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クリニック西川

2010年10月

他人を尊敬できる能力

小さい頃は、周りにいるすべての人が輝いて見えました。両親は何でも知っていました。おじいさんは秘密の隠れ場所の作り方を教えてくれました。風邪をひいた時、おばあさんの作ってくれた飲み物を飲むと嘘のように熱が下がりました。兄はいろいろな遊びを教えてくれました。
家族だけではありません。足の速い子。喧嘩の強い子。難しい漢字を知っている子。皆が怖がることを先頭を切ってやって見せる子。自慢の友達が沢山いました。
町に出ると、電車の運転手さん、高い柱組の上で動き回るとび職、大型クレーンを自分の腕のように操る操縦士さんなど、あこがれの人が溢れていました。
やがて、学校に上がり、周りの関心がテストの成績にばかり向かうと、自分自身の尊敬の対象も教師や先輩、そして優秀な同級生に限られてきます。卒業して社会人になるとさらに関心の幅は狭くなって、自分が所属する社会での成功者だけを認め、他の社会で活動している人には目を向けなくなります。
また、成長して自分が経験を積んでいくと自信が蓄積されます。自信の肥大に伴って尊敬の閾値が上がるために、ちょっとやそっとでは人を尊敬することがなくなります。
自信を持って人生を歩むことは良いことですが、自分が生きてきた狭い分野においてちょっと成功したということは、その人の全人格が優れているということにはなりません。依然としてスプリンターにはなっていませんし、高い建築現場で働くことやクレーンを動かすことができるようになったわけではないのです。にも拘らず、そういう人を見ても感動して尊敬しなくなるのはどうしてでしょう。
物事を勉強して、子供の頃魔法のように思えた能力は、実はそれほどたいしたことではなかったことを知るからだと考えるのが一般的でしょう。しかし、私はそれだけではないのではないかと考えます。

新しい物事を素直に見聞きして感動する能力は、我々ヒトの脳の優れた機能です。ところが脳は、すべての事象に対して感動していては疲れてしまうので、一定以下の入力刺激は過去の事例に照らし合わせて類型化、パターン化して処理します。「ああ、これは2年前にあったAと似たものだ」とか「この年齢でこの手の肩書の人は大体こういう人だ」というマニュアルで処理して、あるがままに検証しません。当然、新たな発見や感動など起こり得ません。
確かに、脳は日々膨大な入力を処理しなければなりませんから、このパターン化を有効に使わないとパンクしてしまうでしょう。それでも、脳の機能が十分に健康で余力がある時には、まだまだ多くのことに対して素直に反応して感動する糊代を保持しています。
ところが、脳が疲れて余力がなくなると脳は自分自身を守ることに全力を投入します。その結果、自己に否定的な入力を入り口で拒否します。また、そのフィルターを潜り抜けた入力であっても、それに対してまともに反応せず、すべてパターン化して処理しようとします。
この結果、脳の健康状態が保たれていない人は、他人の言うことに聞く耳を持たず、すべてのことを過去の乏しい経験にのっとって判断して、新しい事象を吸収し学ぼうとしません。ですから、他人の優れた点を認めて尊敬することなどできるはずがありません。
このような状態に陥る原因はいろいろあるでしょう。一般的には脳の処理案件が処理能力を上回った時に起こります。つまり、あまりにも多くの問題を抱え過ぎれば、他人の長所など認める余裕がなくなるというものです。それ以外では、各種精神障害の場合です。しかしながら、もっともよく見られる原因は、数多くの脳細胞が死滅して残りが少なくなる、脳の老化ではないかと思います。

多くの高齢者が、自分の人生に自信を持ち、自分の生き方以外を認めず、新しいことに感動して、若い人を尊敬することができません。その結果、「今の若い者は・・・・」や「私の若い頃は・・・・・」という言葉を頻発するのです。人間の能力や人格の優劣は年齢や肩書とは関係ありません。若い人であっても、またこれといった肩書を持っていなくても尊敬する点はいっぱいあります。物事に感動して、他人を尊敬するということは脳が健康でなければできないのです。

