先日NHKの「ためしてがってん」で紹介された影響で男性の更年期障害が急に注目されています。先日も私のクリニックに「自分は更年期障害ではないか」と言って来院された患者さんがいました。
以前のコラムで更年期障害という病名が正しく理解されていないことについてお話ししました。繰り返しになりますが、もう一度更年期について説明します。更年期とは、幼児期とか思春期と同様に、人間が便宜上定めた人生の一つの期間を表す用語です。具体的には45歳から65歳までを更年期と呼びます。
ところが障害という言葉と組み合わされた更年期障害が有名になって、この名前が独り歩きしてしまいました。その結果、更年期というとそれだけで、病気のマイナスイメージが付きまとうようになったのです。そこで、最近は更年期という名称をやめて「実年期」と呼ぶように提案されています。
言葉通りに解釈すると、更年期障害とは45歳から65歳までの期間に起こる健康障害がすべて該当します。その中には腕の痺れと肩こりもあるでしょうし、気分が沈むこともあるでしょうが、とりあえずはすべて更年期障害と言えます。やがて診察、検査を進めた結果、頸椎椎間板に異常が見つかれば、「頸椎すべり症」という診断名に変更になります。気分だけでなく意欲の低下や睡眠障害が持続していれば「うつ病」と診断されます。
こうして、当初は更年期障害として片付けられていた病態は診断が進むことによって整理され、本来の診断名を与えられます。ところが、どうしても他の診断名に辿り着かないで残る一群の病態があります。彼女たちの不定愁訴は卵巣のホルモン機能の低下によって起きていると考えられます。これが本来の更年期障害です。つまり、更年期障害の中核は卵胞ホルモンの減少によって起きるpostmenopausal syndrome(PMS)のことを指しているのです。ですから本当は更年期障害などというあいまいな病名を使わないで卵巣機能低下症と呼ぶべきだと思います。
女性が更年期になると、女性であることの象徴的現象である月経が消失します。つまり、排卵しなくなるので、雌として次世代を製造することができなくなります。
これに比べて男性の場合には、生殖に際する儀式の勢いが落ちることは否めませんが、次世代を作るという本来の生殖能力は80歳を超えても保持しています。言い方を変えれば、男は死ぬまで雄です。このために長い間、加齢に伴う性ホルモン機能低下による病態は女性の専売特許でした。
ところが、最近になってようやく男性でも加齢に伴う性ホルモン機能低下によっていろいろな不具合が起きることを認めてもらえるようになりました。それが加齢男性性腺機能低下症候群(Late Onset Hypogonadism in males《LOH症候群》)です。
精巣で作られるテストステロン(testosterone)は加齢とともに減少しますが、普通はゆっくりとしたカーブで減っていきます。ところが、加齢以外の因子、たとえば精神的なストレス状態などが加わりますと、急激に減少することがあります。こうなると心身両面にわたって様々な症状が出現します。
精神的には気分の抑うつ、イライラ、不安感、物忘れ、集中力の低下、不眠、性欲の減少などが、身体的には易疲労感、倦怠感、勃起不全、体毛の減少、筋肉痛、骨・関節痛、内臓脂肪が増加して筋肉がやせる、勃起不全などが良く見られます。
要は、雄々しい男性らしさが衰えた状態という極めて由々しき事態です。であるにも拘わらず、女性の更年期障害はかわいそうな病気として認知されている(むしろ過剰に拡大解釈されている)のに対して、男性のこの病態はこれまで病気として認められてきませんでした。同情されるどころか、「情けない」とか「だらしがない」とか、侮蔑の言葉を受けることも少なくなかったのではないでしょうか。
LOH症候群の存在が啓蒙されることによって、こういったおじさんたちにも、やっと希望の光が当たったのです。症状に苦しみながら甘んじて軽蔑されないですむだけではなく、減少したテストステロンを補充することによって元気な男に戻ることができる可能性があるからです。
更年期は男女両方にとって、人生の中で困難の多い時期です。性機能の低下だけでなく、子供の学費の工面、親の介護、出世競争からの脱落、定年退職等々、多くの社会心理学的な難問を抱える時期でもあります。おばさんだけでなく、おじさんもつらいんです。
尖閣諸島沖での中国漁船巡視船体当たり事件は、対中国の外交問題にとどまらず、日本国内にもとても悪性の続発症を引き起こしました。それは海上保安官による現場ビデオのYou Tubeへの流出事件です。
