私たち精神科医にとって患者さんの会話がもっとも重要な診断材料であることはよく知られていると思います。ですから、一般の方が精神科医の診察に「あの先生は十分に話を聞いてくれなかった」とか「まだ全部話を終えなかったのに診断がつくのだろうか?」という不満や疑問を抱くことが少なくありません。 こういった不満や疑問は、会話というと、その内容だけを重視するから生じるのです。
ところが精神医療において会話の内容は情報の一部に過ぎません。実際には、会話の形式、会話の組み立て方、しゃべり方(テンポ、アクセント、声高)、しゃべっている時の表情などが、内容に優るとも劣らず重要なのです。
こういった内容以外のパラメータから、意識状態、感情の状態、内容に妄想が含まれているか否か、思考過程の状態、知的機能のレベル等々を読み取ることができます。ですから、「気分が塞ぎますか?」といった質問票をチェックするだけでは診断がつくはずがないのです。
しゃべり方の障害としては、幾つかの特徴的な症状が知られています。反響言語(echolalia)はいわゆる「オウム返し」です。反響症の患者さんに「おはようございます」と声をかけると「おはようございます」と返ってきます。ここまでは普通でしょう。ところが次に「ぐっすり眠れましたか?」と尋ねた際に返ってくる言葉が「ぐっすり眠れましたか?」なのです。「お名前は?」、「お名前は?」。「どうされたのですか?」、「どうされたのですか?」。この症状は早期幼児自閉症など広汎性発達障害児童によく見られます。
吃音(どもり)は話し始めを繰り返すのが特徴です。「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくはこれが好きだ」、「ど、ど、ど、どうして く、く、く、くす、くす、くすりを のま、のま、のまなければ い、い、いけ、いけないんですか?」。吃音症は過度に緊張すると誰でも起き得ますが、重症の場合には軽度の脳障害が基礎にあることが多いようです。
吃音と似ていますが会話の最後がリズミカルに繰り返される症状を言語間代(logoclonia)と言います。「私は西川です、です、です」、「夕食は6時にしてください、さい、さい、さい」といった会話になってしまいます。アルツハイマー病のような、脳の広範囲な器質性の障害時に見られます。
本当は思考過程の障害なのですが、現実的には会話の形式の異常として現われる症状に保続症(perseveration)、冗長症(verbosity)、迂遠症(circumstantiality)などがあります。
保続症は同じ観念がくり返して現れて思考が先に進まない状態なので、一つのことを言いだすと、話題が他に移っても、いつまでも同じことばかりを言い続けます。たとえば最初に「よく眠れますか?」と問いかけて、「大丈夫 よく寝ています」と答えると、次に「ところで食欲はありますか?」と聞いても、「大丈夫 よく寝ています」と、睡眠障害に関することばかりを繰り返して言い続けます。認知症などの脳の器質的な病気の際に見られます。
冗長症(verbosity)は目的の観念とあまり関係のない観念を捨てることができないために、余計な回り道をしてなかなか結論に達しない状態です。てんかんの人や精神発達遅滞の人にみられます。「奥さんは最近お元気ですか?」と尋ねても、「奥さん」という観念に固着してしまって、「私の妻は高知の生まれでして、そもそもあいつが東京に出てきてOLをやっている時に知り合いましてね」、「その時私は横浜だったんですけど、仕事の都合でよく東京に来ていたんですよ」、「・・・・・」、「・・・・・・」。延々と妻との出会いのことをしゃべりだして肝心の奥さんの現況については答えずじまいで終わってしまうのです。
迂遠症(circumstantiality)は冗長症と似ていますが目的観念は失われることはありません。話の順序も整っています。しかし、一つ一つの観念にとらわれてしまうために、その都度その観念に対する注釈を付け加えたり、言葉を変えたりして反復して話をするために思考が円滑に進まない状態です。さっさと結論を言えば良いのに、なかなか肝心の答えに辿りつきません。たとえば、「お生まれはどこですか?」との問いに対して、「本当は東京で生まれる予定だったんですよ」、「なにせ父の家は代々世田谷でして、3代前までは庄屋だったんですよ」「世が世なら私だってこんな苦労はしていませんでしたよ」、「ところが祖父が大の遊び好きでね、それで身上潰してしまったんですよ」、「まあその後、父は苦労して警官になったんです」、「そりゃ茶苦労したようですよ」、「てな訳で警視庁務めだったから東京を動かないはずだったんですよ」、「母の実家は静岡の茶農家で、兄が後をとるはずだったから東京に出てきて警察官の父と一緒になったんですよ」、「ところが、ところがですよ、母が私をお腹に宿している時に父と兄が交通事故で急死してしまったんですよ」、「それで急きょ父が母の実家の後を継ぐことになって警官を辞めて静岡に移ったというわけです、「だから私は静岡で生まれました」。
