皆で分けて食べる際に、一番大きな物を狙って我先に跳びついた場面などでです。
この他にも「そんなことして恥ずかしいと思いなさい!」、「お天道様が見ているよ!」、「少しは恥ずかしいと思いなさい!」、「人さまに申し開きができませんよ!」、「世間に合わせる顔がない」などなど、数え切れないほど叱られました。よほど不肖の息子だったと思われます。
考えてみると、叱られるかどうかの基準が「恥や外聞」にあったようです。つまり、自分の所属するコミュニティである「世間」に認められるかどうかということが一番大事な行動基準であったのです。
そして、その世間の価値感には「武士は食わねど高楊枝」の武士道精神が色濃く反映されていましたから、耐えて我慢する、自己犠牲が良しとされて、利己的、欲張りは忌み嫌われました。つまり、実益よりも名誉を重んじてきたのです。日本の文化がやせ我慢の「恥の文化」と言われる所以です。
これに対して宗教が日常生活に深く根付いている西欧における行動基準は、神に対する「罪」です。だから、法廷において聖書に手をおいて宣誓することに象徴されるように、自分の行動が神に誓って正しいと言えるかどうかが問われるのです。西欧文化が原罪に起因する「罪の文化」と呼ばれる理由です。
ところが、敗戦後、連合軍による占領政策によって、それまで良しとされてきた物事すべてが破壊されました。GHQが特に力を注いだことは戦前の強靭な軍国主義を支えたと思われる精神主義の破壊でした。
その目論見は見事に成功して、日本人から武士道精神、名誉あるやせ我慢精神は見事に消えてしまいました。それでは私たちに「恥」に代わって、西欧のように「罪」という行動規範が身に着いたかとそうではありません。自分の進むべき道標を失った今の日本人は何を規範として行動しているのでしょうか。現実的な目先の利得、それをもっとも具現化した金に他ならないと私は思います。
私たちは、これまで日本人が重んじてきた恥や外聞を一切かなぐり捨てて、金を得るために奔走する狂気の集団になってしまいました。政治家は国政をないがしろにして己の利権追及に躍起になり、役人は天下りしか眼中になく、己の施策が失敗したとしても一切責任はとりません。皆、自分さえよければよいのです。
そして、恥や外聞に眼をつぶって面の皮を厚くすればするほど目標に近づき、成功者として称賛さえされる始末です。多くの民衆をマジックで欺き、長期政権を築いたK元総理。潔い身の引き方が称賛されますが、実は総理在任中に三十億も蓄財したと聞きます。へたに表舞台にしがみついていてぼろが出てくる前に大金を手にトンずらしたというのが真相なのではないでしょうか。
こういった傾向は何も政治家、官僚といった特殊な集団だけに見られる現象ではありません。国民全体が精神的な支柱を失った、寄る辺ない流浪の民と化しているのです。
私自身も、先ほど述べましたように、小さい頃から「みっともない」と言われ続けてきた男ですから、およそ武士道とは縁遠いいやしい人間です。しかし、その私から見ても、目に余る恥知らずが至る所で大手を振って歩いています。
ごく身近なところにその典型例がいるので御紹介しましょう。それは、私の所属する地区医師会の要職にある女医です。
数年前にノロウィルスが大流行した年の瀬に、医師会近くのホテルで医師会関係の忘年会が行われました。運悪く隣の部屋でノロウィルス罹患者嘔吐したため、忘年会参加者の多くが感染してしまいました。彼女もその一人でした。嘔吐と下痢に苦しんだのは同情すべきですが、その後がいけません。ホテルからの見舞金を受け取っておきながら、パーティの代金を払わなかったのです。
このホテルと医師会とは日頃から付き合いが深いので、ホテルも「医師会の人たちだからそのうちに払ってくれるだろう」と、忍耐強く待っていました。しかし、年度が替わる時期になっても音沙汰がないのでさすがに鷹揚に構えてもいられなくなり、医師会に催促がきました。
医師会の事務員から彼女に支払いを求めてもいっこうに支払おうとしません。当時の医師会長が事態を知って会計係に支払いを命じて一件落着しましたが、
御本人は恥入るどころか、自分の意向に反して支払いが行われたことに腹を立てていました。本当に食い逃げするつもりだったようです。
また、この女性は様々な会合に定時に姿を現すことは稀有です。15,20分の遅刻は当たり前です。おかげで、彼女がが到着すると、それまで議論してきたことをまた最初から説明しなければなりません。真面目に初めから出席していた他のメンバーは甚だ迷惑です。