もし、「自分に対するゆるぎない自信を持ち、周囲にはこれと言って尊敬に値する人物はいない」と感じるようになった時は、本当に自分が偉くなったのではなく、むしろ自分がとても危険な状況にあるのです。なぜならば自分の脳がかなり老化あるいは病気になっていることを示すサインだからです。

よい死にかた

私は3年前に胆石の手術を受けた際の術前検査として行った胸部CT検査でアスベストーシスであることを知らされました。医大卒業以来このかた、医師以外の職業に就いたことはありません。建築現場でアルバイトしたことさえないのでアスベストに被曝するはずはないのですが、専門外の私が見ても分かるほどはっきりとした胸膜プラークが映っています。
アスベストーシスは高率に中皮腫という肺癌が発症します。その上に主治医から、私のような愛煙家は発癌率が50倍に上昇すると脅されています。

アスベストーシスは青天の霹靂でしたが、ここ数年「自分の死」を強く意識するようになってきていました。今年還暦を迎えてからがさらに「死」をより具体的に考えるようになりました。
人生というものは自分の思い描くようにはいかないものです。私のこれまでの人生も、予測しなかった出来事の連続でした。これからの人生においても、まだまだハプニングがあると思います。その中で唯一確実なことは「死」です。
死ぬということは決まっているのですが、「死」の厄介なところは、いつ、どのようにという点が最後の最後になるまで分からないことです。
私はそれほど長生きしたいとは思いません。しかし、別に世を儚んでいるわけではありません。むしろ、幸せな人生を送ってきたと思っています。だからこそ、あまり長い期間苦しんだり、人に迷惑かけたり、みじめな思いをしたくないのです。
私に限らず、ある程度の年齢に達した方に聞くと、皆、口をそろえて「自分で自分のことができなくなったらころっと死にたい」、「周りにあまり迷惑をかけないうちに死にたい」と言います。また、「死ぬのは仕方ないが、ひどい痛みで苦しむのはいやだな」とも言います。
ほとんどの方が身体の自由が利かなくなる前に苦しまないで死ぬことを望んでいるようです。ベッドに寝たきりで、下の世話をしてもらいながら生きながらえることを望んでいる人はほとんどいないのではないでしょうか。ところが、なかなか本人の希望通りにはいきません。多くの方が不本意にも、3か月ごとに病院を移された揚句、「地域で面倒見てもらいましょう」とのきれいごとを言われて家庭に帰されて、家族に多大な犠牲を強いて生きながらえます。

私が心からうらやましいと思ったのは以前私が診ていた87歳のお爺さんの死にざまです。この方は元大工で妻と二人で年金暮らし。午前、午後それぞれ1回、近くの地蔵通り一往復の散歩を日課としていました。食べ物に好き嫌いはなく、1日10本程度の煙草と1合の晩酌を楽しんで暮らしていました。
4年前の春、午後の散歩から帰って、妻が淹れてくれたお茶を啜っていたところに近所の方が訪ねてきました。玄関で5分ほどの世間話が終わった妻がすぐ横の居間に目をやると、夫が卓袱台の上にうつ伏せになっています。声をかけても返事がないので確かめてみるとすでに息を引き取っていたのです。夫の目の前の飲みかけの茶碗の横にはきちんと入れ歯が置いてありました。呻き声一つ上げずに自ら入れ歯を始末して最後の瞬間を迎えた。大往生でした。
恥多き人生を歩んできた私ですから、彼のような素敵な死に方を望むことはできませんが、生死の淵を彷徨うのはせいぜい1週間くらいで勘弁してもらいたいと思っています。