出生地一つ聞くのにこの騒ぎ。途中で話を遮っても、またどこかで枝葉へずれてしまいますから、こういう方の診察は苦労します。
私は、これまで述べた症状とは別の特徴的な会話をする数人の患者さんと出会いました。
この方たちは、こちらがしゃべりだした瞬間に私の言葉を遮るようにしゃべりだすのです。「ところで・・・」としゃべろうとして「と」といったとたんに、私の言葉に覆いかぶせるように「昨日夜身体が火照ったんです」。突然、しゃべりだします。ところが、私が聞く体制に入ると黙ってしまいます。それでは、その先を聞いてみましょうと、「その火照りは何時頃からですか?」と言おうとして「そ」といったとたんに、「火照りだけじゃなく吐き気もしたんです」ときます。
最初のうちはたまたましゃべりだしのタイミングがぶつかってしまったのだろうと思いましたが、そうでないことが分かりました。こちらが黙っていれば、相手もいつまでも沈黙しているのです。十秒近い沈黙に耐えきれなくなった私が口を開けかけると、また瞬時にしゃべり始めるのです。内容はそれほど場違いではありませんが、こちらの言葉を遮って急いでしゃべらなければならないほどのことでもありません。むしろ、先ほどの会話に引き続いてしゃべった方が自然な流れです。
話しかけることがとても難しい人です。強迫的な行動の一環と考えられますが、脳のどのような状態を反映した症状であるかは分かりません。ただ私は、これも一つの会話の形式障害ではないかと考え、「反射性会話」とでも名付けようかと思っています。
病名は病気の本態を直截的に表記するのが正統派です。たとえば、「結核性骨髄炎」といえば、その病名を聞いただけで結核菌による骨髄の炎症であることが立ちどころに分かります。本態を正確に言い現わしてはいませんが、その病気の特徴的な症状を示す病名としては「三日熱(本体はマラリア)」や「三日麻疹(本体は風疹)」などがあります。
その病気を発見した学者の名前を冠した病名も少なくありません。「バセドウ病」や「アルツハイマー病」などがこのカテゴリーの病名です。その病気にかかった有名人の名前を冠した病名もあります。現在では理論物理学の大家、ホーキング博士が患っていることで有名な筋委縮側索硬化症(ALS)は、つい最近までは伝説的な大リーガーを襲った悲劇的な難病として、ルー・ゲーリック病と呼ばれていました。
ちょっと変わった病名としてはその病気の流行場所がついた「在郷軍人病」などもあります。この病気の本体はグラム陰性桿菌の一種、レジオネラ菌による肺炎です。なぜこんな病名がついたのかというと、1976年、米国、ペンシルバニア州米国在郷軍人会の大会が開かれた際に、参加者と周辺住民多数が原因不明の肺炎にかかって、一般的な抗生剤による治療もむなしく多数の死亡者を出したからです。その後の調査で新種の細菌が発見されて、この菌が大会会場近くの冷却塔から飛散して起こったことが判明しました。こうして在郷軍人がかかる特殊な病気ではないことが分かったにもかかわらず、発見の歴史からこのような病名が付けられました。
本態、症状、関係者の名前、発祥地を冠する病名の他に、小説や映画に因んだ病名もあります。「ピックウィック症候群」は肥満と慢性の高二酸化炭素血症を示す病気で、現在、睡眠時無呼吸症と呼ばれる人たちの中核を占める病気です。
ピックウィックとはチャールズ・ディケンズの小説「ピックウィッククラブ」に出てくる、太っていて、いつもうとうと傾眠で、赤ら顔のジョーという少年が典型的な病態を示しているために、小説の題名を病名にしました。
子供っぽく、自己中心的で無責任、依存的でずる賢い未熟な男性を指す「ピーターパン症候群」は誰でも知っている冒険小説、ピーターパンに由来します。アメリカの心理学者、ダン・カイリーは、いつまでも年をとらない少年ピーターパンを大人になることを拒否する障害者と捉えたのです。