ただの会議の場合には人の迷惑を顧みない無礼者というだけの話ですが、食事が出る会費制の会合の場合には無礼だけではすみません。というのは、この女性は時々、信じられないことを言いだすのです。「私、遅く来てあまり食べなかったから会費は払わなくていいわよね」と。空いた口が塞がりません。
これでおしまいではありません。デパート系のレストランで会食が行われる時には、自分は支払わないくせに、会計担当者にこう言います。「私のカード渡すからポイントをつけておいて」。全員分の支払い額はかなりの額になります。その金額に対するサービスポイントをちゃっかり自分のものにしてしまうのです。公的な会合で医師会が支払った場合にも自分のカードにポイントをつけさせます。サービスポイントはそのデパートにおいては現金と同じです。これはもう立派な横領と言えるのではないでしょうか。横領かどうかという前に、あまりにもみっともない行為です。
こういう恥知らずは、たいてい権力志向で上には媚びへつらい、下には横暴な態度をとるものです。もちろんこの点でも彼女は立派に合格です。自分が医師会の役員になろうという時は、当時影響力の強かった先輩のところに日参して、自分の応援を依頼しました。ところがいったん自分がその職について先輩が病に倒れたとたん、手のひら返しでその方のことなど一切見向きもしなくなりました。
先日は、一人の事務職員がこっぴどく怒鳴られました。その理由はメールでの情報伝達の際にCC欄の自分の名前の順番が後の方だったという馬鹿馬鹿しいことです。私は、CC欄の名前の順番注意を払ったことがなかったので、そのエピソードを聞いてあきれてしまいました。ところが、そんな瑣末なことに対して、彼女はいつもの口癖を吠えまくったようです。「いったい、私を誰だと思ってるのよ!」
私は「師」と呼ばれる者はそれなりの矜持を持って行動しなければならないと考えています。ところが最近、医師に対する世間の評価は相当に低下しました。いまや、医師会と言われても紳士淑女の集団と言うイメージはないでしょう。
こうなってしまったのは、私たちメンバー一人一人の品位が低下したからにほかなりません。その象徴的存在が前述の女性役員でしょう。金に汚く、権威を振り回す。こんな人が役員として名を連ねていては医師会員であることさえ恥ずかしくなってしまいます。ところが彼女、私を始め多くの会員たちの顰蹙など歯牙にもかけず会長を目指しているとのことです。彼女が医師会長になるなど世も末です。
戦前の精神教育が軍国主義を生んだと言われますが、私は恥の文化が直接的に先の戦争を生んだとは考えません。戦争指導者たちが武士道や恥を利用したにすぎないと思うのです。
ミイラ化した親の遺骸を隠して年金を受け取る子供、実の子供を虐待して殺す親、お茶を飲むだけで次々と高額の退職金を受け取って平気な天下り官僚。我が日本人の心はズタズタに壊れてしまい穴だらけです。その穴に金を詰め込んで得意げな厚顔無恥が跳梁跋扈しています。
今一度、恥や外聞という物差しで自分の行動を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
今回のコラムでは差別用語とされる言葉を用いますが、あくまで医学用語として使っています。もしあなたが自分に当てはまるとお感じになったとしても、決してあなたの人格を否定あるいは侮蔑するものではないことをあらかじめ申し上げておきます。
「利口な馬鹿(idiot savant)」とはフランスの精神医学で過去に用いられていた症状名です。全体としての知能の発達は遅れているのに、ある特定の面での才能が際立って優れている人を言います。
特殊に優れている才能は地名、人名、番号、他人の誕生日、カレンダー、道順、時刻表などの機械的記憶力であったり、リズム感、絶対音などの音楽的才能であったり、限られた領域の能力です。知能の自由な発展、応用は著しく制限されています。中でも抽象的な理解、思考能力は際だって劣ることが特徴的です。
近年になって小児自閉症の研究が進んだ結果、こういった一群の人は小児自閉症がある程度改善した状態あるいは小児自閉症そのものだと考えられるようになりました。
2008年6月のコラムでアスペルガー症候群について書いてから、私のクリニックに「アスペルガー症候群かどうか診断して欲しい」と希望する来院者が増えました。そういう方の大半が程度の差こそあれ、アスペルガー症候群の範疇にはいると判断できました。アスペルガー症候群が私の予想よりも多いことにびっくりしています。
その時のコラムで説明したように、アスペルガー症候群や小児自閉症は自閉症スペクトラムとして捉えるべきです。この自閉症スペクトラムの中で発達障害の程度がより重症な低機能自閉症がカナー型自閉症であり、障害が軽い高機能自閉症がアスペルガー症候群なのです。