誰しもだらだらと長く息だけしているのではなく、身の周りのことができなくなる前にぽっくりと逝きたいと願っています。家族も本音では、回復の可能性がないのならばいつまでも介護に煩わされたくないと思っているはずです。ところが、家族を含めて周囲の人は絶対にこの本音を口に出すことは許されません。本音と建前がこれほど違うのは他にないでしょう。
たとえ本人が「もう早く死にたい」と言っても、絶対に「そんなことを言ってはいけません。少しでも長生きしなければだめですよ」と言わなければいけないのです。そう言わなければ人格の根本を疑われてしまうからです。こんなコラムを書くだけ私は医師失格のレッテルをはられるかも知れません。
なぜこうなってしまったのでしょう。非常に難しい問題だとは思いますが、一つには、いつの間にか「一つの命は地球より重い」などというとんでもない嘘っぱちのきれい事が大義名分として通じるようになったからです。
もちろん、一人一人の命を粗末にしていいわけはありませんが、たった一人の命が、他の70億の人間とそれ以外の無数の生命体の合計よりも大事であるわけがありません。それに、繰り返して私がこのコラムで述べてきたように、生命は個々の命として考えるだけではなく、種としての命という側面からも考えなければなりません。
地球の全生命体を一つの生命とした場合、一人のヒトは1個の細胞に当たります。生命体を健全に維持するためには個々の細胞は新陳代謝をしなければなりません。つまり、古い細胞が死に新しい細胞に置き換わらなければならないのです。地球生命を中心に考えた場合、古いヒトは役割を終えたら死んで、新しいヒトがその役割を引き継がなければなりません。
角質化した皮膚がいつまでもこびりついていると新しい健康な皮膚の発育が阻害されるのと同様に、私たちも一個体としての役割を果たしたならば、次世代にバトンタッチをしなければ人としての種の健康が保たれないのです。
それなのに、健康維持を担う医学はこれまで個体としての生命、しかもその生命の量的側面ばかりを見てきました。生命を種として捉えること、また生命の質的な健康に対して関心が少なすぎました。このために、少しでも長く生きさせることが優れた医療という錯覚に陥っているのです。
本当は、人間はただただ長生きすることを望んではいません。少しくらい短くても良質な人生を歩みたいと思っている人は少なくありません。しかし、よい人生とは主観的で数値化できませんから、簡単に数字で表せて安直に評価を受けられる延命ばかりに腐心してきたのです。医療は平均余命や、生存率向上で見栄を張るのだけではなく、人々が良質な人生を送るために力を尽くすことを忘れてはいけないのではないでしょうか。
ところがお馬鹿さんたちはついに、数値化できるはずのない人生の質さえも定量化しようとしています。「楽しい人生を送るにはこのマニュアル通りに生活しなければいけませんよ」と。
メタボ健診がこの愚行の象徴でしょう。健康とは「腹囲を85ch以以下である」などと、素人が考えたって馬鹿馬鹿しいことを平気で制度化してしまったのですから恐ろしい限りです。酒飲んで、煙草吸って、うまいもの食って太っていたって自分の勝手、腹回りを当局から○○chにしろなんて余計な御世話というものです。