心理学、精神医学の分野ではこの手のネーミングが盛んで、メーテルリンクの小説「青い鳥」による「青い鳥症候群」やギリシャ悲劇の登場人物になぞらえた「エディプスコンプレックス」、や「エレクトラコンプレックス」など数え切れません。こういったしゃれた病名の一つに「ガス灯症候群」があります。
「ガス灯(Gaslight)」はパトリック・ハミルトンの戯曲を舞台化、映画化したサスペンス作品です。1944年に公開されたハリウッド映画がとくに有名で、主演のイングリッド・バーグマンが主演女優賞を受賞しました。
資産家の女性から巨額の財産を奪うために、夫を中心に彼女を取り巻く人が共謀して、彼女を精神病者に仕立てるというのがこの映画のテーマです。この映画に因んで、本当は精神障害ではないのに周囲の人が結託して精神病と診断させられてしまう状態を「ガス灯症候群」と呼ぶようになりました。
精神的になんでもない人が、悪巧みによって精神障害者に仕立てられて、自由や財産を奪われたりするのですから、由々しき事態です。私は、その「ガス灯症候群が」今、増えて、今後一層増加するのではないかと危惧しているのです。
ここ数年私は、弁護士から仕事を頼まれることが増えてきました。法律の現場において、精神状態の如何が重要な問題になることが多くなったようです。そういった経験の中で、私が気になるのは、成年後見制度が施行されて10年の間に、資産家の高齢者の「ガス灯症候群」に複数遭遇しました。
子供間の財産争奪戦が原因であることがもっともよくあるケースです。子供たちの欲によって、まだ自立した生活を送ることができている親が、認知症として被後見者にされてしまいます。子供たちの欲に金儲け目的の有料老人ホームが絡んでくるととても話がややこしくなります。
兄弟間の財産争いは珍しくない話ですが、びっくりしたのは司法書士が絡んで、縁も所縁もない保険代理店の男が一人暮らしの高齢者の財産を好きなようにしてしまったケースです。
制度や法律ができると、必ずそれを悪用して悪銭を得ようとする輩が出てきます。成年後見制度も例外ではないようです。本来は悪徳業者から高齢者を守る目的で創られた制度なのですが、法律や医学に長けた者たちが寄ってたかってこの制度を悪用すると、かえって高齢者に対する凶悪な刃にもなります。
後見制度の認定作業においては、医師の診断書、鑑定書が重要な役割を担っています。鑑定書は虚偽の記載に対して罰則があるものの、申請時の診断書と同様に精神科専門医でなくても記載することができます。ですから、故意ではなく「ガス灯症候群」創作に一役買ってしまう可能性を否定できません。
精神科医ならば絶対に騙されないかというとそうではありません。認知症の患者さんは自分ができないことを否定すること多いので、その診断には家族や介護者からの情報によって拠るところが多いのです。患者さんを取り囲む人たちがグルになってかかれば、よほど時間をかけて慎重に診察しないと、お年寄りの正しい言動を作話や妄想として扱ってしまう危険性があります。
入院させて周囲と切り離した環境で専門医が注意深く日常の行動を観察すれば、「ガス灯症候群」を免れますが、こういった例では医療機関ではなく介護施設に入所させられてしまうことが少なくありません。そうなると、それほど正確な情報を入手できるとは限りません。
成年後見制度は後見者を善意の人、あるいは中立的な人であることを前提に成り立っています。しかし、今の世知辛い世の中では、高齢得者の周りにいる人が必ずしも善意の人ばかりではありません。私は、今後さらに高齢者の「ガス灯症候群」を創り出そうとするたくらみが増えることを危惧しています。
私たち精神科医はあらぬ先入観を排除して、虚心坦懐に、より注意深く診察しなければなりません。
現在、我が国では20歳を持って成人として扱われます。しかし、種々の点で早熟化が見られるので、18歳以上を成人として扱うべきだとの意見が主流になってきています。
ところでそもそも、子どもと大人の違いとは一体何なのでしょう。言い換えれば、どうなれば大人と認められるのでしょうか。
生物学的に考えれば、第二次性徴がみられて生殖能力を獲得するということが成体になるということでしょう。オスは射精能力、メスは排卵能力が成体としての証です。人間の場合にはこういった内部の変化に伴って陰毛が生えて女性は乳房が発達します。他の生物と同様にこの生殖能力を基準に考えれば、現在の日本人は11歳くらいで大人と言えるかもしれません。その証拠に、芸能界ではこのくらいの女性タレントを見かけます。