アスペルガー症候群は障害の程度がカナー症候群よりも軽いので知能テストによって判定される知能指数(IQ)は正常あるいは高い得点を示します。しかしながら知能テストでは測れない、より高次で複雑な機能が障害されていますから、他者との円滑なコミュニケーション、非言語コミュニケーションがうまくできず、興味や関心の対象が極めて狭く限定され、反復的・情動的な行動でないと安心できない、運動が不器用といった特徴的な症状を示します。
その場の空気が読めなかったり、言外の意味を汲み取れないといったことによって、社会の中で生きていく上で相当なハンディキャップを背負っています。一つの課題にじっくり取り組む場面では、人並み以上の能力を発揮できるのに、組織や社会の中で上手に生きていくことができないのです。つまり、アスペルガー症候群の障害はカナー型自閉症のように知能指数には現れない軽症のidiot savantと言うことができるのではないでしょうか。
こういった人々が口八丁手八丁の名営業マンになれないのは言うまでもありません。職人や研究者が向いていると思います。得意分野の仕事をやらせたら右に出る者はいないけれど、とにかく不器用な生き方しかできない職人さんたちの中にはアスペルガー症候群の人が少なくないと思います。優秀な研究者の中にも多くいると思います。アインシュタインがアスペルガー症候群であったことは有名です。
ところが、今の世はこういった人たちが生きにくい世の中です。職人は尊敬されずに後継者も払底してしまいました。武骨な研究者の姿も見られなくなりました。こういった人たちと対極に位置する人たち、すなわち、上手にプレゼンテーションして、スポンサーを捕まえる能力に長けた研究者しか生き残れません。何一つ奥深く極めることはできないのに、ただただ周囲の空気を読むことにだけ長けた人間がもてはやされる時代です。
何物にも動じない信念とは無縁で、ただ周囲の目の色や空気を読んでその場に合わせて口からでまかせをペラペラしゃべるものが賢いと勘違いされているきらいがあります。
確かに、周囲の空気が読めずに、周囲の人間と円滑化コミュニケーションが取れない人間ばかりでは困りますが、調子よく周囲に迎合してタイミングの良いジョークや決め台詞をいって見栄を切る人間ばかりでも、これまたよい世の中になるはずがありません。特に、人を指導する立場の人がそうであっては組織も社会も発展するはずがありません。
国のかじ取りを担う政治家はもっとも深く思考して強い信念を持っていなければならないはずです。ところが最近の政治家は、世論調査とやらによる数字を気にしてばかりで、熟慮とか信念というものをどこかに置き忘れてしまったようです。今日の発言がその晩のテレビの結果で翌日には180度変わってしまいます。
浮気な世論ばかりを気にして、空気を読む能力だけには長けているけれど、真実を突き詰めて思考する能力の劣っている人もある意味では「利口な馬鹿」なのではないでしょうか。今、国会はこの手のidiot savantで溢れかえっています。憂うべき事態です。
日本の将来にとって本当に必要な為政者は、いずれのidiot savantでもなく、バランスよく発達した人格の指導者なのです。
ここ数年、「草食系」、「肉食系」という言葉を耳にします。多くは「草食系男子」と「肉食系女子」です。特に「肉食系男子」が多用されます。「最近の若い男性は草食系が多くなっている」といったふうにです。実際に、あるアンケート調査によると、30代未婚男性の13%が「完全に草食系男子」、61%が「どちらかというと草食系男子」と、自分のことを草食系男子と思う男性が75%に上っています。ところで「草食系男子」とは一体どういう男の子のことを言うのでしょうか。
まだはっきりとした定義はありませんが、「恋愛やセックスに縁がないわけではないのに積極的でない、肉欲に淡々とした男子」、「新世代の優しい男性のことで、異性をがつがつと求める肉食系でなく、異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う男子」、「心が優しく男らしさに縛られていず、恋愛にがつがつせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子」といった解釈が一般的です。
ところが、マスコミでは草食系に派生して「スカート男子」といった言葉も使われるようになり、女性の目から見て男性を嘲笑する報道も多くなっています。また、元気のある女性を肉食系女子として、これに対して元気のない男性を草食系男子と呼ぶことも少なくありません。また、男女を問わず、元気のない若者の代名詞として「草食系」の言葉を使うことも多くなってきました。