私は中国の軍事、経済力を盾に取った強権的な態度、それに対する我が国政府の無能ぶり、どちらにも怒りを感じます。そして問題のビデオに関してはもっと早く公開すべきであったと考えます。中国の鼻息ばかり伺ってなんら毅然とした行動をとらなかった菅内閣は、民主主義の主権国家であることを自己否定したに等しいとさえ考えています。
それでは今回の保安官のとった行動に賛意を示すかといえば、そうではありません。公務員が、就中、武器の携行を許された者が私的な義憤にのっとって跳ね上がった行動をとることはどんな些細なことであっても許されてはいけません。
ところが、新聞などのアンケート調査によると、保安官の行動を弁護する人が多かったようです。私は保安官の独善的な行動に喝采をおくる人がこれほど多いことにとても危険な匂いを感じるのです。
今回の事件を聴いて、頭に思い浮かべたのは一昨年の11月に起きた厚労省元事務次官連続殺傷事件です。小泉毅という無職の男が元次官夫妻殺害ならびにもう一人の元次官夫人殺害未遂事件です。当時は日本中を震撼とさせました。これを機に霞が関のセキュリティシステムが一段と強化されました。私が長らく嘱託医をしている特許庁などは、とてもテロの対象にされるとは思えないのですが、ここでも昨年春以降は事前に登録していない車両は一切駐車場に入れなくなりました。
しかし、熱しやすく冷めやすい我が国の国民性のせいでしょうか、今では小泉毅の件はほとんど話題にも上りません。「ああ、そういえばそんな事件もあったっけ」という方も少なくないと思います。裁判は本年3月30日に埼玉地裁で判決公判が行われて死刑判決が下され、現在控訴中です。
事件は、昔飼っていた愛犬チロが殺処分されたことへの恨みによる個人的な犯行として処理されようとしています。すなわち、極めて偏向した人格の持ち主が見当外れの恨みを抱いて引き起こした理不尽極まりない犯行だというのです。本当にそうでしょうか。私は今でも彼の背景に複数の人間が関与したテロ事件だと思っています。
私はこの二つの事件およびそれに対する国の対応、さらには国民の反応に、我が国の社会崩壊が象徴されているように感じるのです。
今回の保安官の行為は別に傷害や殺人ではありませんから、小泉の事件と今回のビデオ流出事件を、事件自体を一緒にして論じるつもりはありません。しかし私は、個人の正義感、義憤を動機とする触法行為が後を絶たず、またその行為に心の中で拍手を送る国民の数が増えていることに危うさを覚えるのです。
人の価値観は十人十色ですし、置かれている状況も同じではありませんから、すべての人が満足する社会というものはあり得ません。皆それぞれ不平、不満を抱えながら生きています。それでもその社会からはみ出さずに構成員として生きているのは、相対的に満足する部分があるからです。
それが、自分たちの意見は全く反映されず、八方塞がりとなり、将来に対する希望がなんら見いだせなくなった時に、人はその社会に反抗する行動に出ます。その時の言い分は「皆に代わって天誅を加える」であったり「腐った世の中を変える」であったり、いろいろあるでしょう。
ともかく、国家が現状の矛盾点解消のために真剣に行動しさえすれば、こういった行為はそう起こるものではありません。ところが個人の義憤による行為が多発してそれに対して多くの国民が賛意をおくるということは、国家が国民に対する責務を果たしていないからです。この状態が続くならば、これからも個人的正義感による反社会的行為が頻発することが予測されます。
今の世情は大恐慌後の我が国の五・一五事件、二・二六事件へと発展していった混乱の時とよく似ています。このことについてはすでに昨年3月に書いた「いつか来た道-危ぶまれるテロの時代」というコラムで詳しく書きました。ご興味のある方は御一読ください。
戦後の自民党長期政権によって膨らんだ社会の歪を解消してくれるだろうという国民の期待を担って誕生した民主党政権でしたが、その後1年あまりの国政運営を見て、国民はひどく落胆しました。
鳩山内閣、菅内閣ともに自民党政権時代と大同小異。いや、明確な戦略を持たないために、あらゆる場面で迅速果断な決断ができずに朝令暮改を繰り返すだけ、自民党政権よりももっと性質が悪いかもしれません。
出口の見えない不景気、後数年で破産する国家財政、いくら首をすげ替えてもなんら変革できない硬直しきった社会体制。私はすぐそこに、社会正義をうたった無法行為が横行する暗い混乱の時代が待ち受けているように感じてならないのです。
「あいつ性格悪いよ」