この他の身体的な基準としては乳歯から永久歯への生え変わり、頭部の身体全体に対する比率の縮小、頭部における顔面の比率の拡大などを思いつきます。しかし一般的には、いくら肉体が大人の形をしていても小学生を大人とはみなすことはできないでしょう。
精神的には自我の確立と言われています。自我が確立するということは意識や行動の主体である自分自身と外界や他人とを区別する能力を獲得するということです。子供の頃はこの自我機能があいまいです。母が喜ぶことが自分の喜びですし、父の怒りは自分の悲しみです。自分と親との区別があいまいです。しかし、年齢とともに自分は自分であって、どんなに身近な存在であっても他人とは違うと認識できるようになります。自分と他人とは同じようには感じず、同じ考えを持たないことが分かるようになります。
私は、この自我機能の発達を裏付ける一つの変化は嘘をつくことができるようになるということではないかと考えます。どんなに親から「嘘をついてはいけない」と言われても、自分とは違う他人の集団の中で、自分を守って、他人と摩擦を起こさずに生きていくためには、嘘をつかねばならないことを洞察するのです。この変化が大人になるということではないでしょうか。
自我機能の発達は身体的な第二次性徴とほぼ並行していると思われます。陰毛が生えて異性を求めるようになる頃には立派な嘘つきになっています。しかし、私たち人間社会の中では色気づいて嘘つきになったからと言って大人になったとは言えません。大人の社会行動が必要とされます。
他の動物で行動面の成熟を考えると、巣立ちと採食行動の自立を挙げることができます。鳥の場合は、巣の中で親鳥から口移しで餌をもらうのでなく、自分の翼で餌を求めて羽ばたけるようになると成鳥になったと言えます。哺乳類でも離乳して草葉を食べたり、小動物を捕獲できるようになることが一人前と認められる条件です。
このように自立生活するための能力を成熟の基準と考えると、社会的生物であるヒトの場合には、その個体が所属する社会によって大人になる年齢が異なってきます。
第一次産業を基盤としている社会では第二次性徴とほぼ同時期に自立可能となります。ところが、技能の習得が必要な第二次産業社会では生活の自立にもう少し年月を必要とします。さらに、日本のような先進国では一人で生計を営むためには膨大な専門知識の獲得を要求されるので、そのためには気の遠くなるような歳月を要求されます。最近の我が国では30歳になっても親のすねをかじっている若者もそう珍しくありません。つまり、社会が複雑に発達するにつれて生物学的な成熟年齢と社会的な自立年齢との乖離が大きくなります。身体が大人なのに自立できない中途半端な状態の人間が増えているのです。
さらに私の考えでは、経済的には自立できていても、本当の意味で成熟した大人とは言えないと思います。なぜならば、大人であるためには自分の行動にきちんと責任をとる能力が不可欠だと考えるからです。そして、今の日本ではこの能力が発達しないままの人を数多く見かけます。
異性の気を引く技術と金儲けや出世術には長けていても、何かうまくいかないことがあると、他人のせいにしたり、みっともない言い訳に終始する人が目につきます。本来、皆の手本にならなければならない、議員や企業のトップといった社会を指導すべき立場にある人までもが、小学生のような言い訳を繰り返す姿を見るのは情けない限りです。
大人の責任の取り方まで言い出すと、若者に限らず、私たちの年代の者でも十分に大人になりきれていない人が少なくありません。そして、身体的成熟と精神的、社会的成熟が乖離した人間は社会のあちこちで問題を引き起こします。現在我が国で起こるさまざまな事件の背景にこうした乖離現象が横たわっていると私は考えます。
何歳から成人として扱うかを議論する前に、いい年をした私たち自身がもっと成熟する必要があるようです。
ワイドショーを観ていると、「これは国がなんとかするべきでしょう」という発言をよく耳にします。震災後はこの発言がひときわ多くなりました。一つの番組枠の中で何十回も耳にするほどです。確かに、津波、原発事故、液状化のどれ一つを取り上げても、一個人、一企業の負担で解決できるものはなさそうです。