こうなると、若い男性諸君の大半が自分のことを草食系男子と自任している現状は実に由々しき問題です。本当に日本男児はそんなに元気を失ってしまったのでしょうか。
愛車の整備のために馴染みのバイク屋さんに行ったところ、彼が「大型バイクに乗りたいという若い連中がめっきり減ってしまったのでバイクが全然売れないよ」とボヤいていました。
バイクだけではありません。近頃の若者は4輪車に対する興味もあまりないようです。車やバイクどころではありません。最近はゲンチャリさえ売れなくなっているようなのです。
私が「雇用不安で若者がお金を持っていないからじゃないの?」と聞くと「いや、それだけじゃないと思うよ」。「前は、喰うものを我慢してもどうしても大型バイクが欲しいって奴がいたんだけど、最近は欲しい物の順位が全然変わっちゃったんだよね」。
もう40年以上も前のことになりますが、自分が思春期だった頃を思い出せば、どうしても車を手に入れたかったし、バイクを跳ばすことを夢見ていました。その動機といえば、ただただ女の子にもてたいという一心でした。
強くなるために柔道を励んだのも、ギターを一生懸命練習したのも、よい成績をとりたくて勉強したのも、元を辿れば、女の子にもてたかったからです。
若い頃のすべての行動の源は異性の視線に対してなんとか目立って自己アピールして、その他大勢に埋没してしまわないための足掻きであったように思います。
そして異性とは親密な関係になるための対象であって、決して一緒に草を食む仲間として求めてなんかいませんでした。あわよくばと不埒な妄想の対象であった娘から「西川君はとっても大切な友達よ」と言われた日は、悲しくて悔しくて眠れなかったことを思い出します。つまり、私の若い頃の行動の大半は肉欲に突き動かされていたと言ってもいいでしょう。
さすがに最近では、そんなエネルギーはありませんが、それでも未だに異性から好かれたいし、異性から褒められることが何よりの励みです。今風の言い方をすれば、私は根っからの肉食系ということになります。しかし、よくよく振り返ってみても、私が特別飢えた狼だったわけではありません。
私の周りにいた連中は皆似たり寄ったりでした。むしろ私などは肉食系男子番付をつけたならば、せいぜい幕下筆頭くらいのものだったのではないでしょうか。ですから、今の若者の75%が草食系だと言われても俄かには信じられませんでした。異性を求める手段として、爪や牙を隠しておとなしい羊を装っているだけではないかと穿って見ていました。ところが、先日昭和22年生まれで日頃から若い男女に囲まれる仕事をしている友人から言われた言葉でこの考えを根底から変えることになりました。
「僕は人というものは個体の年齢とは別に人種の年齢というものがあるんじゃないかと思うんだよ。先の戦争に敗れた瞬間から日本人は生まれ変わったんじゃないかな。だから、戦後間もなく生まれた人は文字通り赤子として生まれたけど、それから経済的に豊かになって世の中が成熟するにつれて日本人という人種が年をとっていって、今や初老から高齢になろうとしている。人種そのものが年とっているから、今生まれる赤ちゃんは生物学的には赤ちゃんであっても、全人的には初老なのじゃないかな。つまり、現代の日本人は初めから年をとって生まれてくる。」
この意見は無論、科学的ではなく、アバウトで情緒的な印象を表現したものです。しかし、異性に対する態度に限らず、今の若者のいろいろな社会行動の特性を理解する上でとても分かりやすい考え方だと思います。今の若者は、同じ年の頃の私よりもずっと分別ある行動をして、無謀な冒険を犯しません。
一方、昭和22年生まれを中心とした団塊の世代は、育ち盛りの日本全体を騒がせた学生運動の中心でありました。麻疹のような革命病が治った後は、猛烈サラリーマン、ちょい悪親父と、いつまでたっても自己顕示欲旺盛です。私の周りにいる連中を見ても、この世代はいつも何かしていないと気が済まない人がほとんどで、何かにつけてお騒がせな存在です。先ほどの説から言えば、生物学的個体年齢は高齢者に足を突っ込んでいるのに、全人的には未だに悪ガキのままと言えます。
若年寄とガキ親父のどちらがよいとは言えませんが、自分自身の行動のいかんで、明日は今日よりよくなるかもしれないという夢を見ることができただけ、団塊の世代のガキ親父の方が幸せなのではないでしょうか。
だからこそ、私たち団塊の世代はいつまでもガキぶりを発揮しているだけではいけません。自分たちが好き勝手にやってきたおかげで、大人で生まれてしまった若者が、夢を見ることの楽しさ味わうことができるように、今少し世の中に変えていく義務を背負っているのだと思います。