良く耳にする言葉です。悪い性格と判定するには良い性格の基準があるに違いありませんが、それではどういう性格がもっとも模範となる良い性格なのかと問われると、的確に答えられる人はいないのではないでしょうか。
他人を思いやって出しゃばらないにも関わらず、いざという時には先頭を切って困難に立ち向かう人とかとか、いろいろな特徴をあげることができますが、それらを組み立てて一つの人格を構成しようとすると、そう簡単にはいきません。「模範的人格者」と、言葉では言えても、具体的な人物像を描けない、陽炎みたいな概念です。
まず、性格の要素の良し悪しを判断すること自体が困難です。たとえば、誰にでも優しいということは八方美人とも言えます。自己主張が少ないという長所は優柔不断という欠点の裏返しです。このように人格を形作る要素一つを取り出しても、良し悪しすら明言できません。さらに、こういった要素が数多く組み合わさった複雑な人格全体を良い、悪いなどと単純に仕分けすることができるはずがありません。ですから、相手の性格を良し悪しを判断したつもりでも、実は自分がその人を好きか嫌いかということでしかない場合がほとんどです。
このように人格の評価はとても困難な作業にも拘わらず、私たち精神科医は患者さんの治療に際して、人格をできるだけ客観的に評価することを避けては通れません。
今はコンビニメンタルクリニックが大流行りです。私がコンビニメンタルクリニックというのは、チェックリストを評価して、一定以上の得点だと「はい、あなたはちょっとうつですね」と診断して抗うつ薬を処方する医療のことです。
しかし、心の健康を損なっている人に対して、表面的な症状だけを見てSSRIのような薬を処方するだけでは本当の回復は望めません。同じ症状を訴えていたとしても、基盤となる人格に応じて治療法は大きく異なります。
「うつ状態」だからといって、「叱咤激励はいけない」の馬鹿の一つ覚えで対処していれば済むというものではありません。症例によっては「叱咤激励」が必要なこともあります。そのためには、その人の人格評価がとても重要になるのです。
また、障害の主体が病気としてのプロセスではなく、その人の人格にある場合も少なくありません。そういうケースではやたらに薬を増量していっても副作用がでるだけで治療には結び付きません。薬は必要最小限の対症的な適用にとどめて、精神療法を中心に治療を進めなければなりません。
実際に、精神医学では通常の人と大きくかけ離れた人格を人格障害として診断することになっています。国際疾病分類(ICD)やアメリカ精神医学会による診断分類(DSM)には回避性人格障害、演技性人格障害、自己愛性人格障害、境界性人格障害等々、沢山の人格障害が列挙され、それぞれの診断基準が示されています。
DSM-Ⅳ-TRに記載されている「回避性人格障害」を1例として示します。
回避性人格障害(Avoidant Personality Disorder)
社会的制止、不全感、および否定的評価に対する過敏性の広範な様式で、成人早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち4つ(またはそれ以上)によって示される。
(1) 批判、否認、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある活動を避ける。
(2) 好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたいと思わない。
(3) 恥をかかされること、またはばかにされることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。
(4) 社会的な状況では、批判されること、または拒絶されることに心がとらわれている。
(5) 不全感のために、新しい対人関係状況で制止が起こる。
(6) 自分は社会的に不適切である、人間として長所がない、または他の人より劣っていると思っている。
(7) 恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに、異常なほど引っ込み思案である。
この基準に沿ってチェックすれば人格障害の診断ができるかというとそうではありません。誰だって、嫌われているかもしれないと感じている人と接触を持ちたくはありませんし、他人から批判されたり、拒絶されて平気な人はいません。ですから、それぞれの特性が「異常なほど」に当たるのか否かの判断がポイントになりますが、この異常性の判断もまた、極めて主観的で、診断する者の価値観に委ねられるところが大きいと言えます。