私はアスベストーシスも増税もなんのその、美味しい煙草と少々のお酒を楽しみ、子供たちが一人前になったらトンコロリと逝きたいと願っています。

今大流行の「うつ」は現在主流の診断名で正確に言うと「気分障害」となります。気分が持続的に憂うつ、あるいは過度に爽快になる気分を主体とする病気です。こういう知識はかなり普及しました。しかし、そもそもこの病気で障害される「気分」とはどんなものだかご存知でしょうか。
 精神医学では「比較的弱いがある一定期間持続する感情の状態」と定義されています。
よい成績をとると嬉々とした気分になります。一方、失恋したり上司から手酷く叱責されれば憂うつな気分になります。これはごく当たり前の心の動き、言い換えれば、正常な感情の動きです。もし失恋や叱責によって気分がうきうきしたとすれば、極めて重篤な感情障害と言えます。
 ところが近年、「うつ」という言葉が独り歩きしてしまったために、理由があって起きた正常な憂うつ状態でも、本人が「憂うつだ」と訴えるだけで、すぐにうつ病とする傾向があります。
 人生には様々な困難が待ち受けています。そして、楽しいことよりも悲しいこと、辛いことに出会うほうがはるかに多いのではないでしょうか。私たちは絶好調と感じるよりは憂うつと感じることの方が多くて当たり前なのです。それなのに、憂うつだと訴える人を片っ端からうつ病と診断したならば、世の中はうつ病患者で溢れかえってしまいます。
 それでは健康な憂うつと病的な憂うつとはどこが違うのでしょう。一番大きな相違点は持続時間にあります。どん大失恋をしても、健康な心ではいつまでも憂うつな気分を維持することができません。失恋をした事実は一生忘れることがないかもしれませんが、生々しい体験はどんなに頑張っても次第に薄れてしまいます。これは、その恋愛がそれほど真剣ではなかったとか、その人が薄情だとか言うことではありません。脳には自分自身を守るために「忘却」という機能があるからなのです。
 したがって、脳が健康な状態であれば、どんなに強いショックを受けて落ち込んだとしても、この忘却機能が作動するためにいつまでも憂うつな気分が続くことはありません。
 ところが忘却機能が働かずに脳が不健康になると、憂うつな気分がいつまでも持続します。むしろ時間とともに憂うつ気分がひどくなっていきます。これがうつ病という気分障害です。
 大事な人が亡くなった場合に、健康な人の場合には当初は悲しみのどん底に落ち込んでも、次第に元気を取り戻していきます。ところがこれとは逆に、四十九日が終わった頃からどんどんふさぎこんでいくとすれば、うつ病になったと考えた方がよいでしょう。

 感情には気分の他に感覚感情(単純感情)、情動、熱情、情操(高等感情)といった種類があります。感覚感情は本能的な反応で、快か不快かです。情動は激しくて身体表現と深く結び付いていますが持続は短くて一時的な感情です。喜び、悲しみ、恐れ、怒りなどと表現されます。熱情とは知的な要素を持って長く持続する感情で、恋愛への熱情、発明への熱情、学問への熱情、政治への熱情などが知られています。情操は真・善・美の観念に伴う高等感情で、美的情操、道徳的情操、知的情操といったもので、教育によって成長します。
 こういった感情機能の中でなぜ気分だけが「○○情」あるいは「情○○」と呼ばれずに「気分」と命名されたのでしょうか。そもそも「気」とは何なのでしょうか。
 「気」は広辞苑によると「天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き。」、「万物が生じずる根元。」、生命の原動力となる勢い。活力の源。」、「はっきりとは見えなくても、その場を包み、その場に漂うと感ぜられるもの。」とあり、その上で「心の動き・状態・働きを包括的に表す語。」とあります。何やら分かったような分からない形而上的な概念です。私は、遍く時空に存在するエネルギーの一種と理解しています。
 実際に「気」は多くの事象を説明する用語の中に使われています。「大気」、「空気」、「気候」、「気象」、「天気」、「電気」、「霊気」などなどです。心の領域の「気」に関しても「元気」、「呑気」、「気合」、「気品」、「気韻」、「意気」、「陽気」、「陰気」、「気概」、・・・・・・・・。その気の動きとしては「気にする」、「気付く」、「気負う」、「気がある」、「気掛かり」、「気が利く」、「気を静める」、「気が散る」、「気が短い」、「気とそそる」、「気を揉む」、「気まずい」、「気が合う」、「気が置けない」、「気が進まない」、「気が済む」、「気が急く」、「気が強い」、「気が詰まる」、「気が咎める」、「気が乗る」、「気が張る」、「気が早い」、「気が晴れる」、「気が引ける」、「気が紛れる」、「気が回る」、「気が揉める」、「気が休まる」、「気に食わない」、「気に障る」、「気の留める」、「気を奪われる」、「気を配る」、「気を吐く」などがあります。
 こうしてみると、宇宙の様々な事象、私たちの心の事象の多くが、この「気」
に関連していることがお分かりになると思います。アインシュタイン以前の物理学の世界で宇宙を満たしていると考えられていた「エーテル」のような概念ではないかと考えます。