ですが、取り上げられる問題すべてについて、最終的には司会者が決まり文句のように「これは国が責任を・・・・・」と纏めてしまうのを観ているうちに、何やら違和感を覚えてきました。「この人たちの言っている国っていったい何なのだろう?」
彼らが「国」と言っている時に思い浮かべているのは眠たそうな管総理の顔なのでしょうか、それとも霞が関の庁舎なのでしょうか。私たちもなんとなく「国」という自分たちと違う次元の「お上(おかみ)」を連想して納得してしまいます。
ぶーぶー文句は言っても最終的には逆らえないもの。困った時にはなんとかしてくれる存在。そんなイメージで捉えているのではないでしょうか。日本人の国家感はどうやら長い江戸時代の幕府のイメージからなかなか抜け出せないようです。
明治維新によって近代国家になったとは言っても、維新はフランス革命のような市民革命ではありません。所詮、徳川家と薩長をはじめとする諸藩の権力闘争でした。さらに、太平洋戦争後に導入された民主主義も一般市民が戦って勝ちえたものではありません。戦勝国である米国から強制的に与えられたものです。このために民主国家の本質を十分に消化できず、未だに江戸幕府のお上意識が残っているのではないでしょうか。
何か被害が起きると安易に「国が補償すべきだ」と結論付けるのは今述べた国家感に基づくのではないかと考えます。今回の東日本大震災のような広範囲、かつ深刻な災害は国家レベルで対処する以外に方法がないことに異論はありません。しかし、国はドラえもんではありません。国が支払うということは私たち国民、納税者が支払うということであることを忘れてはいけません。しかし、「国がやるべきだ」と口を尖らせて叫ぶ人の中には国の金と自分の財布とは全く無関係だと思っているふしが見受けられます。
民主国家においては国民が主権者です。主権者ということは自分の責任であるということでもあります。政治という舞台劇を座視して役者の演技にケチをつけているだけの観客ではいられないのです。自分自身がこの舞台を成功裏に運ぶために汗をかかなければなりません。それが民主主義です。
納税者は国の財布は自分の財布だという意識をもっと強く持たなければなりません。しかし、納税を免れている人が国家の主体者であるという自覚を持てないのは仕方ないのかもしれません。生活保護者は税を支払うどころか生活費を国から支給されています。「国=お上」という意識にならざるを得ないでしょう。この生活保護者が急増して200万人を超えたものと思われます。生活保護者以外にも低所得のために納税を免れている人も多数います。こうして非納税者が増えていくと、国民に健康な国家感がますます失われていきます。
国民が必ずしも納税者でないと言いましたが、逆に、納税しているのに国民でない人もいます。在日外国人です。彼らは代々日本に住みついてちゃんと納税していても日本国民とは認められず参政権がありません。
国の主権者は私たち国民ですが、国家は私たちに奉仕する存在ではありません。この仕組みを一番よく理解できるのが自衛隊です。いま、自衛隊員の半数近くが東北の被災地で不眠不休の救援活動を行っています。しかし、こういった活動は幸い現在、対外的な戦争がないのでサービスとしてやってくれているのです。
本来自衛隊という軍隊の活動目的は国を守ることであって国民を守ることではありません。国民の生命、財産を守るのは警察の役目です。軍隊の主務は国を守ることです。したがって、国を守るために国民が障害となる状況下では、その国民を倒してでも国を守るのです。
国民の屍を乗り越えて守るべき国とはいったい何なのでしょう。ここで言う国とは国土と国家体制、伝統・文化のことのようです。国土は説明するまでもなく日本列島とその周辺領海、領空のことです。次の体制、伝統・文化となると実にあいまいです。漠然と「国のありよう」といったところでしょうか。
日本帝国では明確に現人神、天皇が臣民をすべる国家体制、「国体」を守ると考えていました。敗戦色濃い中、国体護持のために一億玉砕となってもポツダム宣言を受諾せずとした強硬派の強い抵抗があったのはこの理由からです。
現在はさすがに、はっきり「国体」とはいいませんが、抽象的な国家を守るためには国民は二の次という考え方は今も変わりません。
国も国民もその意味するところは極めてあいまいです。安易に「国」、「国民」と口にする前に国と国民のあり方についてもっと掘り下げて考えてみなければならないようです。