また、その人のある行動をどうとらえるかという点にも問題を含んでいます。たとえば「演技性人格障害」の診断基準における「自分が注目の的になっていない状況では楽しくない」と「自己愛性人格障害」の「過剰な称賛を求める」との鑑別は実際には難しいことが少なくありません。つまり、人格障害の診断はそう安易につけられないのです。
私は、人格はマニュアルを頼って無理やりに診断をつけることは避けるべきだと思います。十人十色の人格を数個のカテゴリーに分類できるはずがないのです。それよりも、できるだけ多角的に把握して、その人となりを総合的に理解することが重要なのだと思います。
人の顔を見た時に丸顔、面長、四角と分類するだけでしょうか。そのほか目の大きさや眉毛の形、唇の形等々、いろいろな要素を総合的に判断して、その人の顔として認識しているはずです。人格も顔と同じです。いろいろな要素を総合的に認識して、本来のその人らしさというものを把握しなければ実際の臨床では役に立ちません。
また、こうやって考えていくと相当に極端な例以外は障害としてではなくその人の特徴の一つとして理解することができます。そして、そう理解する方がその人に対してより設的なアプローチをすることができるように思います。
だいたい、簡単に「あいつ性格悪いよ」という人に限って、その人自身が相当偏った人格の持ち主である場合が少なくありません。
一般的に、ヒトが他の霊長類と異なる進化の過程をとったきっかけは二足歩行にあるとされています。後ろ脚だけで歩行することができるようになったおかげで前脚を歩行以外の目的に自由に使うことが可能となりました。また、頭蓋骨が椎骨の真上に位置することによって、より重たい頭部を支えられるようになったため、大脳皮質が飛躍的に発達。そして、その自由になった両手と発達した大脳皮質によって道具や火を操るようになり、やがては現在のテクノロジーを手に入れられるまでに至ったと考えられています。
一方、直立することによって喉の構造の変化がもたらされました。すなわち飲食物と呼吸気が同じところを通るようになったのです。その結果、食べ物を呼吸器に詰めて窒息死したり、誤嚥性肺炎を患う危険性が生じてしまったのです。生活の基本行動が常に死と隣り合わせです。こんな危ないことは他の動物では見られません。
ヒトはこの危険を乗り越えるために呼吸と嚥下の経路を上手に切り替えるために舌、顎、唇、喉頭、咽頭にある筋肉と高度に制御する必要が生じて、そのための脳神経と各筋肉が特異的に発達しました。その結果、発達した脳からの命令で口から呼気を自由自在に操れるようになって、複雑多様な発音が可能となり、言語機能が飛躍的な発達を遂げました。怪我の功名と言えます。
以上のように、直立歩行、手指運動機能の発達、言語機能の獲得という一連の過程がヒトを万物の長たらしめたと考えられています。
しかし、ヒトがこれほどにも地球上を席巻した要因として、私はあと2つの特性を考えます。その一つは繁殖力の高さです。繁殖にとって、10ヶ月強というヒトの長い胎生期間は不利ですが、一年中いつでも発情期という点がそれを補ってあまりあります。ですから、生存の危険の度合いや子育て環境の良し悪しに応じて繁殖行動をコントロールすることができます。この特徴がヒトを地球上の広い地域で、また多様な環境変化に対応して種を拡散・保存できるようにした大きな要因ではないかと考えます。
二つ目はしっぽを失くしたことだと思います。どの動物を見ても尻尾は移動運動時に重要な役割を果たしています。チータの疾走時の姿を見れば運動機能におけるしっぽの大切さが良く分かります。視点は獲物を捉えて上下左右にほとんど振れません。つまり頭の位置が固定されているのです。その頭を中心に躯幹と四肢がしなやかに屈伸します。特に四肢は別の生き物であるかのように大地を蹴り、空中を跳びます。
頭の位置がそれ以外の身体の部分の動きに引きずられないでぶれないことは速く走るために必須条件のようです。ウサイン・ボルトの激走を正面から撮った画像を見ても頭はほとんど動きません。それに比べて私のような運動神経の鈍い者が走ると、上下左右に頭がぶれまくって走行エネルギーを大幅にロスしまいます。
100m競争のような直線走の場合にはボルトとチータの姿にそれほどの差はないように見えます。ところが実際のチータはただ直線を走るわけではありません。命がけで逃げる獲物を追い詰めるには急激な方向転換を要求されます。この方向転換の時に頭がぶれてはその都度スピードダウンしてしまいます。このカーブ走行の際に重要な役割を果たすのがしっぽです。しっぽを方向転換に合わせて左右に振ることによって頭部がぶれることを防いで高速走行を維持できるのです。