こう考えると、やや飛躍ではありますが、私たちの心の「気分」は宇宙に満ち満ちている「気」の一部を分けてもらったものと解釈できます。実際に、ずっと以前に書いたコラム「星の王子様」で述べたように、私たちの身体を構成する原子は、何億、何十億年も前に超新星爆発で一生を終えた恒星の一部からできています。目に見える身体も宇宙の一部なのですから、心的エネルギーが宇宙のエネルギーと密接に関係していても不思議ではありません。

先人たちの洞察力の鋭さは畏るべしです。宇宙エネルギーとの関連はともかく、「気分」は自分のもののように感じられるけれど、本当は自分の思い通りにコントロールできるものではないことを看破しているからです。
 事実、気分は感覚感情や情動よりは高等で複雑な機能ですが、熱情や情操のように自分の意思の管理下にはありません。
 だから、気分障害に陥った時には、静養と治療を受けて、後は枯渇した「気」が自分の内に満ちてくるのを待つしかありません。宇宙からおすそ分けしてもらったエネルギーののですから、むりやり「気」を高めようとしても無理というものです。
 ですから、うつ病で悩んでいる人に対して訳知り顔で「そんなものは気のもちよう」などと無責任で頓珍漢なアドバイスをしないでください。

頭の中に巣くうもう一人の鬼

隣国、中国との関係が俄然、きな臭くなってきました。私たち日本人にとってみれば「強引に我が国の領海を侵犯して、さらに海上保安庁の船を損傷しておきながら、武力、資源力、経済力を盾に横車を押して通した」、「それに屈した日本政府の弱腰にさらに乗じて、嵩にかかって謝罪と賠償を要求して東シナ海の領有を既成事実化しようとしている」、盗人猛々しい態度にしか映りません。
毛沢東と言うカリスマ指導者がいない今、中国は一人の英雄による独断政治ではなくエリート集団による官僚政治になっています。したがって、国内外のあらゆる案件に対して中長期的な戦略を立てて、それにのっとった戦術を展開しています。今回の事件も東シナ海、南シナ海への拡大路線の一環として行われたものです。
だから、今回の一軒は確かに降って湧いたような事件でしたが、偶発的な事件ではありません。かねてより中国は同地域の領有権を主張して、着々と海軍力を拡大してきていました。今回の事態は、起こるべくして起こったことです。したがって、私は中国の暴挙に対しての怒りよりも、今の今までこういう事態に対する対処法を準備してこなかった我が国政府の無能ぶりに落胆しています。 日本の指導者たちに長期的なビジョンが全くないという悲劇の象徴的出来事と言えましょう。
さらに、長らく我が国を属国として扱ってきた米国の今回の無関心さをちっとも非難しないマスコミ主導の世論に憤慨しています。中国が世界の大消費家となり、レアアースを独占するようになった今、米国は中国にもの申すことができず、むしろ顔色を伺っているのですから当然と言えば当然かもしれませんが、今回、米国は洞ヶ峠を決め込んで、なんら有効な対応をしてくれませんでした。
いい面の皮は、これまで営々と紙くず同然のドルを買い支えさせられ、何かにつけて貢物を続けてきた我が国です。今回の事件で日本は米国にとって、用なし派遣切り社員であることを深く自覚すべきです。これは極めて由々しき問題であるのに、この観点からの論評がほとんどされないのは大手マスコミが米国の支配下にあるためです。