つまり、しっぽがないということは生命の維持にかかわる「速く走る」という動物としての最重要機能から考えると、とても大きな損失です。それなのに、ヒトはあえてしっぽを捨てました。それでは、しっぽを捨てたことによって何か速く走ること以上の利点を得たのでしょうか。
一般的には、しっぽがあっては座りにくいとか、セックスの時に邪魔だとか言われますが、私はしっぽを捨てたことによってヒトが得た最大の恩恵は「嘘をつく能力」を身につけたことではないかと考えます。
犬の前に美味しい餌をおいて「待て」を命じます。しつけられた犬はがまん強く待ちます。ちころが、「そんなもの欲しくないよ」とばかりに素知らぬそぶりをしてもしっぽは正直に「早く頂戴よ」と動いてしまいます。
私の大好きな猫ではもっとしっぽがものを言います。猫はかなりのポーカーフェイスですから、表情を観察しても真意を汲み取れないことが少なくありません。しかし、しっぽが彼らの気持ちを明瞭に表現します。嬉しかったり、甘えたい時には尻尾がピンと立ち、ふりふりと揺れます。警戒すべき相手や不快な時には思わずしっぽが山のような形になってしまいます。中枢神経とダイレクトにつながっているしっぽは嘘をつけません。「目は口ほどにものを言う」とされていますが、しっぽは目以上に心情を吐露するのです。
ヒトは言語機能が発達した上にしっぽがないのでとても上手に嘘をつくことができます。おそらく嘘つきはヒトだけが獲得した能力ではないでしょうか。
現代人に突然しっぽが復活したらどうなるでしょう。「決して変なことはしないからちょっとここで休んで行こうよ」とホテルの前で若い娘をくどく中年紳士のスーツの穴から突き出たしっぽの先はピクピクと小さく振れてしまいます。獲物を見つけた時のサインです。
「馬鹿野郎、俺を誰だとおもってんだ、てめえ」と威勢よく啖呵を切っているチンピラのしっぽは丸まって脚の間に隠れています。恐怖で怯えているサインです。
「あなたみたいに素敵な人、初めて。また指名してね」と客を送り出すキャバクラ嬢のスカートから出たしっぽは大きく左右に振られています。不機嫌でイライラしている証拠です。「もう二度と来るな」という本音がばれてしまいます。私はしっぽのあるヒトの社会を想像すると可笑しくてたまりません。
嘘つきは悪いことされていますが、これこそが嘘です。嘘という言葉に抵抗がある方がいらっしゃるでしょうから、嘘とは言わずに「建て前」と言えば納得して頂けるでしょうか。建て前とは嘘に他なりません。
巨大かつ複雑な社会を築いて、その社会の中で生きていくことで繁栄を築いたヒトにとって本音と建前の使い分けは必要不可欠な行為だと思います。もし、ヒトが常に本音だけを言っていたならば、社会はあっという間に分裂・崩壊してしまうからです。社会の最小単位である夫婦や家族の関係も建て前があるからこそ円滑に保たれているのではないでしょうか。
脳の未熟な幼児は嘘をつけません。私たちは脳の発達とともに嘘をつく能力を身につけていきます。そして大人になるといっぱしの嘘つきに成長します。その際のよいお手本はもちろん「嘘をついてはいけない」という建て前で育てる親の言動であることは言うまでもありません。
嘘はヒトが社会を維持していくためになくてはならない行動である一方、最悪のストレッサーでもあります。私たちメンタルクリニックを受診される患者さんのストレスの元の大半が人間関係であり、その人間関係のこじれの大きな原因が本音と建て前とのずれにあります。精神障害の多くが他の動物には見られない理由は人間だけが嘘つきだからと言えるのではないでしょうか。
社会的動物として生きる道を選んだ私たちにとって、嘘による精神的ストレスは逃れられない宿命なのかもしれません。そうであれば、嘘つきの道を選んだ私たちができるだけストレスをためないで生きるためには、上手な「嘘つき」、「嘘つかれ」になることが必要なのではないでしょうか。
つまり、同じ嘘でも自己保身だけで人を傷つけるような嘘ではなく、むしろよい人間関係を維持する嘘をつくように訓練すること。一方、建て前と本音の違いを見極めて、上手に嘘をつかれる能力を身につけることです。それが、しっぽを捨てた猿、ヒトがうまく生きていくために必要なことだと思います。
先日、同居している息子夫婦との折り合いが悪くて何週間もの間一睡もできていないと訴える患者さんが来院されました。これまで自分がどれほど家族のためにしてきたか、それに対して嫁の感謝のきもちが見られない、またそれによって自分がいかに眠れない苦しいかを延々とくりかえし述べます。私が、「食事も全くとれていないとおっしゃいますが、体重の変化はないんですね」と話題を変えて質問しても、それには答えず、「先生、私は嫁をいい人だと思っています。でも・・・・・・・」と結局嫁に対する非難をくりかえすのです。
4回ほど同じ話を聞いたので、強引に話を割って「人間の歴史始まって以来、眠れないことが原因で死んだ人がいないこと」、「本当に1週間以上全く眠らないでいることは不可能だからいつか眠っているはずであること」などを説明して、「ここまでは分かっていただけましたか?」と尋ねました。
それを受けて彼女の口から出た言葉は、「ハイ先生良く分かりました。ところで、言い忘れていましたけれど、昔はこんなことはなかったんです。横になればすぐに眠れていたんです。こんなに何週間も全く眠れないなんて始めてで」、「それというのも嫁の帰りが遅いので、私は気になって・・・・・・・・・・・」。私の身体からどっと力が抜けてしまいました。この患者さんは私の話を全く聞いていなかったのです。
こういう患者さんはそれほど珍しくありません。その多くは古典的な診断法による神経症に属する方です。今の自分の苦痛を治してほしいと、言葉では言うのですが、本音(自分でも気付いていない)は自分がいかに苦しい思いをしているかを聞いてもらい、自分の主張を「その通り」と認めてもらいたいだけなのです。
ですから、こちらが、解決法を教えようとしても聞く耳を持ちません。こういう方は往々にして薬に対しても不信感を持っているので、薬を処方しようとすると、「薬は飲みたくありません」とおっしゃいます。話は聴かない、薬は飲まないならば、いったいどうして精神科医のところに来たのだろうと思ってしまいます。私たちは祈祷師ではないのですから。
精神科医がこういうことを言うと必ず、「精神科医なんだから患者さんの話をちゃんと聞いてあげるべきだろう」、「話をしに来たのだから、それを聴いてあげるのが役目だろう」とお叱りを受けます。世の中には、患者さんの話をひたすら聴き続けるのが良い精神科医だと考えている方が少なくありません。この誤った精神科医像が定着したために、保険医療における精神科カウンセリングが時間で評価されるという極めて馬鹿馬鹿しい事態になってしまったほどです。現在、保険診療での精神科カウンセリングは30分未満と30分以上とで点数に差をつけられています。
本当に20分話を聴く精神科医より40分話を聴く精神科医の方が優れているのでしょうか。そんなことはありません。もちろん、必要な話もしないで、ただ処方箋を書く医療は論外ですが、「ふーーん」、「へえー」、「そうですか」と相槌をうちながら延々と同じ話をきいていることが良い精神科医療とも言えません。
精神科カウンセリングとは患者さんが言わんとするところを要領よく汲み取って、整理してあげる。誤ったところを指摘して、良い方向に向くように交通整理して、その方向に進んでいこうとする患者さんの背中をそっと押してあげることです。
「分かりました、ところで・・・・」と切り出す患者さんには、同じ話をしているだけでは良くならないことを説明する所から始めなければなりません。そして、今までとは違った視点から物事を見つめ、これまでとは異なった行動をとってみることによって救われることに気付いてもらう必要があります。
たとえば、過去に人にしてあげたことばかりを思い出すのを止めて、人からしてもらったことを思い返すのも一つの手です。そうして、他人に対する感謝の念が湧いてくると、それに反比例して自分をさいなんでいた恨み辛みの気持ちが薄らいでくるのです。
また、今までとってきた、やろうという気にならなかったから動かないという行動パターンを変えて、気が乗らないままにとりあえず行動してみることも必要です。一般的に気持ちが整わなければ行動できないと考えられていますが、実は行動が気持ちをリードすることもあるのです。
そして何よりも大事なことは、まず他人の話に耳を傾ける姿勢を作ることです。そうでなければ現状を変えることはできません。ところが、完全に神経症の状態に陥ってしまっている方にこういうことを気付いていただくのはそう簡単なことではありません。
「簡単に分かりましたというのではなく、もう少し真剣に私の話を聴いてください」と言いながら、患者さんの顔をみると、もう私の話を遮ってしゃべりだそうとしています。なんとなく悪い予感。その口から「ハイ良く分かりました、ところで・・・・・」という言葉が今にも出てきそうだからです。