今回の中国の行動はいかにも野蛮で文明国にふさわしくないと感じる方が多いと思いますが、果たして中国だけの問題でしょうか。そんなことはありません。第二次世界大戦以降、米国、ソ連が、それ以前は英国が世界中の国々に対して行ってきた行為なのです。
米国がカリブ海沿岸諸国に対して行ってきた行為を見れば、これから先、中国が東シナ海沿岸諸国に対して行おうとすることが容易に想像できるというものです。
大英帝国以前の世界史をひも解いても、その時代その時代の覇者はみな、周辺国に対して朝貢を強い、さらなる領土の拡大に勢力を注いできました。先例に学べば、そういう態度こそが衰退を招くということが分かるはずなのに、拡大主義を止めることはできませんでした。

さて先週、私たちの頭の中に住んでいる天邪鬼についてお話ししました。この鬼のおかげで私たちはしなくてもよい苦労を背負いこんでしまいます。ところが、私たちの頭の中には天邪鬼なんかよりももっと強力で凶悪な鬼が棲んでいるのです。それは餓鬼です。
餓鬼とは仏教界における存在で、餓鬼道に生まれ変わった亡者、強欲な死者を言います。ところが、大乗仏教では今生において強欲で嫉妬深く物惜しく、常に貪りの心や行為をする人の精神構造をも指すのです。
餓鬼には様々なタイプがあり、ある経典によると36種類にも分類されています。これらの説明はあまりに膨大になるので省略しますが、大きく分けると3種類に分けられます。この中の多財餓鬼こそ、まさに多くの人類、就中、先ほど来述べてきた覇者にとりついている鬼だと思います。
多財餓鬼とは富裕で富を得るのに、どんなに贅沢をしても満足しない鬼です。昼夜逆転した生活をして、平気で人に嘘を吐き、人のものを略奪する。正しいことを言う人を遠ざけておべんちゃらを言う人間だけを周りに集める。人にもを分け与えることをしないで、安物に法外な値段をつけて暴利を貪る。権力者にとりいって、自分の利益のためならば平気で他人を無辜の罪に陥れる。その対象は赤の他人にとどまらず、親、配偶者、子供にも及ぶ。
どうでしょうか、昨今の世情を見直してみると私たちの周囲はこのような人々で溢れているのではないですか。その欲望は止まることを知りません。こういう人々が集まった集団、国家も同じように満ちることのない欲望の塊です。
しかし、このブレーキの壊れた欲望の暴走列車に乗っている人たちはこのように自己弁護するでしょう。「批判は努力しない者の戯言だ。」「努力した者が発展することのどこがいけないのだ。」と。
見方を変えれば餓鬼の精神は「明日は今日よりよくありたい」という向上心とも言えます。進歩、発展、改革、革新、勝利とも密接に関係しているでしょう。そうです、現在よいとされている概念はみな餓鬼道と裏腹の関係にあります。そして、こういった目的の行動をとることが、人間が他の動物と決定的に異なる点です。つまり、もっとも人間らしい特性(業《ごう》)と言えましょう。
そしてこの業を具現化したのが資本主義ではないでしょうが。
富が富を生み、右肩上がりの発展を目指す。利益追求が善であり、貧者は悪しき敗者。
こんなことを書いていると私が共産主義者ではないかと疑われるでしょうが、決してそうではありません。完全に平等な社会はあり得ないと思っています。なぜならば人は生まれた時から不平等だからです。背の高い人、低い人。知能の高い人、低い人。すべてが平等などとは絵に描いた餅です。この世はすべて不平等です。
それに努力した者がしない者よりも報われるのは当然だと思っています。しかし、人間は一体どこで満足するのでしょうか。小さく限りある地球と言う惑星の上で資本主義をどこまでも追及することは不可能であることは自明の理です。そんなことに気付かないのは私たちが完全に餓鬼の支配下に置かれているからでしょう。

天邪鬼と違って、餓鬼に対して褒め言葉は禁物です。どこまでも付け上がってしまいます。心の中からこの鬼を駆逐することはできないかもしれませんが、この鬼の下僕にだけはならないように頑張りましょう。
中国には是非とも「知足安分」という貴国の言葉を思い出してほしいものです。

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